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27. 夕暮れにはまだ早い *

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 ふわふわとした気持ちに包まれ始めていると、東雲は綾春の腰へ手を回してもう一歩近づくように促した。
 躾けてくれると告げられた言葉に期待が膨らむ。

「少し屈んで。首輪これ、つけてほしいでしょう?」

Kneel足元に座って』と言ってくれないのか、と思いながらも、綾春は言われたとおりに屈もうと膝を折る。けれどその途中で、やっぱり躾けてもらえるならと、『少し屈む』のではなく、蓮哉の足元に跪きたくなった。

 だから、命令通りではないことを承知でそのまま膝を折り続けて、膝頭を床へつけ、尻とかかとをくっつけた。正座や跪座きざと呼ばれる座り方に近い形だ。
 綾春の関節の可動域はそう広くないので、いわゆる一般的に『Subらしい』と言われている綺麗なはできない。そのため、Domに対して跪くときは、正座や跪座を崩したような姿勢が多かった。

 屈めという指示に従えなかったことを非難されるだろうか。
 けれど東雲のグレアを浴び続ける中で、彼を見下ろす光景にそわそわしっぱなしだったのだ。躾けてくれると言うのなら、支配下に置いているのだと視覚的にもわからせてほしかった。

 緊張しながら東雲を見上げると、彼は眉尻を下げて、何とも言い難い表情を浮かべていた。

「あ……東雲さん、俺……」

 ああ、間違ってしまったのかもしれないと不安が押し寄せてくる。少し屈むだけでよかったのに跪いてしまった綾春に困惑し、がっかりしているのだと思うと、体が小さく震えた。

 自分を委ねたいという信頼の気持ちをこめて彼の足元へ跪いたつもりだったのに、やりすぎた。とはいえ、今さら立ち上がるのも変な気がしてバツが悪くなっていると、一呼吸おいて東雲が破顔した。

Good boyとってもいい子です。自分からお座りしてくれたんですね、ありがとうございます」
「怒ってない、んですか……?」
「まさか。とってもいい眺めですよ。——すごく、そそられます」

 目を細めながら笑う東雲に、強張っていた体の力が抜ける。
 綾春がとったポーズはダメではなかったようだ。むしろ喜んでくれさえしていて、胸いっぱいに嬉しさが満ちていく。
 SubとしてDomに従えたこと、自分を支配するDomに喜んでもらえたことが嬉しくて、綾春も笑顔を浮かべた。

 でも、そんな綾春に東雲は意地悪な視線を向けた。

「その姿、可愛すぎますね。けれど、俺の指示と少し違ったのは事実か……。じゃあ首輪をつけたら、ちょっとだけお仕置きしましょうか」

 お仕置きという言葉に背筋がぞくりとした。
 ほんの少しの恐怖と、それを上回る期待。

「つらかったら言ってくださいね」

 優しい言葉をかけて、東雲がレザーの首輪を綾春の首に回す。長さは五段階で変えられるようで、三つ目の穴につく棒を入れて尾錠へ通されると、首ぴったりに首輪がつけられた。
 苦しさはまったくないけれど、首に感じるレザーと金属の感触が拘束されているという非日常を否が応でも感じさせてきて、綾春の興奮を加速させる。

「はぁ……」

 思わず漏れる吐息。
 これからどんな仕置きをされるのか、考えるだけで息が上がってくる。

 見上げる先の東雲の瞳に、ぎらりとした鋭い光が灯った。

Crawl四つん這いに。顔は上げたままだ」

 命じる言葉の冷たさに、体が打ち震えた。
 仕置きゆえか、いつもの丁寧な物言いは封じ、威圧をもった態度と声色でコマンドを放つ東雲に、綾春はひゅっと息を呑んだ。

 ——東雲が怖い。

 だけど、このDomにお仕置きされ、躾けられることをそれ以上に望んでいる。

 綾春は命じられたとおり、その場で四つん這いになった。顔だけは東雲をしっかりと向けたままだ。
 東雲の穏和な気配は完全に消えて、綾春の支配者として見下ろしている。冷たいような、それでいて熱を宿した視線に綾春のSub性が歓喜に沸く。

「命令に背いた駄犬を、きちんと躾けてやらないとな。——そのまま部屋を一周しろ。顔はそのままStay下げるな。ほら、やって」

 犬のように命じられて、羞恥に顔が赤くなった。
 だが東雲は少しの躊躇いも見逃してくれず、またわずかに強められたグレアによって綾春の思考は溶けていく。命じられたことを実行するだけの生きものになっていく……。

 前を見据えたまま床を這い始めると、ひんやりとしたフローリングの感触が手のひらに伝わった。一歩進むたびに響く、じゃらっとチェーンが揺れる音。ぺたぺたという床を這う手や足音。そのどれもが、綾春の思考を冷静にさせてくれない。

