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08. 飲みすぎは禁物 #
しおりを挟むこの店のトイレは個人店にしてはしっかりとした造りになっていて、男女それぞれに分かれている。
女性側を見たことがないが、男性側には個室が二つと手洗い場が一つ。この規模の店なら十分過ぎるほどの広さだ。それが店の奥に設けられていた。
綾春たちが座っていたテーブルはもちろんのこと、どの客席からもトイレ内へ続くドアが見えないように壁で仕切られているので、衛生的かつ視線に配慮した構造になっている。
(ちょっと飲みすぎたかな……)
ぼんやりとしながらも用を済ませて、綾春は手を洗った。
オーナーの心配りか、手洗いカウンターの脇にはペーパータオルのほか、普通のティッシュと爪楊枝、使い切りのマウスウォッシュも置いてあった。
自分のほかにトイレ内に客はいないので、ゆっくりと手を洗いながら前に掛かった鏡を覗いた。
やはり、ここ最近の疲労がうっすらと滲んでいる。
アルコールは比較的強いほうだし、酒も好きなので調子よく飲んでしまったが、昨日は抗不安薬も飲んだのだ。もう少し自重すべきだったか、と今さらながら思う。
酒が程よく回っているので、頭も少しだけふわふわしている。それでいて、だんだんと眠気を帯びてきてもいた。まだ体調に問題はないし酩酊しているわけではないが、少しだけ羽目を外しすぎたかもしれない。
(今夜はもう、これ以上飲まないほうがいいな)
席に戻ったらノンアルコールのものに変えようと決めて、マウスウォッシュを一つ貰って口の中を濯いだ。口の中がさっぱりすると頭も少しシャキっとした。
左手首にしたスマートウォッチを見れば、そろそろ夜の十時。明日も仕事だと考えるとまぁまぁいい時間だ。パエリアを食べ終わって少ししたら、解散するのもいいだろう。
カウンター下のゴミ箱へ、空になったマウスウォッシュのパッケージと手を拭いたペーパータオルを捨てて、綾春は店内へ続くドアを開けた。
と、ちょうど入れ違いに同い年くらいの男性とすれ違った。「Domっぽいなぁ」なんて思いながら、席へ戻ろうと足を踏み出したときだった。
「……ちょっとお兄さん。Stay」
「え……。ぁ……」
すれ違いざまに声をかけられ、グレアを感じ取った次の瞬間。
綾春の体は、突如放たれたコマンドに勝手に反応して、一歩も動けなくなっていた。
(や、ばい……無防備すぎた)
男性が放ったグレアを至近距離でもろに受けてしまったからか、軽くコマンドを言われただけなのに、綾春のSub性が本能のままに従い、動けなくなる。なんとか視線を上げると、男が嬉々とした表情で近づいてきた。
背丈は綾春と同じくらいなはずなのに、男がやたら大きく感じられた。
「やっぱお兄さん、Subだよね。俺、店来たときからずっと気になっててさ。すっげータイプだし、俺たちと一緒に遊んでほしいなーって。お兄さんの連れ、どっちもNormalでしょ? 俺、一緒に来てるやつもDomだから、二人で遊んであげられるよ」
「……断る。ほかを当たってくれ……」
無作法に近寄ってきた男に、壁際に押しやられながらも、綾春はなおも自分の意思では動けずにいた。相手の同意なくコマンドを使うDomなんかに従いたくないのに、一度受け入れてしまった体はなかなか綾春の意思を汲み取ってくれない。
男は見た感じ、綾春よりはランクの低いDomだ。よく見積もってBにギリギリ届くか程度なので、Cと見るのが妥当だろう。Aランクの綾春なら、ちょっとグレアを当てられたからといって、いつもはそう易々とコマンドを受け入れたりはしない相手だ。
ただ今日は残業続きの疲れた体にアルコールも入れてしまっていたので、いつもよりガードが緩くなっていた。Domとすれ違うとわかったときに、もっと警戒しておけばこんなことにはならなかったのに。
