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15. 休日の夜、麻布にて
しおりを挟む車で来たという東雲の助手席に乗せられ、連れてこられたプレイバーは、麻布の幹線道路を一本入った隠れ家的な雰囲気の店だった。
東雲の友人が経営していて、本番行為を許可していない軽めのプレイを推奨しているプレイバーだというのは、ここに来るまでで聞いていた。
近場のコインパーキングに停めた東雲の愛車は国産のSUV車で、無名の陶芸家という身にしては良いものに乗っているなという印象だった。
でもまあ、そう不思議でもないのかもしれない。自分で作った器を自らの手で卸しているはずだし、都心から僅かに離れた場所に住んでいることからも、それなりにしっかりした車に乗っているのかもしれないからだ。
「基本的には接触も軽めでって店なんで、安心してください。それに俺が変なことしたら、そこのオーナーが殴ってでも止めてくれると思うんで」
プレイバーに着くやいなや、カウンターの一番端の席へと案内された。
東雲に声をかけられたオーナーと思しき男がにこりと笑って、カウンターテーブルに一枚の名刺を置く。綾春は人当たりの良い笑みを返しながら、その名刺を受け取った。オーナーの男はDomのような気配もするがSubのような気配も感じたので、もしかしたら珍しいSwitchかもしれない。
名刺には店名と住所や電話番号のほか、オーナーの肩書きとともに晴海清貴という名前が載っていた。
晴海は「何かあったら呼んでください」と穏やかに笑って、カウンターの奥へと下がっていった。
なんにせよ、カウンターに通されたことに安堵する。
カフェで「軽いプレイなら」と答えたのは自分なのに、いざプレイバーに来てみると緊張していた。だから、すぐにボックス席に通すようなことはせずに、カウンター席で軽く話をしてから……という東雲の心遣いは有り難かった。
大抵のプレイバーは、ただ会話を楽しんだり、待ち人やお目当ての人を探すためのカウンター席やフロア席と、プレイも楽しめる個室やボックス席に分かれているところが多い。この店もこじんまりとしているが、席はカウンターとボックスに分かれていた。
ボックス席のほうは少し暗くなっていてオシャレなパーティションで間仕切られているが、カウンターのほうはやや明るめだ。晴海とは別にもう一人、バーテンダーも近くにいるので、少なくともカウンター席で不埒なことはできないだろう。
三十代から四十代あたりをターゲットにした、シックで落ち着いた店内だった。
(こんなときも内装チェックしちゃうとか、職業病すぎる……)
小さな背もたれ付きのカウンターチェアに腰かけながら、不審じゃない程度に店内をチェックしていた自分に気づいて、心のうちだけで自嘲した。
「久慈さん、お酒は飲まれますか? 俺は車なんでノンアルにしますけど、よかったら帰りも送っていくので気にせず飲んでください」
「ありがとうございます。ですが、病み上がりのようなものなので、俺もノンアルで」
綾春は東雲に次いで、ノンアルコールのカクテルを注文した。
しばらくしてバーテンダーが作ってくれた、きれいな色味のカクテルにしばし見惚れてから、ゆっくりと口をつけた。
「普段、こういうところは来ます?」
同じようにしてカクテルを手にした東雲が他愛のない会話を振る。
「若い頃は何度か。けど、今はほとんど来ないですね。東雲さんはどうですか?」
「俺もあまり来ないですよ。ここはキヨ——晴海がいるんで顔出しますけど、ここでプレイをしたのも若いうちで、最近はまったくです」
慣れた様子に見えたが、それは友人の店だからだろうか。
プレイバーのようなところにはあまり来ないというのと、最近はまったく、という返答を受けて、綾春はそこではたと気づく。
「あー……あの。今さらなんですけど、東雲さんにパートナーの方はいらっしゃらない、ってことであってます? ほら、もし浮気とか嫉妬とかあると、いろいろとマズいと思うので」
自分は先日、うっかり口が滑ってしまってパートナーがいないという話をしたが、東雲はどうだったろうか。遊び人のようには見えないが、人は見かけによらないというのもある。
プレイを誘ってきたのも東雲のほうからだから、もしかしたらSubならとりあえず手をつけてみたい、なんて発想を持つ相手の可能性もある。
