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3部 精霊女王の〝首狩り馬〟 編
77話 子守りの精霊 下
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身体を、少し丸めるようにして横たわっていた彼女が、ふっと目を開ける。
「――あら、また来たの? だめじゃない、夜も遅いのに」
優しげな声で、ふふっと空元気に囁いてきた。
もう座っていられる元気もないのだろう。今更のようにひしひしと実感させられたのか、言葉を呑んだスティーブンの前を、メイベルはスタスタと進んで彼女の方へと向かった。
「こんばんは、【子守りの精霊】」
「こんばんは、【精霊に呪われしモノ】」
メイベルは神妙な顔で、就寝衣装をふわりと広げて座り込んだ。
「つらいか?」
金色の『精霊の目』でじっと見つめれば、彼女が海色の瞳で柔らかな微笑みを返してくる。
「いいえ。つらくはないわ、ありがとう」
そう答えた【子守りの精霊】が、そばに立ったスティーブンに気付いた。続いて彼へと目を向けると、弱々しいながらもにこっと笑いかける。
スティーブンは何も言わなかった。
いや、掛ける言葉が見付からないのだろう。話すのもやっとであると感じる【子守りの精霊】を、メイベルは自分の膝の上へとそっと引き寄せた。
「なんで、子を愛するのをやめたの?」
思わず尋ねてしまった。苦しんでいる今でさえ、満足げな表情をした彼女の頬を、労うように撫でて少し乱れてしまっている髪を整え直す。
「あなたは【子守りの精霊】で、人の子を愛する事で生きる精霊でしょう?」
ぽつりとこぼれた声は、普段の強気さも外れてしおらしい。
「子を愛さなければ、あなたは――」
「一人の人間を、好きになってしまったから」
ふっと【子守りの精霊】がメイベルの声を遮った。
ピタリ、とメイベルの手が止まる。落ち着きを張り付かせた表情で見つめると、微笑みが涙で崩れ始めた彼女の頬を撫でるように包み込んだ。
「【子守りの精霊】、どうして」
「分かってる、精霊として私は本来なら恋をしないはずの種族なの。でも」
ぽろぽろ、と、彼女が海色の美しい瞳から涙をこぼして訴えた。
「好きになってしまったのよ。人の子として愛した『彼』を、私は、いつの間にか、ただ一人の男性として好きになってしまったの」
「…………彼は、君の姿が見えていた?」
諦めの表情で、メイベルは静々とした少女の声で問う。指先で涙をぬぐってやれば、涙を流す【子守りの精霊】が縋るように数回頷いてきた。
「少しだけ、姿が見える時があったの。幼い頃と、成人した頃と……」
「そう。その時に、彼も君と言葉を交わしたんだね?」
「彼の子供達が巣立っていった後は、私の声は聞こえなくなっていたわ。でも、姿だけは、時々見えてくれていて」
この家で一人きりになってしまった後、オーウェン氏は『君が寂しくないように屋敷といっぱいの花を残していこう』と言ったらしい。毎日のように手入れをかかさず、老衰で死ぬ直前まで『家』を大事にしてくれて――そうして、この素晴らしい風景が残された。
彼には恋愛感情以上の『愛』があった。それはもしかしたら、母や兄弟や家族に抱くような、とても深く特別な情愛だったのかもしれない。彼はこの家の神様を敬い、愛したのだ。
「そうして私は、そんな彼を、特別な一人の男性として愛したの」
これまでにも、子供の頃に自分の姿を見る者は何度かあった。けれどその瞳に姿を映し、そうして見つめ合うだけで胸が高鳴ったのは、初めての経験で。
メイベルは、そう話す【子守りの精霊】を、優しい手付きで撫で続けていた。スティーブンは否定も意見もせず、ただ黙って見つめていた。
「あなたは何も悪くないよ」
顔を覗き込みながら、メイベルは囁き声で言った。
「何も悪くない。どうか泣かないで」
何がどう悪くないのか、精霊としては本来どうあれば良かったのか、は分からない。けれどそう言って彼女を安心させてあげなければ、という思いはあった。
「好きだったんでしょう? なら、もうそれでいいんだよ」
メイベルは頭を抱き寄せた。涙を拭ってあげたら、【子守りの精霊】が見つめ返してきた。
数秒ほど、じっと見つめ合っていた。込み上げるモノがあったのか、彼女が目を潤ませてようやく「うん」と答えてきた。
「だから、終わりを選んだの。あの子以上に誰かを愛するなんて、もう出来ない」
その時、スティーブンが隣にしゃがみ込んできて、言葉もなく彼女の頭をがさつにもポンポンと撫でた。
「そっちの事情も、精霊事情とやらもよくは分からねぇが、……あんたはよく頑張ったよ」
そう言われた【子守りの精霊】が、泣き顔で少し微笑む。
メイベルは、少し意外に思って彼の横顔に目を向けてしまった。そうしたらスティーブンが、途端に視線を察知したみたいに見つめ返してきて、ついでのように大きな手で頭をぐりぐりとされてしまった。
「なんだよ、そんなシケタ面してんなよ」
「そんな顔、した覚えはない」
ぷいっと顔をそらしたメイベルは、その直後、ぐいっと肩を抱き寄せられてびっくりした。
肩を抱く大きな腕と手、押し付けられたたくましい身体から高い体温が伝わってくる。けれどその戸惑いに意識を向ける間もなく、膝の上に引き寄せていた彼女がぼんやりと光り始めた。
その姿が、次第に消え出しているのが分かった。
肉体の消滅を前に、メイベルは「ああ」と金色の瞳をほんの少し細めた。
「――逝くのか、【子守りの精霊】」
口から出た声は、思ったよりもか細い声になってしまった。
するとスティーブンが更に肩を抱き寄せて、隣から上に頭をもたれかけてきた。そうして二人で見守っていると、キラキラと輝いてどんどん身体が透けていく【子守りの精霊】が、ふんわりと満足げに微笑んでこう言った。
「ありがとう。おかげで寂しくなく、消えられるわ」
「そうか」
「だから貴女、どうか泣かないでね」
私は泣かないよ、という言葉を聞かせられないまま、腕に感じていた重みがフッとなくなった。美しい声を残して、彼女の姿は完全に消えていってしまっていた。
残されたのは、夜の月光を浴びた一面の花だ。
吹き抜けていった、夜風の音が聞きこえた。
この世界から彼女が失われてしまったのを感じていると、不意に頭を抱き寄せられた。気のせいか、頭に慰めか祝福でも送るような口付けを受けた――ような感覚が。
「おい、なんだよぎゅっとするな」
「なんか、お前が少し分かってきた気がする」
「暑苦しい。私は平気だ」
「抵抗もしない癖に何言ってんだか」
呟いた彼か、ふと離して隣に片膝をついてきた。
しばらく見つめ合っていた。奥まで見透かすような目を、不思議に思って見つめていたら、スティーブンが手を伸ばしてきて、首にあたっている髪に触れられた。
「何?」
髪を梳くみたいに、指先の熱が首にするのを感じて、メイベルは小首を傾げた。
そうしたら彼が、「ふうん」と言って指に髪を絡めた。
「こうしていても、いつもみたいに触るなとは言わないんだな。もしかして【精霊に呪われしモノ】は、近くにいて触るくらいなら平気なんじゃないのか?」
スティーブンが言いながら、もう少し顔を近づけてくる。
その言葉で、メイベルは「あ」といつもの調子を思い出した。カチリと思考が切り替わった拍子に、目の前に迫ってきている顔をようやく認識して、ひとまず彼の額に頭突きをくらわせていた。
「いってぇ!」
「邪魔だぞ。それから迂闊に、精霊に近付くのもオススメしない」
一般的に言われている事を教え、メイベルは立ち上がった。スカート部分をぱんぱんと手で払って整え直したところで、ふと気付く。
「というか、お前何しようとしたんだ?」
今更のように小さな疑問を覚えて尋ねた。
そうしたら、額を押さえて愚痴り呻いていたスティーブンが「あ?」と顰め面を上げた。無意識の行動だったのか、しばし考えたかと思うと、
「…………さぁ?」
と、疑問符を浮かべた表情で彼は首を捻った。
それからメイベルは、【子守りの精霊】が見守り続けていたオーウェンの敷地を少し歩いた。一面の花と、その中央に置かれた屋敷の風景をじっくり眺めていった。
その間、スティーブンも文句も言わず付き合った。
先に戻っていていいぞ、寝不足になるぞ、と指摘してやったのに彼は「女を残して一人で帰れるか」と聞いてくれなくて――。
結局、夜更かしのようにゆっくり過ごしてしまい、月の位置が変わった頃にようやく、二人は来た道を一緒に戻っていったのだった。
「――あら、また来たの? だめじゃない、夜も遅いのに」
優しげな声で、ふふっと空元気に囁いてきた。
もう座っていられる元気もないのだろう。今更のようにひしひしと実感させられたのか、言葉を呑んだスティーブンの前を、メイベルはスタスタと進んで彼女の方へと向かった。
「こんばんは、【子守りの精霊】」
「こんばんは、【精霊に呪われしモノ】」
メイベルは神妙な顔で、就寝衣装をふわりと広げて座り込んだ。
「つらいか?」
金色の『精霊の目』でじっと見つめれば、彼女が海色の瞳で柔らかな微笑みを返してくる。
「いいえ。つらくはないわ、ありがとう」
そう答えた【子守りの精霊】が、そばに立ったスティーブンに気付いた。続いて彼へと目を向けると、弱々しいながらもにこっと笑いかける。
スティーブンは何も言わなかった。
いや、掛ける言葉が見付からないのだろう。話すのもやっとであると感じる【子守りの精霊】を、メイベルは自分の膝の上へとそっと引き寄せた。
「なんで、子を愛するのをやめたの?」
思わず尋ねてしまった。苦しんでいる今でさえ、満足げな表情をした彼女の頬を、労うように撫でて少し乱れてしまっている髪を整え直す。
「あなたは【子守りの精霊】で、人の子を愛する事で生きる精霊でしょう?」
ぽつりとこぼれた声は、普段の強気さも外れてしおらしい。
「子を愛さなければ、あなたは――」
「一人の人間を、好きになってしまったから」
ふっと【子守りの精霊】がメイベルの声を遮った。
ピタリ、とメイベルの手が止まる。落ち着きを張り付かせた表情で見つめると、微笑みが涙で崩れ始めた彼女の頬を撫でるように包み込んだ。
「【子守りの精霊】、どうして」
「分かってる、精霊として私は本来なら恋をしないはずの種族なの。でも」
ぽろぽろ、と、彼女が海色の美しい瞳から涙をこぼして訴えた。
「好きになってしまったのよ。人の子として愛した『彼』を、私は、いつの間にか、ただ一人の男性として好きになってしまったの」
「…………彼は、君の姿が見えていた?」
諦めの表情で、メイベルは静々とした少女の声で問う。指先で涙をぬぐってやれば、涙を流す【子守りの精霊】が縋るように数回頷いてきた。
「少しだけ、姿が見える時があったの。幼い頃と、成人した頃と……」
「そう。その時に、彼も君と言葉を交わしたんだね?」
「彼の子供達が巣立っていった後は、私の声は聞こえなくなっていたわ。でも、姿だけは、時々見えてくれていて」
この家で一人きりになってしまった後、オーウェン氏は『君が寂しくないように屋敷といっぱいの花を残していこう』と言ったらしい。毎日のように手入れをかかさず、老衰で死ぬ直前まで『家』を大事にしてくれて――そうして、この素晴らしい風景が残された。
彼には恋愛感情以上の『愛』があった。それはもしかしたら、母や兄弟や家族に抱くような、とても深く特別な情愛だったのかもしれない。彼はこの家の神様を敬い、愛したのだ。
「そうして私は、そんな彼を、特別な一人の男性として愛したの」
これまでにも、子供の頃に自分の姿を見る者は何度かあった。けれどその瞳に姿を映し、そうして見つめ合うだけで胸が高鳴ったのは、初めての経験で。
メイベルは、そう話す【子守りの精霊】を、優しい手付きで撫で続けていた。スティーブンは否定も意見もせず、ただ黙って見つめていた。
「あなたは何も悪くないよ」
顔を覗き込みながら、メイベルは囁き声で言った。
「何も悪くない。どうか泣かないで」
何がどう悪くないのか、精霊としては本来どうあれば良かったのか、は分からない。けれどそう言って彼女を安心させてあげなければ、という思いはあった。
「好きだったんでしょう? なら、もうそれでいいんだよ」
メイベルは頭を抱き寄せた。涙を拭ってあげたら、【子守りの精霊】が見つめ返してきた。
数秒ほど、じっと見つめ合っていた。込み上げるモノがあったのか、彼女が目を潤ませてようやく「うん」と答えてきた。
「だから、終わりを選んだの。あの子以上に誰かを愛するなんて、もう出来ない」
その時、スティーブンが隣にしゃがみ込んできて、言葉もなく彼女の頭をがさつにもポンポンと撫でた。
「そっちの事情も、精霊事情とやらもよくは分からねぇが、……あんたはよく頑張ったよ」
そう言われた【子守りの精霊】が、泣き顔で少し微笑む。
メイベルは、少し意外に思って彼の横顔に目を向けてしまった。そうしたらスティーブンが、途端に視線を察知したみたいに見つめ返してきて、ついでのように大きな手で頭をぐりぐりとされてしまった。
「なんだよ、そんなシケタ面してんなよ」
「そんな顔、した覚えはない」
ぷいっと顔をそらしたメイベルは、その直後、ぐいっと肩を抱き寄せられてびっくりした。
肩を抱く大きな腕と手、押し付けられたたくましい身体から高い体温が伝わってくる。けれどその戸惑いに意識を向ける間もなく、膝の上に引き寄せていた彼女がぼんやりと光り始めた。
その姿が、次第に消え出しているのが分かった。
肉体の消滅を前に、メイベルは「ああ」と金色の瞳をほんの少し細めた。
「――逝くのか、【子守りの精霊】」
口から出た声は、思ったよりもか細い声になってしまった。
するとスティーブンが更に肩を抱き寄せて、隣から上に頭をもたれかけてきた。そうして二人で見守っていると、キラキラと輝いてどんどん身体が透けていく【子守りの精霊】が、ふんわりと満足げに微笑んでこう言った。
「ありがとう。おかげで寂しくなく、消えられるわ」
「そうか」
「だから貴女、どうか泣かないでね」
私は泣かないよ、という言葉を聞かせられないまま、腕に感じていた重みがフッとなくなった。美しい声を残して、彼女の姿は完全に消えていってしまっていた。
残されたのは、夜の月光を浴びた一面の花だ。
吹き抜けていった、夜風の音が聞きこえた。
この世界から彼女が失われてしまったのを感じていると、不意に頭を抱き寄せられた。気のせいか、頭に慰めか祝福でも送るような口付けを受けた――ような感覚が。
「おい、なんだよぎゅっとするな」
「なんか、お前が少し分かってきた気がする」
「暑苦しい。私は平気だ」
「抵抗もしない癖に何言ってんだか」
呟いた彼か、ふと離して隣に片膝をついてきた。
しばらく見つめ合っていた。奥まで見透かすような目を、不思議に思って見つめていたら、スティーブンが手を伸ばしてきて、首にあたっている髪に触れられた。
「何?」
髪を梳くみたいに、指先の熱が首にするのを感じて、メイベルは小首を傾げた。
そうしたら彼が、「ふうん」と言って指に髪を絡めた。
「こうしていても、いつもみたいに触るなとは言わないんだな。もしかして【精霊に呪われしモノ】は、近くにいて触るくらいなら平気なんじゃないのか?」
スティーブンが言いながら、もう少し顔を近づけてくる。
その言葉で、メイベルは「あ」といつもの調子を思い出した。カチリと思考が切り替わった拍子に、目の前に迫ってきている顔をようやく認識して、ひとまず彼の額に頭突きをくらわせていた。
「いってぇ!」
「邪魔だぞ。それから迂闊に、精霊に近付くのもオススメしない」
一般的に言われている事を教え、メイベルは立ち上がった。スカート部分をぱんぱんと手で払って整え直したところで、ふと気付く。
「というか、お前何しようとしたんだ?」
今更のように小さな疑問を覚えて尋ねた。
そうしたら、額を押さえて愚痴り呻いていたスティーブンが「あ?」と顰め面を上げた。無意識の行動だったのか、しばし考えたかと思うと、
「…………さぁ?」
と、疑問符を浮かべた表情で彼は首を捻った。
それからメイベルは、【子守りの精霊】が見守り続けていたオーウェンの敷地を少し歩いた。一面の花と、その中央に置かれた屋敷の風景をじっくり眺めていった。
その間、スティーブンも文句も言わず付き合った。
先に戻っていていいぞ、寝不足になるぞ、と指摘してやったのに彼は「女を残して一人で帰れるか」と聞いてくれなくて――。
結局、夜更かしのようにゆっくり過ごしてしまい、月の位置が変わった頃にようやく、二人は来た道を一緒に戻っていったのだった。
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