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34. 退職のきっかけ

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 綾春から見れば、正直言って一ノ瀬の自業自得だ。
 だが、Normalから見れば「DomがSubをサブドロップさせた」という光景はセンセーショナルだったらしく、案の定、互いの会社間ではちょっとした騒ぎになったという。

「上司含めて、うちの会社は俺の肩を持ってくれましたし、一ノ瀬の言動には相手方の会社も頭を痛めていたようで、最終的には会社間での問題にはならずにすみました。ただ、俺は学生時代にやらかしたときみたいに申し訳ないなーって気持ちがどうしても抜けきれなくて。なんというか……メンタル的に限界を迎えてしまったんです」

 この一件があったことで、東雲は一時期はかなり精神的にダウンしてしまったそうだ。

「相手方の会社に関係するプロジェクトからは外すから残ってくれないかって会社は言ってくれたんですけどね。でも、一ノ瀬が勤める会社とは懇意にしている面もあったので、自分のせいで会社間の関係がぎくしゃくするのは忍びなくて。それで、退職という形で去ることにしました」

 数ヶ月休職をしていたが、結果的には退職という形をとった。
 退職時にはもうメンタルのほうは落ち着き始めていたらしいが、東雲が話すように会社に居続けることが不安だったのだろう。

「まあ退職といっても、さっき言ったとおり、実際にはフリーで契約しているんで未練がましい状態なんですけど」

 そう苦笑する東雲に、綾春は何と言っていいかわからなかった。

「——と、そんな感じでして。久慈さんも薄々お気づきでしょうが、その退職までの一連の出来事がきっかけでグレア不全症になったんです」

 彼の話によると、一ノ瀬がサブドロップしたとき、人生二度目のSubに対するサブドロップを体験した東雲も体調を崩してその場で倒れ、病院に運ばれたのだという。そして目が覚めたところで、グレアが出せないようになってしまったらしい。
 つまり、東雲にとって「Subに向けてグレアを出す」というのがトラウマになってしまっているのだ。

(まーそりゃ衝撃的だもんな。ドロップしたSubを見れば、普通の人でも気は動転するし。それが不可抗力とはいえ、二度もだもんな)

 綾春はDomではないけれど、その衝撃の強さはわからなくもない。
 特に穏和な性格で、しっかりとDomについての心得を戒めてきた東雲のことだから、自分が引き起こしたトラブルに対して過剰になるのも致し方がないことだったのだろう。

 彼曰く、メンタル不調はもう問題ないらしい。数年前の出来事であることと、きっかけとなった環境から離れたこと、そして陶芸という別の道を見つけつつも好きで就職した建築の仕事を細々とでも続けられていることで、随分と安定したそうだ。
 ただ、グレアだけは今も出せないという一種の後遺症を抱えて生きている。

 それが、今の東雲蓮哉だった。

「……つらいお話をさせてしまって、申し訳ありません」

 綾春は頭を下げた。
 ここ数ヶ月、彼と仕事をして、プレイをして、距離が近づいてきたことで彼の為人ひととなりに興味が湧いた。それゆえになぜ会社を辞めたのかが気になって訊ねた。
 それなりに複雑な経緯があるのだろうとは予想していたが、つらい話を思い出させてしまったことを、今さらながらに後悔する。興味があるだなんて浅はかな理由で触れるべきではなかった。

 けれど東雲は、頭を下げる綾春に慌てたように言葉を紡いだ。

「いえいえっ、久慈さんが謝ることじゃないです。話をすると言ったのは俺のほうですし。それに、聞いてもらえてよかったくらいで、謝られることなんて何もないですよ」

 だから頭を上げてくださいと言われ、綾春はおずおずと顔を上げた。
 本当に気にしてません、と穏やかな笑顔を返してくれた東雲にほっと安堵する。

 こんな穏和なDomの一体どこが傲慢だというのか。
 東雲とは何度かプレイをしているけれど、プレイの最中も『傲慢で無遠慮なDom』という印象を感じたことは一度たりともない。Domらしさという意味で支配的な雰囲気を纏うことはあれど、彼からの命令はSubの綾春のことを常に上手くコントロールし、より良い快楽を与えてくれるものだ。どこぞの高慢ちきなSubのように相手を陥れるものではない。
 高ランクゆえの圧倒的な威圧力というのはあるだろうが、それを笠に着た態度など東雲が取ったことはない。

