23 / 45
第三章:まつろわぬ民
22:残り香
しおりを挟む
夕食の間、龍進の様子は、いつもと変わらず、ライスカレーを口へ運びながら「美味いよ。たいしたものだ」と二回、褒めてくれた。
睡蓮は温かいお茶を二人分いれる。お茶を飲んでもカレーの味はまだ口の中に残っているし、服にも匂いがついているような気がする。前に食べたときには、それがどうにも気になってしまって、以来、カレーは口にしていなかったのだ。
龍進は湯飲みを置くと、睡蓮の目を見つめて静かに言った。
「世辞では無く、本当に美味しかった。我が家の味になるな」
「…………はい」
我が家、という言葉に睡蓮の心の中がほんのり温かくなったような気がする。偽りなのに。本当の家ではないというのに。
それから彼女は睡蓮の隣に座り、見上げるようにして言った。
「旦那様、本日も毒をいただきたく存じます」
「ああ……」
彼の袖の中から白と黒の錠剤が一つずつとり出される。それから、親指と人差し指が、睡蓮の蕾のような唇を割り、口の中に入れられる。
舌の中に乗せられた、黒の錠剤。苦くて、そして、甘い。
不意に睡蓮は思った。これは、もしかすると、毒では無いのかもしれない。
確信はない。だが、龍進としばらく一緒に暮らしてきた彼女にとって、毒物と彼とがどうにも結びつかなかった。彼が止むなく人の命を絶つときは、刀を手にし、自ら血という穢れを浴びるような、そんな気がしたからだ。
だが、その一方で、別にこれが毒であるか否かはたいしたことではないとも思った。
毒という枷があろうとなかろうと、自分がここから出て行くことはないからだ。
「旦那様、続けて白の錠剤を」
唇に感じる、彼の指の感触。まるで燕の子が、毎日餌付けされているような感覚だ。
白湯を飲み、錠剤を咽下する。
それから膳を台所まで下げて戻ってくると、龍進は食後の煙草を吸っていた。煙が天井に向かって、ゆらゆらと昇っていく様子はどこか不安げに映る。
「火薬の匂いはまだ残っているか?」
「……少しだけ」
「そうか」
龍進は灰皿で煙草をもみ消すと、向かい側に座った睡蓮を真正面から見て言った。
「では、改めて、君がこれと同じ匂いを嗅いだときのことを詳しく教えて欲しい」
「……はい」
二週間ほど前、この家に至る坂道を登っていたトラックの運転手から声をかけられたとき、その荷台から微かにこの火薬の匂いがしたこと、龍進と一緒に日本橋に行ったときは、その何倍もの強さで同じ匂いを嗅いだこと。
睡蓮が一通り話し終えると、いつのまにか壁際に立っていた三郎が言った。
「つまり、こいつが日本橋で事件直前に見たというトラックは、ちょうど現場に向かっている最中だったということか?」
「ああ。下瀬火薬を所持した実行犯が乗っていた可能性がある」
三郎の目が険しくなる。
「こいつが言うには、この家の前の坂道を昇っていたトラックからも同じ匂いがしたという。とすると、そんな物騒なものを積んだ車が、東京の街中をうようよ走り回っている、ということか?」
「それはどうだろうか。事件直前に見たトラックとそれ以外とでは、匂いの強さが全く違ったということだったよね?」
龍進の問いに、睡蓮がこくりとうなずく。
「であるならば、前者は火薬そのものの匂い、後者は火薬の残り香と考えるのが自然だろう。それに、あれはわずかな衝撃でも爆発すると言われている。もし、全てのトラックの荷台にあの火薬が無造作に積まれていたら、いくつかは走行時の振動で簡単に爆発しているだろう」
「よくわかんねーな。残り香っていわれても、なんで普通のトラックにそんな物騒なものの匂いが残っているんだ?」
「そうだな……」
龍進は顎に手を当ててしばらくなにかを考えた後、睡蓮を見て言った。
「君、火薬の匂い以外に、なにか気になったところはなかったか? どんな小さなことでも構わない」
「…………」
睡蓮は思い出す。
火薬と一緒に嗅ぎ取った匂いといえば……。
「そういえば、残り香と一緒に、腐りかけの人の匂いがしました」
「は……?」
三郎が口をぽかんとあけた。
「ちょっと待て! それは、死体の匂いってことだよな?」
「多分」
「なんでそれを先に言わねーんだ!」
睡蓮は眉間に皺を寄せて困惑する。別に死体の匂いなんてそこら中にありふれているものなのに。
「とにかく、君が見たトラックには下瀬火薬が積まれていた痕跡があるという、理解は成り立つ」
それから龍進はしばらくの間、腕組みをしてなにかを考えていたが、やがて睡蓮に向き直って静かに言った。
「頼みがある」
彼の双眸がこちらにまっすぐに向けられる。ただ、その目はいつもよりも暗く、そして、何故か微かな憤りの色が感じられた。彼のそんな顔を見るのは初めて見た。
「これは君との婚姻に関する契約内容からは外れることだ。だが、もし可能であれば、手伝ってはくれないだろうか。君の力が必要だ」
「…………」
真剣な瞳に見つめられ、何故か、彼女の心拍が微かに早くなった。
彼が自分の力を求めている。それで、自分が少しでも役に立てるのならば。
