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愛之丘老人施設の消灯は早い。午後六時に食事と軽い風呂をすませ、午後八時までにはすべての入園者がベッドに入って待っていなければならない。
肝硬変のゼンさんは、食後、その三十分後、更にその三十分後にわけて薬を飲まなければいけなかった。午後七時前から消灯三十分前まで、職員は一階に集中しているので、この時間もゼンさんの部屋にはカワさんとミトさんが集まっていた。
「肝硬変って、大変ねぇ」
ミトさんは、薬の多さに目を丸くしたが、カワさんは別のことが気になっている様子ようで、妙にそわそわしていた。
就寝前の用意を整えていた彼女の髪が、背中に流れて色っぽいせいか、とゼンさんが推測した時、カワさんが不意にこう言葉を切り出した。
「皆は薬を飲むために一階で看護師たちといるのに、どうしてゼンさんは部屋で?」
「ああ、俺のは副作用が出る代物でね。きっちり時間をずらして飲まなくちゃいけないし、薬が切れてしまっても厄介なことになる。『俺が飲むタイミングを管理しなければ駄目だ』と激しく抗議してクレームをつけてからは、ご覧の通り、奴らの監視の目もなく飲めるってわけだ」
ゼンさんは、手を広げて「こればかりは言い負かしてやったよ。譲れねぇ部分だったからな」と主張した。
すると、ミトさんが不思議そうに首を傾げた。
「でも、一階で一緒に飲んだほうが安心じゃないかしら? だって薬剤師や医師が指導してくれて、飲用を丁寧に手伝ってくれたりするでしょう?」
ゼンさんは、一度小さな置時計を見て次に飲む薬を確認してから、車椅子に腰かけるミトさんと、ベッドに腰かけるカワさんに向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。
「二人は、何か薬をもらうことはないだろうね?」
「ないわ」
「ないよ。ダイエットに必須の薬なんてないもの」
問われた二人は、同時に首を横に振った。
ゼンさんは「まぁそうだろうよ」と相槌を打ち、それから「実はな」と言葉を続けた。
「今更薬に関しては、薬剤師や医者の助言はいらねぇんだ。俺は一カ月くらい地元の病院に入院していた時、自分の身体の状態と薬の名前、必要な薬剤の成分をすべて覚えたからな」
「へぇ! ゼンさんってすごいなぁ、頭いいんだね」
途端に、カワさんが瞳をキラキラとさせてそう言った。
これが会社を経営していた男で、尚且つ七十八歳には見えないな……とゼンさんは思ったが、それについては口にしなかった。
「良くはないさ、自分のことだから頭が回るんだ。というか入園したばかりだった頃に、ここの施設じゃあちょっと薬の組み合わせが違うってのにも気付いたんだ。俺はそれについて変だなと思った一件に警戒を覚えてもいて、だから薬の服用に関しては、口を出されたくないってのもある」
ゼンさんは、そこでカワさんに「覚えてるかい、カワさん?」と訊いた。
「こっちに来たばかりの頃、奴らの指導通りに薬を飲んだあと、俺は三日間くらい重症の病人みたいだったろう?」
確認するように尋ねられたカワさんは、小首を傾げて数秒もしないうちに「ああっ、思い出したよ!」と言って頷いた。
「そんなこともあったね」
