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第三章:まつろわぬ民
25:ピアノ
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その夜。睡蓮は寝床についたまま、まんじりともせずにいた。
感情が昂っているせいだろうか。心臓がいつもより早く脈打っている。とくとくという血が巡る音を大きく感じる。こんなことは今まではなかったのに。
身体を横向きにし、障子を照らす月明かりをぼんやりと眺めながら、右手でそっと己の髪にふれた。龍進の手の感触が、まだ残っているような気がする。
一体、どうしたというのだろう。
彼に褒めてもらえたのが、うれしいのだろうか?
……いずれ、私は彼に殺されることになるというのに。
自分の気持ちがわからず、彼女は布団の上で再び寝返りを打つ。
それから、一時間ほどが経ったころ。離れから龍進のピアノの音が聞こえてきた。
今晩も、とても寂しくて、もの悲しげな旋律。そして、睡蓮にとっては心地の良い音色が奏でられる。
何故、いつも彼はこんなにも儚い音を奏でるのだろうか。
……その姿を、見てみたい。
その思いが抑えきれなくなった睡蓮は身体を起こし、庭に面した畳廊下へと歩き出る。
そして、離れの部屋の前まで来て、室内を覗き込んだところで、微かに息を呑んだ。
窓から差し込む月明かりは、舞台照明のように、独りピアノに向かう青年の姿を浮かび上がらせていた。
月光が彼の彫りの深い顔に陰影を刻み、表情に憂いを帯びた雰囲気を纏わせる。
鍵盤に載せられたガラス細工のような細い指が、繊細な音を紡ぎ続けている。
やがて曲は終盤へとさしかかり、やや強く旋律が奏でられた後、余韻を残して演奏が終わった。
睡蓮は拍手をすることも忘れて、そこに突っ立っているだけだった。
ややあって、龍進が身体ごと視線をこちらに向ける。
「どうした?」
「……」
なにを言おうか、少し迷った末、
「……とても綺麗でしたので」
「そうか」
相手はうなずくと、
「毎晩、悪いな。やはり耳障りなようなら控えるが」
「いいえ。逆にとても落ち着きます。旦那様の演奏は、さみしくて、悲しくて……、でも、温かい……」
こちらの言葉に少しだけ、彼は困ったように眉をひそめる。
「君にはそう聞こえるのか? もしそうだとしたら、ピアノが古いせいかもしれないな」
そうなのだろうか、と睡蓮は無意識のうちにピアノに向かって近づいていた。
彼が言うように、表面の塗装はところどころ剥がれかけている上、全体的に微かにくすんでいる。今まで彼以外の沢山の人が弾いてきたのだろうか。
ふと、鍵盤に目をやり、あれ、と思った。
白い鍵盤の上に、消えかかった黒インキで文字が書かれていた。カタカナで、ド、レ、ミ……、だろうか。筆跡は幼い。
視線に気づいたのか、彼が言った。
「ああ……、これは僕の字だ。下手くそだろう。子供の頃、母と練習するときに書いたものだ」
「…………母?」
「母はピアノが上手でね。毎日のように教えてくれた。親として、そして、家族として、僕に残すことが出来るのはこれだけだ、と言ってね」
と、龍進が青い瞳をこちらに向けて言った。
「君も、弾いてみるか? はじめてだろう?」
「……え?」
睡蓮が驚きに目を瞬かせているうちに、彼は椅子から立ち上がる。
「座りたまえ」
促されて、赤い丸椅子に腰掛ける。
「鍵盤の上に両手を置いて……。卵のような形で……。そう、それでいい」
「…………っ」
そして、左脇に立った龍進が、両手を睡蓮の手の上に重ねてくる。
「一緒に弾いてみよう。昔、母はこうやって僕に教えてくれた」
彼の細い指が、睡蓮の指を、撫でるように優しく押し下げていく。
「空に瞬く星々を表現した有名な曲だ」
ゆっくりと、たどたどしい演奏。けれど、己の指から音が奏でられるという事実に、睡蓮の中から、なにかがこみ上げてくる。
一緒にピアノを弾く姿は、結婚相手というよりは、親子のようだった。
だがそれでも構わない。
家族には違いないのだから。たとえ、それが仮初めのものであったとしても。
彼女はともすれば、あふれ出しそうになる感情を堪え、龍進の手の感触を感じながら、はじめてのピアノを弾き続けた。
二人が奏でる優しい音色は、夜更けの空へと溶けていく。淡い月が、星々とともに、彼らが住む家屋を照らし続けている。
感情が昂っているせいだろうか。心臓がいつもより早く脈打っている。とくとくという血が巡る音を大きく感じる。こんなことは今まではなかったのに。
身体を横向きにし、障子を照らす月明かりをぼんやりと眺めながら、右手でそっと己の髪にふれた。龍進の手の感触が、まだ残っているような気がする。
一体、どうしたというのだろう。
彼に褒めてもらえたのが、うれしいのだろうか?
