ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

百門一新

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 ゼンさんは、ハッとして目を覚ました。どうやら、少しばかり眠ってしまっていたらしい。
 机にある小さな置き時計を確認すると、室内灯に照らし出されたその時刻は午後七時を過ぎていた。あと三十分足らずで午後八時になる。ベッドにはサワさんが座っており、真新しい大きめの椅子を引き寄せて、そこに短い両足を乗せていた。

 本棚には、昨日オカメ看護師が持ってきた本がぎっしりと詰まっている。ミトさんから借りた本は下の段に分けられており、その半分は、昨日カワさんと交替したばかりのミトさんの未読本が並んでいた。

 机の上で頬杖を解いたゼンさんに気付いて、カワさんが手元の本から視線を上げた。

「ゼンさん、本を読みながら少しうとうとしていんだよ。ちょっとうなされていたみたいだけれど、怖い夢でも見た?」
「いや、特に何も見なかった。きっと寒かったんだろう」

 カワさんは察したように、肉付きの良い顔に同情するような愛想笑いを浮かべた。人懐っこい、どこか若々しい笑顔である。悪夢を見るのだとは以前から少し話していたゼンさんは、騙せないらしいと知ってぎこちない笑みを返した。

 ゼンさんが今見ていた夢は、年が明けてしばらくした日の記憶だった。

 ぼんやりとした頭で目を開くと、顔を怒りで真っ赤に染めた息子の顔がそこにはあって、「誰だ」と問うと、すっかりいい歳になった息子が、自分譲りの顰め面を母親譲りの童顔に刻んでこう言うのだ。

――これ以上、俺ら迷惑をかけるつもりか?

 覚醒しきっていなかった時に言われたその言葉を思い出すたび、ゼンさんの胸は引き裂かれるような痛みを上げた。
 
 あの時の霞んだ視界に映った息子と共に、夢は場面を変えて時間を遡り、ゼンさんの知らない風景を映し出した。

 否、夢の作り出した映像かは分からない。がたがたと煩い寝台で滲んだ視界が揺れ、白衣を着た医師や看護師が両脇で喚きあっている。左側にいた彼らが突如大きな声を上げると、背広姿の男が乱入してきてゼンさんの顔を覗きこむのだ。

 表情は見えなかった。真っ赤に染まっている顔が、そこにあることだけは認識していた。嗅ぎ慣れない匂いがいくつも鼻をかすめ、それでも認識できないその男の叫び声をゼンさんは懐かしくも感じていて。

 すると、そこですべての音が死に絶えて、男の口元だけがはっきりと浮かぶ。


――どこまで俺たちに迷惑を掛ければ気が済むの?


 悪夢はいつもその言葉と共に終わりを迎え、冷や汗をびっしょりかいて目覚める。
 緊急搬送された日について覚えていることは、多分その映像と、濡れた男の手の硬い温もりだけだ。胃の上にある部分が強いアルコールによって炎症を起こし、吐血したらしいことだけは後で聞かされた。

 では、あの手の濡れた感触は、自分の血だったのだろうか?

 ゼンさんは、けれど記憶と夢がごちゃまぜになった風景を振り払うように、わざとらしく大きく背伸びをした。座ったまま寝ていたので、少し腰が痛かった。

「ゼンさん、怖い夢なら話したほうがスッキリするよ。それで、どんな夢を見ていたの?」
「……入院中の、味のない粥飯と点滴と、薬漬けの最悪な日々さ」
「ああ、それは悪夢だったね」
「だろ」

 相槌を打つカワさんは、愛之丘老人施設で出てくる健康料理を思い出していた。そこには今日もミトさんの姿はなかったから、窓の下に見える小さな向日葵を思い浮かべ「いい天気だったのに」と呟いてしまう。
 ゼンさんも、日が暮れてしまった窓側に目を向けて「そうだな」と口にした。
 
 来週から、また天気が崩れるとの予報が出ていた。今回は雨だけでなく、風もまた随分と吹くらしい。そんな嵐が来るとは思えないほど、今週の天気は穏やかになると天気予報は告げていた。

 今日の風だって、柔らかく吹き抜けている。熱気はあるものの、窓を開ければ木漏れ日の下にいるような居心地がした。風が通るたび、窓の向こうからは草花が囁くメロディーが聞こえた。そんな素晴らしさが太陽の下にあった一日だった。

 もう日も暮れた今は、窓の向こうは闇ばかりだ。閉められた窓のガラス部分に映った己の、容貌の悪い痩せ細った老人の凶悪面を、ゼンさんはぼんやりと眺めた。

「ねぇ、ゼンさん? ゼンさんは、前に薬のこととか話していたよね?」
「ああ、言ったな」
「夜、注射と薬が嫌だって叫ぶ人がいるでしょう? なんだか僕は、最近とても怖いんだ。もしもそうだったら、……そうだったとしたら、外出するために行動を起こそうとしていたミトさんを、施設側が口封じに――」
「滅多なことを言うもんじゃない」

 ゼンさんは静かな口調で窘めた。びくりとカワさんが身体を強張らせ、項垂れるように視線を落とした。

「そうだよね、ごめん……でも、嫌な考えばかりが浮かんでしまうんだ。ここの職員の態度を見ていると、そう勘繰りたくなってもおかしくないんだなって、最近はゼンさんの言葉も納得できるような気がして……。痣が絶えない人もいるし、彼らはすごく厳しい。今更だけれど、電話も手紙も監視付きだなんて、変だなと思ったんだ」
「俺たちは、手紙を書く相手もいないけどな。そういやミトさんは、お孫さんとの文通で、職員が前もって目を通すことを嫌がっていたっけ」
「プライバシーがないよね」
「この本は、俺たちに対する賄賂だったりしてな」

 ゼンさんは皮肉を言った。昨日、思いきってオカメ看護師にミトさんのことを尋ねると、ぶっきらぼうに「彼女、体調が良くないの」とだけ答えがあった。他にも廊下で、別の二人の看護師を捕まえて訊いてみたが、皆詳しいことは言わず、返事はどれも似たようなものだった。

「一番若い人に聞いてみようか?」
「新人さんってことか? 昼食時間は見掛けるが、それ以外の時間帯はどこにいるのか、さっぱり分からんぞ」
「う~ん、僕も知らないなぁ」
「オカメくらいだからな、どこへ行ってもその顔を拝むことが出来るのは」
「神出鬼没ってこと?」
「指示を出すだけで当人は楽をしているような、要は一番暇な奴ってことさ。現場監督は多いだろうが、化粧が崩れないところを見ると、そこまで忙しくはないんだろうなって勘ぐっちまう」

 そこで、しばらく会話が途切れた。

 そろそろ就寝時間になる、とゼンさんは独り言をいって窓を見やった。雲の見えない夜の空に、眩い一等星が燦々と輝いているのが見えた。外の生温い空気の流入が絶えた今、室内がどれほど湿度と気温が調節されているのかを実感した。

「俺だって、あまり嫌な方に勘ぐりたくはない」

 ゼンさんは、ぽつりとそうこぼした。

「確かに新しい環境が始まってからの俺は睡眠不足で、急に煙草を取り上げられたこともあって苛々してもいた。――あの時期の俺に、強めの睡眠薬と精神安定剤が与えられていても不思議じゃない、とも最近は考えられるようにもなった。だから二人には訊いたのさ、健康なのに妙な薬はもらってないかとね」

 その疑いは、もしかしたら歳を取った自分の頭の中だけの、妄想の産物なのかもしれない。何せ自分は、老人ホームに対して良い印象を持っていないからだ。

「ミトさんは知恵熱を出して、風邪をこじらせちまったのかもしれない。だから、大丈夫だ。俺らは、彼女を待っていよう」

 信じていたい。だから、待つのだ。

 ゼンさんは、ここ最近ずっと不安が続き、不眠症と食欲不振に悩まされていた。彼に出来ることは、こうして言葉にして自分を納得させ、カワさんの気掛かりを少しでも解きほぐしてやることだけだった。


 そうだ、俺たちは少し考え過ぎだ。一昔前に報道されていたように、施設内で煙草の火を押しつけられたり、強い暴力を受けて罵倒されたり、食べ物を与えられなかったりということはない。

 俺たちのもろい骨がぽきりと折れるようなこともないし、葬式みたいな食事時間も、みんな食事の間に会話をするってことを忘れちまっているんだ。


 扉を隔てた廊下側では、行き交う足音が増えだしていた。「眠る準備をしましょうねぇ」と、子供をあやすような職員たちの声が聞こえてくる。

 こうして、午後八時前には全員がベッドに入っている状態が作られるのだ。オカメ看護師の声は独特なので「はい、もう寝ますよ。いいですか」とぶっきらぼうな大声が響き渡っているのを聞いて、すぐに分かった。

「……相変わらず、すげぇ肺活量だな」
「あれが地声って、すごいよねぇ」
「感心するところじゃないぜ、カワさん。ちっとは声量を抑えてくれなきゃ、俺は悪夢にもあの声を聞きそうだぜ」
「う~ん、確かにそれはそれで辛いかも……」
「きっと目覚めも悪いだろうな。起きた途端にあの顔がそこにあったら、悪夢と現実がごっちゃになって、一気に老化が進んじまう」

 くそくらえ、とゼンさんが吐き捨てると、カワさんが面白いとばかりにけらけらと笑った。
 カワさんがこうしてゆっくりしていられるのも、昨日オカメ看護師に「知っていますよ」と言われたからだ。どうやら全職員がそれを知っているようで、昨夜からゼンさんの部屋への声掛けは最後になっていた。

 各部屋の電気がすべて消灯するまで、個室の部屋があるフロアは比較的大人しい。その後が例の騒ぎになるのだ。ゼンさんは「メイ」を探す新入りの老婆の訴えが聞こえるたび、「メイちゃんはもう帰りましたよ!」と叫びたくなる。

 五分後には就寝する自分を思ったのか、カワさんは時間を確認すると、途端につまらなそうに唇を尖らせた。

「眠る時間は早過ぎるし、定められている睡眠時間が長すぎるんだよ。ミトさんが不満だとするのは、もっともだと思う。だから寝付けなくて、結局はごろごろしてしまうんだ」
「ペンライトで読書でもするかい?」
「そんな器用なことは出来ないよ。僕らの部屋ってカーテンもないでしょう? ミトさんみたいに上手くやらないと、バレちゃうじゃない」

 カワさんは、子供っぽく両頬を膨らませた。肉厚もあって丸い顔が更にボールみたいに見えて、ゼンさんはげんなりした。

「カワさん、可愛くもないから、それはやめた方が良いぞ」

 そこでカワさんが口を開きかけた時、すぐ近くの廊下が騒がしくなった。ばたばたと慌ただしい足音が行きかい、その騒ぎに反応して他の老人たちも喚きだした。

 すすり泣く者、痛みを訴える者、大きな嗚咽、寂しさのあまり看護師を呼ぶ声……
 それらは、消灯後に起こるあの騒ぎと同じだ。しかし、職員たちの緊迫感が普段よりも格段に強くて、暴れているらしい人間の尋常ではない甲高い叫びが廊下を切り裂くように走り抜け、ゼンさんとカワさんは飛び上がった。

「なんだ、一体何があったんだ?」

 ゼンさんがそう言って扉に近寄った時、カワさんがハッとしたように立ち上がった。彼は途端に「うッ、膝が……」と痛む患部を押さえたものの、すぐに気を取り直してゼンさんの服の袖を引っ張った。

「ゼンさんっ、この声ミトさんだよ!」

 数秒遅れて、ゼンさんもそれに気付いた。まるで火事でも起こったような慌ただしさで扉を開くと、斜め向かいのミトさんの部屋に、沢山の職員たちが押し掛けている光景があった。
 白衣の男性医師が数人、集まる看護師たちにもまれながら「早く来てください」とせっつかれて室内へと入っていくのが見えた。そこで飛び交う様々な声は、ゼンさんやカワさんが消灯後に聞く不眠の原因となるいつもの会話だった。

「先生、早く鎮静剤を!」
「興奮して暴れだしたんです!」
「内科とカウンセリングは受けさせたかっ?」
「はい、ミチヒラ先生とタナハシ先生が」

 ガタンッ、と一際大きな音が上がった。ベッドを軋ませて、甲高い獣のような咆哮が上がる。

「押さえつけろ! じゃないと彼女が怪我をしてしまうぞ! 興奮状態で力の加減が分からないんだ!」
「シーツと枕で! 足が悪いのよ! 出来るだけ刺激しないで!」
「トバ! 右を抑えろ! しっかり固定するんだ! 整体で鍛えた腕だろうがっ、ちゃんと役立てやがれ!」
「テメェはテメェで、そっちをしっかり押さえてろクソ医者! おいマサキッ、骨が弱いから気をつけろよ!」

 ゼンさんとカワさんは、たまらず部屋を飛び出して彼女の部屋を塞ぐ職員たちに「一体何をしてるんだ!」と怒鳴りつけたが、しばらく騒ぎが大きすぎて誰も気付いてくれなかった。

 その直後、「注射」「安定剤」「眠らせる」の単語が飛び交い、二人はぎょっとした。自分たちの嫌な想像が、机上空論から現実味を帯びて戦慄が走る。

「やめろ! 俺はミトさんが健康なのを知ってる! 彼女は病気じゃない!」
「お願いですから、ミトさんにひどい事はやめてください! 彼女はただ、向日葵を見に行きたいと調べていただけなのに、口封じするみたいに――」

 ゼンさんとカワさんが、入口に佇む看護師をどかそうと突っ込んだところで、看護師たちがようやく二人に気付いた。オカメ看護師と長身の中年看護師が「やめなさい!」と怒鳴って、慌ててゼンさんたちを廊下へ押し戻した。

 看護の仕事をしているだけあって、老体で体力の落ちた自分の身で、大柄で筋肉もあるオカメ看護師の力には敵いそうにはなかった。健康な身であったら、とゼンさんは悔いた。
 カワさんの方は、体重で中年看護師を押しのけたものの、奥からやってきた三人の男性看護師がわっと飛びかかり、ものの数十秒で押さえこまれてしまった。

 畜生! くそったれ!

 ゼンさんはオカメ看護師に羽交い締めにされながらも、ミトさんの部屋へ飛び込もうと必死に両手足を伸ばした。
 部屋に溢れる職員たちの間から、ベッドの上で暴れるミトさんの手がちらりと見えた。それを、片手に注射器を持った男性医師の手が、再び押さえこんでいるのが目に留まって、ゼンさんはカッとなった。

「ミトさん! ミトさん! 畜生離しやがれ!」
「落ち着きなさい! ゼンキチさんッ、落ち着いて!」

 廊下は暴動のような騒ぎになった。カワさんが力を振り絞り、初めて強烈な怒りに満ちた顔をして、自分を押さえ込んでいた男性看護師三人を弾き飛ばした。

 ゼンさんも力を振り絞り、オカメ看護師ごと自分の身体を引きずって、ミトさんの部屋の扉へと手をかけて、どうにか室内に一歩を踏み込んだ。職員に取り囲まれているミトさんは、ベッドの上で無我夢中に抵抗していた。

「どうして! どうしてこんなひどいことをするの!」

 そう叫ぶミトさんの悲鳴が聞こえた。彼女は、一字一句をはっきりと話せている。自分の意思を確実に訴えている。

 ゼンさんは、更に頭の血が昇った。

「見ろ! ミトさんは健康だ! どこも悪くないだろう!」
「ミトさんに、ひどいことをするな!」

 カワさんが部屋に突入しようと、勢いをつけて突進した。普段の膝の悪さはどこへ行ったのか、男性職員たちが慌てて彼に飛びかかり、そこに扉を封鎖していた女看護師二人も加勢に入り、五人がかりでカワさんを廊下に組み伏せた。

