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第三章:まつろわぬ民
21:ライスカレー
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夕日が差し込む台所で、睡蓮は夕餉の準備をしていた。
ご飯を炊きつつ、牛肉や玉葱、馬鈴薯、人参を一口大に切り分けていく。
黙々と包丁で野菜を切りながら、彼女は先週の爆発事件のことを思い出していた。
あのとき、待っていろと言われたにもかかわらず、彼女は無意識のうちに龍進の後を追いかけた。なぜ、自分がそんな行動を取ったのか、未だにわからなかった。
彼との契約は、あくまで婚約者として振る舞うということだけであり、護衛の類いは入っていない。
もし彼の身になにがあっても、自分にとっては全く関係が無い。むしろ、時期が来れば、睡蓮を殺そうと考えているはずの人間が消えた方が、彼女にとっては遙かに好都合なはずだった。解毒剤だって、彼が死ねばその遺品の中からすぐに探すことは出来ただろう。
なのになぜ。
あれ以来、ずっとその理由を考えているのに、答は出てこない。
そして、もう一つ、気にかかっていることがあった。
爆発現場で容疑者を取り押さえた後、彼女の目の前に現れた、隻眼の少年・若榴。
あのとき、彼は睡蓮を連れ戻そうとするわけでもなく、ただ、次の指示を待て、おまえは今更殺しの道意外に進婿とは出来ないのだ、と言った。
そして、彼女は、若榴が来たことを、龍進には伝えなかった。
もちろん、彼に言った方が良いのだろうか、とは思った。別に言う義理は無いが、かといって、囚われの身である以上、今更、隠すことでもないはずだからだ。
最終的に、彼女の口をつぐませたのは、漠然とした不安からだった。それを言ったら、なにかが壊れてしまうかもしれない、そんな気がしたのだ。
「…………あ」
睡蓮は、はたと、目の前の鍋が吹きこぼれていることに気づき、慌てて差し水をする。
駄目だ、今は目の前の料理に集中しなければ。なにせ今日は、初めての料理に挑戦しているのだから。
切り分けた野菜を熱した鍋の中で炒め、だし汁で煮込んだところで、戸棚に置かれた小さな茶色い袋に手を伸ばす。商店街で買った小分けされた軽便カレー粉だ。
恐る恐る袋の封を開けると、
「…………う」
思わず顔をしかめた。
香辛料の入ったカレー粉は、睡蓮のよく効く鼻には刺激的だった。着物の袂で鼻を覆いながら、ぬるま湯に溶かし、ダマにならないように箸で丁寧にかき混ぜる。
それから一煮立ちし、灰汁を取った鍋の中に、溶かしたカレー粉を注ぎ入れ、とろみがつくまでしゃもじでかき混ぜる。
作り方は途中まで旨煮と同じはずなのに、今、鍋の中にあるのは、どろりとした汚泥だ。
「これでいいのでしょうか……?」
数年前に一度食べたことはあるが、そのときの味が再現出来たか自信は無い。
不安になり、小皿にとって味見をする。甘みが口の中いっぱいに広がったかと思うと、ややあって、ほんの少しの辛みが舌の上に残る。
悪くはない。問題は、自分の主人が気に入るかどうかだ。
彼女は背後を振り返り、「庭師さんはどう思われますか?」と問いかける。
腕組みをして壁に背をもたれさせていた三郎は、露骨に顔をしかめると、面倒そうに答える。
「知らねえ。おまえがいいと判断すればそれでいいだろ」
「いつもどおり、毒味をお願いしたいのですが」
「冗談じゃねえ」
今日の庭師の反応はめずらしい。今まで、どんな料理だって必ず毒味をしていたのに。首を傾げたそのとき、カレーの匂いに混じって、龍進の匂いがするのに気づいた。
いつの間にか、家に帰ってきていたらしい。
睡蓮が急いで玄関に向かうと、ちょうど龍進が玄関の扉を開けて入ってきた。
彼女が膝をついて頭を下げようとしたところで、龍進にしては珍しくやや弾んだ声で言った。
「ああ。美味しそうな匂いだ。外まで匂ってきていた。食べるのが楽しみだよ」
「はい」
彼女もまた、なぜか、頬が微かに熱くなるのを感じる。
だが、彼が脱いだ外套を預かったところで、ふと違和感を覚えた。
一瞬、香辛料の強烈な匂いで、自分の鼻がおかしくなったかと思い、おもむろに外套に鼻を近づけ、すんすんともう一度、匂いを嗅ぐ。
この匂いは、知っている。しかも、特殊な匂いだ。
「……火薬……?」
「ああ。今日、仕事で扱ったからね」
「最近、同じ匂いを嗅いだことがあります。鼻の奥でなにかがはじけるような」
途端、龍進の目が微かに見開かれる。
「火薬にしては珍しい匂いだったから気になっていました」
「それは、どこでだ?」
「街を走っている運送会社のトラックの荷台から」
「いつのことだ?」
矢継ぎ早に質問を繰り出してくる龍進に戸惑いながら答える。
「二週間ほど前です」
龍進の顔がみるみる険しくなる。
「……そうか」