「その時は唇、頬、舌が痺れてろくに喋れないうえ、身体もひどくだるくて頻繁に眠くなった。頭は朦朧とするし時間の感覚も分からねぇ。つまり俺は、ひどい副作用を起こしていたんだ。元々俺が飲んでる薬の服用時間差については、まぁ個人差もあるから断言するのはアレだがね。調べりゃ素人でも分かることだが、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むと、高確率でそうなる」
ゼンさんの言わんとすることに気付いて、ミトさんが大きく目を見開いた。けれど確信を持ってそこを尋ねるのも憚れたのか、確認するようにこう訊いた。
「つまり専門家であるはずの彼らに、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むようにと指導されたの……?」
またもやニヤリとして、ゼンさんは「そう指導された」と答えた。
「奴らが専門家集団とはいえ、あのまま従って薬の服用を続けていたら、俺もこの施設に相応しい住人の一人になっていただろうな。今じゃあ、余計な分まで寄越されている薬もあるが、そっちに関しては必要ないからトイレに流してる」
「……もしかして、疑っているの?」
ミトさんはそこで、声を潜めた。よく分からないカワさんが二人を交互に見る中で、ゼンさんは真面目な顔をして頷いた。
「もし、という可能性の範囲だがな。こっちの医者が、薬の服用のタイミングを分かっていないだけだったかもしれないし……。とはいえ俺は、出来ることならここを出たい。ここにいると嫌なことばかり考えちまう。職員も俺たちと同じ人間で、痴呆になった入園者相手に苦労はしているんだろうが」
そこでゼンさんは、一度言葉を切って、今夜の分の薬に目を留めた。
「…………俺は、もう八十五年は生きた。けれど病院で医者が言っていた言葉があてはまるとすれば、薬と付き合って食生活を改めれば、あと約十年は生きられる」
彼の病は、まだ末期ではない。合併症は腎臓や消化器系を壊しておらず、無理をしなければ生きながらえることも出来るのだ。
肝硬変を進行させず、肝臓の働きをカバーしようとする他の臓器に負担さえかけさせなければ、この世に未練を残さない年齢まで生きられるだろう。
「たっぷり塩のついたハンバーガーと、――やっぱり、煙草が欲しいなぁ」
重くなった空気に遅れて気付き、ゼンさんはしょっぱい雰囲気や気持ちを切り替えるようにそう言って、薬を口に入れて水で流しこんだ。
カワさんとミトさんが笑い、外出許可についての話は出ないまま解散の流れとなった。それぞれが「おやすみなさい」と挨拶をして、室内にはゼンさんだけが残された。
午後八時の五分前になると、各職員が入園者たちの様子を確認するという作業が行われる。扉は鍵がないタイプなので、あちらからいつでも開くことが出来るのだ。
すうっと開かれる扉の隙間から、非常口へと繋がる廊下の薄暗い照明が見えることを、ゼンさんはひどく嫌っていた。それはひどく不穏をかき立てる不気味さがあり、カワさんのような怖がりでなくとも、好きになれる者はいないだろう。
月明かりだけの室内では、弱々しい廊下の明かりも、覗きこんで来る職員の顔を逆光で隠してしまうほど目につくのだ。
ベッドに入ったゼンさんは、今夜もまた扉がほんの少し開けられて、その隙間から「もうご就寝されましたか?」と確認してくる声を、聞こえない振りでやり過ごした。
彼はその声が、黄色い歯のいかつい看護師であることを知っていた。嗅覚は未だに衰えていないので、独特の声とあの強烈な香水の匂いですぐに分かる。
確認の声は囁きのように気色悪いほど小さかったにもかかわらず、扉は日中と変わらぬ音を立てて閉まった。薬で眠っていると思っているのだろうか?
