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第一章

06. オメガ

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「では、ブラッスール隊長。こちらへ」
 
 ファーストネームでよいとは言われたが、初対面の相手で、しかも曲がりなりにも自分の上司を名前で呼ぶ気安さを持ち合わせていないレオンスは、ファミリーネームに階級名ではない呼称をつけて、上官を自分の右隣の空間へ視線を送った。
 その呼び方について、シモンは特に不快感を示さず、レオンスの右横へとやって来る。近くで見ると、ますます彼の強靭な体躯を感じられて、レオンスは一瞬息を詰まらせた。

 百七十一センチで成長が止まってしまったレオンスと比べると、隣に立ったシモンは頭一つ分以上の身長差がある。体の厚みも、倍とまではいかないが——そうレオンスが思いたいだけで実際は倍と言っても過言ではない——厚い胸板や、引き締まっているであろう腹筋、背中や腰、腕に至るまで……つまり全身が鋼のような肉体だ。

 そしてなにより、彼から僅かに感じるアルファの匂い。
 まるでレオンスを誘っているかのような、雄々しくも、体をまるごと預けてしまいそうな本能的に求めてしまいかねない匂いに、よろめきそうになる。シモンとは相性が良いうえに、レオンスがやや方法で近頃の熱を処理している反動があるのだろう。 
 さすがに至近距離だと体の奥がざわつくな、と思いながらも、ぐっと腹に力を入れてレオンスはシモンと向き合った。目を合わせるのに一苦労だ。首を上に向ける必要があった。

 シモンを見ながら、レオンスは僅かに首元を晒した。といっても、レオンスの首には保護用のチョーカーが巻かれている。アメデとオーレリーも同様にチョーカーをしている。いずれも、オメガがうなじや喉元を護るためのものだ。
 発情期のオメガがアルファにうなじや喉元を噛まれると、番となってしまう。それを避けるために、番を持たぬオメガは通常、こうして保護用のチョーカーなどを首にしている。
 アルファにしてもオメガにしても、他性を誘引するフェロモンは首のあたりから特に多く分泌される。それはチョーカーをしていても他者が感じることができることが多い。だからレオンスはわざと、首筋を晒してみせたのだ。

「どうですか?」
「どう、とは?」
 
 言葉足らずなのは承知しているが、レオンスは緑色の双眸を真っ直ぐに見ながら、なるべく意図を汲んでくれないだろうかと無言の願いを込めてみる。しかし、その願い虚しく、隣の偉丈夫からは「詳しく話せ」という圧を感じた。アルファ特有の威圧感ではなく、軍人らしい覇気だ。
 さすが本物の軍人は違うなと思いながら、レオンスは口に憚られない範囲の説明をすることにした。まぁ、目を見て理解しろとは些か無理があるのはわかっている。話す必要はあるだろうなと思ってはいたので、問題はない。

「……実は俺、ちょうど発情期の終わりかけなんです。俺に番はいませんし、ブラッスール隊長はアルファなので、もし市販の抑制剤なら、これだけ近づくとお互いそれなりにつらいかと思うんです。けど、普通に振る舞えているでしょう?」

 レオンスが首元を晒してみせたのも、発情期だからこそだ。
 発情期であれば、フェロモンの分泌が通常の何倍にもなる。それを暗にシモンに示したかった。

 本来、番のいない発情期のオメガは厄介だ。
 まず、発情を抑える抑制剤を使用しない場合、発情したオメガは自分の意思に関係なく強いフェロモンを分泌する。そうなると極度の脱力感を伴うと同時に、それとは反比例するように繁殖行動をせずにはいられないとさがが暴れる。そして、発情したオメガが撒き散らすフェロモンに、アルファもベータも抗うのは容易ではない。ベータであればまだ自制が効くこともあるが、アルファの場合はオメガに引き寄せられるようにして誘惑されるがままに相手を抱かずにはいられない。場合によっては、アルファの本能が剥き出しになり、アルファ自身も欲情を制御できない状態に陥り、相手を傷つけるほどに抱き潰すこともある。俗に言う『ラット』だ。
 つまり、発情抑制剤を服用していないオメガが発情期に入り、そこにアルファが近づくのは互いに自殺行為だ。

 オメガの発情期間は、短い者で四日から、長い者で十日間。
 薬のなかった時代は大変だったろうな、とレオンスは思う。なにせ約一週間の間も発情しっぱなしだ。理性が本能に溶かされて、獣のように相手を求めるなんてレオンスには耐えられそうにない。

 これに対して、市販の抑制剤を服用している場合、事情は幾分よくなる。
 発情した際のオメガのフェロモン分泌は弱まり、ベータであればまず刺激されることはない。アルファに対してもフェロモンの効力は弱まり、少なくとも急にオメガに襲いかかるなんてことは滅多に起きない。それでもアルファはオメガのフェロモンを嗅ぎ分ける能力が高いため、かなりの近距離だったり、長時間同じ空間にいると抑制剤の効果は薄れてしまうが。

 ただなにより、抑制剤を飲んでいれば、オメガ自身が性交以外は動くこともままならないといった一種の飢餓状態から解放される。それでも体が火照り、内側がふつふつと煮えるような衝動——率直に言えば、抱かれたい気持ちは完全に抑えられないし、体も過敏になっているので外出を避けるオメガは多い。
 それでも、抑制剤を服用していれば、ところ構わず誰とでもまぐわいたい気持ちにはならないというのは、オメガとして有り難かった。抑制剤を用量を守って飲み、アルファとの接触を気をつけていれば、発情期のオメガであっても最低限の日常生活は可能なのだから。
 レオンスに関して言えば、発情期間中は抑制剤を飲んで部屋にこもり、一人で熱を発散していれば何とかなる。昔はベータの恋人がいたこともあり、交際中は相手をしてもらってもいた。もう別れて六年以上経つが。

 なお、抑制剤を服用していてもいなくても、番がいれば万事が解決するかと言えば、そうでもない。
 番関係を結べば、そのオメガが放つフェロモンは番となったアルファにしか嗅ぎ分けることができないが、オメガの発情が収まるわけではない。むしろ、抑制剤を服用していても番と情を交わさなければ、オメガの精神がもたないのが一般的だ。
 いずれにしても抑制剤を服用していれば、番がいようがいまいが『見境なく』という状態ではなくなるということが、オメガにとって大きな利点である。オメガの発情抑制剤は今や、社会で普通に暮らしたいオメガにとって無くてはならないものだ。

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