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14. 偶然は二度ある
しおりを挟むそんなことを軽く説明していると、クラブハウスサンドを大きな口を開けて食べていた東雲が気遣わしげに眉を寄せた。
「でも、まだ万全じゃなさそうですよ? 目の下にうっすらと隈が残ってますし」
「本当ですか? はは……昨日でだいぶマシになったと思ったんですけどね。これで美術館をうろついてたなら、ちょっと恥ずかしいな」
目の下の隈は今朝、鏡で見たときに気がついてはいた。綾春は曲がりなりにもデザイナーなので、そういうところは目敏いほうだ。とはいえ、パッと見ではわからない薄いものだったし、メンズ用のファンデーションで誤魔化してきたのに。
そんな綾春の戸惑いに気づいたように、東雲は穏やかな笑顔を浮かべて言葉を返した。
「大丈夫ですよ、よく見ないと気づかない程度ですから」
東雲も細かなところに目が行くタイプらしい。
彼も陶芸家——言わば、器のデザイナーだ。些細な変化に目が向いてもおかしくないかもしれない。
そんなことを考えていると、東雲は他愛のない世間話を振ってくる。
「この後もここら辺を散策するんですか? 今日は天気も良くて暑いから、体、キツくありません? ドロップ明けって大変って聞きますし」
「あはは、そんなにひ弱じゃないですよ。それに今日はもうそんなにうろうろする予定もないですし。このあと、どこか店に寄ったら帰ろうと思ってるんで」
「店?」
「プレイできるところを探そうかと……あっ、いや……まあ、はい……」
ついうっかり口を滑らせてしまい、綾春は慌てて口を噤んだ。
DomやSubの間では、プレイバーや店に行くことは特段恥ずかしいことでも疚しいことでもないのだが、明け透けすぎるのもどうかというのはある。店によっては性的接触があるので「ヤリにいく」と言っているのに等しく思われることもあるのだ。
最近どうにも気が緩んでいるなと思っていると、不意に僅かな威圧感が肌を撫でた。
「……え……っと、東雲さん?」
「え? あ……!」
それはほんの数秒の出来事だった。
けれどたしかに綾春は感じたのだ。東雲から漏れ出た、僅かなグレアを。
「す、すみませんっ、久慈さん。今の、気持ち悪くなりませんでした?」
「あーいえ。大丈夫です。もしかしなくても……今、うっかりグレア出してました、よね?」
「はい。マナー違反でしたよね、申し訳ないです……」
どうやらそれは無意識のようだったらしく、東雲もハッとした表情で口元を押さえていた。
そして、何かを考えるようにして「うーん」と小さく唸り、ぱちぱちと瞬きをしている。
「いえいえ。数秒でしたし、よくあることですよ。それに、この店に俺以外、Subはいないようなんで安心していいと思います」
綾春は店に入るときに店内をサッと見渡していて、店員にも客にも、DomやSubはいないのは確認済みだ。綾春のあとに来店した客は東雲しかいないし、店員の顔ぶれも変わっていない。
自分たちが座っているのは窓際に面したテーブル席だが、茹だるような暑さの外気はぴっちりと窓で遮断されているので、今のような短時間のグレアが外へ漏れ出るような心配もないだろう。
「俺もこのとおり平気なんで、気になさらないでください」
幾分トーンを落とした声量で伝えれば、東雲はほっとした表情でアイスコーヒーに口をつけた。「やってしまった」という申し訳なさと同時に、なぜだか戸惑いや困惑のような雰囲気が混じっていて、綾春はそれが気になった。
グレアをうっかり出してしまうのは、コントロールをしっかりと身につけた大人でも時折あることだ。
感情が昂ったときや、反対に体調が思わしくないときなどに瞬間的にグレアを出してしまうことがあるらしい。先ほどの東雲も理由は定かではないが、うっかり漏れ出てしまっただけだろう。出たグレアはごく僅かなものだったし、数秒後には収まっていた。
東雲は、Subの綾春を心配して申し訳なさそうにしているが、今のグレアで倒れるような人はそういない。