 その時、聞き慣れた声が、恐ろしいほどの怒りで呪いの言葉を放った。

「夫の飛行機がテロに遭っただなんて、そんなのウソよ! どうして、どうしてこんなひどいことするの! 私、行かなくちゃいけないの! みんなが集まってるあの空港に行かなくちゃ! 彼の乗った飛行機は無事よ! 私が迎えに行くのよ!」

 離せぇ! お腹の子を殺すつもりね! そんなことさせないんだから! ようやく授かった子なのよ! よくも私の足を動けなくしてくれたね! この悪党どもが……
 普段の優しい声色からは想像出来ないほど、その声は憎悪をもって張り上げられていた。ゼンさんとカワさんはすうっと血の気が引いて、身体から力が抜けた。

 力が抜けたゼンさんは、オカメ看護師に抱えられるように支えられた状態で、茫然と部屋を覗きこんだ。カワさんは五人の職員に押さえつけられたまま、力の入らなくなった手足を廊下にだらんとさせ、そんなゼンさんの背中を見上げていた。

「彼女は三年前にここへ来たのよ。最近は安定していたけれど、症状が悪化したの。個人差はあるけれど、彼女は恐らく、もう――」

 オカメ看護師が、そう言って言葉を切った。その声は震えていた。

「…………畜生」

 そう呻いたゼンさんの頬に、一滴の涙がこぼれ落ちた。


 結局その騒ぎが落ち着くまで、ゼンさんとカワさんは、廊下に座り込んで待っていた。オカメ看護師の指示があったせいか、ミトさんの部屋に出入りする職員たちは何も言わなかった。
 ゼンさんが「友人なんだ」とぽつりともらすと、足を止めた顔も知らない白衣の若者――とはいってもゼンさんにとっては若者であって、三十代も後半頃だろう――が、「知ってるよ」と悲しげに呟いて、話をしようかと語り出した。


 ミトさんはアルツハイマーだった。三年前に相談があり、専門施設に預けるまでの間、自宅で看ることは出来ないとして家族が彼女をこの施設に預けた。先月に彼女が入れる専門施設がようやく見つかり、今週末にも移動する予定だったという。

「僕が知っていることを話すと、彼女は旦那さんが飛行機事故で亡くなっていてね……。彼女は子供が五人いて、孫はもっといて曾孫だっている。けれどここに連絡を取って尋ねてくる子はいない。あの古本を渡していたのは僕なんだ。――けれど、嘘つきだなんて思わないで欲しい。彼女の壊れかけた世界は、ここ数カ月、その架空の設定の中で保たれていたんだ」

 その若い男性医師は、ゼンさんとカワさんと並んで廊下に座り込み、そう話した。ミトさんの部屋は少し落ち着き始めていた。

 ゼンさんが「暇なのか」と意地の悪いことを尋ねると、白衣の彼は、数秒してから左エクボを覗かせた。どちらも空元気だった。

「暇じゃないよ、うん、暇じゃない……毎日、大忙しさ」
「ミトさんは、嘘つきなんかじゃないです。気持ちは、きっと本物だから」

 カワさんがそう言って、鼻をすすった。膝を抱えた彼は、見事に丸くなっていた。
 彼の隣でゼンさんは壁に背を預け、その隣の若い医師は踵を立てたまま、壁に背を預けて膝を折っていた。白衣の裾が、廊下に垂れて皺を寄せている。

 カワさんは、続けてこう言った。

「心はきっと同じなんだ。心はどこにもいかない。覚えていなくても、そのままなんだ」
「ああ、そうだな、カワさん。きっとミトさんの気持ちは、すべて真実だった。全部、全部そうだ。俺たちは彼女のためにも、その全部やこれからの全ても受け止めなきゃならない」

