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14.蝕む心
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離れには、煌々とした電気がついている。思ったとおり、アデレイドが中にいるようだ。
書斎のドアを開けると、彼女はソファーに座って携帯電話ををいじっている。
「おかえり。ヒルト子爵家のジェフリー様が学院にまで迎えに来たんですって? しかも運転手もつけないで、安っぽい大衆車を自分で運転していたそうね」
おそらくデニスから連絡が入ったのだろう。車の種類も値段もハイジにはよくわからないが、ジェフリーの車は一般的な大きさで、新車のようにきれいだった。
普段はお抱え運転手に車の運転をさせていても、免許を取得して自分で運転する貴族も少なくない。
アデレイドが侯爵夫妻と同じようにジェフリーを馬鹿にしているように感じて、ハイジはむっとする。
「ご自分の婚約者に、そのような言い方は失礼じゃありませんか?」
「何言っているの。自分で運転するにしても、それ相応の車でないと周りに笑われるじゃない。婚約者を迎えに来るのに、みすぼらしい車だなんて、こっちを侮辱しているようなものよ」
ジェフリーのほうが失礼だというアデレイドに、ハイジは茫然とした。
「それで? どこへ行ってきたの?」
話を変えるように聞かれ、ハイジはため息をついて答える。
「山頂の展望台に連れて行っていただきました」
「ええ? そんなところで何をするのよ」
アデレイドは驚くとともに呆れていた。
「夕日が沈むのを見ていました」
ハイジは、それが”だるま夕日”という珍しいものであることは言わない。あの感動を、アデレイドに話したくなかった。
「夕日、ねえ。そのあとは? 服を買ってもらわなったの?」
入れ替わるために着替えたいと言っていたことをデニスから聞いていたのだろう。制服のままで鞄しかもっていないハイジを見て、アデレイドが首を傾げた。
「もうアパレルのお店が閉店する時間でしたので……」
携帯電話の手続きで遅くなったために、店が閉まっていたのだが、アデレイドは山頂から町に戻ってきた時間が遅かったと思ったようだ。
「ふうん。夕日なんて、もっと近いところでいくらでも見られるのに。そんなことに時間を費やして馬鹿みたい。それで? 食事はどこへ連れて行ってもらったの?」
「有名ホテルのレストランで、ごちそうになりました」
食事がすんだあとはまっすぐ帰ってきたというと、アデレイドは肩をすくめる。
「そこは、評判のいいレストランだから評価してあげるけど、デートに山頂の展望台はないわ! 詰まらない人ね」
「次に誘われたらどうしますか?」
断るつもりなのか、ハイジに押し付けるつもりなのかどちらだろうと気になった。
「会いたくないけど、婚約者だから会わないとね。仕方がないから、私が行くわよ」
いやなことはいつも押し付けてくるアデレイドが、ジェフリーに会おうとしていることにハイジは驚いた。
(もしかして、アデレイドはジェフリー様に興味があるの?)
そう思うと、ハイジの胸は締め付けられるように痛んだ。
その時、内線電話が鳴る。ハイジが受話器を取ると、それはウルリヒからの電話だった。
「お嬢様は、まだそちらにいらっしゃるのですか? すぐ大旦那様のところへいらっしゃるように伝えてください!」
侯爵が怒っているのか、ウルリヒの声は焦っているようだ。ハイジは「わかりました」と言って電話を切ると、アデレイドに伝える。
「侯爵が今日のジェフリー様とのお出かけのことをうかがいたいと執務室で待っているそうよ。急いできてくださいって、ウルリヒが困っているわ」
「そんな。こっちだってまだ詳しく教えてもらっていないのに、おじい様に聞かれたって答えられないわ」
アデレイドは腕を組んで考え出す。
「仕方がないわ。ハイジが私の代わりに行ってきて」
「ええ?」
「ちゃんと答えられないとおじい様はしつこいの。余計なことを言って入れ替わっていることをばれたくないじゃない」
「無理です。私は、侯爵の執務室がどこにあるか知りません」
ハイジは、アデレイドの部屋にしか行ったことがないので、ほかの部屋が屋敷のどこにあるのか、まったくわからない。
「教えてあげるわよ」
アデレイドは、机から紙を出すと、屋敷の見取り図を描きだす。
「おじい様の執務室は三階にあるの。中央の大階段を上って、二つ目の部屋よ」
一階は大広間を中心としたお客様を迎えるための部屋ばかりで、侯爵家の私的な部屋は二階と三階にあるらしい。侯爵は、当主の部屋の上に誰かの部屋があってはいけないという考えから、執務室や私室を最上階の三階にしているが、老齢で足を痛めているためエレベーターを使っているという。
