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47. チキン野郎
しおりを挟む中井が缶コーヒーを飲み干したあと——申し訳ないと思ったが綾春はカフェラテの半分も飲めなかった——、二人は来た道を戻っていた。会社と公園はそう離れていない。
数分も歩けば辿り着く距離だが、寒い中で話し込んでいたためか具合が悪化してきた綾春はその道をゆっくりと歩いた。
「悪い。お前の体調、考えるべきだったな」
「いや、いいよ。俺の自業自得みたいなもんだし、話聞いてくれて感謝してる。カフェラテ、残してごめん」
「なーんも。早く元気になってくれたら、それでいいって」
ビルの影になった路地は太陽が届かず、空気が冷たい。風も強くなってきたのか、会社から出たときよりも気温が下がっている気がした。
そんな冬の道を中井が綾春の隣に付き添うようにして、二人は歩いた。
だから——急ぐような足取りでなかったから、遠くから聞こえる不穏な話し声が耳に届くのは、ごく自然なことだった。
「————てめぇがユウトを虐めたやつか」
「そうそう、こいつが僕を悪者にした張本人。すっごい悪いやつなんだぁ」
「へえー。でもこいつから、グレア全然感じねーけど?」
騒がしい声が聞こえる。
声からして、男が数人騒いでいるらしい。
「……今の、なんだ?」
「平日の昼間から喧嘩か? ここらへん、治安は悪くないはずなんだけどな。……俺、ちょっと見てくるわ」
「え。ちょ……中井、待って……!」
話し声のするほうへ、中井は小走りで駆けていく。
(やばいやつらの喧嘩だったら、どうするつもりなんだよっ)
その中井を、綾春も慌てて追いかけた。
ここら辺は都会のオフィス街だから、そう危険な人物がいるわけではないはずだ。それでもたとえば普段は大人しい人が興奮してナイフを振り回していたとか、訳のわからない通り魔とか、そういう可能性だってゼロじゃない。
中井のそれは、野次馬根性というよりは正義感や親切心による行動なのだろうけど。でも、何があるかわからないところへ一人で向かうなんて無謀だ。
そう思って、綾春は中井の背中をなんとか追いかけた。
と、見えなくなりかけていた中井が立ち止まる。視線は路地裏のほうへ向けられていて、拳を握り締めている。
まさか、喧嘩に加勢するつもりなのだろうか?
(いやいや、まずいって)
綾春は青ざめながら、中井に近づいた。と、それに重なるようにして彼の視線の先から話し声が続いた。
「へえー。会社辞めて何してるのかと思ったら、そんなん作ってたんだ?」
「…………」
「きみみたいなのが作ったのなんて、誰が買うのー? 東雲はさぁ、僕にしたこと、忘れたわけじゃないよねえ?」
先ほどまで遠くで聞こえていた痴話喧嘩のような声は、随分と近くで響いた。
(しののめ? ……まさか、蓮哉さんじゃないよな?)
不穏な会話の中で聞き覚えのある名前が響いて、思わず声のするほうへと視線を向ける。急に頭を振ったので、今朝から続いている頭痛がさらに強くなったが、その衝撃よりもさらに驚くような光景がその路地裏にはあった。
「まっさか陶芸家なんてねぇ。まっ、お前みたいな危険なDom、人里離れたとこで地味ぃーな土いじりがお似合いかぁ」
やたらと耳につく不快な男の声。
その声の主は、路地裏にあるコインパーキングにいる小柄な男性のようだった。その隣には、がっちりとした筋肉質の男性がいて、小柄な男性と二人で、一人の男に詰め寄っている。その詰め寄られている相手が……一ヶ月ぶりに顔を見る、東雲蓮哉その人だった。
「けどさぁ、建築のほうも続けてるんだって? きみの会社の先輩から聞いたよ。てか、あの人、随分とお喋りだったけどコンプラだいじょーぶ?」
「…………」
詰め寄られている蓮哉のほうが身長が高いというのに、その姿は消えそうなくらい小さく見えた。ぐっと握られた拳が、体の横でふるふると震えている。
(え……なに? 蓮哉さん、どうしたんだ?)