今さらながらに不安になって訊ねれば、東雲は眉を僅かに下げて答えを返した。
「あ! すみません、言ってませんでしたか。大丈夫です、俺、恋人もプレイパートナーもいないので、久慈さんにご迷惑をおかけすることはないです」
「で、すよね。ははは……」
よかったと思いつつ、失礼な質問だったかなとも思って、綾春は気まずい気持ちをカクテルと一緒に飲み込んだ。
「久慈さんも、先日パートナーはいないって言ってましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ、はい、俺もいないですよ。恋人もパートナーもいない寂しい身の上です」
「それじゃあ、お互い変な心配はせずに楽しめますね」
そういう東雲は、落ち着いていて。
けれど口にした言葉には、しっとりと情を含んでいて、手のひらが汗ばんでいくのを感じていた。
「じゃ、あっちの席、行きましょうか」
互いのカクテルが飲み終わりそうになった頃、東雲はそう言って綾春を一番奥のボックス席へと誘った。
「始める前に、セーフワードを決めましょう。それからNG行為も教えてください。本番行為はもちろん禁止だとして、接触はどこまで大丈夫ですか?」
ボックス席に入ると、東雲はソファには座らずに早々にセーフワードを訊ねた。
セーフワードというのは、DomとSubがプレイをするときに決める言葉のことだ。Domから行き過ぎた行為を求められたときにSubがセーフワードを発すると、Domのグレアやコマンドを拒否することができる。これにはかなりの効力があり、セーフワードを言われたDomはグレアもコマンドも一定の間、使えなくなってしまう。ともすれば危険な行為も命じることができるDomに対する、Subの唯一の抵抗手段と言ってもよい。
このセーフワードを決めないと、安全にプレイを楽しめない。だから、たとえ行きずりの関係であっても、基本的にはセーフワードを決めるのがマナーとなっている。
また同様にして、パートナーでもない限り、事前にNG行為を聞いておくのもDomに求められる正しい姿勢だ。
東雲はそのところをきちっと抑えてくれるようで、綾春はほっと肩の力を抜いた。互いに合意の上だし、この場を離れれば仕事の取引相手なのでそう酷いことにはならないだろうと思ってはいるが、未知のDomとのプレイはやはり緊張する。
「服を脱がせるのはなしで。性的な接触はキスも含めてNG。手を繋ぐとか、頭を撫でるとかは大丈夫です」
「はい」
「縛ったり叩いたりっていう痛いのは、過度じゃなければしてもらっても構いません」
「わかりました」
なるべく平静を装って答えた。
舐められなくない、というのはおかしな話だが、服従を喜びとするSubだからといって、Domから好き勝手になんでもされたいわけではない。特に初めてのプレイ相手ならなおさらだ。
それに、東雲が紳士的な態度を示してくれたからこそ、綾春もしっかりと線引きを提示することが誠意といえる。
「セーフワードは、そうだな……〈コーヒー〉でどうですか」
「〈コーヒー〉ですか」
「仕事で東雲さんのコーヒーカップを採用しますし、今日さっき、東雲さんカフェで飲んでたでしょう? なんとなく、いいかと思って」
「なるほど、いいですね。それでいきましょう」
綾春がいつもプレイ店で使うセーフワードは〈レッド〉だ。信号機の赤から連想されるそれは、一般的にもよく使われるセーフワードの一つである。
主に仕事ではあるが綾春も車の運転はするので使い勝手がよく、店でのプレイ時には特に奇をてらわずにレッドを使っていた。プレイ店だと毎回同じキャストというわけでもないので、咄嗟のときに使い慣れている単語のほうが忘れることもないからだ。
しかし、東雲とのプレイなら〈レッド〉だと味気ないと思った。
過去にいた恋人やパートナーとのプレイでも、〈レッド〉以外の単語を使っていたが、なぜだか東雲にも特別な言葉を持っておきたいと思ったのだ。
だから、セーフワードは〈コーヒー〉。
東雲との出逢いは、コーヒーカップを採用したいと、綾春から声をかけたところから始まったから。陶芸家の彼とのプレイにもよく合うような気がした。
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