「エレベーターはおじい様専用だから、勝手に使うと怒られるから気を付けてね。それと、多分、遅くなるだろうから、ハイジは私の部屋で休むといいわ」
そのままアデレイドとして一晩過ごせと言われてハイジはびっくりした。
「もうすぐ卒業だから宿題もないでしょう。明日はおじい様たちと朝食をとってから、こっちに来てね」
「朝食も? そんな……」
混乱するハイジから鞄を取り上げると、アデレイドは背中を押す。
「おじい様もおばあ様も、反論したり口答えをしたりすると、うるさいから、なんでも”はい”って素直に返事をしておいたほうがいいわよ。じゃあ、私はここに泊まるから」
ハイジを離れから追い出して、彼女は玄関のドアの鍵をしめた。離れの鍵は全てアデレイドの手に中で、入れ替わっていたハイジは、自分の部屋の鍵を離れのクローゼットに置いていた。
着替える暇もなく離れを締め出されたハイジは、部屋にも戻れないのでアデレイドのいうとおりにするしかない。
書いてもらった見取り図を頭に叩き込んでから、ハイジが屋敷のドアを開けると、玄関ホールでうろうろしていたウルリヒが飛んでくる。
「ああ、お嬢様。お急ぎください」
彼はそういうと、率先して案内するようにエレベーターへ向かう。
「エレベーターを使うと、おじい様に怒られない?」
ハイジが尋ねると、「大旦那様にはお許しを得ております」といって、エレベーターに乗り込む。
これ以上侯爵を待たせるほうが怒られるというのだ。
執務室には、侯爵夫人もソファーに座って待っていた。ウルリヒは、ハイジに侯爵夫妻の向かい側に座るように促すと、てきぱきとお茶をいれる。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
侯爵夫妻やハイジにお茶を出した後、ウルリヒが一礼した。
「ああ。ご苦労だったな。もう帰っていいぞ」
時計を見ると、召使いの就業時間はとっくに過ぎている。ハイジが帰ってきた時が、定時頃だったから、ウルリヒは残業させられたのだ。彼に迷惑をかけたと思うと申し訳ない。
ウルリヒが出て行った後、侯爵が口を開く。
「では、今日のことを聞こうか」
「午後にジェフリー様から、電話がかかってきたんです。ギーゼラが出て、”これからアデレイドを誘って出かけてもいいか”と聞かれたそうですので、私は今後のことだと思って”いいですよ”と了承しただけです。今日の学校帰りにそのまま連れ出すとは思ってもいなかったわ!」
侯爵夫人が怒りながら答えた。
召使いを仲介させているから、ニュアンスの違いも分からなかったのだろう。侯爵夫人の了解の返事が伝わると、ジェフリーは「では、今からソーンダーズ学院へ迎えに行って、夕食を食べてから送り届けます」といって、一方的に電話を切ったらしい。
「ヒルト子爵家が非常識なことはわかっていたけれど、当日のお誘いなら先にきちんというべきでしょう!」
切られた後で、すぐに折り返しの電話をかけたそうだが、”ただいま運転中で電話に出ることができません”というアナウンスが繰り返されるだけだったそうだ。
「運転中ということは、運転手もつけずに嫡男が自分で運転していたのか?」
侯爵がじろりとハイジを見た。以前なら、その厳しいまなざしに委縮していたかもしれないが、今の彼女にとって彼らは、”大事な孫を見分けられないばかりか都合のいいように利用する人たち”だ。血のつながりがあっても肉親の情などみじんも感じられない。
「はい。運転には慣れているご様子でした」
子供が飛び出した時、誰もけががなく済んだのは、ジェフリーが交通ルールを守った安全運転だったからだ。
けれど、侯爵夫人は「なんてことかしら」とあきれたように首を振り、侯爵も大きなため息をつく。
「子爵家はいつまで経っても庶民感覚が抜けないようだな。自分で運転をする貴族など、社交界では侮られるだけだ」
侯爵が言うには、運転手を雇えない貧乏貴族ならいざ知らず、裕福なのに運転手を使わないのは愚か者のすることだそうだ。
「それで? どこへ行ってきたんだ?」
侯爵に聞かれて、ハイジはアデレイドに言ったことを繰り返す。
「山頂の展望台に連れて行っていただき、ホテルのレストランで夕食をごちそうしていただきました」
侯爵夫妻の感想も、アデレイドとまったく同じだった。
そのあとは、何を話しただの、何を食べただの、根掘り葉掘り聞かれてうんざりとした。
アデレイドに忠告されていなかったら、”もういいでしょう”と話を切り上げたかったが、ハイジは当り障りなく答えて、夫妻の意見にも、「はい、そうですね」と素直に答えた。
「ふん。ホテルまで連れて行っておいて、あいつは手を出さなかったのか」
「あんなこと言って誘っておいて、失礼ですわね」
夫妻の言い分を聞いていると、ジェフリーがすぐにでも手を出してくる節操なしのように聞こえる。
