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第一章
24. 一人で *
しおりを挟む六月二十九日、朝六時半。
いつもの起床時間より三十分遅い起床だ。レオンスは抑制剤を飲んで、人知れずため息をついた。
「やっぱ、発情期は体が怠い……。新薬とはいえど、完全に『何もない』ってわけにはいかないんだな」
昨日の昼から始まった発情期。
義務付けられている『新薬』とも称される抑制剤は欠かすことなく毎日飲んでいるし、そろそろ三ヶ月に一度の発情期が来ることは予想していたので、昨日の日中の作業中にヒートが始まっても、レオンスが混乱することはなかった。その日の作業は、アメデやオーレリーとは別で、レオンスは通信兵の補助を請け負っていた。
ブランノヴァ帝国軍の通信手段は、腕木通信と旗信号、そして早馬などを使った伝書や伝令などがあるが、昨日レオンスは腕木通信の新しい文字コードを覚えるために、数人の通信兵と共に通信室に詰めていた。
レオンスは、ひと月ほど前から通信兵の補助業務を頻繁に請け負うことが増えた。というのも、レオンスはものを記憶するのが比較的得意だからだ。物資の管理や、家畜の世話をするなかで、この前はどうだったか、そっちのは十日前とどう違うかなど憶えていることをあれこれ作業に活かしているうちに、班長のジャンの目に止まり、通信関連も手伝ってほしいと言われたのが始まりだった。
帝国軍では、腕木通信にしても旗信号にしても、そして伝書で使う暗号にしても、不定期で文字コードや法則を変えることになっている。不定期で変更することで万が一、敵へ情報が漏洩したとしても、被害を最小限にするためだ。変更は非常に大切なことなのだが、なにせ覚えるのに苦労する。
メモ書きは一定期間を過ぎると、これまた漏洩の懸念から破棄することが義務付けられているので、通信兵は毎度毎度新しい情報を頭に叩き込まなければならない。なので、記憶力のよい者が通信兵として採用されていた。
レオンスは正式に通信兵となったわけではないが、補助として解読を手伝ったり、他通信兵と同様に文字コードや法則を覚えて、通信内容に間違いがないか見解を照らし合わせるようなことを行っている。
昨日も、そんな作業の最中だった。
朝から熱っぽさがあり、予定でも発情期が始まるのは今日か明日かといった日にちだったので、気を引き締めて作業を進めていた。昼食後、熱っぽさが増したと思いながら、つい四日ほど前に変更になった文字コードを通信兵と補助担当者と共に覚えているところで、体内でぐぐっと熱が高まった。
それは、レオンスがオメガに覚醒してから十四年。もう慣れた、ヒートが始まった感覚だった。
通信室には、他にはベータの兵士ばかりが四人ほど共にいたが、レオンスのヒートに気づくことも、あてられることもなく作業は進んだ。
レオンスも、新しい抑制剤のおかげでヒートが来ても、いつも通りだ。誰かを無作為に求めることも、体が否が応でも疼いて仕方ないといったこともなく、黙々と作業を続けた。強いて言えば、熱っぽさが続いているくらいだった。
そうして昨日の作業は終わり、いつもより少なめの夕食をとって、レオンスは朝まで部屋に引きこもった。
(昨日の夜は、ちょっとやばかったな……。はぁー……こういうときばっかりは、オメガな自分が嫌になる)
新しい抑制剤を服用中の発情期、レオンスは毎夜、一人で己を慰めさえすれば日中は少し気怠いくらいで難なく行動することが可能だ。だから、昨日も部屋にこもって、義務のように自慰をした。
待機宿舎からここへ配属された三ヶ月前のときのように、自分で性器を扱き、後ろの孔も手でいじる。自慰の際、張形を用いるオメガもいるが、レオンスはそういった性具を使うことは稀だ。オメガだし、性へ晩熟でもないため、昔はよく使ってもいた。しかし、性具を使うと一人の虚しさを余計に感じてしまうようになってからは、あまり用いなくなっている。
