精霊魔女のレクイエム

百門一新

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2部 ヴィハイン子爵の呪いの屋敷 編

37話 精霊少女と教授の話

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 来るまでの間ずっと食べ続けていたというのに、メイベルはホテルの料理もしっかり平らげた。鳥の丸焼きを一羽、フォークとナイフを手に一人で悠々と完食した時、スティーブンはもはや視線をそらして「見ているだけで吐きそうだ」と口を押さえていた。

 気付けば、外は柔らかな西日に変わりつつあった。全ての皿が下げられ、あの教授様はかなり食う男であるらしいという誤解を生んだ頃、窓からの風は涼しさが増していた。

 今日はもう出る事はない。あの【呪いの屋敷】の敷地内に入るには、役所から許可と鍵がいる。だから明日に備えて早めに身体を休めようと、交代制で風呂を済ませる案が出た。

「つってもな、なんで私が先なんだ?」

 窓から外を眺めていたメイベルは、そこで不思議そうに彼の方を振り返った。ずっと適当に返事をしていたものの、話はきちんと聞いていた。

「人間と精霊わたしたちの疲労感は違う。連れている精霊を先に入れるのは普通ないし、お前の方がだいぶ疲れているようだが」
「うるせぇ、んなの知った事か。同じ列車旅だったってのに、女を後にさせるわけないだろ」

 なんだそれ、とメイベルが言い返す間にも、スティーブンは「準備するから待っとけ」とぴしゃりと言って動き出していた。

 それからしばらくもしないうちに、浴室が温かな湯気のいい香りに包まれた。

 ユニットバスは、ミルク色の凝った泡風呂だ。

 そこに入ったメイベルは、じんわりと芯まで身体が温くなっていくのを感じた。泡風呂の品はホテルの宿泊サービスに含まれているらしいけれど、とはいえここまでするもんなのかなと首を傾げてしまう。

「というか、わざわざ扉開けて外で待つとか」

 濡れた髪を後ろへ撫でつけたところで、メイベルはそちらへ目を向ける。

 部屋の方に湯気が行ってしまうというのに、浴室の戸は開けられて脱衣所が見えた。そこには、こちらに背を向けるようにして壁にもたれかかり、ブチ切れた顔で座り込んでいるスティーブンの姿があった。

「テメェを一人にしていたら、また精霊がわんさか出るんだろ」

 かなり嫌なのが伝わってくる低い声だった。魔法嫌いらしい台詞である。彼らは自分たちではどうすることも出来ない世界だったり、精霊だったりが好きではない。

 メイベルはそう思い出しながら、湯の上にふわふわと浮いている泡を両手ですくった。

「出で来る時には出てくるし、出てこない時は出てこない。精霊ってのは気紛れなもんさ」

 ついでのようにそう教えた。肌触りのいい湯を肌の上で撫ぜると、湯船の中で姿勢を楽にして、泡からちゃぷりと足を上げて素足同士で肌をこする。

「おい。足を上げんな」
「見えてないのによく分かったな」
「視界の端にチラチラ映ってんだよド阿呆」

 彼があちらへと顔をむけ、それから先程の会話についてこう続けてきた。

「これ以上精霊が増えてたまるかってんだ」
「そんなもんかね」

 メイベル、心地良い湯の感触を足で確認しながら適当に言った。子供みたいな足をしばし眺め、ちゃぷりと湯に戻す。

「そういや、エインワースはポプリを浮かべるのが好きだっけな。自家製のやつを瓶に入れていて、それはとてもとても優しい香りがするもので」

 ふと、思い出してそう呟いた。

 週に二回は、泡風呂でゆっくり身体を浸かるのが日課だった。その際にも、メイベルが支度を整えた頃にひょこっとやって来て、「今日はこの香りがいいかな」とニコニコして少しだけ入れるのだ。

「あの家に来てから、『一番に作り方を習ったもの』なんだとか。その花の香りに誘われて、たびたび精霊が来たりする。そうしたら時には私を呼んで、この精霊はどんなモノなんだと子供みたいに聞いてきたり」

 そう思い返していたメイベルは、ああ、しまった、と気付いて口を閉じた。彼にとって、尊敬している祖父の家に精霊が出入りしているのは『嫌な事』だった。

 いつもみたいに怒ってくるんだろう。やれやれ面倒なにんげんだ。

 湯の上に浮かぶ泡を、意味もなく腕で抱き寄せながらそう思った。数秒ほど、水音と泡が立てる小さな音を聞いていたら、向こうで彼が少し身じろぎする音がした。

「おい、いきなり話をやめるなよ。続きが気になるだろ」

 何かしらの反論でもしてくるかと思ったら、まるで催促でもするような言い方だった。

「続きはとくにないよ」

 少し意外に思いながら、メイベルはそう答えた。

「なんだ、エインワースの事が知れて嬉しいのか?」
「ポプリの事くらい知ってる。婆さんが趣味でやっていて、結婚してあの家に腰を据える事になった日に、まず教えられたものなんだろ」

 それから初めて家庭菜園をやるようになり、それがいつの間にか自分の趣味になっていった。メイベルは、エインワース自身から聞いた話を思い返す。

 大事にしているのだろう。

 ただただ、彼は当時の生活の『匂い』や『習慣』をそのままに残している。

 毎日の生活を見ていれば、エインワースが当時にあった夫婦としての、穏やかに暮らしていた頃の空気を感じる事が出来た。先に他界してしまった妻を、それほどまでに愛していたのだという事が分かるようだった。

