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プロローグ
プロローグ:幼き日の少女、婚姻の約束
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時は大正。
場所は帝都の西方。かつて、この国の神が住んでいたと言われる地。
柔らかな春風が渡る草原の中、木綿の着物姿の少女が一人、仰向けに寝転がっていた。
色白で、華奢な少女。肩で切りそろえられた、艶やかな黒髪。
年の頃は、七、八歳といったところだろうか。
猫のように大きく、黒曜石のように光り輝く瞳は、しかし、今は、真っ赤に泣き腫らされている。
「私は、ひとりだ……」
小さく呟くと、着物の袖に隠れた右手の甲で目を再び擦り、鼻をすする。陽に照らされた草の優しい香りが鼻孔をつく。
父の妾の子として生まれた彼女に、家での居場所はない。義母も妹も、そして父でさえも、少女に冷たくあたる。
今日も、百名近い親族が集まった春の祭礼において、彼女は宴席につく家族とは別に、一人の女中として給仕させられていた。それに加え、配膳中に義妹に足をかけられ、親族一同の前で義母から厳しく叱責された少女は、ついに堪えきれず、気がつくと脱兎のごとく裏山へと駆け上がっていた。
草原の上を風が吹き渡り、寝転がった彼女の前髪を揺らす。帰りたくない。このままどこか遠くに行って、消えてしまいたい。
そのとき、右方からゆっくりと近づいてくる足音があった。
「ここにいたのか」
視線を向けると、そこに一人の少年の姿があった。彼は、確か、部屋の片隅に座っていたどこかの親族の子供だった。年の頃は、少女より五、六歳ほど上で、年齢の割に奇妙なほど落ち着いた佇まいが印象に残っていた。少女が義母や義妹から受けた仕打ちも見ていたのだろう。
正絹の着物姿の彼は、やおら彼女の隣に腰を下ろして静かな声で言った。
「ご家族が心配していらっしゃる」
「……そんなわけは、ありません。そもそも、私は家族の一員としても認められていませんから」
「そうか、悪かった」
少年は、それ以上はなにも言わなかった。それが彼女には意外に思えた。
それからしばらくの間、二人はなにも言わず、春風に吹かれていた。
一時間もそうしていただろうか。
草原を渡る風が冷たくなってきた頃、少年が立ち上がって言った。
「君は、本当の家族が欲しいと思ったことはあるのか?」
驚いて見上げた先の少年の顔は、しかし、夕日のまぶしさゆえによく見えなかった。
「…………はい」
少女は小さく、だけど、はっきりとうなずく。
自分も、本当の家族が欲しい。温かい家が欲しい。
「なるほど、僕と同じだな」
立ち上がらせようと伸ばしてきた手は力強く、そして温かかった。
それから、少年はなぜか少しだけ緊張をにじませた声で言った。
「君に尋ねたい。古来より、男が相手の名前を尋ねることが、どういう意味を持つか、知っているか」
「…………?」
首を横に振る。
「婚姻を申し出るという意味だ」
少女は目をぱちくりと見開いた。
目の前の少年が言っている意味が、すぐにはわからなかった。
「……ご冗談を」
「いや、僕は本気だ」
少年が手を握ったまま、少女の瞳を見据えて続けた。
「一目、見たとき、僕は君を妻として迎えたいと思った。そして、君と本当の家族を作りたい」
「…………」
言葉が出てこない。頭の中が真っ白になる。
「君の名前を教えてはくれないだろうか」
夕暮れ時の柔らかな風が草原を渡っていく中、彼の目に魅入られたかのように、少女はゆっくりと口を開く。
「…………私の…………、名前は………………」
*
暗闇の中、少女は目を覚ました。
薄ぼんやりとした視界に映るのは、春の空ではなく、染みの浮き出た木張りの天井。
あたりに漂うのは、やさしい草原の香りではなく、古びて破れの目立つ木綿の着物や身体に染みついた、血の匂い。
どうして、今になって、十年以上も前のことを夢に見たのだろう。
ほとんど失われてしまった幼少の記憶の一欠片。
草原での出会いの数ヶ月後。突如として故郷を襲った武装集団がもたらした殺戮の光景が、当時の記憶の大半を奪い去った。
少年との出会いの他に覚えているのは、屋敷の中に横たわる、父や義母を含むおびただしい数の銃殺遺体。
加えて、炎に包まれた集落を背に、追っ手におびえながら一人で山道を逃げるときの、己の荒い息づかいと、血まみれになった足の痛み。
少女は寝床から起き上がると、掛け布団代わりに使っている麻の布を折りたたみ、枕元に置かれた短刀を着物の懐に差し入れ、帯で硬く巻いた。
昔のことは、どうでもいい。
今は、ただ、彼に命じられるまま、傀儡として動けばいい。
今夜は新月。
伝えられた標的は、三人。
実業家と、役人と、そして、帝国陸軍の軍人。
