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09. 偶然の引き合わせ #

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「そこの人、離してもらえます?」

 ぐるぐると回る視界に、もはや目を開けていられなかった綾春の耳に、心地の良い低音が響いた。どこかで聞いたことのある声だ。——この声の主は、誰だったか。

「は? あんた、この人の何?」
「それ、そっくりそのまま返すよ。その人、きみと一緒にいた人じゃないよな。サブドロップ起こしかけてるの、気づいてない? DomならSubの状態くらい見抜けよ。まあそもそもパートナーだろうとなかろうと、Subをドロップさせるなんて、Domの風上にも置けないけど。ナンパした相手をサブドロップさせて持ち帰ろうだなんて、低俗もいいとこだな」

 無作法な男が怪訝な態度を示すと、声をかけたらしき低音の男も丁寧な口調を崩して詰め寄っているらしい。綾春は目を閉じているので、頭上で睨み合う二人の男がどんな表情をしているか、わからなかった。
 ただ話を聞く限り、助けに入ってくれた男もDomのようだ。

 サブドロップ中の綾春はぐわんぐわんと頭の中が揺れて、会話のほとんどが耳に入ってはきても、意味をなす前にすり抜けていってしまっていたが。

(……あー……まずい……。これ……意識、落ちそう……)

 苦しい。怖い。逃げたい。苦しい。息ができない。つらい。気持ち悪い。怖い、怖い、怖い……。
 気持ち悪い男からのコマンドとグレアに、体が危険信号を出している。途中で現れた低音で話す男に威嚇しているのか、無作法な男がグレアを強めたので、その余波を綾春はもろに食らっていた。とにかくこの場を離れたい。

 だが、サブドロップに陥っているため、蹲って震えることしかできずにいた。すると——。

「さっき言ったの、聞こえなかったか? 離せって言ってんだよ」

 低音ボイスの男が言葉を紡いだ瞬間、ぶわりとその場の空気が膨張するのを感じた。圧倒的な威圧感だった。

 助けに入ったらしき男がグレアを放ったのだろう。綾春に最初に声をかけたDomとは比べ物にならないほどの、強力なグレア。
 あまりにも強いグレアに、綾春の体が一瞬跳ねる。それに負けじと絡んできた男もさらにグレアを強めたので、二人分のグレアが綾春の体を襲い、ガクガクと体が震えた。

「う……ひ、ぁ……」

 サブドロップ中にグレアをこれだけ浴びるなんて、いよいよまずい。
 痛みの止まない頭で、この場から離脱する術をどうにか思考しようとするが、「気持ち悪い」や「つらい」ばかりが占めてしまって、その気持ちに呼応するように体の不調は増すばかりだ。
 空気はいっそう重くなって、もともとまともにできていなかった呼吸がより乱れていった。

 けれど、その数秒後——不思議な感覚が綾春を襲った。

(あ、れ……? なんだろ、これ……)

 強いグレアを浴びて、恐怖に身が竦んだのに、なぜかその中に安心感のようなものを感じたのだ。
 この存在を放つ主になら屈してもいい……屈したいというSubの欲求が疼いた。二人分のグレアを近距離で浴びて、こんなにも苦しいのに。

 苦しくて、苦しくて、息が止まりそうなのに、その苦しさがなぜだか心地いい。

「くっ……なんだよ、こんな高ランクのDomがいるなんて……! なんつーグレアだよ、くそっ……!」
「通報されないうちに、さっさと去れ」
「ちっ……」

 綾春が不思議なグレアにあてられているうちも、男たちは言葉を交わしていた。
 だが、最初に声をかけてきた無作法者のほうがDomとしてのランクが低いようで、グレアでの力量に押し負けたのだろう。舌打ちをしながら、その場を去っていったようだった。

「……はぁ……っ……、はっ……」
「っと、すみません。グレア出しっぱなしだ」

 周囲を覆っていたグレアが一人分減り、幾分息がしやすくなった綾春は、必死になって息を吸った。
 その様子に声の主が慌ててグレアを収めてくれ、ようやくその場の威圧感がすべて消える。

「久慈さん、大丈夫ですか? って、全然大丈夫ではなさそうですけど」
「ぁ……ぇ……」
「ドロップ起こしかけ……いや、もうサブドロップしてますよね。俺の声、聞こえますか? まずいな……俺、かなり近くでグレア出したよな……」

 酸欠で朦朧としている頭をなんとか上げて、目を開ける。

(……東雲、さ……ん……?)

