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01. 雨は降っている
しおりを挟むその日は朝から雨が降っていた。
いや、正確に言うならば五日も前から雨は降り続いている。もしかしたら雨が止んだ時間はあったかもしれないが、それも一時的なものだったはずだ。青空に限定して言えば、もう十日はお目にかかっていないだろう。なんにせよ梅雨の時期らしく、ここしばらくは雨続きだ。
明日の予報も、もちろん雨。明後日はどうやら久方振りに雨は上がるらしいが、それでも曇天のようだった。
『生憎の空模様は向こう一週間続く見込みです。残念ながらお洗濯のできない日が続きますね。それでは次のニュースです——』
天気予報が流れていたラジオの電源を切り、東雲蓮哉は天を見上げた。
見上げた先にあるガラス張りの天井とそこから伸びる大きな窓に囲まれたサンルームは、晴れた日には太陽の光が降り注ぎ、夏は暑いくらいだ。しかし今、そこから覗く空は、どんよりとした灰色が広がっている。天井ガラスには次から次へと雨が降り落ちていて、飽きもせずに音を奏でていた。
(……今日はあの土を使うか)
風もないのか、ただただそこに留まる曇天を見ながら、蓮哉は手を動かすことにした。
蓮哉が都心のマンションから神奈川県・葉山の一軒家に移り住んできたのは二年半ほど前——蓮哉が三十歳のときだ。
元は蓮哉の祖父が暮らしていたこの家は、程よく緑に囲まれた敷地に建っており、大きなサンルームが気持ち良い。その祖父は今は横浜のマンションに移り住んでいるため、この家に住むのは蓮哉だけである。一人で住むには広すぎる家で、蓮哉は黙々と土と向き合っていた。
土は、蓮哉の仕事道具だ。
いや、道具と言うよりは仕事そのものと言ったほうが正しいのかもしれない。
蓮哉の仕事は陶芸である。
もっとも、名が売れてるわけではないため、陶芸家と名乗るのは気が引けると蓮哉は感じているのだが。
それでも都会から離れたこの場所で細々と器を作り、それを売ることで得た金が主な収入源なのだから、他者が蓮哉の職業を表すのならば陶芸家と呼ぶのだろうとも思っていた。
サンルームの隣にある倉庫代わりの部屋から土を持ってきて、作業台に置く。部屋の入口近くに置いてある鏡にふと目をやると、無表情な顔をした自分が映っていた。
肩近くまで伸びた黒髪を首の裏で一纏めにした長身の男性。
日本人にしては高い身長は一八七センチあり、街中であればそれなりに目を引く。腕まくりした袖からはがっしりとした腕が伸びており、服で隠れてはいるものの身体つきはそれなりだ。怠けすぎるのもいけないからと朝晩走っているからか、鍛えられているほうだろう。
鏡越しに自分を見つめる顔は、他人が言うには精悍な顔立ちだそうだ。スーツでも着ていれば——多少髪型に難はあるかもしれないが——立派な勤め人に見えるかもしれない。
だが、蓮哉が身につけているのは薄手の長袖トレーナーに、きれいめのイージーパンツ。人前に出られないことはないが、せいぜい休日の会社員がいいところ。黙々と器を作るだけの自分を訪ねてくる人は滅多にいないので、表情筋が動くことも少なくなった。野外で雨に打たれようものなら、不審者扱いされるかもしれない、と自分ですら思う。
小さくため息をついて、蓮哉は手元の土へ視線を移した。土の表面をなぞると冷たく、それでいて心地よい感触を蓮哉に伝えてくる。その感触をゆっくり楽しむように、蓮哉は土を練り始めていく。
(まぁ、陶芸だけで暮らせていけてるかは怪しいけどな)
雨音だけが響く空間で土を練りながら、取り留めのないことを思考した。
蓮哉が工房兼住居とする一軒家の家賃は、一切かかっていない。住まわせてもらうのだからと、祖父に支払いを申し出たが「いずれ譲るつもりだったから気にするな。それでもと言うのならお前の器をくれればいい」と断られてしまった。
そのため、蓮哉は何ヶ月かに一度は祖父に自分の作った器を届けている。
では家賃以外に人間が暮らすためにかかる費用を、先月三十三歳になった大の大人が稼ぐ必要があるわけだが……陶芸で稼ぐ金ですべてを賄えているかと言われたら、陶芸以外にたまに依頼のある『副業』で得た収入と、貯金を切り崩しているのが現実だった。
(かと言って、もう三年前の暮らしに戻る気はないしな……。未練がないわけじゃないけど……いや、やめよう。考えたところで戻るつもりはないんだから、意味はない。副業として関われるだけでも十分すぎるほどだ)
陶芸を始める前——この家に引っ越してくる前までは、蓮哉は陶芸家ではなく、建築事務所で働く建築士だった。
四年制の大学を出て、新卒で就職した会社で建築士として順調に成果を上げ、それなりに順風満帆な生活をしていたと思う。だが、三十歳のときに脱サラして陶芸を始めた。……いや、脱サラというほど夢のあるものではない。別に陶芸家になりたくて八年ほど勤めた会社を辞めたわけではないのだ。
あのとき、あの出来事がなければ、きっと蓮哉は今でも以前の職場で建築の仕事を続けていた。
——あの場に居続けられなくなったのだ。自分が不器用すぎるがゆえに。
だから、別の道に逃げてきた。そのほうが自分のためにもいいと思った。
ただ、逃げてはきたのだが、前職で自分の世話をしてくれた人から時折「手伝ってほしい」と言われて、少しだけ建築設計関係の手伝いをして副業の収入を得ていたりはする。なので完全に逃げられてもいない。
そういう中途半端さが自分の悪いところなのだろうとは思う。
けれど、もともとは好きで就職した業界なので、ついつい未練がましく、差し出される手を取り続けてしまっているのが現状だ。手を取り続けて、土をいじって、そしてこの静かな家で慎ましく生きている。
陶芸、ときどき建築。それが今の蓮哉——。
自分は何者にもなれない、後にも先にも進めない、心の弱い人間なのだ。
(……良くないな。ついマイナス思考になってる)
鬱々とした空模様のせいか、つい昏い思考の海に沈み込みつつある自分に気づき、蓮哉は頭を軽く横に振った。
雨は、あまり好きではない。
特にこんなに長々と降り続く雨は。
——おい〈待て〉。そこに〈座れ〉って。
過去に放った自分の言葉が木霊する。
あのとき、自分はそんなつもりはなかった。未熟な性が暴走して、普通の言葉が、普通ではない言葉になってしまっただけだ。
けれど、その言葉を放ったのはたしかに自分だった。自分が未熟なばかりに、やってはいけないことをした。
あの日も、雨が降っていた。
それから十年以上経ったあの日も、やっぱり雨が降っていた。
だから雨の日は、天から降りしきる雨粒が心の奥の柔らかくも仄暗いところへ、苦い雫となってじわじわと沁み込んでいき、自分の意思とは無関係に醜い感情が大きく膨れ上がるような……そんな気持ちになる。
雨は——蓮哉の、苦い記憶を呼び起こす。
まるで蓮哉の時間を堰き止めるかのように、しとしとと重く、降りしきる。
「はぁ……やめやめ。仕事だ、切り替えろ」
再び思考が沈みそうになる前に重く大きなため息をつき、蓮哉は再度土に向き合うのだった。
◇◇◇
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