「そう。その調子」
「は、ぁ……っ……」

 綾春の首輪から伸びるチェーンの先は、東雲が握っていた。けれど、彼はソファから一歩も動かない。ただ冷酷さを湛えた双眸を向けるだけ。
 本当に犬どころか、奴隷のような扱いだ。いくらSubであっても尊厳を踏みにじられるような行為だが、これは仕置き——命令に従えなかった自分を躾けてくれているのだから、きちんと成し遂げなければいけない。だから、綾春は床を這う。

 ちょうど半周ほどもすればチェーンのゆるみはなくなり伸び切った。と、首がぐっと引かれ、首元が僅かに締まる。ちらっと東雲を見れば口元に嗜虐的な笑みを浮かべて、ほんの少しだけチェーンを引っ張っていた。

 もし今、彼の機嫌を損ねたら、このチェーンを勢いよく引かれてしまいかねない。そしたら一瞬とはいえ苦しいだろうし、床に倒れ込んでしまうかもしれない。そのときに床に打ち付けられれば、体だって痛い。
 自由と安全を東雲に握られているという恐怖は綾春を竦ませ、そしてそれ以上に安心させた。

 ——東雲になら、自分のことを預けてもいいのだ。

「どうしました? 残り半分残ってるけど? 最後まできちんとまわって」

 ほんの僅か歩みを止めたことで、東雲はガシャッとチェーンを揺らした。綾春は慌てて手と足を動かす。じゃら、じゃらと綾春が動くたびに硬質な金属の音が部屋に響いた。時折、東雲が戯れのようにチェーンを引っ張ったり、揺らしたりするので、ビクビクしながら進んだ。

 そうして惨めさと悦ばしさを綯い交ぜにしながらも、綾春は東雲に命じられたとおりに残り半周を周り切った。たったそれだけのことなのに、息は走り回った犬のように浅くなっている。

Goodいいね。最後にお尻を突き出して」
「はい……」

 ぐっと息を呑んで、四つん這いのまま尻のほうを東雲へ向ける。
 はしたない格好だけれど、これも仕置きだ。逆らってはいけない。逆らいたくもない。自分は、東雲に躾けてもらいたいのだ。
 と、ひゅっと僅かに空気を切る音がしたと思った次の瞬間、それよりも大きな音が耳に届いた。

 ——バシンッ!

「っ!」

 乾いた音とともに、綾春の尻に僅かな痛みが走った。
 恐る恐る首だけで振り返ると、いつの間に持っていたのか、東雲はプレイ用の鞭らしきものを持って、色気を含んだ笑みを浮かべていた。あの鞭で尻を叩かれたのだとわかり、綾春はきゅっと唇を結ぶ。

 怖かったわけでも、悔しかったわけでも、つらかったわけでもない。
 自分に仕置きを施した東雲を見て、劣情を抱きそうになったのだ。

 SubはどうしたってDomが放つ存在感や威圧感というのに弱い。その弱さは、先日のサブドロップのようにマイナスに作用することもあれば、今のようにより興奮や劣情を煽るプラスに作用することもある。

 ——今、綾春は紛れもなく東雲このDomの魅力に捕らわれてしまっていた。

(まずい……相手は東雲さんだってのに……)

 彼とは軽いプレイだけの約束だ。
 意図せずに昂って、Subとしての快楽を延長させてはいけない。性的な興奮を煽られる前に、理性を取り戻す必要がある。

 浅くなる呼吸を整えるように唇を結び、心のうちを鎮めていく。
 軽いプレイ内での仕置きだ。いくら尻を向け、叩かれたからと言って、は起きようもない。そう自分に言い聞かせる。

「これで仕置きは最後」

 言葉とともに、もう一振り鞭が下された。

「ぅっ……」

 一度目と同じ強さで叩かれた尻がじん、と熱くなった。
 耐えられないほどの痛みではない。ちょっと転んで擦りむいたくらいの小さな痛みだ。鞭は玩具のようなもので、部屋に響く音は派手でも痛みは少ない仕様のグッズだ。東雲だって力は加減している。

 でも、だからこそ……その熱さは痛みによるものではなくて、羞恥と高揚によってもらたされる甘美なものだった。

「はい、終わりです。久慈さん、Good boyよくできました。ちゃんと言うことが聞けて偉かったですね。その格好も仕草もすっごくいいです。はぁ……、可愛い。……でも、また言うことを聞けなかったらお仕置きしますから。よーく覚えててくださいね? 久慈さんはいい子だから、ちゃんとできますよね」
「はい、っ」

 東雲のお仕置きは、客観的に見れば羞恥と痛みによるものだ。恥ずかしい行為をさせたり、痛みや苦痛もって間違いを理解させる行為はSubへの仕置きになり得る。性的なプレイでは決してない。
 なのに、東雲が放つグレアが蕩けるほどに甘いので、勘違いしてしまいそうになる。——もっと悦くしてくれるのでは、と。

Crawl四つん這いはもう解いていいですよ。好きな格好でラクになって」

 そう言われ、綾春は四つん這いの格好から、再び膝を折って東雲の足元に座った。すると、東雲は綾春の行動を喜んでくれたようで、ほぅっと息を吐いてから綾春の頭をくしゃりと撫でた。

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