なので、昨夜も手だけで自分を慰めたのだが、どうにも物足りなさを覚えて、気がつけば月が西に傾く頃まで一人で行為に耽ってしまった。ゆえに、いつもより三十分遅い起床だ。
(四の五の言ってないで、今晩はあれを使って、ちゃっちゃと済ませたほうがいいよな)
稀にしか使わない性具は、念のため持ってきてある。
新薬の効果がどこまで続くかわからなかったし、戦地という慣れぬ環境だ。何があるかわからないし、いつ終わるともわからない。望まぬ性交をしないために、自衛は大切だと思って持ってきたのだ。
まさか配属三ヶ月、新薬服用を開始して二回目の発情期の二日目で使うことになるとは予想していなかったが。
「……まあ、仕方ない。とりあえず食堂に行って、それから今日の任務だ」
そう、新薬の効き目がどうであろうと、レオンスの体調がどうであろうと、朝は明けた。
今日も通信兵の補助業務を予定している。発情期中に、アメデとオーレリーやそばにいないのは少し不安だが、与えられたことをこなさねば。
レオンスは、昨日のように熱っぽさのある体を騙すようにして、二人がいるであろう食堂へ足を向けるのだった。
案の定というべきか、その日の日中は熱っぽさがどうにも止まず、レオンスは作業に集中するのに苦心した。それでも周囲に迷惑をかけるのは避けたくて、なんとか体を騙し、どうにか業務を終えることができた。
「——レオンス、大丈夫? 何かあった?」
その日の夜。
個室の扉越しに少し声を張り上げて呼びかけてきたのは、アメデだ。コンコンと扉を叩いた後に、小指一本分あるかないかという隙間を開けて、レオンスに声をかけてくれた。それでようやく部屋の鍵を閉め忘れたことに気づいて、レオンスは内心慌てた。
アメデがレオンスのもとに訪れたのは、レオンスが今晩、食堂に姿を現していないことを知ったからだろう。
レオンスたち第九部隊に配属されたオメガの三人は朝食は決まった時間で共にとっているが、それ以外はそれぞれ好きな時間にとっている。しかし食堂は多くの兵士が出入りするので、レオンスが顔を出さなかったことが気になった誰かが、アメデに声をかけてくれたようだった。
「あ、ああ……大丈夫、心配かけてごめん。薬の効き目が悪いのか、体が熱くて。迷惑かけたくないから、明日の朝まで部屋にいることにするよ」
レオンスは扉越しに返事をした。
ごく僅かな隙間は作られたものの基本的には扉はほぼ閉まっているような状態だし、個室にある小さな窓にも今はカーテン——個室にカーテンがあるのもオメガへの配慮の一環だ——を締めているので、室内のレオンスが今、どんな格好なのかは、アメデも含めレオンス以外に知る者はいない。
だがアメデも、部屋の中にいるレオンスの状況をうっすらとは察しているだろう。新薬のおかげでフェロモンの分泌量も少ないため、そこを起因とするオメガ特有の匂いが苦しいほどに周囲を満たしているわけではないが、発情期であることには変わらない。同じオメガ同士、発情期のつらさを彼は知っている。だからこそ、様子を見に来てはくれたが、鍵が開いていた扉をほんの僅かに開けるに留めてくれたのだ。
レオンスは今、上のシャツは肌けきっていて、下半身に関していえば何も身につけていなかった。右手は己の性器を握り、左手で乳首を弄ろうとしたタイミングでのアメデの訪問だった。
アメデが扉を叩く前に、すでに二回吐精済みだ。シーツと手巾が汚れ、部屋には独特の青臭さが漂っているに違いない。吐精による気怠さがうっすらと体を覆ってはいたが、それよりも、まだ熱が燻り続けているまどろっこしさのほうが、レオンスを支配し続けていた。
「そう……わかった。何が困ったことがあったら、いつでも声をかけて。夕飯はいる? 持ってこようか?」
「ん、ありがとう。夕飯は大丈夫。部屋に保存食もあるし」
「了解。じゃあ、おやすみ」
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