「どんな精霊が来るんだ」

 しばし沈黙を聞いていると、スティーブンがそんな事を言ってきた。メイベルはふっと思案が途切れて、声のした方へ視線を投げる。

「何が」
「だから、さっきの爺さんの風呂の話だよ」
「気持ち悪い」

 エインワースが好きすぎて、風呂の様子まで知りたいのかコイツ。

 メイベルは、思わず間髪入れず感想を口にした。すると、スティーブンが「違うわ!」と叫んで、ガバリとこちらを振り返ってきた。

「別にそう意味じゃな――っておいおい待て待て動くなッ!」
「ただ泡をすくっただけだぞ、いちいち騒がしい奴め」

 もたれていた背を起こしただけで、そのまま湯に浸かっていて鎖骨から下は見えない状態だ。そもそも振り返るお前が悪いのでは、とも思ったメイベルは、ふと思い出して鼻で嗤った。

「そうだったな。顎にちょっと触っただけで動じる奴だった」
「あれはたまたまだ!」
「フッ、こっちは『子供の姿』だってのにな」
「色々と伝えてくるその薄ら笑いをやめろ、俺はガキにいちいち反応するほど困っちゃいねぇよ」

 スティーブンが、複数の青筋を立ててブチ切れた声で言った。ふんっと顔をそむけると、ドカリと壁に背を持たれ直す。

「のぼせちまうからな、あと十分では上がれよ」

 そんなぶっきらぼうな声が、向こうから聞こえてきた。

 見掛けや口調に反して、そういった面はキッチリしている奴だ。こっちは精霊なのにな、と思ったメイベルは、彼の友人の教授トムが、面倒見がいいと口にしていたのを思い出して、湯船の縁に腕を置いてもたれかかった。

「なるほどな、そりゃあ損をするタイプだ」
「なんでいきなり俺を貶した?」
「そんなんだから、相手の魔法使いに『一方的に協力者認定』されたりするんだろう」
「おい、いちいち俺の地雷を踏み抜いてくるよな、沈めんぞ」

 思い出したくもない原因だ、と向こうを向いたままスティーブンが言う。その様子がなんだか子供っぽくて、メイベルはこっそり柔らかな苦笑をこぼしていた。

「そうだな、エインワースの入浴中に来ていた精霊の話でもしようか」

 わざわざ風呂の順番を先に譲ってもらった彼に、少しだけ話してやる事にして、そう言葉を切り出した。

「来る精霊のほとんどは同じ種族だ。本来は人間の前にも現れない、とても小さくて弱いモノでな。人間に見えるよう姿や形を変えるから、エインワースは全く別種の精霊だと思っている」
「教えてねぇのか?」

 少しだけ衣擦れの音が聞こえてきた。こちらに耳を傾けているのだろう。メイベルはそんな彼の様子を想像しながら、浮かべてしまう。

 だって、そんなこと出来るはずがない。

 毎日、いつも楽しそうにしているエインワースを思い起こした。とても素直で子供みたいな彼は、いつだって目の前にしたモノをそのまま信じて「これはなんだい?」と、目をキラキラとさせて訊いてきて――。

「――違う種類の精霊だと思ってるし、説明するのが面倒」

 メイベルは、そっけなく言って腕を湯に戻した。そうしたら案の定、スティーブンが向こうから「おいおい」と呆れた声を上げてきた。

「それは少し爺さんが可哀想じゃないか……?」
「精霊としての影響力も害もない、ただふわふわしている奴らだとは教えた」

 メイベルが引き続き興味もなさそうに言うと、スティーブンが「ふわふわしてるやつら、ねぇ」と、いまいちイメージ出来ない様子で呟いた。

「普段俺らの目には見えないタイプの精霊で、見せる時には姿をころころ変えるって。そりゃ一体どういう精霊なんだよ?」
「アレらは『子供の夢』みたいなものなのさ。お喋りは出来ないから、姿で人を楽しませる。ある時は小さなテディー・ベア、ある時はお菓子のスティック、ある時はクッキー人形だったり」
「人間を楽しませる精霊ってか?」
「いるんだよ、そんな小さな小さな精霊が」

 それだけの精霊なんているのか、という疑問を彼の口調から感じ取って、メイベルはそう答えた。

 大抵は、子供が夢の中で見たりすることが多い。もしくは、この世との別れが迫っていて、魂が少しずつ軽くなり始めている心がキレイな者――だから、ここではあまり知られてもいない【精霊かも分からない曖昧なモノ】だった。

 そうとは教えないまま、メイベルは湯から出るべく立ち上がった。ザパリと水の音を聞いたスティーブンが、向こうから「タオルはそこにかかってる!」と慌てたように言いながら、脱衣所から廊下へと猛ダッシュする。

 メイベルの華奢で真っ白な肌の上を、水滴が滑り落ちた。その背には、まるで翅跡のようにも見える二つの歪な線が、大きな火傷痕みたいな様子で烙印のように入っていた。

「エインワースは、――あいつは、とてもいいやつだよ」

 タオルへと歩み寄りながら、メイベルは口の中にそっと言葉を落とした。それから、背を隠すようにして、手に取ったタオルをバサリと身体に巻きつけた。
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