 東雲に対する詫びの気持ちが落ち着くと、今度は話に挙がっていたSub——一ノ瀬悠斗に対する怒りがこみ上げてきた。

「そのSub……一ノ瀬さん、でしたっけ。俺、その人のこと、許せません」

 ひとたび言葉にすると、そのSubへの怒りが本物であることを確信する。
 綾春は同じSubとしても、一人の人間としても、一ノ瀬という人物をひどく嫌悪していた。

「Subって弱い立場って思われがちですけど、全然そうじゃない。その一ノ瀬って人みたいに、Domの優しさにつけ込んで被害者ぶろうっていう卑劣なSubもいるんですよね。同じSubとして東雲さんに謝罪したいです」
「久慈さん……」

 いつしか食事をする二人の手は止まっていて、テーブルと食べかけの食事を挟んで真剣な顔をして向き合っていた。

「SubにもDomにも優劣や上下関係なんかなくて対等なのに、なんでそんな酷いことできるんだろう……。そりゃどうしたって本能として、SubはDomに従いたいって気持ちはありますけど、それってあくまで信頼関係があるから成立しているんであって、どんなDomにも従いたいわけじゃない。それと同じで、Domの人だってSubだったら誰でもいいわけじゃないですよね」

 綾春は、どろどろと自分の中に渦巻く怒りを吐き出すように、言葉を紡ぎ続けた。

「世間的にSubが被害に遭うことが多いのは事実ですけど、Domだって被害に遭う。Subが加害者になることもある。——東雲さんは何も悪くなんてないです。悪いのは一ノ瀬って人であって、あなたは何も悪いことなんてしてない」

 一気に喋りたてたので喉が渇いて、綾春は炭酸水をぐびっと飲んだ。強めの炭酸がぴりぴりと喉を焼き、冷たい液体が喉を通る感覚に徐々に冷静さを取り戻していく。

「……すみません、俺、なんか熱くなっちゃって」

 広いレストランだし、綾春も東雲も声量は抑えて話していたので、どんなに熱く語ろうが周囲に迷惑はかけていない。けれど、二次性に関する話や想いをこんな場所であれこれ話してしまったことに気づき、急に恥ずかしくなった。

 でも、間違ったことは言っていないはずだ。東雲は悪くないと何度だって言える。それこそ、大声で言ってやってもいい。大人なのでしないだけだ。

 そんな綾春の気持ちはしっかり伝わったのか、東雲はふっと笑った。

「久慈さんがそう思ってくれて嬉しいです。少し前の自分が、救われたような気がします」

 安心しきったような顔を見せてくれて、綾春は胸の奥があたたかくなった。柔らかい眼差しに、本当に彼が言っていることが本心であることを理解する。

「今日は、いい日です。映画も観れたし、美味い飯も食べたし、久慈さんに話を聞いてもらえた。とてもいい日になりました。ありがとうございます、久慈さん」

 微笑む東雲に、とくとくと心臓が脈打つ。

(あれ……俺……)

 ふいに、目の前の男が、どんなに魅力的かと思っている自分に気づく。
 それはグレア不全症のDomとリハビリ相手のSubという関係だけに留まるようなものではないことも——。

「今夜は、たっぷり躾けて、甘やかしてあげますね」

 再びフォークとナイフを手に取り、食事を再開した東雲の瞳に肉食獣めいた光が宿る。
 品のいい所作で肉を切っていく綺麗な手。肉を食む、やや肉厚で形の良い唇。姿勢よく座る体は程よく鍛えられていて、彼の大らかさを現すように立派な体格をしている。

(あー、落ち着け自分……これ、やばいよな……よくないよな……)

 頭では小さな警鐘が鳴っていた。
 彼と今以上に深い関係になりたいと、心と本能が傾きかけていることに対する理性からの警告だ。

「食事が終わったら、向かいましょう」

 東雲から向けられる視線を熱く感じるのは、綾春の勘違いだろうか。
 けれどもし彼も、綾春がいま感じているような熱を帯びているのなら……自分はどうしたいのか。

 そんな戸惑いを胸に、綾春も残りの食事に手をつけていくのだった。



 ◇◇◇
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