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54. 晴れて葉山へ

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 綾春が腹部の打撲とSub不安症による体調不良のため、一泊二日の入院を余儀なくされた翌日。
 朝に医師と看護師が診察してくれた結果、腹部の痣と痛みはしばらく残るものの、急変するような恐れはないと診断をもらい、綾春は昼前には退院手続きをすることができた。

 約束通り、蓮哉は診察が終わる頃には迎えに来てくれて、会計を済ませたあとに彼の愛車で病院をあとにした。

「着くまで寝ててもいいから」
「ありがとう。でも、蓮哉さんとなんか話をしてたい。いいかな?」
「それは、もちろん」

 助手席に座ると蓮哉は綾春を気遣って、水や膝掛けなんかも渡してくれた。「付き合いたての女子じゃないんだから」なんて思ったけれど、昨日世話をやきたいと話していた蓮哉のことを思うと、気恥ずかしくも嬉しくなった。
 気遣い一つ一つから、蓮哉が自分のことを『自分のSubだ』と思ってくれているとわかって、胸いっぱいになる。

 蓮哉の運転で向かうのは、葉山にある彼の自宅だ。
 葉山へ向かう前、綾春は自分の自宅があるマンションへ寄ると言ったのだが、服は貸すし、持ち物はスマホくらいでいいからと言われて、退院してそのまま葉山へ向かうことになった。

「晴れてるし、レインボーブリッジを経由して海を見ながら行こうか」

 そう言って、蓮哉はカーナビにルート案内をさせることなく、慣れた様子でハンドルを握る。
 ただのリハビリ相手だったときにも彼の運転姿は何度か目にしているのに、やたらと格好良く見えて、なんだか落ち着かなかった。

 首都高を走り、レインボーブリッジを抜けていく間に、有名なテレビ会社のビルにある展望室に行ったことはあるかとか、羽田空港付近を通過するときには国内外でどこへ行ったことがあるかとか、反対に行ったことがない場所はどこだとか、そんな話で盛り上がっていると横浜ベイブリッジも抜けて、磯子方面へと向かっていく。
 都会らしいビル群の街並みはすっかりと消えていき、窓の外を流れる景色に自然が増えてきても、綾春と蓮哉のお喋りは続いた。

 好きな映画やドラマ、よく読む本。趣味嗜好。
 ありふれた話は今までもしてはいたけれど、もっと蓮哉のことが知りたくて言葉を重ねる時間はこれまで以上に楽しかった。
 そうして約一時間半のドライブを経て、二人は蓮哉の自宅へと着いた。

「どうぞ入って」
「おじゃまします」

 三度目となる蓮哉の自宅。
 以前来たのと同じように、家の中は静かだ。

 けれど、前に来たときよりも落ち着くのはなぜだろう。
 静かな時間が流れている家は、蓮哉のようだ。……そうだ。初めて訪れたときとは違って、時間は少しずつ流れ始めている。そんなことをぼんやりと思った。

「まずは休む? それとも風呂にする?」
「んー、先にお風呂もらおうかな。サッパリしたいし」

 真っ先に風呂の話になったのは、互いに疚しい気持ちからではない。
 ドライブの最中に、帰ったらまず何がしたいかという蓮哉の問いに「できれば風呂に入りたい」と綾春が答えていたからだ。

 わずか一泊二日の入院ではあったが、やはり一日の終わりに風呂に入れないのは気になった。宛てがわれたのは個室だったが風呂トイレはついてないタイプだったし、疲れや怪我のせいからか、早めの夕食を食べたのちに検温やら何やらをしてると中井が荷物を届けてくれ、午後九時というびっくりするほど早い就寝時間よりも前にはうとうとして、いつの間にか寝てしまっていた。
 そんな綾春のことを見越してか、自動湯はりの予約はセット済みで帰宅する頃には風呂の用意ができている、と先ほど車中で言われたときには蓮哉の気遣いに感動し、感謝した。こういうちょっとした気遣いに長けた男なのだ、東雲蓮哉という人物は。

 そういうわけで、到着して早々に入浴を所望すると浴室まで案内された。あるものは何でも使って構わないと言われて、綾春は礼を述べる。

「介助は必要? 腹は痛くないか? 背中を流したほうがよければ——」
「あははっ、もう大袈裟だなぁ。大丈夫、要らないよ」
「そう。じゃあ着替えは用意しておくから、ゆっくり入ってきな」

 腹部はまだ痛むけれど、誰かに介助してもらうほどではない。それにもし今、蓮哉に風呂についてこられたら、平常心でいられるか疑わしい。
 車という密室で、彼のことが好きだという想いを募りに募らせながら、ここまでやってきたのだ。浮かれていると自分でも思った。

(いったん一人になって、冷静になりたい……)

