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52. 路地裏の嵐
しおりを挟む話は少し——蓮哉が綾春に助けられる前まで遡る。
その日、蓮哉は世話になっているカフェと、いつもの雑貨店に器の納品をするために都内へと車でやってきた。
たまたまではあるが、目的地のカフェは綾春が勤めるオフィスの近くにある。そこではケーキやワンプレートランチに使う皿として、蓮哉の作った器を使ってくれているのだ。その店から先日、何枚か追加で納品してほしいというオーダーがあったので納品に訪れた。
飲食店を営んでいると、皿が欠けたり割れたりといったことはある話だ。今回も欠品分の補充が主とのことで、自宅兼工房に保管してあった該当の皿をコンテナボックスに詰めて持ってきた。
せっかく都内へ出るので、カフェへの納品ついでに、自由が丘にある知人の雑貨店にもいくつか納品しようと思って、車のラゲッジルームにコンテナボックスを二つ積んだ。一つはカフェへの納品、もう一つは雑貨店への納品する皿やカップが入っている。
一時間半ほどの道のりを運転し、蓮哉は路地裏のコインパーキングに空きを一つ見つけたので車を停めた。運転には慣れてはいるものの、都内の駐車場はどこもかしこも狭いので、十分に注意しての駐車だ。
そうしてラゲッジルームからコンテナボックスを一つ取り出し、バックドアを閉めたところで声をかけられた。
「あっれー? もしかして、きみ、東雲じゃない?」
声を聞いた瞬間、背筋がぞわりとした。
聞きたくなかった声に、蓮哉が身を硬くしていると、コツコツとアスファルトを鳴らす靴音が近づいてくる。
「ねぇ、無視してんの? それとも僕のこと覚えてなかったり?」
「…………久しぶりだな、一ノ瀬」
「なーんだ、ちゃんと覚えてくれてた。あはっ、嬉しいよ」
振り返った先、目の前には小柄な男性と、その横でニタニタと笑う筋肉質な男性の二人が蓮哉の行く先を封じるかのように立っていた。
二人のうちの片割れ——小柄な男に、蓮哉は見覚えがあった。
一ノ瀬悠斗。
蓮哉の中高時代の同級生で、高校生のときにサブドロップをさせた相手だ。
といっても、あのときの一ノ瀬はサブドロップと呼べるほどの深刻な事態ではなかった。どちらかと言えば、一ノ瀬が虐めていた芹澤というSubの同級生のほうが症状は重く、一ノ瀬は蓮哉が教師たちに連れられて職員室へ向かうときにはケロッとしていたくらいだ。
もちろん当時は不用意にグレアとコマンドを発てしまったことを一ノ瀬に謝罪して、表面上はそれを受け入れてもらった。しかし蓮哉としては、芹澤を助けたこと自体は間違いではなかったと思っていたし、芹澤がSubなのをいいことに虐めていた一ノ瀬にいい気はしなかった。そのため、彼とは距離を置き、高校卒業後は特に交流もなく月日は過ぎていったのだ。
そんな確執があると言えばあるし、ないと言えばない同級生との再会は、高校を卒業してから十年以上経ったある日、突然訪れた。勤め先で請け負った店舗建築のオーナー会社……取引先の社員の一人として現れた一ノ瀬を前にして、蓮哉は苦々しい思い出を蘇らせた。
だが、所詮は約十年振りかに会う同級生だ。芹澤を助けたときの云々はあれど、蓮哉はさして一ノ瀬に悪いことはしていない。高校生のときに同意なくグレアを浴びせることにはなったが、元を辿れば一ノ瀬側にも落ち度はある。だから、特に気にすることもない。
——そう思っていたのだが、一ノ瀬の性の悪さは蓮哉の想像を超えていた。
一ノ瀬は過去のあやまちを論い、盾にして、あることないこと非難された。それでも我慢してやり過ごしていたが、ついに精神的な限界を迎えたある日、蓮哉は取引先との会食の場で一ノ瀬にグレアとコマンドを向けてしまう。その結果、一ノ瀬を再びサブドロップさせてしまった。
不運だったのは、高校生の頃よりもDomとしての力が強くなっていたのか、あるいはそのときの心境が左右したのか、一度目よりも一ノ瀬のサブドロップ症状は重かったことだ。幸い大事には至らなかったものの、このときばかりは苦手な相手だろうとも申し訳なさが募った。
だがそれも、蓮哉が退職したことで形式上は手打ちとなった。
二度目のサブドロップだって、蓮哉のグレアとコマンドがまずかったのは確かだが、一ノ瀬の態度に相当の問題があったことは明らかだった。つまり、本来は蓮哉だけが非難されるようなものではない。
それでも、蓮哉は退職を選んだ。
一線で活躍していた蓮哉を引き止めるため、会社からは配慮や提案をしてもらい有り難くは思ったが、いろいろ考えた末の退職だった。
そうして、彼との確執は終わったのだと。
……今しがたまで、そう思っていた。
「奇遇だよねぇ」
ずいっと一歩踏み込んできた一ノ瀬の口元には、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「悠斗、こいつ誰?」
「誰って、東雲蓮哉くんだよ。ほら、前に和樹に話したでしょ? 僕を二度もサブドロップさせた悪ぅーいDomがいるって」
何を言い出すのかと思っていると、カズキと呼ばれた男が剣呑な目を向けてきた。
「んー、あぁ……んじゃ、てめぇが悠斗を虐めたやつか」
「そうそう、こいつが僕を悪者にした張本人。すっごい悪いやつなんだぁ」
「へえー」