「ちッ、くだらねぇ。くそくらえ」
ゼンさんは寝返りを打った。廊下では何人もの足音が響き、看護師たちのお喋りと「おやすみなさい」が聞こえた。隣のカワさんの部屋の扉が閉まる音を聞き、ゼンさんは彼と、そして彼の向かいの寝室にいるミトさんを想った。
ミトさんは読書が好きで、きっかり午後八時に就寝しなければならないこと嫌がっていた。今夜も午後九時に起きて、小さな明かりを付けて一人静かな読書を楽しむのだろう。彼女の部屋の小さな本棚には、古い書籍がたくさん詰まっているのだ。
しばらくすると、いつも通り廊下の奥が騒がしくなった。
奥の部屋は、ほとんど寝たきりで外に出て来られない入園者たちがいるところだ。ゼンさんは上体を起こすと、警戒して耳を澄ませてみた。
どうやら、入園者の一人が喚いているようだ。言葉を聞き取ろうにも理解出来ず、しばらくしてからようやく、獣のように絶叫しているだけなのだと気付いた。
言葉も排泄も忘れた老人が、ヒステリックに叫んで暴れている。
それを理解して、ゼンさんは怖くなった。
女たちが「男の人を」と叫んでいる声が聞こえた。慌ただしい足音が部屋の前を通り過ぎた頃には、騒ぎは更に大きくなっていた。不安と緊張で嫌な動悸を覚えたものの、じっとしてもいられず、ベッドを抜け出して扉へ右耳を押し当てた。
「早く鎮静剤を!」
「カモナシさん、落ち着いて下さい!」
「ベッドに押さえつけろ! このままじゃあ注射の針が折れちまうぞ!」
「先生、早く鎮静剤を!」
老人の叫び声は、まさに獣だった。職員たちの騒ぐ声を打ち破るほど強いのに、なぜか聞いていると胸が痛くなるほど悲しい。嘆き、怒り、絶望しているような魂の叫びにも感じられた。
俺も、いつかすっかり年老いて、ああなっちまうんだろうか。
老化とは、こうも恐ろしいものなのだろうか?
ゼンさんは身ぶるいした。自分が額に嫌な汗をかいているのに気付いて、手の甲でそれを拭った。
彼の知る老人の中で、ああなって死んだ者はいなかった。母も痴呆と身体の衰弱はあったが、辛い時期を過ぎると大人しいものだった。記憶がなくとも、ゼンさんが愛すべき母のままだった。彼は最後まで甲斐甲斐しく世話を焼いたのだ。
ぽっくり死んでいった知人たちを思い返し、今耳にしている絶叫と騒ぎへと意識を戻した。自身の知識と経験の方を疑ってみたものの、母はああではなかった、とつい比べてしまう。
一体この声の持ち主である老人はいくつなのだろうか。入園して一年以上になるミトさんは、知っている人だろうか?
ゼンさんは、ひどい疲労を覚えてベッドに倒れ込んだ。思いきり外の空気を吸い、自由に出歩きたくなった。昔のように長時間は動けないので、適度に休息を取って景色を眺めつつ、とにかくこの施設から少しでも遠くへ行ってしまいたかった。
ここは監獄だ。俺は死なされるために、ここへ送り込まれたのだ。
この騒ぎを聞いて震えているだろう、カワさんを想像した。カワさんは臆病だが、優しい男だった。怯えながらも、きっとミトさんのことを心配して心を痛めているに違いない。だからゼンさんは、愛之丘老人施設の夜が嫌いだった。
廊下の向こうは、獣のような絶叫を上げる老人だけではなかった。このような咆哮にも似た叫びは稀だったが、ここでは毎夜どこかの老人が罵声を上げ、怒り狂ったように喚き、よたよたと徘徊してぶつぶつと自分の記憶の世界の話をし、職員たちが対応に追われている。
ベッドでじっと身を丸めていると、近くの部屋の者達の啜り泣きや痛みを訴え懇願する声や、見回りの看護師の声も聞こえてきた。
「寂しいのよぉ、暗いの、怖いぃ」
「大丈夫ですよ、私たちがいますよ」
「関節が痛むんだ。腰も、足も、ひどく痛いんだよ。どうにかしてくれよ」
「トキ坊っ、トキ坊! あの子はどこだい? 私の可愛いあの子は? さっきまでここにいたんだよ!」
トキ坊という子供を探す老婆については、ゼンさんはミトさんから話を聞いて知っていた。戦後に生まれた男児で、あの老婆が女手一つで育てた一人息子だったらしい。
彼女は日中に誰にも見えない五歳の『トキ坊』と会話し、夜になると、その姿を探すのである。ゼンさんは彼女の叫びを聞くたび、胸が苦しくてたまらなかった。
記憶が後退する。意識が現実から離れてしまう。ゼンさんの母親もそうだった。感情の起伏が激しくなり、最後は目が覚めたままの状態で夢を見続けた。それでも、時々、ほんの数秒正気を取り戻すと、彼女は息子に微笑みかけたりした。