 たかが一時間半の道のりを、話をしながら来ただけなのに。
 蓮哉の運転姿に見惚れて、低い声で紡がれる言葉に耳を傾けて、その合間に綾春の体調を気遣ってくれるので、楽しくも終始そわそわしっぱなしだった。
 なるべく冷静に、浮かれていると思われないようにと気をつけてはいたのだけれど、ドクドクと脈打つ鼓動を少し鎮めたかった。

「ふぅー……生き返る……」

 蓮哉宅の風呂は、綾春が住む賃貸マンションの風呂よりも広く、浴槽も足をゆったりと伸ばして入れるサイズだ。綾春は髪を洗い、体を洗ってから、たっぷり湯が張られたそこに体を沈めていた。
 どちらかと言えば、湯船には浸かりたいタイプなので、こう大きな風呂でのんびり体の疲れを癒せるのは有り難い。

「あー……っててて。うわ……腹、やっぱすごいことになってら」

 いつもの調子で、ぐーっと伸びをしたところで、腹部が痛んで顔を歪めた。
 痛み止めを処方されたので、普通にしていれば気にならないのだが、体を捻ったり無理な体勢をしたりすると痛みが走ることがある。湯船に浸かる自分の腹を見下ろせば、痛々しい赤紫色の痣が広がっていた。

 綾春はSubなので、プレイによっては体にいろいろな痕が残ったりすることはある。拘束やスパンキングの痕、Domから受ける噛み痕などだ。そして、それを本能として好ましく思いもする。
 だが、それらは暴力ではなくプレイの一環。それに、手酷い怪我を負うほどの暴力による支配を綾春は望まない。プレイでの苦しさや痛みは綾春を満たしてくれるけど、怪我の痛みはまったく違う。決して嬉しいものではない。

 なにより、好きでもないDomから受けた暴行による痕というのは、とても気が滅入る。特に、あの一ノ瀬という性根の腐った男のパートナーと思しき相手から受けたものだ。一生許すことができない相手と関係がある人物から、こうして一時的なものとはいえ体に痕を残されるのは非常に気分が悪い。

(あ……まずい。なんか考えてたら、落ち込んできた)

 痕を見ていると、良くないことを考えてしまいそうだ。
 ちゃぷん、と顔の下半分を湯に浸けて目を閉じる。

 変に考えても仕方ない。
 そうはわかっていても一度考えると途端に悔しくて、苦しい気がして、綾春はぎゅっと膝を抱えた。その動きがまた腹をずきずきと痛めて、不安な気持ちが押し寄せてくる。
 昨日、蓮哉とは互いの想いを確かめ合い、恋人でありパートナーとなったことで心は弾んでいたはずなのに。

 ——こんな体、蓮哉が見たらなんて言うだろう。

 この痛みも痕も、蓮哉につけられたものならいいのに。
 ああ、どうしよう。困ったなと思っていると、浴室の外から蓮哉の声がした。

「——綾春、着替えとタオル、置いておくよ」
「……っ! あ、ああ。うん、ありがとう。助かる」

 蓮哉の声で意識が浮上した綾春は、慌てて返事をした。
 その反応に不自然さがあったのか、蓮哉は脱衣所とを隔てる浴室のドアに近づいて心配そうに訊ねた。

「……のぼせてない? 大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫」
「ならいいけど……」

 磨りガラス越しに、中を覗くべきか逡巡している蓮哉の姿が映っていたが、しばらくして「何かあれば呼んで」と言って、彼は脱衣所を出て行った。心配をかけてしまったようだ。

(……上がろう。なんか一人でいるのは危険だ)

 一人になったら冷静になれるかと思ったのだけれど、一人になったらなったで要らぬ不安が渦を巻き始める。せっかく蓮哉と過ごせるのだからと、暗がりに落ちかけた自分を叱咤して、綾春は肩まで湯に浸かってゆっくり十を数えてから風呂を出た。

「蓮哉さん、上がったよ。風呂、ありがとう。あと着替えも」

 脱衣所に置かれていたスウェットの上下を身に着けて、綾春はリビングダイニングへとやってきた。スウェットは蓮哉のもののようで、綾春が着ると幾分大きい。まあ今はオーバーサイズのファッションも流行っているし、この服で外に出ることもないから、特に問題はないだろう。
 ちなみに用意されていた着替えには新品のボクサーパンツもあった。どうやら昨日か今朝のうちに、下着だけは新品を用意してくれたのだと気づいて、綾春は気の利く蓮哉にこっそりと苦笑した。本当にできた男だ。

「サッパリできたのならよかった。腹減ってないか? 昼飯食べるだろ」

 リビングにもダイニングにも姿がなかった蓮哉が、綾春に返事をしながらキッチンから出てくる。いい匂いがしているので、何か作っているらしい。

「うん。あー、俺も手伝うよ」
「いいから座ってな。ダイニングでも、リビングのソファでも好きなほうにいて。もう少しでできるから。俺に甘えてよ」

 そう言われると強くは言えず、綾春は以前も座ったことのあるダイニングテーブルの椅子へと腰を下ろした。

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