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07. 神楽坂は雨模様

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 翌日の夜——。
 青山のオフィスを出たときには星も見えてた空模様だったが、地下鉄を乗り継いで神楽坂に着く頃には、薄雲が広がり始めていた。
 もしかしたら今晩遅くにでも、一雨くるかもしれない。
 そうと思いながら、綾春たちは辻が予約してくれたスペイン料理店を訪れた。店内に入るや否や、客の賑やかな話し声が耳に届いてくる。

 今夜は綾春と辻のほか、綾春もよく知る先輩社員との三人でスペイン料理を堪能することになった。

 平日の木曜日。夜の八時半を回っているが、店はほぼ満席に近く、オーナーの男性は料理を作りながらカウンターに座る馴染みの客だろう男女のカップルと話をしている。テーブル席の間をすり抜けるようにして、大学生くらいのホールスタッフの女性が注文を取ったり、料理を運んだりしていた。

 辻と先輩に注文を任せて、綾春は失礼のない程度に店の内装や家具を観察した。もはやこれは、インテリアデザイナーとして働く綾春の癖だ。職業病とも言うべきか。
 半年前に来た時とさして変わらず、格式ばらず、かといって庶民的というよりはワンランク上の雰囲気にまとまった良い内装だ。この店の内装を手がけたデザイナーは随分とセンスが良いな、と嫉妬とも尊敬とも取れる気持ちで店内を見回していた。

「おっ、綾春の悪い癖がまた出てるな。仕事熱心ともいうか。まぁ飲め飲め、お前ら最近残業続きだろ」

 しばらくして運ばれてきたボトルからグラスに白ワインを注ぎながら呆れたように話すのは、綾春と辻の先輩である中井なかいかなめだ。チャラいと思われない程度に暗めの茶色に染めたショートの髪にパーマをあてている、オシャレな雰囲気の男である。
 中井は「お疲れさん」とグラスを傾けて、豪快にワインを煽った。そのままピンチョスを食べ、再びワインを流し込んでいく。見た目や雰囲気通り、気さくな性格の人物だ。

 中井と綾春は、年こそ三つ離れているが気が合う。会社では先輩と後輩として一種の上下関係があるのだが、大学時代からの付き合いで、プライベートでは悪友のような関係でもあった。

「それで? お前が預かってきた例の器、お眼鏡に適ったプロジェクトはあったのか?」

 ハモンセラーノにバケット、パタタス・ブラバスなどを適当につまみ始めたところで中井が話を切り出した。

「いや、どうもこうも。あの器が生きる場所を見つけたいんだけど、イメージに合う案件がさっぱりでさ」
「ほぉー。そんじゃ辻がもっと仕事取ってくるしかねぇな」
「ちょ、中井さんっ、そりゃないっすよー。俺が担当してる新規案件、久慈さんがぜーんぶNG出してんすから! これでも俺、営業部では期待のエースなんすよぉー? 久慈さんに、相当の数の案件見せてんすよぉー?」

 ぎゃあぎゃあと文句を垂れる辻に中井は苦笑しながら、まぁまぁと宥めるようにワインを注ぐ。ボトルで入れた白ワインは酒好きの男三人——特に中井は酒豪だ——によって、あっという間になくなっていった。

「まぁでもこいつ、見る目だけは確かだからなぁ。綾春が無しっつーんなら無しだな」
「そーそー。俺が無しって言ってるから無し無し。無駄口叩く暇があったら新しい案件、取ってきてくれよ」

 中井の言葉に便乗すると、辻は「うぇーん」と嘘泣きしてみせた。若くて可愛い女子か、あどけない子供がやるならともかく、二十代半ばの男の嘘泣きはまったく可愛くない。
 面倒くさいので構わずにいると、辻は綾春から反応がないので早々に嘘泣きを切り上げて、わざとらしくため息混じりに口を開いた。

「もうー……実際、俺、結構案件見せてんのは本当ですからね。営業部のほうでもかーなーりー融通利かせてもらって、いろいろ出してもらってきてるんすからぁー」
「はいはい、わかってるって。でもイメージに合わないものは合わない。仕方ないだろ」
「まーまー。綾春もそう苛々すんな。辻だってちゃんと手伝ってくれてんだろ? 俺も何かあったら協力するし。そう遠くないうちにいい案件に巡り会えるって。焦りすぎは余裕なくすぞ」
「ですです。俺も頑張るんで! なんで明日も仕事っすけど、今日はパーっと飲みましょ。店員のお姉さーん、すみませーんっ!」

