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02. 夏の日、葉山にて

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「…………暑ぃー……」

 からりと晴れた青空を睨みながら、久慈くじ綾春あやはるは運転席を降りた。あれほど降り続いた雨はいったいどこに行ってしまったのかと思うほど、梅雨の明けた空は憎いほどに晴れ続きだ。

「ほーんと。さすがの久慈さんでも、この暑さは顔しかめますよねぇ……」
「俺のこと何だと思ってんだよ、辻」
「だーって、あの久慈綾春ですよー? いつも涼しい顔して、難しーい案件をバンバンこなす我が社のエース! センス抜群で仕事がデキる! さらに男にも女にもモテるときた! 久慈さんにできないことなんて無いじゃないですかー。ほんとSubサブってのが意外っす」
「おーい、辻。他人ひと二次性ダイナミクスの話を軽々しく口にするなよ」
「あ、すみませんっ」

 助手席から降りた青年はつじ智仁ともひとという。ここまで車を運転して来た綾春の一つ下の二十六歳で、会社の後輩。手のひらでパタパタと仰ぐ顔には、いかにもお調子者で人懐っこい笑顔がのっている。
 綾春はへらへらと笑う後輩を小突き、辻の言葉を程よく無視しながら先を歩き始めた。

(人の気も知らないで、まったく調子いいよな。Subだからって舐められたくなくて必死になってるの、こいつは知らないんだろうなぁ。あー……にしても正直、この暑さはしんど……)

 綾春は心のうちでぼやきながら、ハンカチで汗を拭った。
 平均身長より僅かに高い一七四センチの背丈に、すらっとした細身の体躯。シルエットの良い半袖シャツにチノパンを合わせた出立ちに甘い容姿が合わされば、否が応でも注目を浴びるイケメンの出来上がり。綾春を見て、不細工という人間はそうはいないだろう。
 綾春もまた、自分の容姿が優れていることを自覚している。

 品が良く綺麗な顔立ちだと言われる容姿は、アッシュ系の髪とヘーゼルが混じった瞳がさらに輪をかけて、綾春を特別目を引くものへと仕立てている。親類に外国の血が流れる者はいないが、髪も瞳もどちらも生まれつきの色だ。
 幼い頃は茶化されもした容姿だが、それが武器になると知ってからは、綾春は自分の容姿に自信を持って生きていた。たとえ自分がSubであろうとも、だ。

(このルックスには感謝してるけど、好きでSubに生まれたんじゃないっつーの)

 この世には、男女のほかにダイナミクスという力関係によって発生する第二の性がある。その性は大きく分けて二つだ。

 一つは、『Domドム』と呼ばれる支配的欲求が強い性。
 Domの性を持つ者は、後述するSubの性を持つ者を支配して庇護したい欲求がある。躾けたい、褒めてあげたい、守ってあげたい、世話をしたい、独占したい……そういった欲求を持つ性だ。
 対してもう一つ。『Subサブ』と呼ばれ、Domと対をなす性。つまり、服従的欲求が強い性だ。
 Subの性を持つ者は、Domの性を持つ者から支配されて庇護されたい欲求がある。躾けられたい、褒められたい、守られたい、世話してもらいたい、独占されたい……そういった欲求を持つ性だ。

 一見すると加虐嗜好と被虐嗜好……いわゆるSMプレイと錯覚されがちだが、それらとダイナミクスによる性の欲求は異なる。DomにしてもSubにしても、それは本能に擦り込まれた生理的な欲求であり、それぞれ満たされないと心身に不調が出てしまうものだ。

 それぞれの欲求は、Playプレイと呼ばれる特殊なコミュニケーションをDomとSubで行うことで満たすことができる。
 プレイというのは、DomがSubに対してCommandコマンドと呼ばれる命令を発し、その内容にSubが従うというものだ。自分が命じたコマンドのとおりにSubが動けばDomは満たされるし、そのDomに従い、さらに褒めてもらえればSubも満たされる。DomとSubはそういう共生的な関係にある。

