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61. 初夏の日の湘南
しおりを挟むさらに歳月は進み、五月下旬。
綾春の耳には、ざざーん、ざざーんと波の音が届く。
水平線が彼方に見えるここは、綾春がデザイナーとして参画していた湘南のホテルにあるヴィラのうちの一棟。いくつかのトラブルや多忙な時期を乗り越えて、ついに完成したのだ。
ヴィラのテラスから眺める景色は極上で、そのテラスにはジャグジーとプライベートプール、ゆったりと寛げるサンラウンジャーが備えられている。このテラスだけでなく、デッキの端にある階段を上った先にはルーフテラスもあるので、眺めはどこから見ても抜群。
午後イチの陽射しは、梅雨が来る直前の爽やかな初夏の光を運び、白亜の外壁やデッキを照らしている。空は遠くまで晴れ渡っていた。
「いいホテルだな」
「だろ? 俺もそう思う」
感嘆の声を上げた蓮哉に、綾春はニッと笑った。
綾春は有給休暇を利用して、蓮哉とともに例の湘南のホテルに泊まりに来ていた。
今はプレオープン期間中で、正式なオープンは十日後。関係者かつ、プレオープンということで、破格の安さで宿泊していいとオーナーに言われ、綾春はその申し出を有り難く受けたのだ。
キューブ型の建物はスタイリッシュでありながら、リゾート感のあるデザインだ。白亜の外壁に、ウッドデッキ。フェイクラタンでできたダークブラウンのサンラウンジャーの上で、真っ青なガーデンパラソルが日陰を作っている。
そのウッドデッキと繋がっている平屋建てのヴィラは、広いリビングとダイニング、キッチンスペースがあり、それとは別にベッドルームが一つ。テラスに面した浴室も広々としている。
贅沢なプライベートリゾート空間そのものだった。
何度も足を運んだ場所だけれど、仕事現場として踏み込むのではなく、一人の客として来ると、また違った感覚を味わうことができていた。綾春が作りたかった空間がここにはある。
「さて、と。荷物は問題なく運び入れられてたし、夕飯まで時間もある。ヴィラにこもるのもいいけど、ラウンジへ行ってみよう、蓮哉さん」
このホテルには、レセプション棟に共有のラウンジスペースがある。
ヴィラ内でのおこもりを売りにしているホテルだが、ラウンジではフードプレゼンテーションが行われている。そこでは、ティータイムにはコーヒーや紅茶とともにスイーツを、カクテルタイムにはオードブルと酒をと、おこもり以外の楽しみを提供しているのだ。
時刻は、午後二時半。今ならティータイムの時間だ。
綾春が蓮哉をラウンジに誘ったのは、ティータイムを楽しみたいという気持ちもあるが、それだけではない。ラウンジでは、蓮哉の器が採用されているからだ。
自分の器がどう使われているのか、蓮哉にはぜひ見てもらいたかった。
優しく頷く蓮哉を連れて、二人はスマホとルームキーだけを持って、ラウンジへと向かった。
ラウンジは、開放的な窓から光と風が入るオープンエアな空間だ。
入ってすぐにカウンターと、その手前に小さめのビュッフェ台が置いてある。そこにはアイスコーヒーやアイスティーが入ったガラス製のドリンクサーバーや、クッキーや小さめのケーキ、チョコレートなどがケースに入って並べられていた。
綾春たちのほかには、宿泊客がもう一組。五十代くらいの夫婦らしき男女は、入り口から見て左奥のソファ席でお茶とクッキーを楽しみながら談笑している。
綾春と蓮哉は夫婦とは反対側の右奥、窓に近いソファ席へと座った。すると、ほどなくして女性のスタッフがやってきて「お飲み物はいかがでしょう?」と声をかけてくれた。
「ホットコーヒーを二つ、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
にっこりと微笑みながらオーダーをすると、女性スタッフは下がっていく。
「…………なんか複雑」
「ん、なにが?」
「綾春のそういうところ好きだけど、閉じ込めておきたくもなるよって話」
「ふふっ。もしかして嫉妬してる?」
「俺以外へ笑顔を向けてたからな」
「えー。たしかに俺、もともとどっちもいけるけ、ど……」
「…………」
——今は蓮哉さんしか興味ないよ。
そう続くはずの言葉は、蓮哉の冷たい双眸に射抜かれて引っ込んでしまった。どうやら紡ぐ言葉を間違えたらしい。
「ご、ごめんっ。そういう意味じゃなくてさ! 今はもう蓮哉さん以外、考えられない。本当だって」
「今はもう?」
「あっ、と、その、だから……」
弁明の言葉も不用意な単語が入ってしまったようで、蓮哉はじぃっと綾春を見つめる。こうなると綾春は、もう言葉で尽くすよりはと、行動で自分の気持ちを示すことにした。
拳三つ分ほど空いていた二人の距離をぐっと縮めて、蓮哉の右太ももの上に自分の左手を添える。その手首には、誕生日に貰ったバングル型のカラーが着けられていた。——自分の所有者は蓮哉なのだ。
すると、その手に大きな右手が重なり、彼がふっと笑う。「あとでな?」と呟かれ、綾春は小さく頷いた。……これはおそらく、あとで何かしらのお仕置きをされるという意味だ。
(し、心臓に悪い……)
恋人かつパートナーになって、そろそろ半年が経つけれど、蓮哉はこうして時折、外の場でも所有欲や支配欲を滲ませる。それが綾春はたまらなく嬉しくて、心臓が跳ね上がってしまう。
