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05. 夜遅くの青山

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「久慈さん、この案件ならどうです?」

 午後九時。
 定時を過ぎたオフィスで綾春が自席で作業を進めていると、辻がダブルクリップで留めた資料を持ってきた。その資料をささっと見て、綾春はため息をつく。そして、バサリと資料を机に置き、一蹴した。

「無いな。イメージに合わない」
「うへぇ、手厳しー! でも、これでもダメってなるといよいよ候補もないですよ。一から案件探すくらいしかないですってー」

 それが営業の仕事だろうと辻を睨むが、この男にこの手の視線は通用しないのを思い出して、再度ため息をついた。

 陶芸家・東雲蓮哉の新作を預からせてもらって早三週間。
 綾春が一目惚れした新作の器に見合う場所はないかと、タキデザインで手掛けたことのある店舗やホテル、新規の案件まで洗ってみたが、自分が納得できるものはなかった。営業部の辻に絶賛営業中の、今後獲得できそうなプロジェクトも見せてもらったが、それもイマイチ。
 任せてほしいと豪語した手前、やはりありませんでしたとは言えない。言いたくもない。

(早く良い案件を見つけないと……)

 はじめのうちは、綾春自ら社内のプロジェクトや資料を漁れるだけ漁っていた。だが、自分が抱えている仕事に追われ始めたので、ここ最近は辻にいろいろと案件を探ってもらっている。そうしていると、やはり営業の血が疼くのか、こうして綾春の琴線に引っ掛かりそうなものを見せに来る。
 しかし、パッと見ていいなと思えるものがないのが現実だった。

 辻には厳しくあたることもあるが、これでも綾春は営業としての辻に一目置いている。人好きする笑みと、後輩力ともいうべき人懐っこさが営業の強みになっているらしく、他の人が取ってこないような案件を持ってくることもあるし、情報通な面があるのだ。
 その辻に手伝ってもらってなお、東雲の新作に適う場所が見つからないというのは、相当に焦りと不安が掻き立てられる状況ではあった。

「これ、いい案件だと思うんすけどねー」
「案件自体に文句はないよ。てかそれ、うちのチーフも張り切ってるやつだし。でもあの器のことを考えると違うんだよなぁ」
「んー、そうっすかー……」

 ふぅ、とため息をついて資料を机の脇に置き、綾春はもともと見ていた資料を手元に引き戻した。最近ため息が増えたな、なんて思う。

 綾春が終業の定時時間を過ぎてもオフィスに残っていたのは、先日東雲にも話をした湘南のホテルの作業を進めるためだった。それに加えて綾春は今、この他にも幾つかのプロジェクトを抱えている。
 いつもなら余裕で回せる量なのだが、各プロジェクトでちょっとしたトラブルが同時期に起きてしまい、この最近は残業続きだった。

「てか久慈さん、ちゃんと寝てます? ここんところ顔色悪いっすよ」
「あー……まあ、それなりにはなー」  
  
 顔を覗きこんで心配そうに声をかけてきた辻にそう返しながら、綾春は欠伸を噛み殺した。

 辻には適当に返したが、実のところあまり眠れていない。疲れもまったく取れていない。
 この一、二週間は目の回る忙しさで、日付が変わる頃に帰宅した日もあり、家に帰ってもシャワーを浴びて寝るだけになっている。本当なら帰宅後、ゆっくり湯船に浸かって仕事の疲れを落としてから、サブスクの動画配信サービスで映画を観たり、本を読んだり、思いついた家具のデザインを描いたりする時間が好きなのに。
 さらに、帰宅したらなるべく早く眠ろうと準備をしてベッドに体を横たえるのだが、直前まで仕事をしていた興奮のためか寝つきが悪かったり、眠っても睡眠が浅くて目が覚めてしまう日々が続いている。

 若いながらにサブチーフとして多くの仕事を任されるのは嬉しいし、やり甲斐もある。だがそれにしても、忙しすぎて体に負担がかかっているのは否めない。

 ——心身ともにストレスが溜まっているのは明らかだった。

 けれど、仕事を休むほどの不調ではないと思う。だから綾春は心身の不調を頭の隅に押しやって、こうして今日も残業をしていた。

「まぁとにかくだ。妥協してイメージと違うところにあの器を紹介したくない。辻には悪いけど、もう少し案件探ってもらえないか?」
「うぃーっす。まあ俺も久慈さんのセンスは信じてるんで、半端なことしたくないの、わかります。同期にもいいのあるか、もいっかい聞いときますねー」
「サンキュ。助かる」
「いえいえー。あ、そんで湘南のホテルの件なんですけど——……」