 ミトさんの部屋から、最後の男性医師がオカメ看護師を伴って出てきた。若い医師が「どうも」と言ってへらりと笑うと、その男性上司は溜息を一つもらして「マサキ、後で説教がある」とだけ告げて歩き去っていった。

 残ったオカメ看護師が「スドウ君」と疲れ声で、若い男性意思を嗜める声を聞きながら、ゼンさんは立ち上がった。若い医師が「どうしたの」と言わんばかりに、きょとんとした幼い表情で彼の動作を見守る。

「行くの?」

 オカメ看護師がそう声を掛けて、歩き出すゼンさんのそばについた。彼は「ああ」と短く答え、そのあとに続くためカワさんも慌てて立ち上がった。

 同じように座りこんでいた若い医師が、「やれやれ」と続けて「よっこいしょ」と立ち上がり、「強いねぇ、ゼンさんは」と困った顔で頭をかいて、三人の後を追った。


 ミトさんは、寝室のベッドに横たわっていた。乱れていたシーツが皺のないものと取り替えられ、髪も枕の上に流されている。静かに呼吸を繰り返す彼女の唇は少し開き、薄らと開いた目は、ぼんやりと宙を眺めていた。


「これから睡眠薬が効き始めます。今は、先に打った鎮静剤が効いています」
「――そうか」

 ゼンさんは頷いた。「カワさん」と呼んで彼の手を引くと、部屋の入口で立ち止まったオカメ看護師とい男性医には目もくれず、ミトさんのもとへと歩み寄った。

 ミトさんが、こちらに気付いてゆっくりと顔を向けてきた。筋肉がすっかり弛緩した頬は皺が目立ち、一気に老いたような印象があった。髪は艶を失い、瞳はひどく濁っている。

「ミトさん、俺が分かるかい?」

 ゼンさんは、優しい声色でそう問い掛けた。涙をぐっと堪え、震える声を咳払いで誤魔化した。カワさんは泣き声は押し殺したものの、堪え切れずぼろぼろと涙をこぼし始めてしまっていた。

 ミトさんは、しばらくゼンさんを見つめていた。喉元から空気が漏れるような彼女の呼吸音が、静まり返った室内に何度も響いた。

「どちらさまですか?」

 長い沈黙のあと、ミトさんは、ろれつの回らない口調でゆっくりと問い掛けてきた。力なく微笑むと、顔をわずかに傾けてカワさんを見た。

「こちらへどうぞ、おきゃくさま。おちゃを、おだしいたしますわ」
「ミトさん、ミトさん……」

 カワさんは、ずずっと鼻をすすった。手の甲でぐいっと涙を拭うと、きりっと背筋を伸ばして、ゼンさんの横に立って右手を胸にあててこう言った。

「僕はカワゾエといいます。あなたとゼンさんの『友達』です」

 カワさんのせいいっぱいな笑みが、彼のふっくらとした頬肉を盛り上げた。

 ミトさんは理解出来たのか、出来ていないのか、それを見て幸せそうに頷いた。伸ばし掛けた彼女の小さな手が、よろよろと数センチ浮いて、けれどそのままベッドに沈んだ。

「たのしいおはなし、きかせてください。あなたがお見合いの席できかせて、あとでかいて結婚式の日にくれた、あのすてきな本みたいに」

 そう言うミトさんの声はだんだんと弱くなり、そのあとは吐息だけが続いた。

 眠りに落ちたミトさんの横で、カワさんが小さな声で泣き始めた。彼女の皺くちゃの手を握りしめ、「ミトさん、ミトさん」とその名を呼び続ける。

 ゼンさんはその傍らに立ち、心を折るまいと顰め面で構えていた。三回ほど深呼吸を繰り返し、拳を握りしめると「よし」と小さな気合いの言葉を入れる。

 再びミトさんを見据えたゼンさんの顔からは、迷いや弱気といった気配は消えていた。そこにあるのは、頑固で強がりで捻くれ者の、怪訝そうな表情に決意の意思を持った『頑固親父』だった。
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