待ち受けるプレイに体が自然と期待して、落ち着かなくなっていると、先ほどのスタッフがトレーにコーヒーを二つと、クッキーやチョコを少しずつ乗せたプレートを持ってきてくれた。洗練された動作でサーブしていく。スタッフの教育もよく行き届いたコンフォータブルなホテルだと思った。
「よろしければクッキーやチョコレートもぜひ」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりお過ごしください」
蓮哉の視線がやや痛い。けれど、綾春がきちんとお礼を述べると、彼女はにこやかな笑みを浮かべて、持ち場へと戻っていった。
「……その、蓮哉さん。あとで何でも言うこと聞くからさ……今はここ、楽しもう?」
なおもじっと見つめている瞳にどぎまぎしながらも、コーヒーカップを蓮哉へと手渡した。そのカップはもちろん、蓮哉がつくったものだ。
わかったよ、と笑う瞳には、まだ綾春への支配欲が灯っていた。
——もう、ここで嫉妬なんてずるい。
蓮哉がこうして嫉妬してみせるのは、綾春の気を引くため。興味を惹くため。自分だけを見てほしいというアピールだ。心ごと俺のものだという躾だ。
綾春とて、こんな情欲を灯した瞳で見られたら体の奥がざわめいてしまう。今すぐ蓮哉の征服欲や我儘に応えたくなる。
でも、まずはこのラウンジだ。
綾春はここで、蓮哉に見せたいもの、感じてほしいものがある。この機は絶対逃せない。
気を取り直してコーヒーを一口飲む蓮哉にほっと息をついて、自分もカップに口をつけた。
午後の陽射しを浴びて煌めく海を眺めながらのコーヒーは格別だった。
「……どう?」
「そうだな。——俺の器がこうして使われているのは、感慨深いよ」
蓮哉へ訊ねたのはコーヒーの味ではない。それは彼もわかったようで、手にするカップを愛おしむように見つめている。その横顔がすごくきれいで、繊細で……綾春は目を奪われていた。
また一口コーヒーを飲んでから、蓮哉はソーサーへカップを置いた。
彼の視線は、はるか遠く。
海を見つめているのか、あるいはそれ以外の何かを見つめているのか。彼がどんなものを見て、感じているのかが気になった。何か声をかけようかと思っていると、蓮哉はぽつりと話し始めた。
「俺、会社を辞めて次の仕事をって考えたとき、どこか会社に入るっていうのは何だか考えられなかったんだ。退職の理由が理由だからな。……それで、半年くらいぼんやり過ごして、祖父さんが——あの家、じつは祖父の持ち物なんだけど。その祖父さんが『趣味でやってる陶芸を本格的にやってみたらどうか』って言ってくれたんだよ。この話、したっけ?」
「ううん。……でも、聞きたい」
この半年で蓮哉とはいろんな話をした。でも、建築会社を辞めてから陶芸家になるまでの話を綾春は詳しく聞いたことがなかった。
気にならないわけではなかったけれど、グレア不全症もひとまずは寛解との診断を受け、二人の時間は穏やかに過ぎてきたから。彼のトラウマとなった暗い過去に触れるようなことは、もうしたくなかった。だから、なんとなく聞けずにいたのだ。
詳しい過去を知らなくても、今の蓮哉を知っている。
それで十分だったから。
蓮哉は静かなトーンで言葉を続けた。
「他に思いつくものもなかったし、陶芸は好きだったし、何より食っていかなきゃいけないだろ? それで細々と作り始めて、伝手とかで雑貨屋や飲食店に卸すようになって。一年くらいでなんとか形になった」
「うん」
「まあ今も、陶芸だけで食っていけてるかは怪しいけどな」
開け放たれた窓からは、時折そよそよと初夏の風が吹く。その風とともに届く波の音よりも、蓮哉の声が心地いい。
「いつか辞めるつもりで陶芸を本格的に始めたわけじゃないけれど、どこまでやれるのかは正直不安だった。趣味の延長と言われればそうだし、フリーの建築家との二足草鞋ってのもあったし」
彼の言うように、建築で生計を立てていた人間が、いくら趣味だったとはいえ畑違いの世界に飛び込むのは勇気がいっただろう。けれど綾春としては、彼が祖父の一言で陶芸の道を選んでくれたことが嬉しい。それが巡り巡って、綾春は素敵な器に出会えたし、大切な人に出会えたのだから。
そう思いながら、彼の耳障りの良い低音に耳を傾ける。
「……続けてこられてよかったよ。続けてきたから、綾春に出会えた」
奇しくも同じことを考えていたらしい。……綾春は、たったそれだけで胸がいっぱいになる。
「綾春には、世界はこうやって見えてるんだな」
蓮哉はラウンジを見渡して、窓の外いっぱいに広がる景色を眺めた。
「いい眺めだ」
「ふふふっ、そうだろ。俺もそう思う」
どちらともなく、手を繋いだ。
きらり、と手首のカラーが揺れる。
葉山の家で一人、土と向き合い続けた蓮哉に、世界はどんなふうに見えていたのだろう。
会社を辞めてからの数年の日々は、彼の目にどう映っていたのだろう。
きっと、そんなに綺麗で明るいものではなかったのではないか。
なんとなく、そう思った。
そして、自惚れかもしれないけれど、自分と出会ったことで蓮哉の双眸に映る世界は変わったのだと思う。たとえば、今——目の前に広がる空と海と、きらきらと煌めく光のように、明るいものに変わったのではないか。
世界というのは大袈裟だけれど……そうだったらいいなと、思った。
◇◇◇
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