……いずれ、私は彼に殺されることになるというのに。
自分の気持ちがわからず、彼女は布団の上で再び寝返りを打つ。
それから、一時間ほどが経ったころ。離れから龍進のピアノの音が聞こえてきた。
今晩も、とても寂しくて、もの悲しげな旋律。そして、睡蓮にとっては心地の良い音色が奏でられる。
何故、いつも彼はこんなにも儚い音を奏でるのだろうか。
……その姿を、見てみたい。
その思いが抑えきれなくなった睡蓮は身体を起こし、庭に面した畳廊下へと歩き出る。
そして、離れの部屋の前まで来て、室内を覗き込んだところで、微かに息を呑んだ。
窓から差し込む月明かりは、舞台照明のように、独りピアノに向かう青年の姿を浮かび上がらせていた。
月光が彼の彫りの深い顔に陰影を刻み、表情に憂いを帯びた雰囲気を纏わせる。
鍵盤に載せられたガラス細工のような細い指が、繊細な音を紡ぎ続けている。
やがて曲は終盤へとさしかかり、やや強く旋律が奏でられた後、余韻を残して演奏が終わった。
睡蓮は拍手をすることも忘れて、そこに突っ立っているだけだった。
ややあって、龍進が身体ごと視線をこちらに向ける。
「どうした?」
「……」
なにを言おうか、少し迷った末、
「……とても綺麗でしたので」
「そうか」
相手はうなずくと、
「毎晩、悪いな。やはり耳障りなようなら控えるが」
「いいえ。逆にとても落ち着きます。旦那様の演奏は、さみしくて、悲しくて……、でも、温かい……」
こちらの言葉に少しだけ、彼は困ったように眉をひそめる。
「君にはそう聞こえるのか? もしそうだとしたら、ピアノが古いせいかもしれないな」
そうなのだろうか、と睡蓮は無意識のうちにピアノに向かって近づいていた。
彼が言うように、表面の塗装はところどころ剥がれかけている上、全体的に微かにくすんでいる。今まで彼以外の沢山の人が弾いてきたのだろうか。
ふと、鍵盤に目をやり、あれ、と思った。
白い鍵盤の上に、消えかかった黒インキで文字が書かれていた。カタカナで、ド、レ、ミ……、だろうか。筆跡は幼い。
視線に気づいたのか、彼が言った。
「ああ……、これは僕の字だ。下手くそだろう。子供の頃、母と練習するときに書いたものだ」
「…………母?」
「母はピアノが上手でね。毎日のように教えてくれた。親として、そして、家族として、僕に残すことが出来るのはこれだけだ、と言ってね」
と、龍進が青い瞳をこちらに向けて言った。
「君も、弾いてみるか? はじめてだろう?」
「……え?」
睡蓮が驚きに目を瞬かせているうちに、彼は椅子から立ち上がる。
「座りたまえ」
促されて、赤い丸椅子に腰掛ける。
「鍵盤の上に両手を置いて……。卵のような形で……。そう、それでいい」
「…………っ」
そして、左脇に立った龍進が、両手を睡蓮の手の上に重ねてくる。
「一緒に弾いてみよう。昔、母はこうやって僕に教えてくれた」
彼の細い指が、睡蓮の指を、撫でるように優しく押し下げていく。
「空に瞬く星々を表現した有名な曲だ」
ゆっくりと、たどたどしい演奏。けれど、己の指から音が奏でられるという事実に、睡蓮の中から、なにかがこみ上げてくる。
一緒にピアノを弾く姿は、結婚相手というよりは、親子のようだった。
だがそれでも構わない。
家族には違いないのだから。たとえ、それが仮初めのものであったとしても。
彼女はともすれば、あふれ出しそうになる感情を堪え、龍進の手の感触を感じながら、はじめてのピアノを弾き続けた。
二人が奏でる優しい音色は、夜更けの空へと溶けていく。淡い月が、星々とともに、彼らが住む家屋を照らし続けている。
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