どうやら二人は仲が良いのだろう。おそらくパートナーのような関係なのだろうが、どういう関係かは蓮哉の知る由もないし、知りたいとも思わない。とにかく嵐が去るのを待とうと思って口を噤んでいると、一ノ瀬たちは何を考えているのか、一向にその場を去ることはなくペラペラと一方的に話を続けた。
「でもこいつから、グレア全然感じねーけど?」
「そりゃそうでしょ。こんなところでグレア垂れ流すなんて、そんな危険なこと誰もやらないってー」
グレアが出ているか否かでDomの判定をしているとは、なんとも粗暴な男だと蓮哉は思った。
一ノ瀬は笑って返しているが、彼の言うように所構わずグレアを垂れ流しているような馬鹿はそういない。一ノ瀬が言っていることは、過去に『危険なこと』をした蓮哉への当てつけなのだろうけど、ある意味では彼らへのブーメランにもなっている。もっともそのことに本人たちは気づいてもいないようだが。
「あーごめんね、東雲。こっちは僕の友人で倉本和樹っていうの。きみと同じDomのね」
「そうか……」
その男が友人だろうと、倉本という名前だろうと、自分と同じDomだろうと心底どうでもいいし、興味もない。ただ……どうしても一ノ瀬の前では息が詰まる。
厄介なやつに見つかったなと冷静な自分が告げているが、臆病な自分が目の前のSubに怯えてしまい、手足も口も上手く動かすことができずにいた。
……Subに怯えるDomなんて笑い種だ。
だが、因縁のある相手というのは二次性など関係なく、苦手でも仕方がない。
(くそ……今日は厄日だな)
一ノ瀬が自分に興味を失うのを待とうと思って、蓮哉はぐっと奥歯を噛み締めていた。しかしこういうのは、どうしてか上手くいかないもので。
彼の隣にいる男・倉本は蓮哉のことがたいそう気に食わないのか、あるいは自分のSubである一ノ瀬が蓮哉を構おうとしていることへの嫉妬や憤りなのか、じりじりとした威嚇のグレアを蓮哉に向けて放った。
そのグレアを浴びて、蓮哉は不快感を覚える。いくら一ノ瀬とは因縁めいたものがあるからといって、格下のDomに煽られるなんて業腹ものだ。
だが悔しいかな、威嚇に対抗すべくグレアを出そう試みるも、やはり蓮哉にグレアは出せなかった。どうしても、あの日の出来事が脳裏に過ぎる。特に一ノ瀬が近くにいればなおのこと、フラッシュバックのように苦い記憶が蓮哉を蝕んだ。
そんな蓮哉を知ってか知らずか、一ノ瀬は蓮哉の足元に置かれたコンテナボックスを覗き込んだ。
「へえー。会社辞めて何してるのかと思ったら、そんなん作ってたんだ?」
「…………」
「きみみたいなのが作ったのなんて、誰が買うのー? 東雲はさぁ、僕にしたこと、忘れたわけじゃないよねえ?」
それからは一ノ瀬の独擅場だった。
陶芸家という職業を馬鹿にするような言葉に、前まで勤めていて今はフリーで契約をしている建築事務所への批判、蓮哉がいかに愚かでどうしようもないDomであるかを嬉々として語っていく。
一ノ瀬が語る内容は、事実も含まれてはいるけれど、そのほとんどが脅しでしかない。
それは蓮哉もわかっているのだけれど、どうしても反論の声が出ない。何か言おうと口を開いても、体が強張って、「またSubをドロップさせるのか?」と自分を非難する声が木霊する。
ただ言葉の暴力に耐えて、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。……そう思っていた。
「あはっ、文句一つ言えないかぁ。まっ、いいや。とにかくさ、お前みたいのが、のうのうと暮らしてるのは迷惑だって話だよ。そんなチンケな皿も何の意味があるんだか。あーあ、邪魔だなぁっ」
蓮哉が何も言わず、反応できずにいるのがよほど気に障ったのだろう。いやあるいは、長年恨み続けているDomを屈することができたことへの勝利宣言なのか。一ノ瀬が苛立たしげに言葉を発した次の瞬間、コンテナボックスからガシャンッという嫌な音がした。
ボックスが蹴り上げられたのだとわかったのは、しばらくしてからだった。
あーあ、なんてことしてくれるんだ。
納品先に謝らないとな。
そんなことを考えていると、自分の名前を呼ぶ声がした。
「蓮哉さんっ」
「…………綾春?」
自分の前に飛び出して来た人物に、蓮哉は瞠目した。
「あんたが例のSub……一ノ瀬悠斗か」
今まで聞いたことのない冷たい声色と、その細い背中に、蓮哉は動揺していた。
(……綾春? なんで、ここに……?)
何が起きたんだと思考をフリーズさせる。混乱したのは一ノ瀬も同じだったのか、先ほどよりもいっそう苛立ちを強めた声色で、突然割り込んできた綾春に語気を強める。
「は? きみ、誰? なんで僕の名前知ってんの?」
「蓮哉さんがあんたに何したっていうんだ」
「なに? きみ、ほんと誰? ていうか、部外者はお呼びじゃないんだけど。なんなのいったい」
しかし苛立たしげな一ノ瀬には動じずに、綾春は質問にも答えず強い態度で言葉を重ねた。
「さっきから聞いてれば、好き勝手言いやがって。危険? 目障り? それ、そっくりそのままあんたに返す。蓮哉さんの器の、どこがチンケだって? 良いものを良いと思えないチンケな感性しか持ってないくせに、わーわー喚くなよ、目障りだ」
「……綾春?」
なんでここに? どうして割り込んでなんてきたんだ?
そんな疑問を口にしたいのに、見たことのない怒気を纏った綾春に蓮哉も圧倒されていた。
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