 声をかけられた女性店員はちょうど厨房から料理を受け渡されていたところで、「今行きまーす」と元気な声を返しながら、両手に料理の盛られた皿を一つずつ手にしていた。

(焦んなって言われてもな……。三週間以上ほったらかしなのは、自分から言った手前、悪い気がするだろ)

 店員が運んでいる料理のうち片方を別のテーブルに運んでいる間、辻はにこにこと笑いながらメニューを眺める。綾春はといえば、悶々としながらも残っているハモンセラーノに手を伸ばした。昨日、無理やりに消した焦りや不安が再び心に戻ってくるのをうっすらと感じていた。

 綾春が人知れずため息をついていると、ほどなくして料理を片手に店員がやって来る。

「お待たせしました。こちら、ご注文のイカのフリットです。追加のご注文も承りますね」
「はーい、どうもー。えーっと……お二人とも、次は赤でいいです?」

 少し前に頼んだフリットをテーブルに置きながら、店員が愛想良く注文を取る。それに辻は答えるようにしつつ、綾春たちに飲み物や食べ物の確認をしていった。
 綾春は特に嫌いなものはないので、中井と辻に任せて、ぼんやりとしながらワインと料理を口にしていた。一方で、中井はどうやら飲みたい銘柄の赤ワインがあったらしく、辻が持つメニュー表を指さしている。

「じゃ、この赤ワインをボトルで一本と、あと今日のおすすめにあるスペイン豚の煮込みを一つ。あーあとそれから、夏野菜のパエリアも!」
「かしこまりましたー」

 手元の伝票にささっとメモをしていく店員に「お願いしまーす」と返しながら、辻はメニュー表をテーブルの裏側にあるメニュー入れへと戻す。その仕草を見て、綾春はテーブルをつぅーっと指で撫でた。
 テーブル上を広く使える工夫が施されたこの家具は、何気ないものだが心地の良いデザインだと思う。

(こういう、ちょっとした心遣いというか、客が不便を感じないことにこだわってる店があの器に合うと思うんだよな。でもこの店よりも、もっと若い雰囲気で、もうちょっと明るい照明を使った内装で……どっちかって言うと女性的な感じで……)

 なおもテーブルの表面を人差し指でなぞり、料理が乗ってる器をしげしげと見つめていると、先ほど辻が注文した赤ワインのボトルが届いた。

「うーん、ほんといいセンスしてる」

 よく磨かれたワイングラスに、中井が豪快にワインを注ぐ様を見ながら、綾春は呟いた。

「なになに、俺のセンスがいいって? だろだろ」
「いや、そうじゃなくて。この店、いろいろとセンスいいなって話」

 料理も美味いが、使われている食器やカトラリー、グラスも店の雰囲気にしっかり合っている。内装とインテリアも調和がとれていて、こういった空間を作れるデザイナーはすごいと思うし、刺激になる。

 オーナーや店員の為人ひととなりが、さらにこの空間を心地よいものにしているのが感じられ、ついついお酒も進んでしまうというものだ。
 客ファーストではありつつも、きちんと商売へのアプローチもできている良い店だと、綾春は改めて思った。

(やっぱり妥協はよくない。俺はあの器に見合った場所を見つけたいんだ。それなら、とことんやらなきゃな)

 良いものに触れて、目にしていると、さっきの不安が少しだけ和らいだ。

 自分で「任せてほしい」といった手前、いまだ次の一歩を踏み出せてもいない状況に、焦りと不安が完全に無くなるわけではない。だが、それをバネにして納得いくものを見つけようという気合いが入った。

「はー、お前ってやつは。オフの時間くらい仕事から離れればいいのに。なぁー、辻ぃ」
「ですね! でもそれが久慈さんらしいっていうか。あー、仕事もできてイケメンなんて、やっぱずるいっ!」
「ほんとほんと、神様は不公平だよなぁー」
「いやいや、中井さんも方向性違うけどイケメンですからっ!」

 辻と中井がわいわいとはしゃぐのを見ながら、綾春もようやく仕事のことを少しだけ頭の片隅においやって、話に花を咲かせることにした。

 次々と届けられる料理に舌鼓を打ちながら、最近観た映画や海外ドラマ、辻の恋愛話——絶賛彼女募集中で婚活に勤しんでいるらしい——に話を弾ませる。時間も仕事も忘れて楽しむうちに、赤ワインのボトルはいつしか二本目になっていた。

「あ、俺ちょっとトイレ」
「はーい。奥のほうっすよー」

 辻がパエリアをそれぞれの皿によそってくれていたところで、綾春は辻と中井に断りを入れて席を立った。

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