 辻が残っているのも仕事のためだ。新作の器に見合う候補探しは本題ではなく、他に打ち合わせることがあって彼は綾春のもとへやってきた。
 だが、辻の言葉に耳を傾けたところで、急に耳が遠くなった。軽い目眩に視界が歪む。

 ——あ、これ、まずいな。

 そう思って、綾春は辻の会話を遮った。

「っ……。悪い、ちょっと水取ってくる」
「ん? あ、はい。俺持ってきますー?」
「いや、大丈夫」

 辻の笑顔にひらっと手を振って自席を立ち、ふらつかないように注意しながら執務室の一角に置かれているウォーターサーバーへと向かった。この時間だから、フロア内は閑散としている。天井の蛍光灯も、綾春たちと同じように残業をしている人がいる一部のみが点いているだけだ。

 薄暗がりの中、サーバー横から紙コップを取って水を注ぐ。チノパンのポケットからピルケースを取り出し、中に入れてある錠剤を一錠煽って水で流し込んだ。

「…………はぁ」

 顔色の悪さを辻に指摘されたからか、それとも「また良い案件が見つからなかった」のが不安を煽ったのか、意識しないように努めていた体が急激に不調を訴え始めていた。

(まずいな。不安と焦りが、いよいよ体にもろに出てきたやつだ……。でも今週は休めないんだよな……。薬だけで持つかな……)

 今しがた飲んだのは、Subの不安を抑えるための薬——Sub用抗不安薬だ。
 Subはその欲求の性質ゆえか、メンタル面のストレスや不安と相性が悪い。そのためメンタル不調や疲労を抱えすぎないように意識をしているのだが、忙しい現代社会で暮らしている以上どうしたって限度がある。
 メンタルがやられると、こうして体調にも影響が出てくる。だから完全にダメになる前に抗不安薬を服用するのだ。

 このほか、綾春は毎朝一錠、Sub用の抑制剤も飲んでいる。Subの服従的欲求を和らげるための薬だ。それとは別に、どうしようもないときにだけ頓服する強めの薬も持っている。
 Subの欲求は本能的かつ生理的なものなので、適切かつ適度に満たしてやるべきなのだが、様々な事情で満たしてやれないことがある。パートナーがいなかったり、時間がとれなかったりと、いろいろだ。そういうSubは、市販薬ないし病院で処方された抑制剤を飲む。

 難儀な体だと思う。
 抑制剤と抗不安薬がなければ、憂いなく暮らすことができないのだから。

 抗不安薬にしても抑制剤にしても、Subの判定が下ってから逃れられない宿命のようなものだ。
 しかし、どんなに抑制剤を服用していても、こうしてストレスが溜まったり本能を満たせぬ期間が長くなると心身に影響が出る。より不安が強くなれば自傷に近い行為に走ったり、より酷い体調不良が起きる。それをまた薬で抑え込む。
 その不毛な繰り返しを続けることは望ましい形とは言えない。プレイをしない限り、根本的な解決は難しいからだ。

(今週末の休みに店に行くか……ああ、でも現代美術館でやってるファニチャー展、今週末までじゃなかったっけ? それには行きたいし……)

 綾春の場合、処方どおりに抑制剤を飲み、ひと月に一度ほどDomとプレイをすれば今のところ、には暮らしていけている。ただ今のように残業が増えたり、心配ごとや不安ごとが増えたりして心の余裕がなくなると、強いほうの抑制剤や抗不安薬に手を出す頻度が増える。

 抑制剤は完全ではない。むしろ、抑制剤は飲まないに越したことはないと言われているし、医者からは抑制剤よりも適度で適切なプレイを推奨されている。抑制剤は長期で服用しているとだんだんと効果が薄れてしまう一方で、副作用が出やすくなるものが多いからだ。

 綾春が毎朝服用している薬は中程度の強さのものだが、副作用が出ることは今のところほとんどない。だが、服用が続けばいずれ効かなくなって強い抑制剤へ変えていく必要が出てくる可能性はある。効力の強い抑制剤は、それに応じて副作用も出やすいという。それゆえに基本的には、医者は弱い薬からしか処方しないのが一般的だし、そう易々と強い薬へ切り替えたりもしない。手軽に購入できる市販薬は軽い薬しか売られていない。

(こういうとき、ちゃんとしたパートナーがいればなーとは思うよなぁ)

 DomにしてもSubにしても、抑制剤に頼らずに欲求を満たしてやるのが一番いい。つまり、Subの綾春なら信頼できるDomから適切なプレイでグレアをかけてもらってコマンドを貰えばいい。
 けれど現在、綾春に特定のパートナーはいない。プレイしてくれる相手としても、恋人としてもだ。だから、病院で処方された抑制剤を飲んでいる。

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