睡蓮は床の上に三つ指をつくと、静かに頭を下げる。
「……旦那様のご指示なら、なんなりと。それが婚約者の……、家族の務めですから」
ふと、彼の顔に笑みが浮かんだ。
「助かるよ、睡蓮」
「……あ」
またも、睡蓮の心がほんのり温かくなる。だが、今、彼女は自分のこの気持ちの正体がわからない。
睡蓮は温かいお茶を二人分いれる。お茶を飲んでもカレーの味はまだ口の中に残っているし、服にも匂いがついているような気がする。前に食べたときには、それがどうにも気になってしまって、以来、カレーは口にしていなかったのだ。
龍進は湯飲みを置くと、睡蓮の目を見つめて静かに言った。
「世辞では無く、本当に美味しかった。我が家の味になるな」
「…………はい」
我が家、という言葉に睡蓮の心の中がほんのり温かくなったような気がする。偽りなのに。本当の家ではないというのに。
それから彼女は睡蓮の隣に座り、見上げるようにして言った。
「旦那様、本日も毒をいただきたく存じます」
「ああ……」
彼の袖の中から白と黒の錠剤が一つずつとり出される。それから、親指と人差し指が、睡蓮の蕾のような唇を割り、口の中に入れられる。
舌の中に乗せられた、黒の錠剤。苦くて、そして、甘い。
不意に睡蓮は思った。これは、もしかすると、毒では無いのかもしれない。
確信はない。だが、龍進としばらく一緒に暮らしてきた彼女にとって、毒物と彼とがどうにも結びつかなかった。彼が止むなく人の命を絶つときは、刀を手にし、自ら血という穢れを浴びるような、そんな気がしたからだ。
だが、その一方で、別にこれが毒であるか否かはたいしたことではないとも思った。
毒という枷があろうとなかろうと、自分がここから出て行くことはないからだ。
「旦那様、続けて白の錠剤を」
唇に感じる、彼の指の感触。まるで燕の子が、毎日餌付けされているような感覚だ。
白湯を飲み、錠剤を咽下する。
それから膳を台所まで下げて戻ってくると、龍進は食後の煙草を吸っていた。煙が天井に向かって、ゆらゆらと昇っていく様子はどこか不安げに映る。
「火薬の匂いはまだ残っているか?」
「……少しだけ」
「そうか」
龍進は灰皿で煙草をもみ消すと、向かい側に座った睡蓮を真正面から見て言った。
「では、改めて、君がこれと同じ匂いを嗅いだときのことを詳しく教えて欲しい」
「……はい」
二週間ほど前、この家に至る坂道を登っていたトラックの運転手から声をかけられたとき、その荷台から微かにこの火薬の匂いがしたこと、龍進と一緒に日本橋に行ったときは、その何倍もの強さで同じ匂いを嗅いだこと。
睡蓮が一通り話し終えると、いつのまにか壁際に立っていた三郎が言った。
「つまり、こいつが日本橋で事件直前に見たというトラックは、ちょうど現場に向かっている最中だったということか?」
「ああ。下瀬火薬を所持した実行犯が乗っていた可能性がある」
三郎の目が険しくなる。
「こいつが言うには、この家の前の坂道を昇っていたトラックからも同じ匂いがしたという。とすると、そんな物騒なものを積んだ車が、東京の街中をうようよ走り回っている、ということか?」
「それはどうだろうか。事件直前に見たトラックとそれ以外とでは、匂いの強さが全く違ったということだったよね?」
龍進の問いに、睡蓮がこくりとうなずく。
「であるならば、前者は火薬そのものの匂い、後者は火薬の残り香と考えるのが自然だろう。それに、あれはわずかな衝撃でも爆発すると言われている。もし、全てのトラックの荷台にあの火薬が無造作に積まれていたら、いくつかは走行時の振動で簡単に爆発しているだろう」
「よくわかんねーな。残り香っていわれても、なんで普通のトラックにそんな物騒なものの匂いが残っているんだ?」
「そうだな……」
龍進は顎に手を当ててしばらくなにかを考えた後、睡蓮を見て言った。
「君、火薬の匂い以外に、なにか気になったところはなかったか? どんな小さなことでも構わない」
「…………」
睡蓮は思い出す。
火薬と一緒に嗅ぎ取った匂いといえば……。
「そういえば、残り香と一緒に、腐りかけの人の匂いがしました」
「は……?」
三郎が口をぽかんとあけた。
「ちょっと待て! それは、死体の匂いってことだよな?」
「多分」
「なんでそれを先に言わねーんだ!」
睡蓮は眉間に皺を寄せて困惑する。別に死体の匂いなんてそこら中にありふれているものなのに。
「とにかく、君が見たトラックには下瀬火薬が積まれていた痕跡があるという、理解は成り立つ」
それから龍進はしばらくの間、腕組みをしてなにかを考えていたが、やがて睡蓮に向き直って静かに言った。
「頼みがある」
彼の双眸がこちらにまっすぐに向けられる。ただ、その目はいつもよりも暗く、そして、何故か微かな憤りの色が感じられた。彼のそんな顔を見るのは初めて見た。
「これは君との婚姻に関する契約内容からは外れることだ。だが、もし可能であれば、手伝ってはくれないだろうか。君の力が必要だ」
「…………」
真剣な瞳に見つめられ、何故か、彼女の心拍が微かに早くなった。