 目の前には、約ひと月ほど前に見た陶芸家・東雲蓮哉が心配そうに綾春を覗き込んでいた。

「あ、よかった。まだギリギリ意識ありそうで。俺のこと覚えてますかね? 久慈さん、触っても大丈夫ですか? あ、もしかして黙る系のコマンドもらっちゃったのか……」

 色々訊ねられるが、口を開けては躊躇う綾春の状況に気づいたのか、東雲はふんわりと穏やかな笑みを浮かべて言った。

「もう喋って大丈夫ですよ。動いても大丈夫。ほかにも、さっきのやつの言うことは聞かなくていいですから。Good boyいい子ですね、久慈さん。辻さんたちには説明しておくので、あとは任せて、少し眠ってください」
「あ…………ぅ、ん……」

 最後の言葉にコマンドは乗っていなかったようだったが、綾春は『眠ってください』という言葉に安堵して、あっという間に意識を眠りの世界へと飛ばした。目を閉じる前、「東雲さん」と口にできたかは、わからなかった。



 ◇◇◇



 蓮哉は、ベッドに横たわる蒼白な青年の顔をじっと見つめていた。
 病室の設けられたベッドには、先日蓮哉のもとへ仕事の打ち合わせにやってきたインテリアデザイン会社の社員、久慈綾春が眠っていた。

「初対面のときにSubだとは気づいていたけど、まさかサブドロップの場に出くわすとはな……」

 久慈が自分の二次性と対をなすSubであることに、蓮哉は初めて顔を合わせたときに気づいていた。それはおそらく久慈も同じだろう。

 蓮哉の見立てだと、彼のランクはおそらくA。
 中学入学と共に実施されるダイナミクス検査のときに下った「Sランク」という判定の蓮哉より、一つ下のランクをもつSubだと見抜いてからは、言葉選びにはかなり気を遣ったし、万が一にもグレアが漏れないように細心の注意を払った。まあ、蓮哉がグレアを出すのは非常に稀なのだが。

 ともかく、人知れず蓮哉が苦心した甲斐もあってか、久慈たちとの顔合わせは上手くいった。さらには新作の器を気に入ってくれて、その面倒も見たいと打診をしてくれた。世辞だとはわかっていても、自分が作る器のファンだと言われて嬉しくも思った。——彼のきれいな瞳は、信じるに値すると思った。

 それから仕事で何度かメールでやりとりをしていたが、まさか彼がサブドロップしたところを助けに入るとは想像していなかった。まあそれは久慈も同じだろうけど。

 あのあと、店内にいた辻ともう一人の同僚——中井と名乗った——に事情を説明して、タクシーを呼んで綾春を抱きかかえ、D/S用の救急外来がある病院にやってきたのは、つい数時間前のことだ。
 夜九時を過ぎた頃から降り出していた雨は、タクシーを呼んだときにはザーザーと強い雨に変わっていて、辻が持っていた折り畳み傘で久慈を守りながら、なんとかタクシーに乗り込んだ。病院に着いたときも、二人と協力してなるべく久慈を濡らさぬように配慮した。

 同僚と蓮哉が気を配った甲斐もあってか、久慈は今、呼吸も安定して眠っている。引き起こしていたサブドロップは大事には至らなかったようで、早期に治療を受けられたことも良かったようだ。

「ひとまず、俺のほうも何ともなくてよかったけど……。にしても久慈さん、顔色がかなり悪い。この感じだと、プレイ不足もあるっぽいよな」

 ベッドサイドのチェスト上に置かれた時計は、夜中の三時を回っている。
 もしかしたら、今夜はもう目が覚めないかもしれないなと思いながら、久慈を見る。

 蓮哉がここに残っているのは、久慈のためを思ってだ。
 久慈が意識を失う前に簡単なケアをしたのが自分だったので、蓮哉はDomとしての責任感もあって、久慈の付き添いをしていた。可能なら残ってほしいと医者に言われたこともあるし、蓮哉自身も異なが起きた自分の体をチェックしてもらうために残った部分もある。

 眠る久慈に点滴が打たれている間に、蓮哉も医師の診察を受けて、自分に関しては問題ないとの診断を貰った。

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