終始紳士的だった彼のことを思えば、ハイジは、ヒルト子爵家よりも、フォールコン侯爵家のほうがよっぽど下品で失礼な人たちだと思った。
侯爵夫妻から解放されて、ハイジがアデレイドの部屋に行ったのは、普段ならとっくに就寝しているような時間だった。
アデレイドの部屋で一人になると、ハイジは制服のポケットから携帯電話を取り出す。
離れに行く前に鞄から出して、こっそりポケットに入れておいてよかったとほっと息を吐いた。
携帯電話を開くと、早速ジェフリーからメールが来ている。
”今日は楽しかったよ。疲れていたら、返信はいらない。おやすみ”
”私も楽しかったです。おやすみなさい”
ハイジはそう返信すると、携帯電話を閉じた。
それから、改めてアデレイドの部屋をよく見る。ハイジの部屋は狭くて一室しかない使用人部屋だが、アデレイドの部屋は居間に衣裳部屋に寝室にと続き部屋が三室もあり、それぞれハイジが使っている部屋より広い。衣裳部屋のクローゼットには、相変わらず豪華なドレスや小物のほか、上質な布地で作られた夜着や真新しい下着がたくさん入っている。
寝室のベッドはクイーンサイズでお布団もふかふかだ。ハイジは、シングルサイズの堅いベッドでしか寝たことがない。
バスルームのシャンプーやソープ、基礎化粧品などは、すべて有名ブランドのもので、脱衣室にはハイジが使っているものより上質のタオルが備え付けられていた。バスタブには、熱いお湯が満たされていて、いつでも入れるようになっている。
ハイジは、お風呂に入って疲れを落とすと、バスローブを身にまとい、濡れた髪にタオルを巻きつけた。洗面台の大きな鏡には、アデレイドそっくりな自分の顔が映っている。
(誰も見分けがつかないのだから、私がアデレイドとしてジェフリー様と付き合っても構わないでしょう)
ジェフリーとデートをしているときから、ハイジは、彼とアデレイドを会わせたくない、と考えていた。携帯電話をねだったのもそのためだった。
書斎のドアを開けると、彼女はソファーに座って携帯電話ををいじっている。
「おかえり。ヒルト子爵家のジェフリー様が学院にまで迎えに来たんですって? しかも運転手もつけないで、安っぽい大衆車を自分で運転していたそうね」
おそらくデニスから連絡が入ったのだろう。車の種類も値段もハイジにはよくわからないが、ジェフリーの車は一般的な大きさで、新車のようにきれいだった。
普段はお抱え運転手に車の運転をさせていても、免許を取得して自分で運転する貴族も少なくない。
アデレイドが侯爵夫妻と同じようにジェフリーを馬鹿にしているように感じて、ハイジはむっとする。
「ご自分の婚約者に、そのような言い方は失礼じゃありませんか?」
「何言っているの。自分で運転するにしても、それ相応の車でないと周りに笑われるじゃない。婚約者を迎えに来るのに、みすぼらしい車だなんて、こっちを侮辱しているようなものよ」
ジェフリーのほうが失礼だというアデレイドに、ハイジは茫然とした。
「それで? どこへ行ってきたの?」
話を変えるように聞かれ、ハイジはため息をついて答える。
「山頂の展望台に連れて行っていただきました」
「ええ? そんなところで何をするのよ」
アデレイドは驚くとともに呆れていた。
「夕日が沈むのを見ていました」
ハイジは、それが”だるま夕日”という珍しいものであることは言わない。あの感動を、アデレイドに話したくなかった。
「夕日、ねえ。そのあとは? 服を買ってもらわなったの?」
入れ替わるために着替えたいと言っていたことをデニスから聞いていたのだろう。制服のままで鞄しかもっていないハイジを見て、アデレイドが首を傾げた。
「もうアパレルのお店が閉店する時間でしたので……」
携帯電話の手続きで遅くなったために、店が閉まっていたのだが、アデレイドは山頂から町に戻ってきた時間が遅かったと思ったようだ。
「ふうん。夕日なんて、もっと近いところでいくらでも見られるのに。そんなことに時間を費やして馬鹿みたい。それで? 食事はどこへ連れて行ってもらったの?」
「有名ホテルのレストランで、ごちそうになりました」
食事がすんだあとはまっすぐ帰ってきたというと、アデレイドは肩をすくめる。
「そこは、評判のいいレストランだから評価してあげるけど、デートに山頂の展望台はないわ! 詰まらない人ね」
「次に誘われたらどうしますか?」
断るつもりなのか、ハイジに押し付けるつもりなのかどちらだろうと気になった。
「会いたくないけど、婚約者だから会わないとね。仕方がないから、私が行くわよ」
いやなことはいつも押し付けてくるアデレイドが、ジェフリーに会おうとしていることにハイジは驚いた。
(もしかして、アデレイドはジェフリー様に興味があるの?)
そう思うと、ハイジの胸は締め付けられるように痛んだ。
その時、内線電話が鳴る。ハイジが受話器を取ると、それはウルリヒからの電話だった。
「お嬢様は、まだそちらにいらっしゃるのですか? すぐ大旦那様のところへいらっしゃるように伝えてください!」
侯爵が怒っているのか、ウルリヒの声は焦っているようだ。ハイジは「わかりました」と言って電話を切ると、アデレイドに伝える。
「侯爵が今日のジェフリー様とのお出かけのことをうかがいたいと執務室で待っているそうよ。急いできてくださいって、ウルリヒが困っているわ」
「そんな。こっちだってまだ詳しく教えてもらっていないのに、おじい様に聞かれたって答えられないわ」
アデレイドは腕を組んで考え出す。
「仕方がないわ。ハイジが私の代わりに行ってきて」
「ええ?」
「ちゃんと答えられないとおじい様はしつこいの。余計なことを言って入れ替わっていることをばれたくないじゃない」
「無理です。私は、侯爵の執務室がどこにあるか知りません」
ハイジは、アデレイドの部屋にしか行ったことがないので、ほかの部屋が屋敷のどこにあるのか、まったくわからない。
「教えてあげるわよ」
アデレイドは、机から紙を出すと、屋敷の見取り図を描きだす。
「おじい様の執務室は三階にあるの。中央の大階段を上って、二つ目の部屋よ」
一階は大広間を中心としたお客様を迎えるための部屋ばかりで、侯爵家の私的な部屋は二階と三階にあるらしい。侯爵は、当主の部屋の上に誰かの部屋があってはいけないという考えから、執務室や私室を最上階の三階にしているが、老齢で足を痛めているためエレベーターを使っているという。
「エレベーターはおじい様専用だから、勝手に使うと怒られるから気を付けてね。それと、多分、遅くなるだろうから、ハイジは私の部屋で休むといいわ」
そのままアデレイドとして一晩過ごせと言われてハイジはびっくりした。
「もうすぐ卒業だから宿題もないでしょう。明日はおじい様たちと朝食をとってから、こっちに来てね」
「朝食も? そんな……」
混乱するハイジから鞄を取り上げると、アデレイドは背中を押す。
「おじい様もおばあ様も、反論したり口答えをしたりすると、うるさいから、なんでも”はい”って素直に返事をしておいたほうがいいわよ。じゃあ、私はここに泊まるから」
ハイジを離れから追い出して、彼女は玄関のドアの鍵をしめた。離れの鍵は全てアデレイドの手に中で、入れ替わっていたハイジは、自分の部屋の鍵を離れのクローゼットに置いていた。
着替える暇もなく離れを締め出されたハイジは、部屋にも戻れないのでアデレイドのいうとおりにするしかない。
書いてもらった見取り図を頭に叩き込んでから、ハイジが屋敷のドアを開けると、玄関ホールでうろうろしていたウルリヒが飛んでくる。
「ああ、お嬢様。お急ぎください」
彼はそういうと、率先して案内するようにエレベーターへ向かう。
「エレベーターを使うと、おじい様に怒られない?」
ハイジが尋ねると、「大旦那様にはお許しを得ております」といって、エレベーターに乗り込む。
これ以上侯爵を待たせるほうが怒られるというのだ。
執務室には、侯爵夫人もソファーに座って待っていた。ウルリヒは、ハイジに侯爵夫妻の向かい側に座るように促すと、てきぱきとお茶をいれる。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
侯爵夫妻やハイジにお茶を出した後、ウルリヒが一礼した。
「ああ。ご苦労だったな。もう帰っていいぞ」
時計を見ると、召使いの就業時間はとっくに過ぎている。ハイジが帰ってきた時が、定時頃だったから、ウルリヒは残業させられたのだ。彼に迷惑をかけたと思うと申し訳ない。
ウルリヒが出て行った後、侯爵が口を開く。
「では、今日のことを聞こうか」
「午後にジェフリー様から、電話がかかってきたんです。ギーゼラが出て、”これからアデレイドを誘って出かけてもいいか”と聞かれたそうですので、私は今後のことだと思って”いいですよ”と了承しただけです。今日の学校帰りにそのまま連れ出すとは思ってもいなかったわ!」
侯爵夫人が怒りながら答えた。
召使いを仲介させているから、ニュアンスの違いも分からなかったのだろう。侯爵夫人の了解の返事が伝わると、ジェフリーは「では、今からソーンダーズ学院へ迎えに行って、夕食を食べてから送り届けます」といって、一方的に電話を切ったらしい。
「ヒルト子爵家が非常識なことはわかっていたけれど、当日のお誘いなら先にきちんというべきでしょう!」
切られた後で、すぐに折り返しの電話をかけたそうだが、”ただいま運転中で電話に出ることができません”というアナウンスが繰り返されるだけだったそうだ。
「運転中ということは、運転手もつけずに嫡男が自分で運転していたのか?」
侯爵がじろりとハイジを見た。以前なら、その厳しいまなざしに委縮していたかもしれないが、今の彼女にとって彼らは、”大事な孫を見分けられないばかりか都合のいいように利用する人たち”だ。血のつながりがあっても肉親の情などみじんも感じられない。
「はい。運転には慣れているご様子でした」
子供が飛び出した時、誰もけががなく済んだのは、ジェフリーが交通ルールを守った安全運転だったからだ。
けれど、侯爵夫人は「なんてことかしら」とあきれたように首を振り、侯爵も大きなため息をつく。
「子爵家はいつまで経っても庶民感覚が抜けないようだな。自分で運転をする貴族など、社交界では侮られるだけだ」
侯爵が言うには、運転手を雇えない貧乏貴族ならいざ知らず、裕福なのに運転手を使わないのは愚か者のすることだそうだ。
「それで? どこへ行ってきたんだ?」
侯爵に聞かれて、ハイジはアデレイドに言ったことを繰り返す。
「山頂の展望台に連れて行っていただき、ホテルのレストランで夕食をごちそうしていただきました」
侯爵夫妻の感想も、アデレイドとまったく同じだった。
そのあとは、何を話しただの、何を食べただの、根掘り葉掘り聞かれてうんざりとした。
アデレイドに忠告されていなかったら、”もういいでしょう”と話を切り上げたかったが、ハイジは当り障りなく答えて、夫妻の意見にも、「はい、そうですね」と素直に答えた。
「ふん。ホテルまで連れて行っておいて、あいつは手を出さなかったのか」
「あんなこと言って誘っておいて、失礼ですわね」
夫妻の言い分を聞いていると、ジェフリーがすぐにでも手を出してくる節操なしのように聞こえる。
終始紳士的だった彼のことを思えば、ハイジは、ヒルト子爵家よりも、フォールコン侯爵家のほうがよっぽど下品で失礼な人たちだと思った。
侯爵夫妻から解放されて、ハイジがアデレイドの部屋に行ったのは、普段ならとっくに就寝しているような時間だった。
アデレイドの部屋で一人になると、ハイジは制服のポケットから携帯電話を取り出す。
離れに行く前に鞄から出して、こっそりポケットに入れておいてよかったとほっと息を吐いた。
携帯電話を開くと、早速ジェフリーからメールが来ている。
”今日は楽しかったよ。疲れていたら、返信はいらない。おやすみ”
”私も楽しかったです。おやすみなさい”
ハイジはそう返信すると、携帯電話を閉じた。
それから、改めてアデレイドの部屋をよく見る。ハイジの部屋は狭くて一室しかない使用人部屋だが、アデレイドの部屋は居間に衣裳部屋に寝室にと続き部屋が三室もあり、それぞれハイジが使っている部屋より広い。衣裳部屋のクローゼットには、相変わらず豪華なドレスや小物のほか、上質な布地で作られた夜着や真新しい下着がたくさん入っている。
寝室のベッドはクイーンサイズでお布団もふかふかだ。ハイジは、シングルサイズの堅いベッドでしか寝たことがない。
バスルームのシャンプーやソープ、基礎化粧品などは、すべて有名ブランドのもので、脱衣室にはハイジが使っているものより上質のタオルが備え付けられていた。バスタブには、熱いお湯が満たされていて、いつでも入れるようになっている。
ハイジは、お風呂に入って疲れを落とすと、バスローブを身にまとい、濡れた髪にタオルを巻きつけた。洗面台の大きな鏡には、アデレイドそっくりな自分の顔が映っている。
(誰も見分けがつかないのだから、私がアデレイドとしてジェフリー様と付き合っても構わないでしょう)
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