ゼンさんが五十歳のとき、母はそっと息を引き取った。幸せな死に顔だった。病院に入れなくて良かったと、ゼンさんは母の枕元で泣いた。
だから夜はいつも眠れないのだ。良くないことも、悲しかったことも、辛い今もたっぷり思い出させるくらいに時間がありすぎる。それに母が亡くなって一人暮らしが続いていたゼンさんは、他人が発する声や物音にも敏感になっていた。
ベッドに横たわったまま、月明かりを入れる窓の方を眺める。眠ろうと思っても、無意識に扉の向こうに耳をすませてしまって目は冴えるばかりだ。
ようやく廊下が静けさを取り戻しかけた時、遠くから一人の老人の叫びが上がって、ゼンさんはギクリとした。何故ならろれつの回らない声で、「薬は嫌だぁ、注射は嫌だぁ」と主張していたからだ。
先程のカワさんたちに聞かせた内容の話もあって、嫌な想像をしそうになり、ゼンさんはぎゅっと目をつぶった。
介護していた時に母が、こちらを見て「私は息子に殺される!」と叫んでいた記憶が突如脳裏に蘇った。身体の自由がきかなくなった母は「お前が私を落としいれたんだね!」と、金切り声を上げることもあった。
あの時期は一番辛く、一時の間、介護士と交互に母の面倒を見た。そうしなければ壊れかけた母の心に、ゼンさんは押し潰されてしまいそうだったからだ。
「嫌だ! それ、嫌だ! 何も考えられなくなるのは、嫌だ!」
そう叫ぶ声が聞こえた瞬間、ゼンさんはハッとして目を開けた。
今、彼はなんと言ったんだ?
ゼンさんの中で、再び嫌な想像が膨れ上がった。冷や汗が握りしめたシーツに染み、動悸が速くなる。待て、待て、落ちつけ、と彼は自分に言い聞かせた。そんなこと、あっていいはずがない。海外小説じゃあるまいし。
大丈夫、意地悪だからって、まさかそこまではしないだろう。職員だって人間だ。ストレスを抱えて、健気に業務をこなしている者だっている。睡眠薬と精神安定剤だって、飲めば体調が良くなると思っているのかもしれない。
けれどゼンさんは、廊下がすっかり静まり返ったあとも、なかなか寝付けなかった。
肝硬変のゼンさんは、食後、その三十分後、更にその三十分後にわけて薬を飲まなければいけなかった。午後七時前から消灯三十分前まで、職員は一階に集中しているので、この時間もゼンさんの部屋にはカワさんとミトさんが集まっていた。
「肝硬変って、大変ねぇ」
ミトさんは、薬の多さに目を丸くしたが、カワさんは別のことが気になっている様子ようで、妙にそわそわしていた。
就寝前の用意を整えていた彼女の髪が、背中に流れて色っぽいせいか、とゼンさんが推測した時、カワさんが不意にこう言葉を切り出した。
「皆は薬を飲むために一階で看護師たちといるのに、どうしてゼンさんは部屋で?」
「ああ、俺のは副作用が出る代物でね。きっちり時間をずらして飲まなくちゃいけないし、薬が切れてしまっても厄介なことになる。『俺が飲むタイミングを管理しなければ駄目だ』と激しく抗議してクレームをつけてからは、ご覧の通り、奴らの監視の目もなく飲めるってわけだ」
ゼンさんは、手を広げて「こればかりは言い負かしてやったよ。譲れねぇ部分だったからな」と主張した。
すると、ミトさんが不思議そうに首を傾げた。
「でも、一階で一緒に飲んだほうが安心じゃないかしら? だって薬剤師や医師が指導してくれて、飲用を丁寧に手伝ってくれたりするでしょう?」
ゼンさんは、一度小さな置時計を見て次に飲む薬を確認してから、車椅子に腰かけるミトさんと、ベッドに腰かけるカワさんに向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。
「二人は、何か薬をもらうことはないだろうね?」
「ないわ」
「ないよ。ダイエットに必須の薬なんてないもの」
問われた二人は、同時に首を横に振った。
ゼンさんは「まぁそうだろうよ」と相槌を打ち、それから「実はな」と言葉を続けた。
「今更薬に関しては、薬剤師や医者の助言はいらねぇんだ。俺は一カ月くらい地元の病院に入院していた時、自分の身体の状態と薬の名前、必要な薬剤の成分をすべて覚えたからな」
「へぇ! ゼンさんってすごいなぁ、頭いいんだね」
途端に、カワさんが瞳をキラキラとさせてそう言った。
これが会社を経営していた男で、尚且つ七十八歳には見えないな……とゼンさんは思ったが、それについては口にしなかった。