寒風が吹き込む薄暗い長屋の一室で、少女は懐の短刀を握り、小さく息を吐く。
それから、家の戸を静かに開くと、夜の帝都へと走り出した。
場所は帝都の西方。かつて、この国の神が住んでいたと言われる地。
柔らかな春風が渡る草原の中、木綿の着物姿の少女が一人、仰向けに寝転がっていた。
色白で、華奢な少女。肩で切りそろえられた、艶やかな黒髪。
年の頃は、七、八歳といったところだろうか。
猫のように大きく、黒曜石のように光り輝く瞳は、しかし、今は、真っ赤に泣き腫らされている。
「私は、ひとりだ……」
小さく呟くと、着物の袖に隠れた右手の甲で目を再び擦り、鼻をすする。陽に照らされた草の優しい香りが鼻孔をつく。
父の妾の子として生まれた彼女に、家での居場所はない。義母も妹も、そして父でさえも、少女に冷たくあたる。
今日も、百名近い親族が集まった春の祭礼において、彼女は宴席につく家族とは別に、一人の女中として給仕させられていた。それに加え、配膳中に義妹に足をかけられ、親族一同の前で義母から厳しく叱責された少女は、ついに堪えきれず、気がつくと脱兎のごとく裏山へと駆け上がっていた。
草原の上を風が吹き渡り、寝転がった彼女の前髪を揺らす。帰りたくない。このままどこか遠くに行って、消えてしまいたい。
そのとき、右方からゆっくりと近づいてくる足音があった。
「ここにいたのか」
視線を向けると、そこに一人の少年の姿があった。彼は、確か、部屋の片隅に座っていたどこかの親族の子供だった。年の頃は、少女より五、六歳ほど上で、年齢の割に奇妙なほど落ち着いた佇まいが印象に残っていた。少女が義母や義妹から受けた仕打ちも見ていたのだろう。
正絹の着物姿の彼は、やおら彼女の隣に腰を下ろして静かな声で言った。
「ご家族が心配していらっしゃる」
「……そんなわけは、ありません。そもそも、私は家族の一員としても認められていませんから」
「そうか、悪かった」
少年は、それ以上はなにも言わなかった。それが彼女には意外に思えた。
それからしばらくの間、二人はなにも言わず、春風に吹かれていた。
一時間もそうしていただろうか。
草原を渡る風が冷たくなってきた頃、少年が立ち上がって言った。
「君は、本当の家族が欲しいと思ったことはあるのか?」
驚いて見上げた先の少年の顔は、しかし、夕日のまぶしさゆえによく見えなかった。
「…………はい」
少女は小さく、だけど、はっきりとうなずく。
自分も、本当の家族が欲しい。温かい家が欲しい。
「なるほど、僕と同じだな」
立ち上がらせようと伸ばしてきた手は力強く、そして温かかった。
それから、少年はなぜか少しだけ緊張をにじませた声で言った。
「君に尋ねたい。古来より、男が相手の名前を尋ねることが、どういう意味を持つか、知っているか」
「…………?」
首を横に振る。
「婚姻を申し出るという意味だ」
少女は目をぱちくりと見開いた。
目の前の少年が言っている意味が、すぐにはわからなかった。
「……ご冗談を」
「いや、僕は本気だ」
少年が手を握ったまま、少女の瞳を見据えて続けた。
「一目、見たとき、僕は君を妻として迎えたいと思った。そして、君と本当の家族を作りたい」
「…………」
言葉が出てこない。頭の中が真っ白になる。
「君の名前を教えてはくれないだろうか」
夕暮れ時の柔らかな風が草原を渡っていく中、彼の目に魅入られたかのように、少女はゆっくりと口を開く。
「…………私の…………、名前は………………」
*
暗闇の中、少女は目を覚ました。
薄ぼんやりとした視界に映るのは、春の空ではなく、染みの浮き出た木張りの天井。
あたりに漂うのは、やさしい草原の香りではなく、古びて破れの目立つ木綿の着物や身体に染みついた、血の匂い。
どうして、今になって、十年以上も前のことを夢に見たのだろう。
ほとんど失われてしまった幼少の記憶の一欠片。
草原での出会いの数ヶ月後。突如として故郷を襲った武装集団がもたらした殺戮の光景が、当時の記憶の大半を奪い去った。
少年との出会いの他に覚えているのは、屋敷の中に横たわる、父や義母を含むおびただしい数の銃殺遺体。
加えて、炎に包まれた集落を背に、追っ手におびえながら一人で山道を逃げるときの、己の荒い息づかいと、血まみれになった足の痛み。
少女は寝床から起き上がると、掛け布団代わりに使っている麻の布を折りたたみ、枕元に置かれた短刀を着物の懐に差し入れ、帯で硬く巻いた。
昔のことは、どうでもいい。
今は、ただ、彼に命じられるまま、傀儡として動けばいい。
今夜は新月。
伝えられた標的は、三人。
実業家と、役人と、そして、帝国陸軍の軍人。
寒風が吹き込む薄暗い長屋の一室で、少女は懐の短刀を握り、小さく息を吐く。
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