 DomにしてもSubにしても、その性を持つ者は少ない。日本においては二つの性を併せても人口の三割もいないと言われており、残りの七割は便宜的にNormalノーマルと呼ばれる者たちだ。Normalはダイナミクスによる性を持たない者で、彼らにはDom的な欲求もSub的な欲求も存在しない。
 このほかに、Switchスイッチと呼ばれるDomにもSubにもなれる特殊な性を者がいるが、そちらはさらに稀少だ。

 そんな二次性だが、先ほど辻が言ったとおり綾春はSub性を有していた。そして一般常識やマナーとして、二次性は相手の許可なく大っぴらに話すものではないとされている。
 まあ、辻のこういった軽さというか迂闊さは今に始まったことではないし、彼も綾春相手だからこその軽口なので、綾春も口では注意しても本当に苛立っているわけではないのだけれど。

「あーあ、俺もイケメンに生まれたかったなぁ」
「はいはい。ぼやいてないで行くぞー」

 辻に言ったように、綾春もぱちっと頭を切り替えた。
 綾春が辻を連れて車を走らせてきたのは、なにも辻の嘆きを聞くためでも、二次性について語るためでもない。まして今日は平日。太陽が照り返す昼真っ只中である。

 綾春たちは、仕事に来たのだ。

「約束の十分前。まぁこのくらいなら問題ないだろう」

 左手につけたスマートウォッチは午後一時五十分を指している。仕事の打ち合わせを約束したのは二時だった。
 その打ち合わせのために、会社のある青山から車を走らせてきたのだ。車を停めたのは、都心から離れた葉山の一角に建てられた一軒家の駐車スペース。ここに車を停めてもよいことは、あらかじめ家主から許可をもらっている。家と車を囲んだ木々は、青く茂っていた。

「にしても、いい場所に住んでますねぇ」

 駐車スペースを抜けて玄関前へ向かう途中、頭を右へ左へと忙しく動かす辻に「キョロキョロするな」と軽く注意して、綾春は玄関前まで足を進めた。
 ハンカチで再度汗を拭い、身だしなみをチェックしたのち、玄関ドア横のインターホンを押す。するとインターホン越しに男の声が返ってきた。

『……はい』
「お世話になります。私、タキデザインの久慈と申します。本日二時にお約束させていただいてます」
『ああ。今行きます』

 プツ、とインターホンが切れた音がして十数秒後。玄関ドアが開いて、背の高い男性が顔を出した。そこで綾春は目を瞠った。

(……う、わ……まじか。こいつ、高ランクのDomだ……)

 男の姿を見るなり、綾春の本能がざわざわとした。
 DomやSubの者はある程度、相手がどんな二次性を持っていて、どのくらいのランクかを感じることができる。それは二次性を有する者が発する特殊なフェロモンによるものらしく、DomがSubに、 SubがDomに惹かれやすいのも、そのフェロモンが起因していると言われている。

 正確なランクは検査をしないとわからないし、二次性と同様に——いや、それ以上に公にする者は少ない。だから相手が DomやSubだとわかっても、ランクについては「たぶん、このくらいのランクだろうな」程度しかわからない。特に自分より上のランクだと「自分より上位だ」くらいにしか感じられない場合が多い。
 だが、綾春は高いほうから順にS・A・B・C・Dという五つあるランクのうち、上位に位置するAランクのSubだった。そのため、二次性を持つ者なら大抵は、その性とランクを見分けることができた。自分より上位のランクはSしかないからだ。

 綾春が感じるに、目の前の男——今回の商談相手はDomで間違いない。
 ランクは綾春より上……つまり最低でもS。

 ランクには、規格外のSSランクやSSSランクなんかもごく稀に存在するらしい。なのでS以上かもしれない。だが、一般的にはAランクですら滅多にお目にかかれないので、S以上という時点でかなり珍しいには違いない。
 自分よりも高位ランクのDomに会うなんて初めてのことだった。綾春はなんとか声を上げずにいられたが、内心では大いに驚き、動揺していた。

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