「良くはないさ、自分のことだから頭が回るんだ。というか入園したばかりだった頃に、ここの施設じゃあちょっと薬の組み合わせが違うってのにも気付いたんだ。俺はそれについて変だなと思った一件に警戒を覚えてもいて、だから薬の服用に関しては、口を出されたくないってのもある」
ゼンさんは、そこでカワさんに「覚えてるかい、カワさん?」と訊いた。
「こっちに来たばかりの頃、奴らの指導通りに薬を飲んだあと、俺は三日間くらい重症の病人みたいだったろう?」
確認するように尋ねられたカワさんは、小首を傾げて数秒もしないうちに「ああっ、思い出したよ!」と言って頷いた。
「そんなこともあったね」
「その時は唇、頬、舌が痺れてろくに喋れないうえ、身体もひどくだるくて頻繁に眠くなった。頭は朦朧とするし時間の感覚も分からねぇ。つまり俺は、ひどい副作用を起こしていたんだ。元々俺が飲んでる薬の服用時間差については、まぁ個人差もあるから断言するのはアレだがね。調べりゃ素人でも分かることだが、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むと、高確率でそうなる」
ゼンさんの言わんとすることに気付いて、ミトさんが大きく目を見開いた。けれど確信を持ってそこを尋ねるのも憚れたのか、確認するようにこう訊いた。
「つまり専門家であるはずの彼らに、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むようにと指導されたの……?」
またもやニヤリとして、ゼンさんは「そう指導された」と答えた。
「奴らが専門家集団とはいえ、あのまま従って薬の服用を続けていたら、俺もこの施設に相応しい住人の一人になっていただろうな。今じゃあ、余計な分まで寄越されている薬もあるが、そっちに関しては必要ないからトイレに流してる」
「……もしかして、疑っているの?」
ミトさんはそこで、声を潜めた。よく分からないカワさんが二人を交互に見る中で、ゼンさんは真面目な顔をして頷いた。
「もし、という可能性の範囲だがな。こっちの医者が、薬の服用のタイミングを分かっていないだけだったかもしれないし……。とはいえ俺は、出来ることならここを出たい。ここにいると嫌なことばかり考えちまう。職員も俺たちと同じ人間で、痴呆になった入園者相手に苦労はしているんだろうが」
そこでゼンさんは、一度言葉を切って、今夜の分の薬に目を留めた。
「…………俺は、もう八十五年は生きた。けれど病院で医者が言っていた言葉があてはまるとすれば、薬と付き合って食生活を改めれば、あと約十年は生きられる」
彼の病は、まだ末期ではない。合併症は腎臓や消化器系を壊しておらず、無理をしなければ生きながらえることも出来るのだ。
肝硬変を進行させず、肝臓の働きをカバーしようとする他の臓器に負担さえかけさせなければ、この世に未練を残さない年齢まで生きられるだろう。
「たっぷり塩のついたハンバーガーと、――やっぱり、煙草が欲しいなぁ」
重くなった空気に遅れて気付き、ゼンさんはしょっぱい雰囲気や気持ちを切り替えるようにそう言って、薬を口に入れて水で流しこんだ。
カワさんとミトさんが笑い、外出許可についての話は出ないまま解散の流れとなった。それぞれが「おやすみなさい」と挨拶をして、室内にはゼンさんだけが残された。
午後八時の五分前になると、各職員が入園者たちの様子を確認するという作業が行われる。扉は鍵がないタイプなので、あちらからいつでも開くことが出来るのだ。
すうっと開かれる扉の隙間から、非常口へと繋がる廊下の薄暗い照明が見えることを、ゼンさんはひどく嫌っていた。それはひどく不穏をかき立てる不気味さがあり、カワさんのような怖がりでなくとも、好きになれる者はいないだろう。
月明かりだけの室内では、弱々しい廊下の明かりも、覗きこんで来る職員の顔を逆光で隠してしまうほど目につくのだ。
ベッドに入ったゼンさんは、今夜もまた扉がほんの少し開けられて、その隙間から「もうご就寝されましたか?」と確認してくる声を、聞こえない振りでやり過ごした。
彼はその声が、黄色い歯のいかつい看護師であることを知っていた。嗅覚は未だに衰えていないので、独特の声とあの強烈な香水の匂いですぐに分かる。
確認の声は囁きのように気色悪いほど小さかったにもかかわらず、扉は日中と変わらぬ音を立てて閉まった。薬で眠っていると思っているのだろうか?
