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 愛之丘老人施設に来てから半年と一週間だ。年明けは市立病院、そんでもって今は老人ホームか……と、ゼンさんは朝の薬を飲みながら顔を顰めてそう思った。

「くそくらえ」

 外仕事ですっかり褐色になってしまった肌は黄色味がかかり、内臓疾患を伴って更に浅黒い色にもなっていた。寝不足のひどい顔も、いつもの顰め面に加えて陰険さが増し、凶悪面の爺さんにしか見えないだろう。

 この老人ホームでは、月一で検査がある。ゼンさんのように持病がある場合は、その時に病気の進行や状態を確認し、現在飲用している薬の成分に問題がないか診るのである。ゼンさんは腹水などは持っていないので、現状維持が続いていた。

 薬は患者の誤飲を防ぐため、病院通いの時と違って一ヶ月分を渡してもらうのではなく、食事の度に看護師から手渡される決まりになっていた。ゼンさんは、無くなってしまった我が家が恋しくなった。

「昨日の夜も、ひどかったねぇ」

 カワさんは、大きなお尻を窮屈そうに椅子に座らせてそう言った。

 今日は平日ではあるが、朝から来客が五組ほどあった。昨夜に獣のような咆哮を上げていた奥にいた入園者が、大病院へ移されることが決まったらしい。もう、長くはないそうだ。

「ミトさんが言っていたよ、意識の混濁が激しいって。身体の腹水が急激に増えて、心臓も弱くなってるって……」
「カワさんは、彼を見たことがあるかい?」

 ゼンさんが尋ねてみると、カワさんは否定するように首を横に振って見せた。

「ううん、ないよ。そもそも僕は、あの廊下の奥へは進んだことがないから。フロアを隔てた反対側の部屋にも行ったことがないなぁ」
「あっちには、出歩ける奴はほとんどいらいなしいな。専門設備が揃った部屋、とパンフレットには書かれていたぜ」
「そうなんだ……。なんだか、僕たちは本当に、場違いなところにいるみたいだ」

 今更のように言って首を傾げるカワさんを見て、ゼンさんは乾いた薄い唇を尖らせた。

「場違いもいいところさ。カワさんだって、一人でも充分暮らしていけるだろうに」
「う~ん……食事管理と、家事がほとんど出来ない」
「ああ、それは致命的だな。俺は手抜き家事が得意だよ」

 人は頼ったことがないんだ、とゼンさんは口をすぼめた。

 妻と離婚してはじめの一年、彼は生活するために必死で勉強したのだ。ゴミの分類、掃除、早朝一番のゴミ出しも次第に辛いとは思わなくなった。出てくるゴミといえば、ほとんどがビール缶や吸い殻だったような気がするけれど。

 ああ、駄目だ。考えちゃいかん。

 煙臭い匂いが脳裏に呼び起こされ、喫煙の誘惑にかられたゼンさんは、溜息交じりに「やっぱり、一本ぐらい吸いてぇなぁ」と言葉をこぼした。

 緊急入院によってようやく断たれた飲酒習慣は、メシよりも酒という日常生活を送りながら「酒をやめたい」と理性では薄々感じていたものなので、まぁまぁ有り難い。
 しかし、健康を守るためとはいえ、好きで吸っていた煙草をこの歳になって禁煙させられるのは我慢ならなかった。かなりストレスがたまるのである。

 その時、部屋の扉がそっと開き、車椅子のミトさんがやってきた。彼女は机の正面に立つゼンさんに微笑み、それからカワさんを見て、少し驚いたように目を丸くした。

「あら、カワさんもいらしていたの? あなたの部屋の前に車椅子があったけれど」
「えぇと、その、朝の来客がある時は部屋に入ってまでチェックされないから、置いて来たんだ」

 もとよりゼンさんもカワさんも、車椅子が移動に欠かせないというわけではないのだ。
 ゼンさんの場合は、息子がここへ放り込む際に病気と共に体力が落ちるということで「要・車椅子」に丸をしていたので、ならばと開き直って「じゃあ、体力温存で使わせてもらうぜ」と他の入園者同様に使用していた。

 カワさんに関しては、歩行の際の関節痛と息切れしかないのだが、「楽が出来て便利だ」という理由だけで、今のところ全入園者がそうであるように「要・車椅子」としていた。
 診察では関節の悪さや内臓の老化を指摘されており、根っからの肥満体質な彼の本音について施設側は知らないのである。入園者一の肥満者代表である彼は、七十八歳にしては肌もぷるぷるで、髪は量があって艶も張りもあった。

「父さんが亡くなって、すぐだったなぁ」

 暇を潰すように、カワさんが思い出す表情でそう言った。会長が亡くなり、息子夫婦の元で老後生活を送っていたカワさんは、その一ヶ月後にここへ入れられたのである。

「僕の一人息子の嫁さんはね、とてもいい子なんだよ。実の母親も世話しなくちゃならないし、辛いってこぼしてはいて……その後に、彼女の両親がわたしの家に住み出した。それから、もう居場所がなくなったんだ」

