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第三章:まつろわぬ民
19:帝大総長
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本郷通りを経て、帝大の赤門をくぐった先には、黄色く色づいた銀杏並木が伸びていた。
その下を、午後の講義を終えた学生達が行き交い、本郷周辺に家を構える人々がゆっくりとした歩調で散策を楽しんでいる。
龍進は外套の裾を翻しながら、構内を進む。やがて右前方に見えてきたゴシック様式の建物の中に入った。入口の守衛から敬礼を受け、踊り場にステンドグラスが飾られた階段を三階まで昇る。
赤絨毯の廊下を東に向かって歩くと、突き当たりに大きな木製の扉。真鍮製のドアベルを鳴らすと、ややあって、中から「入っていいぞ」という女性の声が聞こえた。
「失礼いたします」
ドアノブを押し開いた向こうには、天井まで届く書棚の前で、分厚い本をめくっている女性の姿があった。
肩まで伸びた黒髪に、龍進とほぼ同じ背丈の、眼鏡をかけた洋装の美しい女性。
彼女は顔だけをこちらに向けると、口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「やあ、如月君。久しぶりだね」
「教授、ご無沙汰してしまい、申し訳ございません」
一礼をして頭をあげた龍進の顔を見るなり、彼女は、おや、とでもいうように、片眉を持ちあげる。
「しばらく見ないうちに、少し若返ったかい?」
「ご冗談はおやめください。世界有数の数学者であり、帝大の総長ともあろうかたが非科学的な言葉をお使いになるのはどうかと思いますが」
龍進が真顔で反論すると、柳本総長が悪戯っぽい表情になって、こちらに近づいてくる。
「いやいや、冗談ではないよ。特定の文化的コンテクストにおいて、若返ったという表現が用いられる場合、それは生物学的な年齢とは別の意味を持つのだから」
そして眼鏡を外すと、大きな翠玉を思わせる眼で、龍進の顔をまじまじと見つめながら、
「肌つやも良くなっている。最近、なにか良いことでもあったかい? たとえば、そうだな。良い結婚相手を見つけたとか」
「……確かに婚約はいたしましたが、それはあまり関係ないと考えております」
「やはりな。おめでとう」
「諸事情あってのことです。喫緊の課題が片付いたら、婚約は解消いたします」
「ふうむ。それはあれかい? 例の入れ墨の子かい?」
「おっしゃる通りです」
「そうか。なかなか複雑な事情があるようだ。なら、入れ墨の件も調査を進展させねばいけないな。民俗学教室には現在の状況を聞いておくよ」
柳本総長は口元に微かな笑みを浮かべながら、龍進に応接用のソファにかけるように促した。
どうにも調子が狂う。
ソファに腰掛けた龍進は、部屋の奥で自ら紅茶をいれている帝大総長の横顔を眺めながら、思わず苦々しい表情を浮かべた。
総長である以上、それなりの年齢であるはずなのだが、こうして見る限り、三十代と言われても信じてしまうような顔立ちをしている。その外見と同様、どうにもつかみどころのない性格をしている。
一方、帝大初の女性総長に選ばれるだけあって、その頭脳は明晰であり、いわゆる才媛だ。いくつもの難解な証明問題を解いた世界的に名の知れた数学者だが、人文科学から医学に至るまであらゆる分野に造詣が深いことでも有名だ。
彼女がティーカップを二つ乗せたトレイを手にやってきた。
「このお茶は、先週、南西諸島のフィールドワークから戻ってきたばかりの文化人類学者からもらったものだ。なかなかに美味しいぞ。ああ、安心しろ、麻酔成分のあるものは入っていない」
「……いただきます」
反応に困り、とりあえずカップを持ち上げる。立ち上る湯気からは、果実のような匂いが感じられる。少し飲むと、口の中いっぱいに甘い柑橘系の味が広がった。
「美味しいですね」
「良かった。君なら気に入ると思ったよ。そういえば、先日、君の使いが届けてくれた千疋屋の果物、あれは美味だった。この紅茶ともあいそうだ」
「今度は冬の果実をお持ちいたします」
「うれしいねえ」
それから彼女が、「ああ、お茶菓子を忘れていた。ちょうど、先日若手の経済学者の子が、西洋の焼き菓子をお土産に持ってきてくれたんだよ」と言って腰を浮かしかけたのを、龍進が手で制す。
「お気持ちだけで結構です。それよりも、今日は教授にご相談したいことがありましてお伺いしました。先日、入れ墨の調査をお願いしておきながら、恐縮なのですが」
一瞬、彼女の目が微かに細められたが、すぐに笑みを浮かべて席を立つ。
「まあ、慌てるな。急いだところでなにも変わらないぞ。むしろゆったり構えた方が、視野を広く持つことが出来る。特に君の立場ならそうすべきだ」
龍進は小さなため息とともに、鼻の付け根を親指と人差し指で揉み込む。
「待たせたね。焼き菓子だ。美味いぞ」
洋皿を手に戻ってきた彼女は、テーブルの上に菓子を乗せると、
「ついでに、君が求めているものだ。こちらもなかなか味わい深い」
そう言って、綴り紐で閉じた書類の束を差し出してきた。
表紙には『極秘 東京帝国大学 理化学研究所』の文字。
「これは…………」
龍進は一瞬息を飲む。
その下を、午後の講義を終えた学生達が行き交い、本郷周辺に家を構える人々がゆっくりとした歩調で散策を楽しんでいる。
龍進は外套の裾を翻しながら、構内を進む。やがて右前方に見えてきたゴシック様式の建物の中に入った。入口の守衛から敬礼を受け、踊り場にステンドグラスが飾られた階段を三階まで昇る。
赤絨毯の廊下を東に向かって歩くと、突き当たりに大きな木製の扉。真鍮製のドアベルを鳴らすと、ややあって、中から「入っていいぞ」という女性の声が聞こえた。
「失礼いたします」
ドアノブを押し開いた向こうには、天井まで届く書棚の前で、分厚い本をめくっている女性の姿があった。
肩まで伸びた黒髪に、龍進とほぼ同じ背丈の、眼鏡をかけた洋装の美しい女性。
彼女は顔だけをこちらに向けると、口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「やあ、如月君。久しぶりだね」
「教授、ご無沙汰してしまい、申し訳ございません」
一礼をして頭をあげた龍進の顔を見るなり、彼女は、おや、とでもいうように、片眉を持ちあげる。
「しばらく見ないうちに、少し若返ったかい?」
「ご冗談はおやめください。世界有数の数学者であり、帝大の総長ともあろうかたが非科学的な言葉をお使いになるのはどうかと思いますが」
龍進が真顔で反論すると、柳本総長が悪戯っぽい表情になって、こちらに近づいてくる。
「いやいや、冗談ではないよ。特定の文化的コンテクストにおいて、若返ったという表現が用いられる場合、それは生物学的な年齢とは別の意味を持つのだから」
そして眼鏡を外すと、大きな翠玉を思わせる眼で、龍進の顔をまじまじと見つめながら、
「肌つやも良くなっている。最近、なにか良いことでもあったかい? たとえば、そうだな。良い結婚相手を見つけたとか」
「……確かに婚約はいたしましたが、それはあまり関係ないと考えております」
「やはりな。おめでとう」
「諸事情あってのことです。喫緊の課題が片付いたら、婚約は解消いたします」
「ふうむ。それはあれかい? 例の入れ墨の子かい?」
「おっしゃる通りです」
「そうか。なかなか複雑な事情があるようだ。なら、入れ墨の件も調査を進展させねばいけないな。民俗学教室には現在の状況を聞いておくよ」
柳本総長は口元に微かな笑みを浮かべながら、龍進に応接用のソファにかけるように促した。
どうにも調子が狂う。
ソファに腰掛けた龍進は、部屋の奥で自ら紅茶をいれている帝大総長の横顔を眺めながら、思わず苦々しい表情を浮かべた。
総長である以上、それなりの年齢であるはずなのだが、こうして見る限り、三十代と言われても信じてしまうような顔立ちをしている。その外見と同様、どうにもつかみどころのない性格をしている。
一方、帝大初の女性総長に選ばれるだけあって、その頭脳は明晰であり、いわゆる才媛だ。いくつもの難解な証明問題を解いた世界的に名の知れた数学者だが、人文科学から医学に至るまであらゆる分野に造詣が深いことでも有名だ。
彼女がティーカップを二つ乗せたトレイを手にやってきた。
「このお茶は、先週、南西諸島のフィールドワークから戻ってきたばかりの文化人類学者からもらったものだ。なかなかに美味しいぞ。ああ、安心しろ、麻酔成分のあるものは入っていない」
「……いただきます」
反応に困り、とりあえずカップを持ち上げる。立ち上る湯気からは、果実のような匂いが感じられる。少し飲むと、口の中いっぱいに甘い柑橘系の味が広がった。
「美味しいですね」
「良かった。君なら気に入ると思ったよ。そういえば、先日、君の使いが届けてくれた千疋屋の果物、あれは美味だった。この紅茶ともあいそうだ」
「今度は冬の果実をお持ちいたします」
「うれしいねえ」
それから彼女が、「ああ、お茶菓子を忘れていた。ちょうど、先日若手の経済学者の子が、西洋の焼き菓子をお土産に持ってきてくれたんだよ」と言って腰を浮かしかけたのを、龍進が手で制す。
「お気持ちだけで結構です。それよりも、今日は教授にご相談したいことがありましてお伺いしました。先日、入れ墨の調査をお願いしておきながら、恐縮なのですが」
一瞬、彼女の目が微かに細められたが、すぐに笑みを浮かべて席を立つ。
「まあ、慌てるな。急いだところでなにも変わらないぞ。むしろゆったり構えた方が、視野を広く持つことが出来る。特に君の立場ならそうすべきだ」
龍進は小さなため息とともに、鼻の付け根を親指と人差し指で揉み込む。
「待たせたね。焼き菓子だ。美味いぞ」
洋皿を手に戻ってきた彼女は、テーブルの上に菓子を乗せると、
「ついでに、君が求めているものだ。こちらもなかなか味わい深い」
そう言って、綴り紐で閉じた書類の束を差し出してきた。
表紙には『極秘 東京帝国大学 理化学研究所』の文字。
「これは…………」
龍進は一瞬息を飲む。
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