「ちッ、くだらねぇ。くそくらえ」
ゼンさんは寝返りを打った。廊下では何人もの足音が響き、看護師たちのお喋りと「おやすみなさい」が聞こえた。隣のカワさんの部屋の扉が閉まる音を聞き、ゼンさんは彼と、そして彼の向かいの寝室にいるミトさんを想った。
ミトさんは読書が好きで、きっかり午後八時に就寝しなければならないこと嫌がっていた。今夜も午後九時に起きて、小さな明かりを付けて一人静かな読書を楽しむのだろう。彼女の部屋の小さな本棚には、古い書籍がたくさん詰まっているのだ。
しばらくすると、いつも通り廊下の奥が騒がしくなった。
奥の部屋は、ほとんど寝たきりで外に出て来られない入園者たちがいるところだ。ゼンさんは上体を起こすと、警戒して耳を澄ませてみた。
どうやら、入園者の一人が喚いているようだ。言葉を聞き取ろうにも理解出来ず、しばらくしてからようやく、獣のように絶叫しているだけなのだと気付いた。
言葉も排泄も忘れた老人が、ヒステリックに叫んで暴れている。
それを理解して、ゼンさんは怖くなった。
女たちが「男の人を」と叫んでいる声が聞こえた。慌ただしい足音が部屋の前を通り過ぎた頃には、騒ぎは更に大きくなっていた。不安と緊張で嫌な動悸を覚えたものの、じっとしてもいられず、ベッドを抜け出して扉へ右耳を押し当てた。
「早く鎮静剤を!」
「カモナシさん、落ち着いて下さい!」
「ベッドに押さえつけろ! このままじゃあ注射の針が折れちまうぞ!」
「先生、早く鎮静剤を!」
老人の叫び声は、まさに獣だった。職員たちの騒ぐ声を打ち破るほど強いのに、なぜか聞いていると胸が痛くなるほど悲しい。嘆き、怒り、絶望しているような魂の叫びにも感じられた。
俺も、いつかすっかり年老いて、ああなっちまうんだろうか。
老化とは、こうも恐ろしいものなのだろうか?
ゼンさんは身ぶるいした。自分が額に嫌な汗をかいているのに気付いて、手の甲でそれを拭った。
彼の知る老人の中で、ああなって死んだ者はいなかった。母も痴呆と身体の衰弱はあったが、辛い時期を過ぎると大人しいものだった。記憶がなくとも、ゼンさんが愛すべき母のままだった。彼は最後まで甲斐甲斐しく世話を焼いたのだ。
ぽっくり死んでいった知人たちを思い返し、今耳にしている絶叫と騒ぎへと意識を戻した。自身の知識と経験の方を疑ってみたものの、母はああではなかった、とつい比べてしまう。
一体この声の持ち主である老人はいくつなのだろうか。入園して一年以上になるミトさんは、知っている人だろうか?