けれど、彼はSという稀少な高ランクDomなので、グレアの扱いには人一倍気にかけているのかもしれないとも思った。
「ほんと、すみません。いや、でも……まさかな……」
問題ないと伝えたが、それでも東雲は何度も「すみません」と頭を下げる。
と、同時に何かを考え込んでいる様子だった。
「久慈さん、つかぬことをお訊ねするのですが……さっき俺、本当にグレア出してましたよね?」
東雲は困惑した表情を浮かべながら訊ねた。
「え? あー、はい。でも本当に一瞬でしたし、そう謝らなくても大丈夫ですよ。こんな近距離にいた俺もこうやってピンピンしてますから」
「いや、そうじゃなくて……ああ、いや、それはそうなんですけど……」
たかが数秒グレアを出してしまっただけで、こんなに焦るDomは珍しいなと思う。
世の中には、高圧的で傲慢なDomがいる一方で、紳士的なDomもいる。そういう人が意図せずグレアを出してしまったら正しく頭を下げたり、近くのSubを慮るのはある話だ。先日の態度や対応からみても、彼は圧倒的に後者のDomで、傲慢さとは無縁のような人物なのは綾春も察している。
だがそれにしても、こんなに自分がうっかりグレアを出してしまったことに過敏になっているのは、不思議だった。
それとも、自覚がないだけで綾春がかなり顔色が悪くなっていたり、体調が悪い素振りを見せていたりしているのだろうか。
サブドロップ明けなので、思っている以上に自分に対する認識が甘かったのかもしれないなと思っていると、東雲が不意に背筋を伸ばした。そして、意を決したように口を開く。
「久慈さん、このあと、俺に付き合いませんか?」
東雲は、黒曜石のような瞳を真っ直ぐに向けて綾春に告げた。
「あー……えっと。それは東雲さんからプレイのお誘いを受けている、ってことであってます……か?」
「そうです。久慈さん、このあとは店に行くって言ってましたよね。それから先日はプレイ不足だとも。その相手、俺じゃダメですか?」
決して大きな声ではなく、綾春の耳にだけ届くような声量で……けれど、はっきりとした口調で東雲は言った。
(ダメって……そりゃあ……ねぇ。俺たち、仕事の関係でしかないんだし)
今までも綾春は、取引相手からプレイの勧誘を受けたことはある。
DomもSubも絶対数がどうしたって少ないので、職場恋愛だけでなく、仕事上の繋がりを伝ってプレイ相手を探そうという行為は——強引でない限り——そう悪い手ではない。プレイにしても、恋愛にしても「上手くいかなかったとき」のことを考えると、そう安易に踏み込むものではないと思うけれど。
それでも、恋愛ごとよりも単なるプレイ相手のほうが割り切れると考える人もいるので、むしろ二次性保有者界隈では、友人知人という関係から、恋人でなくともプレイパートナーになる流れはあるあるだ。
まあ、そういう人がいるという話だ。
綾春はよっぽど気になる相手でない限り、その手の誘いは断ってきた。恋愛ごとにせよプレイにせよ、トラブルに巻き込まれるのはごめんだからだ。
(でも……)
なぜだろう……目の前の男からの誘いを断ろうという思考が働かない。
先ほどのグレアにあてられたのだろうか。
「…………軽いプレイで、よければ」
気づけば、そう返事をしていた。
なぜかはわからない。あえていえば、ただ単純に、東雲蓮哉という男に興味を惹かれてしまったのかもしれない。
——二日前に浴びた強烈なグレアを、もう一度浴びることができるのではないか。
そんな思いが脳裏をよぎっていた。
「ありがとうございます。では食べ終わったら出ましょう。あ、ここ、俺が出しますから」
しっとりとした声色で返されると、綾春の鼓動はどくどくと脈を打った。
まるで覚えたての恋に翻弄されるがごとく。あるいはプレイに飢えた獣のごとく、体温が上がる。
それから他愛のない話をしながら綾春はボロネーゼを、東雲はクラブハウスサンドを平らげて、二人で店をあとにした。
せっかくのボロネーゼの味は、あまり覚えていない。
◇◇◇
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