「えー、なんで? いーじゃん。お兄さん、欲求不満そうな顔してるし。お互いプレイして気持ちよくなっちゃおーよ」
「っ、申し訳ないけど、あんたは趣味じゃないな……。それ以上近づくなら、人を呼ぶ——」
「あーだめだめ、Shush。助けなんか呼ばれちゃ興醒めっしょ。お兄さんの答えは一つだよ?」
コマンドに逆らうようになんとか後ろ手に壁に手をつき、グレアの威圧で竦む体を預ける。そうすることで、なんとか頽れずに済んでいるが、かなりまずい状態だと綾春の理性が警鐘を鳴らしていた。
「俺たちと一緒に遊ぼ? あんたは『うん』って、頷けばいいんだよ」
「……っ」
コマンドで声と身動きを封じられた綾春の顔を男が覗き込んでくる。「うわっ、やっぱ近くで見てもタイプ」だなんて褒められても、まったく嬉しくなかった。
求めていないグレアとコマンドに、本能と心身のバランスが徐々にずれていくのを感じていた。
頷けと命じられているが、そこにコマンドは含まれていない。それでも綾春の本能はDomの命令に従いたいと暴れていて……けれど、綾春は絶対に従いたくなかった。
——こんな無作法で軟派なDomなどお断りだ。
だが、〈Shush〉や〈Stay〉のコマンドに体は従い続ける綾春は、男を拒否する行動が取れずにいた。口や足を動かしたいのに、その簡単な動作をすることを本能が良しとしてくれない。
完全にコマンドが効いている姿に満足して、男はニヤリと笑った。
「遠慮しないでよ。ねっ、ほらCome」
「…………ぁ、……っ」
——これ、ダメだ。
グレアを浴びせられながら、三つ目のコマンドを命じられた瞬間、体がずしっと重くなった。そして体中を気持ち悪さが駆け巡る。
(まずい……ドロップしそう……)
Dropとは、Subに起きるバッドトリップのようなものだ。頭痛や吐き気など体に良くない影響が出て、精神的にもどうしようもないほどに不安な状態に陥る症状のことを指す。ドロップすると極度の精神不安になるため、早急に処置しないと重篤な症状が出たり、自死などに走る場合もある危険な状態である。
別名Sub dropとも言われるそれを、綾春は起こしかけていた。
「は、っ……ぅ……」
急激な目眩と吐き気、それに呼吸が浅くなる。
いよいよ立っていられなくなって、ガクンっとその場に膝をついた。
サブドロップする原因は様々だが、今の綾春のように、信頼したわけでもないDomからグレアやコマンドを過剰に受け取ることで陥る場合もある。まして綾春は、ここ最近の体調が万全ではなかった。
求めていない過度なコマンドに、体が拒否反応を起こしたのだ。
(うぇ、ぇ……気持ち悪い……。頭ん中、ぐるぐるしてる……)
〈Kleel〉と命じられたわけでもないのに立ち上がれず、綾春は蹲り続けた。
しかし、それを何を勘違いしたのかDomの男は嬉しそうに笑って、より強くグレアを放った。
「命じてもないのにお座りなんて、偉いねぇ」
「ぅ、ぁ……」
「ははっ、ちょっとのコマンドでへろへろだ。高ランクっぽいのに、やっぱDomには服従したくなっちゃう? 俺、お兄さんみたいな素直な子は好きだよ」
Subは褒められたら褒められただけ喜びを得る生きものだが、この男からの『偉い』も『好き』もすごく不快で、いっそう吐き気が増す。
けれど、そんな綾春などお構いなしに、無作法なDomは綾春の腕をガッと掴んで、無理やりに立ち上がらせようとした。
——離せ。
その単純な一言が言いたいのに、言えない。
体が言うことを聞かない綾春が、なす術なく男の思うがままにされかけていると——不意に、足元に影が落ちた。
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