ゼンさんは、ひどい疲労を覚えてベッドに倒れ込んだ。思いきり外の空気を吸い、自由に出歩きたくなった。昔のように長時間は動けないので、適度に休息を取って景色を眺めつつ、とにかくこの施設から少しでも遠くへ行ってしまいたかった。
ここは監獄だ。俺は死なされるために、ここへ送り込まれたのだ。
この騒ぎを聞いて震えているだろう、カワさんを想像した。カワさんは臆病だが、優しい男だった。怯えながらも、きっとミトさんのことを心配して心を痛めているに違いない。だからゼンさんは、愛之丘老人施設の夜が嫌いだった。
廊下の向こうは、獣のような絶叫を上げる老人だけではなかった。このような咆哮にも似た叫びは稀だったが、ここでは毎夜どこかの老人が罵声を上げ、怒り狂ったように喚き、よたよたと徘徊してぶつぶつと自分の記憶の世界の話をし、職員たちが対応に追われている。
ベッドでじっと身を丸めていると、近くの部屋の者達の啜り泣きや痛みを訴え懇願する声や、見回りの看護師の声も聞こえてきた。
「寂しいのよぉ、暗いの、怖いぃ」
「大丈夫ですよ、私たちがいますよ」
「関節が痛むんだ。腰も、足も、ひどく痛いんだよ。どうにかしてくれよ」
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記憶が後退する。意識が現実から離れてしまう。ゼンさんの母親もそうだった。感情の起伏が激しくなり、最後は目が覚めたままの状態で夢を見続けた。それでも、時々、ほんの数秒正気を取り戻すと、彼女は息子に微笑みかけたりした。
ゼンさんが五十歳のとき、母はそっと息を引き取った。幸せな死に顔だった。病院に入れなくて良かったと、ゼンさんは母の枕元で泣いた。
だから夜はいつも眠れないのだ。良くないことも、悲しかったことも、辛い今もたっぷり思い出させるくらいに時間がありすぎる。それに母が亡くなって一人暮らしが続いていたゼンさんは、他人が発する声や物音にも敏感になっていた。
ベッドに横たわったまま、月明かりを入れる窓の方を眺める。眠ろうと思っても、無意識に扉の向こうに耳をすませてしまって目は冴えるばかりだ。
ようやく廊下が静けさを取り戻しかけた時、遠くから一人の老人の叫びが上がって、ゼンさんはギクリとした。何故ならろれつの回らない声で、「薬は嫌だぁ、注射は嫌だぁ」と主張していたからだ。
先程のカワさんたちに聞かせた内容の話もあって、嫌な想像をしそうになり、ゼンさんはぎゅっと目をつぶった。
介護していた時に母が、こちらを見て「私は息子に殺される!」と叫んでいた記憶が突如脳裏に蘇った。身体の自由がきかなくなった母は「お前が私を落としいれたんだね!」と、金切り声を上げることもあった。
あの時期は一番辛く、一時の間、介護士と交互に母の面倒を見た。そうしなければ壊れかけた母の心に、ゼンさんは押し潰されてしまいそうだったからだ。
「嫌だ! それ、嫌だ! 何も考えられなくなるのは、嫌だ!」
そう叫ぶ声が聞こえた瞬間、ゼンさんはハッとして目を開けた。
今、彼はなんと言ったんだ?
ゼンさんの中で、再び嫌な想像が膨れ上がった。冷や汗が握りしめたシーツに染み、動悸が速くなる。待て、待て、落ちつけ、と彼は自分に言い聞かせた。そんなこと、あっていいはずがない。海外小説じゃあるまいし。
大丈夫、意地悪だからって、まさかそこまではしないだろう。職員だって人間だ。ストレスを抱えて、健気に業務をこなしている者だっている。睡眠薬と精神安定剤だって、飲めば体調が良くなると思っているのかもしれない。
けれどゼンさんは、廊下がすっかり静まり返ったあとも、なかなか寝付けなかった。
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