彼はしばらくの間、なにかを考えているようだったが、やがて睡蓮の肩から己の手を下ろすと静かに言った。
「その話は、後で詳しく教えてくれ。まずは夕飯にしよう」
ご飯を炊きつつ、牛肉や玉葱、馬鈴薯、人参を一口大に切り分けていく。
黙々と包丁で野菜を切りながら、彼女は先週の爆発事件のことを思い出していた。
あのとき、待っていろと言われたにもかかわらず、彼女は無意識のうちに龍進の後を追いかけた。なぜ、自分がそんな行動を取ったのか、未だにわからなかった。
彼との契約は、あくまで婚約者として振る舞うということだけであり、護衛の類いは入っていない。
もし彼の身になにがあっても、自分にとっては全く関係が無い。むしろ、時期が来れば、睡蓮を殺そうと考えているはずの人間が消えた方が、彼女にとっては遙かに好都合なはずだった。解毒剤だって、彼が死ねばその遺品の中からすぐに探すことは出来ただろう。
なのになぜ。
あれ以来、ずっとその理由を考えているのに、答は出てこない。
そして、もう一つ、気にかかっていることがあった。
爆発現場で容疑者を取り押さえた後、彼女の目の前に現れた、隻眼の少年・若榴。
あのとき、彼は睡蓮を連れ戻そうとするわけでもなく、ただ、次の指示を待て、おまえは今更殺しの道意外に進婿とは出来ないのだ、と言った。
そして、彼女は、若榴が来たことを、龍進には伝えなかった。
もちろん、彼に言った方が良いのだろうか、とは思った。別に言う義理は無いが、かといって、囚われの身である以上、今更、隠すことでもないはずだからだ。
最終的に、彼女の口をつぐませたのは、漠然とした不安からだった。それを言ったら、なにかが壊れてしまうかもしれない、そんな気がしたのだ。
「…………あ」
睡蓮は、はたと、目の前の鍋が吹きこぼれていることに気づき、慌てて差し水をする。
駄目だ、今は目の前の料理に集中しなければ。なにせ今日は、初めての料理に挑戦しているのだから。
切り分けた野菜を熱した鍋の中で炒め、だし汁で煮込んだところで、戸棚に置かれた小さな茶色い袋に手を伸ばす。商店街で買った小分けされた軽便カレー粉だ。
恐る恐る袋の封を開けると、
「…………う」
思わず顔をしかめた。
香辛料の入ったカレー粉は、睡蓮のよく効く鼻には刺激的だった。着物の袂で鼻を覆いながら、ぬるま湯に溶かし、ダマにならないように箸で丁寧にかき混ぜる。
それから一煮立ちし、灰汁を取った鍋の中に、溶かしたカレー粉を注ぎ入れ、とろみがつくまでしゃもじでかき混ぜる。
作り方は途中まで旨煮と同じはずなのに、今、鍋の中にあるのは、どろりとした汚泥だ。
「これでいいのでしょうか……?」
数年前に一度食べたことはあるが、そのときの味が再現出来たか自信は無い。
不安になり、小皿にとって味見をする。甘みが口の中いっぱいに広がったかと思うと、ややあって、ほんの少しの辛みが舌の上に残る。
悪くはない。問題は、自分の主人が気に入るかどうかだ。
彼女は背後を振り返り、「庭師さんはどう思われますか?」と問いかける。
腕組みをして壁に背をもたれさせていた三郎は、露骨に顔をしかめると、面倒そうに答える。
「知らねえ。おまえがいいと判断すればそれでいいだろ」
「いつもどおり、毒味をお願いしたいのですが」
「冗談じゃねえ」
今日の庭師の反応はめずらしい。今まで、どんな料理だって必ず毒味をしていたのに。首を傾げたそのとき、カレーの匂いに混じって、龍進の匂いがするのに気づいた。
いつの間にか、家に帰ってきていたらしい。
睡蓮が急いで玄関に向かうと、ちょうど龍進が玄関の扉を開けて入ってきた。
彼女が膝をついて頭を下げようとしたところで、龍進にしては珍しくやや弾んだ声で言った。
「ああ。美味しそうな匂いだ。外まで匂ってきていた。食べるのが楽しみだよ」
「はい」
彼女もまた、なぜか、頬が微かに熱くなるのを感じる。
だが、彼が脱いだ外套を預かったところで、ふと違和感を覚えた。
一瞬、香辛料の強烈な匂いで、自分の鼻がおかしくなったかと思い、おもむろに外套に鼻を近づけ、すんすんともう一度、匂いを嗅ぐ。
この匂いは、知っている。しかも、特殊な匂いだ。
「……火薬……?」
「ああ。今日、仕事で扱ったからね」
「最近、同じ匂いを嗅いだことがあります。鼻の奥でなにかがはじけるような」
途端、龍進の目が微かに見開かれる。
「火薬にしては珍しい匂いだったから気になっていました」
「それは、どこでだ?」
「街を走っている運送会社のトラックの荷台から」
「いつのことだ?」
矢継ぎ早に質問を繰り出してくる龍進に戸惑いながら答える。
「二週間ほど前です」
龍進の顔がみるみる険しくなる。
「……そうか」
彼はしばらくの間、なにかを考えているようだったが、やがて睡蓮の肩から己の手を下ろすと静かに言った。
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