 ゼンさんなら「この馬鹿者が! 誰の許可を得て貴様らは」と怒鳴るところだが、カワさんはそうしなかった。元々、そのような気持ちを持つことも出来ない男であったらしい、と今なら理解することができる。

 カワさん曰く「血の繋がった自分の親が大切なのは分かる」、「そちらの介護も大変なのに、彼女に自分の面倒までみさせて苦労を二倍にするのも申し訳ない」「息子夫婦には、息子夫婦の生活があるから……」なのだという。

 初めてその話を聞かされた時は、ゼンさんは、こいつはお人好し過ぎるんじゃないかと頭を抱えた。自分だったら、他人のことより老体の我が身を最優先に、しっかり自分のテリトリーを守ったことだろう。


 病院に緊急搬送され、薬の副作用で頭が朦朧としていなければ、息子と大喧嘩をしてでも家を守ったはずである。

 あの時は、怒鳴れる力が全部は戻っていなかった。息子とは短く話したが、買い言葉に売り言葉、最後は「父と息子」という関係が憎しみで押し潰されてしまったような気さえする。


 たった一人の息子だった。けれどゼンさんは、再会した際に怒りをぶつけられて、彼が十五歳になるまで一緒に暮らしながら何一つ思い出がないことにも気付いた。
 息子が学校でどんなことをして過ごしたのかも、年を追うごとに起こるイベントや行事も何一つ知らなかったのだ。思い返せば、酒漬けで理性がなくなり暴言を吐き、気付くと乱暴に手をあげる事も少なくなかった日々だった。

 この老人ホームで、アルコールのすっかり切れた頭でそれをじっくりと考えた。だから、息子に連絡を取って「ここから出せ」と言う気分にもなれないでいる。

「もう、向日葵は満開かしら」

 ゼンさんが最後の薬を飲み終えた時、ミトさんが窓辺に車椅子を寄せてそう言った。
 庭園の片隅では、小さな黄色がぽつんとした様子で浮かんでいる。それが数本の小振りな向日葵だと気付くまで、ゼンさんは数十秒かかった。

「驚いたな、ここには向日葵も植えられていたのか」
「去年、私がここへ来た時にも咲いていたわ。小さいけれど、立派な向日葵なのよ。視力が悪くなってしまって、少しぼやけて見えるのが残念ね」

 全開した窓の『開けるな厳禁』と貼られた注意書を脇目に、ゼンさんとミトさんが下を覗きこんでいると、カワさんも重たい腰を上げてそばに寄ってきた。

「どこに向日葵があるんだい? 黄色とピンクが混ざったところ?」
「おや、カワさんは目が悪いのかね?」
「老眼のうえに近視なんだ。私生活には、なんら不便はないけれど」

 カワさんは頬を桃色に染め、ミトさんの頭上から庭園を見下ろした。ミトさんは彼を振り返り、庭園の向日葵の形状が一回り小さいことを教える。

 彼女から聞く向日葵の話に、カワさんが心底嬉しそうな顔をしていたので、ゼンさんは「やれやれ」と肩をすくめて、そっと二人から離れてベッドに腰かけた。

 恋か。若いねぇ。

 二人より七歳年上だったゼンさんは、恋に年齢は関係あるまい、と思って彼らを見守っていた。何せカワさんを見ていると、純粋な恋愛感情のようで微笑ましくも思えたからだ。俺も歳かな、すっかり丸くなっちまったもんだ、と感じてしまう。

「三人で、向日葵畑を見に行きましょう」

 不意に、そう明るい声で言ってこちらを振り返ったミトさんを見て、ゼンさんはそっと目を細めた。そう言って嬉しそうに笑うミトさんが、不覚にも綺麗だと思った。
 するとカワさんも便乗してきて、「頑張って許可を取ろうよ」と意気込んだ。しかし、ぐっと立ち上がってこちらを振り返った彼が、途端に膝が痛いと口にしてそこを撫でさすった。

「はしゃぎすぎだろう」

 そうゼンさんが苦笑すれば、

「まぁ、子供みたいね」

 とミトさんが上品に笑った。対するカワさんは顔を真っ赤にして、

「うん、なんだか子供みたいだ。けれど、とても楽しいよ」

 と恥ずかしそうにしながらも白状して、照れたように笑った。

 ああ、三人で暮らせたら、どんなにいいだろう。
 ゼンさんは笑顔をそっと曇らせ、目尻に皺を刻んだ。もうそろそろ、二人は自分の部屋に戻らなければならないだろう。彼はまた、たった一人、ここでじっと時間が過ぎるのを待たねばならないのだ。

 最近はミトさんの勧めで、初心者ながら読書を始めていたので、一人過ごす時間の苦痛も半分に減ってくれていた。しかし、窓の外を見るたび、高い柵で囲まれた施設内の小さな部屋にいる自分を思って、ここが監獄であることを想像した。


 いつか向日葵をと前向きに言ったミトさんは、愛之丘老人施設について詳しく書かれた資料を読みに、カワさんは朝食後の睡眠を取りに部屋へと戻っていった。


 しばらくすると、たくさんの足音がゼンさんの部屋の前を通過し、奥の寝室にいた老人が、がらがらと音を立てる寝台で運ばれていく音が聞こえてきた。
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