彼が自分の力を求めている。それで、自分が少しでも役に立てるのならば。
睡蓮は床の上に三つ指をつくと、静かに頭を下げる。
「……旦那様のご指示なら、なんなりと。それが婚約者の……、家族の務めですから」
ふと、彼の顔に笑みが浮かんだ。
「助かるよ、睡蓮」
「……あ」
またも、睡蓮の心がほんのり温かくなる。だが、今、彼女は自分のこの気持ちの正体がわからない。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷
河野美姫
キャラ文芸
古都・金沢、加賀百万石の城下町のお茶屋街で巡り会う、不思議なご縁。
雨の神様がもてなす甘味処。
祖母を亡くしたばかりの大学生のひかりは、ひとりで金沢にある祖母の家を訪れ、祖母と何度も足を運んだひがし茶屋街で銀髪の青年と出会う。
彼は、このひがし茶屋街に棲む神様で、自身が守る屋敷にやって来た者たちの傷ついた心を癒やしているのだと言う。
心の拠り所を失くしたばかりのひかりは、意図せずにその屋敷で過ごすことになってしまいーー?
神様と双子の狐の神使、そしてひとりの女子大生が紡ぐ、ひと夏の優しい物語。
アルファポリス 2021/12/22~2022/1/21
※こちらの作品はノベマ!様・エブリスタ様でも公開中(完結済)です。
(2019年に書いた作品をブラッシュアップしています)
【完結】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜
四片霞彩
キャラ文芸
【第6回ほっこり・じんわり大賞にて奨励賞を受賞いたしました🌸】
応援いただいた皆様、お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました!
❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.
疲れた時は神様のおにぎり処に足を運んで。店主の豊穣の神が握るおにぎりが貴方を癒してくれる。
ここは人もあやかしも神も訪れるおむすび処。メニューは一択。店主にとっての思い出の味のみ――。
大学進学を機に田舎から都会に上京した伊勢山莉亜は、都会に馴染めず、居場所のなさを感じていた。
とある夕方、花見で立ち寄った公園で人のいない場所を探していると、キジ白の猫である神使のハルに導かれて、名前を忘れた豊穣の神・蓬が営むおむすび処に辿り着く。
自分が使役する神使のハルが迷惑を掛けたお詫びとして、おむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりをご馳走してくれる蓬。おにぎりを食べた莉亜は心を解きほぐされ、今まで溜めこんでいた感情を吐露して泣き出してしまうのだった。
店に通うようになった莉亜は、蓬が料理人として致命的なある物を失っていることを知ってしまう。そして、それを失っている蓬は近い内に消滅してしまうとも。
それでも蓬は自身が消える時までおにぎりを握り続け、店を開けるという。
そこにはおむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりと、かつて蓬を信仰していた人間・セイとの間にあった優しい思い出と大切な借り物、そして蓬が犯した取り返しのつかない罪が深く関わっていたのだった。
「これも俺の運命だ。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」
蓬を助けるには、豊穣の神としての蓬の名前とセイとの思い出の味という塩おにぎりが必要だという。
莉亜は蓬とセイのために、蓬の名前とセイとの思い出の味を見つけると決意するがーー。
蓬がセイに犯した罪とは、そして蓬は名前と思い出の味を思い出せるのかーー。
❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.
※ノベマに掲載していた短編作品を加筆、修正した長編作品になります。
※ほっこり・じんわり大賞の応募について、運営様より許可をいただいております。
裏吉原あやかし語り
石田空
キャラ文芸
「堀の向こうには裏吉原があり、そこでは苦界の苦しみはないよ」
吉原に売られ、顔の火傷が原因で年季が明けるまで下働きとしてこき使われている音羽は、火事の日、遊女たちの噂になっている裏吉原に行けると信じて、堀に飛び込んだ。
そこで待っていたのは、人間のいない裏吉原。ここを出るためにはどのみち徳を積まないと出られないというあやかしだけの街だった。
「極楽浄土にそんな簡単に行けたら苦労はしないさね。あたしたちができるのは、ひとの苦しみを分かつことだけさ」
自称魔女の柊野に拾われた音羽は、裏吉原のひとびとの悩みを分かつ手伝いをはじめることになる。
*カクヨム、エブリスタ、pixivにも掲載しております。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる