ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

百門一新

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11(最終話)

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 その遊園地は、平日とあって広い駐車場もがらがらだった。入口近くに車が停められ、ゼンさんは慣れたようにミトさんを車椅子に移した。

 ミトさんは小さな白いレースの日傘を持っており、車椅子が安定すると慣れたようにそれを差した。太陽の日差しが遮られ、白い傘越しに明るい光が彼女を照らし出す。にっこりとほほ笑んだその姿を、ゼンさんは綺麗だと思った。

 ゼンさんとカワさんは、仕上げとばかりに看護師たちから渡されていた麦わら帽子をかぶった。手ぶらの中、カワさんは自前のカメラを首に提げた。


 小奇麗な格好をした貴婦人のような車椅子のミトさん、休日を自宅で過ごすような緩い生地に脂肪を乗せたカワさん、しゃんと伸びた長身の細身に白いシャツをつけ、彫りの深い浅黒い顔に鋭い瞳をした無愛想な面持ちをしたゼンさん。

 その三人の組み合わせをマサヨシの向こうに見つめ、遊園地のチケット販売の受付嬢は、なんとも奇妙な組み合わせだと言わんばかりの顔をした。


 中に入るなり、ミトさんの車椅子を押したカワさんが、正直な感想を述べた。

「小さな遊園地だねぇ」
「大都会の遊園地じゃないんだ、これでも立派なもんだぞ」

 以前住んでいた場所の、こじんまりとした動物園にしか入ったことがないゼンさんは、「くそ、贅沢者が」と愚痴った。

 ここはパンフレットでざっと見る限りでも、端からは端まで徒歩で五十分かかる広さであるのだから、決して小さいとはいえないだろう。

 動物コーナー、アトラクションコーナー、飲食店コーナー、土産品店コーナー、植物コーナーの五ヶ所からなっており、移動用として有料の園内バスも行き来している。

「入場料も取るのに、バスでも金を取るのか」

 ゼンさんがそう口にすると、マサヨシは呆れたような吐息をもらした。

「公園と植物園はコーナーがひとまとめにされていて、アトラクションの方へ入らないのだったらチケットも安いんだよ。そもそも、皆が皆それだけを目当てに来たとしてみろよ、途端に経営が成り立たなくなるんじゃないか?」

 マサヨシの意見は、もっともだと思えた。当遊園地は隅々まで整備が行き届き、建物や敷地も増築している。これだけ広いうえ、各種専門のスタッフを雇っているのだから、客が少ない時はさぞ苦しい経営になるのだろう。

 ゼンさんはそう考え、ぐう、と妙な声を上げてそれ以上は何も言わなかった。

 カワさんは、ミトさんが乗った車椅子をゆっくり押し進めた。先頭を歩くマサヨシは、時々後方にいる三人の老人たちをチラリと確認して、一定の距離を開けつつも歩調を合わせた。
 ゼンさんはカワさんに「替わろうか」と提案したが、カワさんはそれを丁重に断った。ミトさんの車椅子を押す役目が、とても誇らしく、そして気に入っているようでもあった。

 植物コーナーは、遊園地の中央にある噴水から、南方向に位置していた。アトラクションコーナーとは正反対の位置にあり、そこは風が吹くたびに葉音が耳に入った。
 樹木が立ち並ぶ通路を十分ほど進むと、きちんと整頓された花壇の広い空間が四人を出迎えた。定められた花壇には同じ色の花が植えられ、親子連れ、恋人同士、といった客が見渡せる広い敷地内にちらほらといた。

「まぁ、すごいわ」

 喜ぶミトさんのそばで、ゼンさんは名前も分からない左右の花を見渡した。マサヨシは彼らを誘導しながら、パンフレットに記載されてある地図へ目を落とした。

「一番奥に、目玉として向日葵園がある。一番敷地を取る花みたいだ」

 マサヨシは続けて「父さん」とゼンさんを呼び、腕を進行方向に真っ直ぐ突き出した。ゼンさんはそちらを見やって、思わず「おぉ」と言ってしまった。

 そこには三つの通路を隔てて、淡い黄色の絨毯が奥まで広がっていたのだ。それが全て向日葵だと認識出来るまで、そんなにはかからなかった。小さな向日葵は頭上の空を仰ぎ、太陽の光を浴びてたくましくと背を伸ばしていた。

「ほら、ミトさん、向日葵だよ。一面の向日葵だ」

 ゼンさんは言って促し、車椅子を押すカワさんの足も自然と早まった。ミトさんは敷地の奥にすっかり目を奪われ、興奮するカワさんの急かすような押し具合にも気付かないようだった。からからからか、とせわしなく上がる車輪音があった。

 腰の高さの向日葵が、一面に広がっていた。太陽はちょうど頭上に位置している。
 景色をよく見渡すには麦わら帽子が邪魔だと感じ、ゼンさんは風が強く吹き抜けた際に押さえるのも面倒だと思って取った。カワさんも、習うように麦わら帽子を手に持った。

 向日葵園の中央の通路まで入ったところで、ゼンさんとカワさんはようやく歩くペースを落とし、立ち止まった。ここに立っていると、視界一面に広がる向日葵だけが目に留まって、それが青い空の向こうまで続いているようにも感じられた。

「ミトさん、向日葵だ。俺たち、ここまで来たんだぜ」

 ゼンさんの声は、思わず少し上ずってしまった。カワさんもまた感動したように瞳を潤ませて、けれどしっかりと頷いて、ミトさんが座る車椅子を通路の中心まで押し進めた。
 喉元が震えて、すぐに言葉が出て来ないようだ。ミトさんはしばらく、しっとりと濡れた瞳を見開いていた。カワさんが、彼女に話し掛けた。

「ミトさん、分かるかい? 向日葵の花だよ。暖かい花だねぇ」
「きれい。とても、きれいだわ。ええ、とても暖かい花ね。……ひまわりが、こんなにもたくさん」

 ゼンさんは、彼女と話すカワさんからカメラを受け取った。レンズを覗きこむと、ミトさんの瞳が湿り、カワさんの瞳も濡れてきらきらと光っているのが見えた。
 レンズを覗きこみながら、ゼンさんは涙腺が緩くなるのをどうにか堪え、「はい、ちーず」と震える唇に無理やり笑みを張りつかせた。ぱしゃり、と鳴ったカメラ越しに、ミトさんとカワさんがそれぞれ感極まった笑みを見せていた。

 自分でも撮ってみたいというミトさんにカメラを渡し、ゼンさんは辺りを見回した。夏の蒸し暑い新鮮な空気に交じり、同じ敷地内に咲き誇る濃厚な花の匂いがした。帽子を持っている手には、既に汗をかいていた。

 なんとなしに振り返ると、カメラを構えるミトさんの後ろで、替わりに傘を差しているカワさんの姿があった。白いレースの小さな傘は、妙な具合で彼とマッチしている気がした。
 けれど、ゼンさんは彼を笑わなかった。

 カワさんは傘を少し下げるようにして、声を押し殺して泣いていた。一生懸命笑おうともがきながら、けれどすぐには表情を戻せない様子で、必死に下唇を噛みしめている。そっとカメラを降ろしたミトさんの瞳から、一滴の涙が頬を伝った。

 自分の目尻に浮かんだ涙を、ゼンさんは二人に気付かれないうちに乱暴に拭った。三人で立ち尽くして、ただ、世界そのものになってしまったような向日葵の絨毯を眺めた。
 しばらく、誰も動かなかった。ようやくミトさんが、そっと振り返って「どうして泣いているの」と震える声で微笑み、カワさんが「嬉しくて」とどうにか言って、大人げないほど顔をくしゃくしゃにして、今度は小さな声をもらして泣いた。

 数日後にミトさんは、愛之丘老人施設からいなくなる。そして、これが最初で最後に果たせた約束であることを、ゼンさんもカワさんも知っていた。

 ゼンさんはぎゅっと拳を握りしめると、奥歯を食いしばった。泣いてはいけない、泣いてはいけない。そう自分に言い聞かせて笑顔を繕い、彼はミトさんの横顔にそっと微笑みかけた。

「きっと、カワさんは三人でここに来られたのが、とても嬉しいんだ。感極まっちまったのさ」
「――そう、きっとそうね。とても嬉しいのに、なんだか私、とても切ないの」

 物静かなミトさんの横顔から、涙が頬を伝って流れ落ちていった。


 立ち止まる事なく通路を奥まで歩いていたのは、マサヨシだけだった。ゼンさんは背広姿の息子を振り返り、陽炎さえ見えるような日差しの道に目を細めた。

 大きな背広の背中が遠く感じた。両腕をポケットに詰め込み、少し項垂れるように歩くマサヨシの背は、長い年月を経て全てを拒絶しているような気がした。
 

 遠い。俺たちの間には、これだけの距離がある。

 ゼンさんは、カワさんとミトさんからそっと離れると、ポケットに手を入れた。触れたロケットペンダントには、新婚だった頃のゼンさんと妻、そして赤子のマサヨシが映っている。
 写真はひどく古い。結婚式同様、ゼンさんが奮発して作らせたものだ。しかし、お金が足りずに作れたのはこの一つだけで、妻はそのペンダントも忘れて家を飛び出していった。

「マサヨシ」

 向日葵園の通路を進んだゼンさんは、彼から五メートルの距離で立ち止まって、そう声をかけた。

 同じように立ち止まったマサヨシが、しばらくかかって、こちらに顔を向けてきた。力の抜けた怪訝そうな、どこか面影が似ている二人の表情が向かい合って、数十秒の沈黙が続いた。

「…………お前に渡したいものがある。いや、返さなきゃならないものだ」

 ゼンさんは、訝しむマサヨシに歩み寄った。ロケットペンダントを取り出すと、彼の背広ポケットのにそれを押し込んだ。

「母さんの物だ。返す。大事にしろ」

 ゼンさんはそれだけ言うと、少し後退して彼から距離を取った。

 マサヨシは、ポケットに入れられたペンダントを取り出し、中を開いて切なげに目を細めた。彼の鼻頭、目尻、眉間に、ゼンさんの知らない薄皺が刻まれた。

 大きくて厚いマサヨシの手に乗ったロケットペンダントは、褪せた金色と、塗装の剥がれた鉄色を太陽のもとにさらしていた。ゆっくりと後退したゼンさんは、黙ってペンダントを見降ろす息子をじっと見つめた。

 もうしばらくで、さよならだ。

 こうして再会して、大人になったお前に手渡せて、きっと良かったと思う。

「――今日は助かった、ありがとう。突然こんなこと頼んで悪かった。じゃあな」

 ゼンさんはそう告げて、踵を返した。少し前の自分なら、感謝も謝罪の言葉も口に出来なかっただろうことを静かに思った。

 吹き抜けたよそ風が心地よく、空は一層青く輝いて見えた。強い日差しは木漏れ日のようで、手にかいた汗さえもなぜか清々しく感じる。

 ミトさんとカワさんが、楽しそうに話しながら、ゆっくりとこちらへ向かってやってくるのが見えた。目が合った途端にカワさんが「お~い」と元気良く手を振ってくる。両目と鼻はまだ赤いが、彼らの涙はすっかり乾いていて、ミトさんもすっきりとした微笑を見せて小さく手を上げる。

 過去は変えられない。深く拒絶されたのも、あの頃のツケが回ってきたせいだ。取り戻せないモノもあるけれど、こうして彼らに出会えた自分は、気遣ってくれる家族もいないという孤独感で死ぬことはないだろう。

「――父さん」
「あ?」

 不意に名前を呼ばれ、ゼンさんは足を止めて振り返った。随分向こうに、ロケットペンダントを握りしめたまま立ち尽くしているマサヨシの姿があった。

 マサヨシが、ぱっと顔を上げてこちらを見た。弱々しく顰め面をしているので、ゼンさんが「なんだよ」とぶっきらぼうに声を投げると、彼はポケットにペンダントを押し込んで勢いよく足を踏み出した。

「あのさっ、せっかくだから皆で、他のコーナーも見ていかないか? だって彼女は、あと数日であの施設からいなくなってしまうんだろう?」

 半ば駆けるようにして、マサヨシがそう続けた。

 向日葵園の中央通路で二人の距離が近づいて、今度は手の届く距離で向かい合った。
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