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48. 守りたいもの #

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 がっしりとした体格の男——カズキがグレアを放つ。
 そこに乗せられた〈Kneel〉のコマンド。

 自分の力にそれなりに自信があったのか、たしかにカズキのグレアはしっかりと綾春に届いた。……だが、届いただけだ。
 男の本気がどれほどかは不明だが、仮に本気でグレアを当てられても綾春は跪きたくも、許しを乞いたくもならない。所詮は格下。相手をすでに敵だと見做している綾春が、カズキに屈服することなどあり得なかった。

「あいにくだけど、低級Domに跪くほどヤワじゃない」

 跪くこともなく睨み返す綾春に、男は焦りの表情を浮かべる。
 相手が自分よりランクの高いSubだとわかったのだろう。男のグレアが動揺で揺らぐのを感じた。

「は……? なんで効かねえんだよ……」
「ちょっと、何やってんのカズキ。そいつ、Subでしょ? ぐすぐすしてないでKneelでもSitでも何でもいいから、どうにかしてよっ」

 カズキの横で、一ノ瀬が苛立たしげに男の腕を揺する。

「チッ……舐めてんじゃねーぞ、くそが!」

 グレアとコマンドが効かないと察した男は、一ノ瀬の腕と取り払って、前へと踏み込んだ。握られた拳が宙を切ったと思った瞬間、腹に鈍い痛みが走る。

「あぐっ……」
「綾春っ!」

 名前を叫んだのは中井だった。
 殴られたと理解したときには、もう地面に膝をついていた。Domとしては綾春を屈服させられないと判断した男が、暴力によって綾春の膝を折りにきたのだった。

 さすがに殴られるとは思ってなかったので、構えていなかった体は容易に傾ぐ。倒れかけた綾春を、慌てて駆け寄ってきた中井が支えた。
 お前何やってんだよ、と呟く中井に謝りたいが、腹を殴られたからか思うように言葉が出ない。

 と、突然——息ができないほどの強烈な威圧感が全身を襲った。

「うぁ……なんだこれっ? ディフェンス⁉︎」
「ひぃっ!」

 綾春たちをニヤニヤと見下ろしていたカズキと一ノ瀬が、ガタガタと震え出した。どちらも顔を真っ青にしていて、一ノ瀬に至っては立ってられなかったのかその場で頽れている。

 この圧倒的なグレアには、覚えがあった。

「げほっ、うぅ……蓮哉さ……?」

 中井に支えられながら、なんとか上体を持ち上げると、視線の先で冷酷な双眸で一ノ瀬たちを睨みつける蓮哉が立っていた。
 真冬の凍てつく空気よりも冷たい瞳に、綾春も背中がぞくりとする。

「蓮哉さん、グレア、だめ……。それ……きつ、い……」

 綾春も今までに浴びたことのない比倫を絶するグレア。
 それはDefenceディフェンスと呼ばれる、Domの防衛本能によって放たれたものだと気づき、綾春は蓮哉を宥めようと必死に言葉を紡いだ。

 DomはSubに対して支配欲を持つ者だが、それゆえに自分のものだと思っているSubが傷つけられたときに、強い怒りを覚える。そしてそのSubを保護しようとするあまり、過剰な反応を示す場合がある。限界まで高められたグレアで周囲を威圧したり、必要以上に暴力的な行動に出たりだ。
 一ノ瀬やカズキの反応からしても、蓮哉がディフェンスによって強烈なグレアを撒き散らしているのは明らかだった。

「ぐ、ぅ……蓮哉さん、グレア収めて……俺、無事だからっ。それ以上は、さすがにまずい、って。これ……俺もドロップ、しそ……」
「っ、東雲さん落ち着いてください! 綾春も落ちちまう」

 グレアは二次性を持つ者には有力だが、Normalには本来効かないものだ。だが、蓮哉の気迫に押されたのか、中井も冷や汗をかきながら蓮哉を宥めようと声を上げた。

 びりびりと空気が震え、重苦しい時間が続く。

 しかしやがて、綾春と中井の説得が功を奏したのか、蓮哉はグレアを弱めてくれた。そしてチラリと綾春を見て、蓮哉は「ごめん」と小さく呟いた。

 ディフェンスは収まり、チリチリとした牽制だけが二人の男たちに飛んでいる。蓮哉は、地面に転がる一ノ瀬に向かって言った。

「——俺が一ノ瀬を過去に二度サブドロップさせたことは事実だし、会社に迷惑がかかるなら建築の仕事を続けるのはやめるべきかとも思って、この場は黙って耐えればいいと思ったけれど……その人に手出すなら、話は別だ」

 いつもは穏やかな声がナイフのように鋭く、冷たく響く。

「その人に何かしてみろ。今度こそ、ただじゃ置かないからな」

 蓮哉が言い捨てると、カズキは震えながらもこくこくと首を何度も縦に振った。その姿を見て、蓮哉はようやく完全にグレアを収めて、綾春のもとへとやってきた。中井に支えられ、ぐったりしながらも綾春は安堵する。