何か良からぬことに巻き込まれているのはわかるが、状況がいまいち読み込めず、綾春は彼らに近づけずにいた。それは先に彼らを見つけた中井も同様らしく、知人である東雲が見知らぬ男性二人に詰め寄られているという、ただならぬ状況に、止めに入っていいものか悩んでいるようだった。
「まーともかくさぁ、未練がましく仕事続けてるらしいけど、そういうの、やめたら? いくらフリーとはいえ、悪い噂が広まったら会社にだって迷惑かかるでしょ。取引相手の社員をところ構わずドロップさせるDomがいまーす、なんてさ。大問題だよねぇ」
「それは……」
小柄な男性はねちねちと不快な言葉を並べ立てながら、立ち竦む蓮哉の前で仁王立ちをしている。よくよく見れば、蓮哉の背後には見慣れたSUV車が停まっていて、彼の足元にはコンテナボックスが置かれていた。
もしかしたら作品をどこかに納品するために荷物を下ろしたところで、二人の男に絡まれたのかもしれない。
「あのさぁ、僕の言ってること聞こえてる? きみが僕の近くであれこれやってるってだけで、目障りだって言ってんの。その皿だって、別にそこらへんで買える、なーんの変哲もないただの食器じゃん。あーそれとも飲食関係に媚び売ろうってこと? 悪いけど僕、そーいうの靡かないから」
「…………」
「てかさぁユウト。こいつ、本当にDomなのか? それともオレたち相手にグレアも出せねぇチキン野郎ってことか?」
「なにカズキ? 僕がウソ言ってるって思ってんの?」
「いやまぁ、そうじゃねーけどさ」
一連のやりとりを聞いて、綾春はようやくピンときた。
ユウト——一ノ瀬悠斗。
蓮哉が高校生のときの同級生。
芹澤というSubを虐めていた、たちの悪いSub。
そして、蓮哉を退職に追いやり、グレア不全症を患わせた元凶。
もう一人の「カズキ」と呼ばれていた男は記憶にないが、先ほどから不快な言葉を並び立てているユウトという男は、おそらく一ノ瀬悠斗で間違いない。
「あはっ、文句一つ言えないかぁ。まっ、いいや。とにかくさ、お前みたいのがのうのうと暮らしてるのは迷惑だって話だよ。そんなチンケな皿も何の意味があるんだか。あーあ、邪魔だなぁっ」
小柄な男性は意地の悪い声を上げ、足を振り抜いた。その足はコンテナボックスを直撃し、中からガシャンッと嫌な音がした。
その音を聞いた瞬間、綾春は走り出していた。
「蓮哉さんっ」
「…………綾春?」
一ノ瀬に蹴られたコンテナボックスを悲痛な顔で見つめていた蓮哉が、のそりと顔を上げる。その間に綾春は走り寄って、蓮哉と一ノ瀬の間に体を割り込ませるようにして、一ノ瀬の前に立ち塞がった。
「あんたが例のSub……一ノ瀬悠斗か」
「は? きみ、誰? なんで僕の名前知ってんの?」
突然飛び出してきた第三者に一ノ瀬は驚き、不機嫌そうな目を向けた。つり目気味の瞳にキッと睨まれる。しかし綾春は怯むことなく、その視線を跳ね返すように睨み返した。
誰かにこんな鋭い目線を向けるなんて、初めてだ。
「蓮哉さんがあんたに何したっていうんだ」
「なに? きみ、ほんと誰? ていうか、部外者はお呼びじゃないんだけど。なんなのいったい」
「さっきから聞いてれば、好き勝手言いやがって。危険? 目障り? それ、そっくりそのままあんたに返す。蓮哉さんの器の、どこがチンケだって? 良いものを良いと思えないチンケな感性しか持ってないくせに、わーわー喚くなよ、目障りだ」
背後から再度「綾春?」と名前を呼ぶ蓮哉の声がした。きっと今まで聞いたことのない綾春の冷たい声に驚いてるのだ。
自分だってびっくりしている。驚くほど冷え切った声で、一ノ瀬に向けて辛辣な言葉が出てくるのだから。
それは蓮哉のことを好き勝手言われた怒りであり、蓮哉が丹精込めて作った美しくも心地の良い器たちを貶された憤りであった。
「自分がSubだからって、二次性を逆手に取って、被害者面して。反論しないDomを甚振《いたぶ》って貶めて、悦に浸ってるあんたたちのほうが、よっぽどチキンだろ」
「ハァ⁉︎ ほんと、なんなの。ちょっとカズキ、こいつ何とかしてよ!」
綾春に鋭い双眸を向けられた一ノ瀬は、隣にいる筋肉質の男を小突いた。綾春の剣幕に唖然としていた男は、それで我に返ったのか綾春をまじまじと見つめたあと、僅かにグレアを滲ませた。
(こいつ、Domか)
蓮哉を助けなくてはと思うあまり、周りを見る余裕がなかった。わーわー喚いていた一ノ瀬がSubであることは以前、蓮哉から聞いた話で知っていたけれど、カズキと呼ばれた男のダイナミクスまでは確認できてなかった。
「あぁ……アンタ、もしかしてSubか」
その顔、いかにも欲求不満ってツラだな、なんて言われて。それでやっと、そういえば体調が悪いのだったと思い出す。
蓮哉の前に飛び出したときも、一ノ瀬を睨んで捲し立てていたときも、体調の悪さなど微塵も気にならなかったのだ。
「よくもまあ、悠斗にあれこれ言ってくれたなぁ? そのモデルみてーにおキレイな顔、ボコボコにしてやろーか」
「へえ? やれるもんなら、やってみろよ」
ギラリと光る眼光に、綾春は負けじと言い返した。
どんなに体調が悪かろうと、こんな低俗なDomに負ける気がしない。むしろ体の内側から沸々と沸き上がる怒りによって、今すぐにでもこちらから殴りかかってしまいそうだ。
それほどまでに、綾春は目の前の男たちに敵愾心を向けていた。
「っは! Subのくせに生意気な。……あーそっか。お前、Subだもんなぁ。痛いの、だーい好きってわけだ。そんな欲求不満な顔して欲しがってるわけだ。ハハッ、いいぜ。お望み通り、いくらでも殴ってやるよ。ほらほら、早くKneelしろよ、可愛いSubちゃーん」
そう言って、男は綾春に向かってグレアとともにコマンドを投げた。
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