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44. 朝の光
しおりを挟むあたたかい光の中から浮上するような感覚に、綾春は目をぱちぱちと瞬かせた。
と、ぼんやりする意識に柔らかな低音が届く。
「あ。おはよう。それと、おかえり」
「ただいま……?」
上体を起こしながら声のするほうへ目を向けると、窓辺に置かれたカウチソファに座る蓮哉と目が合った。バスローブ姿なのは、シャワーを浴びた後だからかもしれない。いつもは首の後ろで一つに結んでいる髪の毛を解いている姿が妙にセクシーで。ドキリとして、慌てて目を逸らした。
昨日うっすらと視界に入っていた真っ暗な夜景は、今はもう明るい白へと変わっている。何時かはわからないが、夜が明けているのは間違いない。
ぽやぽやとしながら綾春が返事をしたので、蓮哉はくすりと笑った。
「その感じだと覚えてない? 綾春、サブスペースに入ってたんだ」
「あ……そっか。サブスペースなんて、はじめて入った……」
「そう? 俺もさせたのは初めてだな」
気持ちよさそうにしてたと言われると、恥ずかしくて。綾春は立てた膝の上に顔を埋めるしかなかった。
(俺、スペースに入ったまま寝ちゃってたのか……)
綾春が寝かされていたのは、窓側のほうのベッドだ。
もう一つのベッドは昨夜、二人で体を交えた場所。今は最低限整えられているが、シーツも布団もよく見れば随分と縒れている。吐き出した精やローションの後始末をした記憶はないけれど、少なくとも二人の汗を吸っているはずだから、かなり汚れてしまっているだろう。
こっちのベッドに綾春が寝ていたということは、ぐしゃぐしゃになったベッドで蓮哉が寝てくれたということか、あるいは綾春がいるワイドシングルで男二人並んで寝たのかはわからないが、少なくとも事後の後始末を蓮哉が一人でやってくれたことは間違いない。
ベッドだけでなく綾春自身に関しても、備え付けのものであろうパジャマを着させられていて、体もベタつくところはない。あえて気になるところを挙げるなら、入れっぱなしのコンタクトと、さんざん弄られて違和感が残っている後孔だろうか。
(お世話になっちゃったな)
いそいそと顔を出しながら、綾春は礼を述べようと口を開いた。
「東雲さ——」
と、綾春が顔を埋めていた間にベッド脇まで寄ってきていた蓮哉が、綾春の唇に人差し指を添えた。その仕草に、思わず言葉を呑み込む。
「昨日の約束、覚えてない? 名前、どう呼ぶんだっけ? Say」
「れ、蓮哉さん……」
急なコマンドに戸惑いながらも、綾春は名前を呼んだ。
そう——昨日の夜にした約束。プライベートでは下の名前で呼んでほしいという男の願いを、綾春は受け入れた。それはもちろん覚えている。
「Good boy。朝からコマンドで言わせるなんてごめん。でもそれは、ちゃんと覚えていてほしいから」
くしゃくしゃと頭を撫でられると、体がふんわりと宙に浮かぶような心地になった。もうサブスペースからは抜けているのに、まだその余韻が続いているのかもしれない。
綾春のいるベッドに腰掛けて、蓮哉は綾春の耳の裏を擽るように撫でながら口を開いた。心地良さに目を瞑ってしまいそうだが、それを許さないとばかりに黒い双眸がヘーゼルの瞳を捉える。
「綾春は、恋愛とプレイとセックス、全部同じがいいって言ってたよな」
「あ……っと、え……? は、はい……?」
突如放たれた言葉に、戸惑いながら首を傾げる。
それは昨夜、プレイバーで自分語りをした綾春が言った内容だけど。でも、その話を振り返した蓮哉の意図がわからなくて、どう反応すべきかわからず戸惑いの視線を返す。
「恋愛の相手、俺はどう?」
髪の間に指を通され、頬を指で撫でられ、顎をくっと持ち上げられたところで告げられた言葉に、綾春は目を瞠った。
「俺は綾春のこと、好きだよ」
何も言葉を返せずに動揺する綾春に、蓮哉は躊躇うことなく告げた。
「………………え?」
やっとの思いで絞り出したのは間抜けな声で。
(すき? すきって、なんだっけ……)
頭の中で今しがた蓮哉が紡いだ言葉を繰り返す。
だが、『すき』という二つの音を明確に捉えられているとも言い難いほど、綾春は混乱していた。何か言わなくちゃと思うのに、頭は何も考えられない。サブスペースの余韻が残っているにしても、さっきまではいろいろと思考を巡らせることができてきたはずなのに。
「出会って間もないけど、きみと一緒にいる時間は楽しい。綾春のことは一人の男性としても好きだし、可愛いSubだとも思ってる。できることなら、俺だけのSubにしたい」
「俺だけのSub……」
それはSub性を持つ者にとっては、甘い誘惑の言葉だ。
ただ一人のDomに支配されたい、躾けられたい、従いたい——そう考えるのは本能として自然なこと。さらに、一途なまでの恋愛に夢を見ている綾春なら、なおのこと。
そんな言葉を、蓮哉が紡いでいるのだろうか?
