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39. 欲は暴かれる *

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 綾春がそわそわとしていると、一つ目のコマンドが放たれた。

「久慈さん、Comeおいで

 彼とのプレイは大抵、そばへ近寄るところから始まる。
 東雲が椅子に座っていることもあれば、立っていることもある。僅かに離れた距離を埋めさせるためのコマンドに、綾春の体は嬉しがって従ってしまう。

 プレイ開始と同時に、強くなったグレアに溺れてしまいそうになりながらも、一歩ずつ足を動かして、彼の膝に自分の足が接するギリギリのところまで近づいた。

 いい子と褒め、すっと伸ばされた手は綾春の頬を撫でた。
 頭や頬を撫でられると、快楽と安堵感が体を駆け巡る。言葉で褒められるのはもちろん好きだけれど、触れ合いもセットで褒められるといっそう心地がいい。
 うっとりとしながら、綾春は次の命令を待った。

「俺の名前、言えますか?」
「なまえ? 東雲さん……?」

 急になんだろうと頭に疑問符を浮かべると、東雲は頬を撫でていた手の親指をそっと綾春の下唇へと伸ばした。
 ふにっと柔らかく指の腹で押されると、閉じていた口が僅かに開いた。

「そう呼ばれるのも嫌いじゃないけど、下の名前がいいな。Say呼んで
「れ、蓮哉さん……? ぁ……っ、ぅ……」

 下の名前を呼んだ瞬間、ズンっと彼のグレアに重いものが混じる。その甘い威圧感に、綾春は熱い吐息が漏れるのを止められなかった。

 いつもはゆっくりと段階を踏んで強められていくグレアが、今日は何段階もすっ飛ばして、強めのグレアを浴びせられる。まだプレイは始まったばかりなのに、体の熱を一気に上げられていく。

Good boyよくできました、今日からプライベートではそう呼んで。俺も、綾春って呼んでいい?」

 その問いに、こくこくと頷いた。
 東雲が——蓮哉が紡ぐ自分の名前に呼応して、ずくずくと体の芯が疼く。もっと呼んでほしいとねだってしてしまいそう……。

 ゆるゆると下唇を親指で撫でられながら、綾春は蓮哉の瞳を見つめていた。真っ黒な黒曜石みたいな瞳に、強い支配欲を感じる。
 Domのグレアは目から出ている、なんて言われるけれど、たしかにそうかもしれない。彼の瞳は、綾春を従わせて、屈服させて、捕らえて、逃さないと強く訴えていた。

「綾春、Sit座って。俺の隣においで」

 だから、続いたコマンドに綾春は逡巡して……首を横に振っていた。

 従いたい気持ちはあったけれど、それじゃもう満足できない——。
 だから、我儘を言おうと思ったのだ。綾春を捕まえておきたいのなら……逃さないと思っているのなら、それを態度で示させてほしかった。

「……やだ。そこじゃ、嫌。座るなら……足元がいい」

 従わせたいのなら、きちんと躾けてほしい。
 深いプレイをするなら、コマンドももっと強いものが欲しい。

 Sitなんて子供騙しのコマンドじゃなくて、お前の支配者は自分だと植えつけるような強いコマンドで命じてほしい。徹底的にわからせてほしい。

 だから蓮哉の命令には応じずに、綾春はぎゅっと手を握る。SubがDomの言うことに従わないのは、本当はすごく苦しい。今すぐ彼の隣に座ってしまいたくて堪らない。
 でも、ここで退いたらダメだと本能が言っていた。綾春を従わせたいのなら、もっと強いコマンドを浴びせてほしい。そうじゃないと心が満たされない。

「…………」

 無言で見上げる蓮哉の視線が痛い。そこには複雑な色が浮かんでいた。
 綾春を躾けたいという熱の中に、僅かに揺れる戸惑い。それを見ると、綾春は胸がぎゅっと締め付けられるようだった。

(ダメ、だった……?)