「すみません、久慈さん! 息、できてます?」

『久慈さん』という呼び方と、丁寧な敬語。綾春だけでなく中井もいたことで、ようやく周囲の状況が見えてきたのだろう。外向けの対応ができるくらい冷静に戻ってくれたのなら、もう心配はない。
 綾春は蓮哉に「大丈夫」と答えてから、少し離れたところで青い顔をした一ノ瀬を抱き上げている男に言葉をかけた。

「あんた……カズキさん、だっけ。そこの……一ノ瀬さんのこと、早くケアしてあげたほうがいいよ……あんたがパートナーかは、知らないけど」
「え? あ、ああ……そうだな……」
「あと。あんたのことは……殴られたし腹も立つけど、ひとまず置いておくとして……俺、その一ノ瀬って人は絶対に許さないから。——二度と東雲さんの前に姿を現さないでほしい」

 腹を殴ってきたのは目の前の男であって一ノ瀬ではない。だが、綾春が最も許しがたいと思っているのはカズキという男ではなく、一ノ瀬悠斗だ。
 Subという性を持つ者だが、同じSubを揶揄いの対象にして弄び、酷い仕打ちをした男。自業自得のくせに、学生時代の未熟なDomが引き起こした些細な失敗を嘲笑った男。気に食わないというくだらない理由で一人の人生を変えた男。そして、なおもその一人に粘着し、平穏を奪おうとした男。——到底許せるはずもない。

「あーそういや」

 綾春が男たちを睨み続けていると、中井が何かを思い出したかのように言った。

「さっきまでの一部始終、スマホで撮ってるから。そのド阿呆にも言っとけ、今後少しでも変なこと吹聴しようとしたら、出るとこ出てやるってな」

 どうやら綾春が気づかぬうちに、中井が機転を利かせて一部始終をスマートフォンで動画撮影していたらしい。ひらひらと自分のスマホを見せつける中井に、ちっ、と舌打ちをして、カズキは一ノ瀬を抱えて、その場を去っていった。

 ようやく立ち去った元凶に、綾春ははぁ……と深く息をついた。
 中井に礼を言いながら、なんとか友人の腕を抜ける。けれど一気に力が抜けたのか、立ち上がることはできずに地面に座り込むのが精いっぱいだった。結局、中井が背中を支えてくれたが、すっと蓮哉が背中に腕を回してくれたので、空気を読むのが得意な友人は腕を引っ込めていった。

「……すみません、東雲さん。あの人たち、見逃してしまって」

 心配そうに背中を支える蓮哉に、綾春は謝った。

「いえ、構いません。もし次来ても、グレアで潰すだけですから」

 それから、もう我慢はやめるよ、と蓮哉は小さく笑う。
 グレアで潰すだけ、という不穏な言葉が聞こえたが、仮にそうだとしても正直言って一ノ瀬たちの自業自得なので綾春は止めようとは思わない。それだけのことをしたのだと自覚し、少しでも反省すればいいとすら思う。
 まあ、あの手の人間はどうしようもなく根っこが捻じ曲がっているから、きっと今日この出来事があっても反省など微塵もしないだろうことも薄々予想できるが。

 ともかく、蓮哉に詰め寄っていた一ノ瀬を追い払えてよかった。
 中井が動画を撮っていると言ったので、今後蓮哉に手を出そうという気は早々には起きないはずだ。もし起きたとしても、こちらだっていくらでもやりようはある。

「ええっと、中井さん、でしたっけ? お見苦しいところをお見せしてすみません。久慈さんと一緒に助けに来てくださったんですよね」
「不穏な声が聞こえたもんで。うちの会社、近くなんですけど、久慈と休憩のためにたまたま外に出てたんです。東雲さんはお怪我とかありません?」
「いえ、俺はまったく」
「それならよかった。はぁー……ったく。綾春、お前は無茶しすぎだ。腹大丈夫か?」
「あは、は……ごめん、つい。い、てて……」

 立ち去った一ノ瀬たちについて、あれこれ考えているうちに、中井と蓮哉が言葉を交わしていた。蓮哉に怪我がないと聞いて、綾春はほっと安堵する。
 と、その様子を見ていた中井が盛大なため息をつきながら、文句と心配をセットで寄越した。それに笑いながら返そうとして、途中で失敗する。笑うと腹筋が動いて、ズキズキと痛みが走った。骨は折れていないだろうが、思い切り殴られたので痣は確実にできているだろう。

「って、そうだ! 病院!」

 綾春が痛む腹部を押さえたところで、蓮哉はハッとした。
 大丈夫だと返したかったが、そのうちにズキズキと痛みが増してくる。中井にも無理するなと宥められ、もとより体調不良のために病院に行くつもりだったのもあって、綾春は蓮哉に連れられて彼の車で病院へと運ばれたのだった。



 ◇◇◇
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