「俺なら間違いは起きない、だったか」
朝の光が、そよそよとベッドを白く染めていく。
「あれ、裏切るみたいで申し訳ないけど……俺は、きみに惹かれてる」
たしかに昨夜、蓮哉ならば踏み込んだ関係にならずに済むと考えていた、と言ったのは綾春だ。リハビリ相手として治療のような形でプレイをするから『プレイのみの相手』として、心ごと支配されずとも虚しくなることもないし、高ランクのDomとプレイができることを利用している気持ちがあったことも白状した。
申し訳なさでいっぱいになった綾春に優しい言葉をかけて、慰めてくれたのも、柔らかく温かなグレアで包み込んでくれたのも蓮哉だ。
その蓮哉が、じつは綾春に好意を寄せているという。
踏み込んだ関係になりたいという意志をこちらに伝えている。
それについて彼が「裏切るみたいで」と言ったことも、ぼんやりとだが理解した。理解はしたが、やはり、どうにも頭がついていかない。
……蓮哉が、自分に、惹かれている? 本当に?
「これ以上、綾春を裏切ってるみたいになるのは嫌だから。だから、俺の気持ちを正直に告げさせてもらった。急にごめんな」
「え、っと……」
どこまでも真っ直ぐな瞳で見つめられる。
困ったように微笑む蓮哉は、プレイのときの捕食者めいた顔とは違って、なんだか捨てられた大型犬のような……迷子になった少年のような、そんな表情をしていて。それが胸を締め付けた。
別に悪いことなど、彼は何もしていないのに。
率直な想いを伝えてくれただけ。
ただそれだけなのに……ひどく悪いことをさせた気持ちになる。これが罪悪感なのか何なのか、綾春にはよくわからない。
「綾春がノーなら、それを受け入れるよ。仕事上でトラブルに遭うしんどさは、俺もよくわかってる。だから、どんな返事であっても綾春の迷惑になるようなことはしない。仕事は仕事として全うする」
胸が焦げるような気持ちになっているのは、蓮哉の心が迷惑だからだろうか?
それとも、仕事上のトラブルでつらい目に遭って、グレア不全症まで患うことになった彼への憐憫か。あるいは、恋に破れるかもしれない男に対する同情か。
「まあ、ノーだとしても、リハビリ相手として軽いプレイに付き合ってくれたら、それはそれで嬉しいけどな……。俺がきみを利用するように、綾春がプレイ不足を解消するために、きみが俺を利用してくれても構わないから」
思いの丈を伝えてくれる蓮哉に、綾春はどう反応するのが良いのか戸惑ったまま、じわりじわりと細胞に沁み入るような心地の良い低音で紡がれる彼の言葉を聞き続けていた。
「でもそういうのしんどいっていうなら、無理に付き合わなくていい。ただの陶芸家と、そこに仕事を持ってきてくれたデザイン会社の社員って関係に戻るだけだ。あとはまあ、これからもファンの一人でもいてくれたら嬉しいけど……それは俺の我儘か」
もしここで綾春が「恋人にはなれない」と言ったら、蓮哉の言うように仕事上の取引相手というなんてことはない関係に戻るだけ。お互い社会人なのだから、フったフラれたということがあっても、つつがなく仕事をすればいいだけのことだ。
想いを告げてくれた彼がそういうのだから、おそらく面倒なトラブルに発展することはない。
だから……彼を好きでないのなら、ノーを返せばいいだけ。
でも——なぜだか、それはできそうにない。
なぜなんて、そんな理由わかっているはずなのに。
「虫のいい話をするのなら……綾春も、たとえちょっとだけだとしても、俺に好意を持ってくれていたから体を委ねてくれたんだって。——俺はそう思ってる。だから、今じゃなくていい。でも……いつか返事を聞かせて」
そう言って、蓮哉は布団の上に出ていた綾春の手を一瞬だけ握った。
「——さて。軽くシャワー浴びたら、下のカフェでなんか食べようか」
「あ……え……う、うん」
このホテルの一階には全国展開しているベーカリーカフェのチェーン店が入っている。焼きたてのパンとコーヒーがあれば十分、休日の朝食になるだろう。
綾春は、混乱する頭のままにシャワーを浴びた。
蓮哉はやはりバスローブ姿だったから、すでにシャワーを済ませてたらしく、綾春がバスルームから出たときには昨日身につけていた衣服をきちんと着用していた。
ベッドサイドの時計を見れば、時刻は午前八時半。
待たせては悪いと、綾春もクローゼットにかけられていた自分の服——これも蓮哉がしまってくれていたのだろう——を手早く身に着けて、二人はチェックアウトした。
初冬の柔らかな朝日が、瞳に滲みるようだった。
◇◇◇
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