 やはり〈Kneel〉は言いたくないのだろうか。
 綾春はこれまで蓮哉とプレイをしてきて、気づいていたことがある。それは、彼がKneelのコマンドだけは発さないことだ。

 最初は、たまたまかなと思った。
 一番はじめ、美術館の帰りに偶然出会ったあと、このプレイバーで軽くプレイしたときに彼は『Kneel跪け』とは言わなかった。そのときは「軽いプレイ」と言っていたから、配慮してくれているのかと思った。
 その後、二回目のプレイとなる葉山の自宅でも、やはり彼はKneelを使わなかった。心地良くなりたいと願う綾春が勝手に彼の足元に跪いただけだ。その姿を蓮哉は褒めてくれたけど、屈んでという指示に反して膝を深く折って彼の足元に座ってみせたから、お仕置きをされたのを覚えている。
 その後も、彼とはプレイを重ねたけれどKneelと命じられたことはない。

 そうなれば、自ずと気づくというものだ。
 蓮哉は『Kneel跪け』と命じるのは苦手なのだろう。苦手というより、悪い思い出があるのだ。それは、今日話してくれた高校時代の事件と、退職のきっかけ……その二つに起因していると察するのは自然なことだった。

 SubにKneelと言えば、相手がドロップしてしまうのでは……。蓮哉はきっとそう考えてしまうのだ。それはおそらく一度目のサブドロップ——雨が降る日の校舎で、二人のSubを強制的に跪かせてしまったから。そして、Kneelはプレイの基本だとも言われているから。
 Subを従わせているのが視覚的にわかりやすいコマンドだから、彼の中で躊躇が生まれているのだ。

 けれど、もう一つ気づいたこともある。
 綾春が自主的に蓮哉の足元に座り込むと、彼は戸惑いながらも嬉しそうな笑みを浮かべるのだ。トラウマへの忌避感と同時に、Domとしての欲が満たされていることに、綾春はちゃんと気づいていた。

 だから、彼にはちゃんと満たされてほしい。
 KneelでSubを従わせる悦びを味わってほしかった。

「蓮哉さん……お願い、言って。俺は、絶対、大丈夫だから」

 恐れずに言ってほしい。
〈Kneel〉は怖いコマンドではない。Subとしては嬉しいコマンドだし、Domとしても心地の良いコマンドだと知ってほしい。

 握り締めた手が震え出す。
 早くしないと、苦しくて倒れてしまいそうだ。

 けれど、どんなに息が苦しくて、胸が痛くなっても、綾春はSitのコマンドに逆らうつもりだった。セーフワードも告げない。ただ息を詰めながら、綾春は蓮哉のことを待った。
 すると、はぁ……と深いため息をついた蓮哉が観念したような、決意したような瞳で綾春を見ていた。

「わかった。————Kneelお座りだ、綾春」

 瞬間、ガクンっと体から力が抜けた。
 ずっと欲しかった響きに体がすぐに呼応して、綾春は蓮哉の足元に座り込んだ。正座を崩したような姿勢で蓮哉を見上げる。

 望んでいた光景に、綾春はうっとりとした。

「はぁ……。なに、これ……気持ち、い……」
「うわ、やば……。今の綾春、すっごく可愛いよ」

 思わず呟いたのは、綾春も蓮哉も同じだった。

 蓮哉のKneelで跪くのは、腰が抜けそうなくらい気持ちがよかった。

「あ、……はぁ、ぁ……ふ、ぅ……」
「すごいな、Kneelお座りだけで顔が蕩けてる」
「だって……。蓮哉さん……褒めて、くれる……?」
「そうだね。Sitができなかったのはよくなかったけれど、綾春は俺のために我儘言ってくれたんだよな。命令聞かないの、苦しかっただろ? ……ありがとな。Goodいい子。ほら、コマンドで感じすぎてるみたいだから、ゆっくり息をして」

 蓮哉が優しい声色でたくさん言葉をかけてくれる。
 そのあまりの気持ちよさに、さっきまで苦しかった気持ちが一気に霧散した。Sitの命令に従えなかった不快感はもうない。むしろ蓮哉の言うように、彼のコマンドとグレアを感じすぎてしまって、頭がトリップしそうだった。

「Kneelを言ったのは久しぶりだ……。やっぱり、いい眺めだな」

 ありがとう、ともう一度言って、蓮哉は綾春の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

 今までも頭を撫でられたことはあったけれど、彼のコマンドによってお座りしている状態で撫でられるのは、いつも以上に心地が良い。大きな手は頭を撫で、耳の裏をたどり、うなじをそっとさすってから離れていった。

 まだ触ってほしくて、ぽやぽやしたまま蓮哉を見る。
 綾春を見下ろす瞳は完璧に、Domとしての強者のオーラが輝いていた。

 ——ああ、もっと従いたい。委ねたい。

 その気持ちをのせて熱く息を吐けば、蓮哉はくすっと悪い笑みを浮かべる。それが、深いプレイが始まる合図になった。

「綾春、次はStrip服を脱いで。上だけで構わないよ」

 命じられたことのないコマンドに、体がびくりと震えた。
 それは怯えではなく、期待だ。

 強いコマンドを浴びせられて、綾春のSub性は歓喜に沸いていた。

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