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2部 ヴィハイン子爵の呪いの屋敷 編
32話 アルベーユ最大の駅にて
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ルファの町から地方都市サーシスへ入り、列車を乗り継いで数時間後に大都会ルーベリアへ到着した。休む暇もなくすぐに移動し、長距離列車アルベン109号を探すべく広大な駅構内を進んだ。
辿り着いた十七番ホームにあったのは、通常よりも一回りも大きく、ガッチリとした黒々しい装甲が目を引く列車だった。昔の軍事列車みたいだと、メイベルはそんな事を思った。
「立派な列車だな。かなり馬力がありそうだ」
「国境を超える事になるからな。数日間も走り続けるとなると、それくらいの大きさは必要になる」
「ふうん、なるほどな」
そういえばそうだったなと思い出して、なんでもないように相槌を返した。魔法を一切使わないとなると、それはそれで少し不便な移動手段だと感じつつも口にはしなかった。
国境を超えるためには、先に必要な手続きがあるらしい。
慣れたようにプラットホームを進むスティーブンの後を追った。まず彼が向かったのは受け付けで、そこには二人の職員がいた。
「ようこそ、ルーベリア最大の駅へ」
スティーブンが「すまないが」と窓口に立つなり、彼らが制服帽をちょいと上げて礼儀にのっとった挨拶をしてきた。にこっと愛想を浮かべる三十代の男性職員の隣で、任期数年といった若い方が「それで」と言葉を続ける。
「ご用はなんでしょう?」
「先日、急ぎチケットを取った者だが――」
言いかけた彼が、気付いたようにチラリとこちらに目配せしてきた。フードを深く被っていたメイベルは、分かったよと応えるように肩を竦めて向こうのベンチへ向かった。
広い構内には何本も番号の書かれた柱があり、同じベンチが並んでいた。都市の中心とあって人がごちゃごちゃと行き交い、列車の発車と到着を告げる構内放送もあって耳がじんじんするほど騒がしい。
ここには、長距離の移動をする者がほとんどらしい。みなスティーデンのように少々厚いコートで、男性も女性もしっかりとした靴を履いている。馴染みのない土地にいくと言わんばかりの帽子姿も目立ち、誰もが大きな旅行鞄を持っていた。
メイベルは、ベンチに楽に腰かけてその様子をぼんやりと眺めた。フードから緑の短い髪が見えてしまわないよう、少し俯き加減にして両手をローブのポケットに突っ込む。その品のない姿勢は、立派な構内では浮いていて、チラチラと通りすがり人から目を向けられていた。
人、ひと、見渡すまでもなく溢れている人間が、右へ左へと行き交う。
何者も怨めるはずがない。
何が悪くて、何がダメだったのか、そんな運命を精霊達がいうように、ただただ単純に楽しんだり怨めた方が楽だったのだろうか、と、そんなことを考える。
「――一番目の【精霊に呪われしモノ】は、怨んで怨んで、そうやって呪って、血溜まりの中で『悪精霊ども』を召喚して大量殺害したんだっけか」
ただ存在した。それだけだったのにな、と精霊から聞いた話を思い出してそう呟いた。精霊はそれを心から楽しそうに笑って話すのだ、まるで人間の女の子みたいな精霊だったよ、と。
ひどいのは一体どちらだったろうか。
わざと忠告もせず、希望通り人間界へと案内した精霊達か。それとも、ただ優しいだけの女の子の姿をした無垢で無知な精霊を、殺すべく刃物を向けて襲いかかった人間達か。
無知だった。幼かった。だから、よく分からないまま必死に逃げたのだろう。魔法だって使えなかったその精霊の彼女は、人間に傷つけられて、精霊によって殺された人間たちの『残骸』の中で、最後は傷だらけでこの世と全てを呪い、魔力を出し尽くして死んだのだ。
そう聞いた話を思い返していた時、人混みを抜けてきた男の子が目の前で派手に転倒した。
年頃は五歳ほどだろうか。ビタンっと痛い音がして、メイベルは思わず思考を止める。男の子は、うつ伏せになったままぶるぶると震えて、どうにか一人で頑張って堪えているみたいだった。
行き交う人々は、大丈夫かと見て取ったように誰も助け起こす気配がない。
メイベルは、「やれやれ」と吐息混じりに言いながら立ち上がった。深くかぶったフードとローブの裾を揺らしながら、人の波をぬってそちらへと向かう。
「坊や、大丈夫かい」
片膝をついてしゃがみ込み、そう声を掛けながら手を貸した。
ひとまず座らせてみたその男の子は、くすんだ金色の髪をしていた。大きなブラウンの目はすっかり涙に濡れていて、ボロボロ泣きながらも、どうにか声だけは抑えているといった様子だった。くしゃっとなった前髪から覗いた額は、少し赤くなってしまっている。
「これは痛いよなぁ。きっと大の大人でも痛いやつだ、大声で泣かなかったのは偉いぞ」
赤くなっている額に掌を押し当てて、腫れが引いてくれるよう撫でさすった。
「うっ、でも、ぼくが走っていたのが悪いから……。あの、その、ご、ごごごめんなさい」
「謝る必要はないさ。子供ってのは、好奇心旺盛で走り回るもんだろうよ。だからみんな、怒ってお前に手を貸さなかったんじゃなくて、男の子だし平気だと思って放っておいたんだ」
多分、怒っていたら今頃誰かに怒られながら介抱されているぞ、とメイベルは淡々と言った。どこか不思議そうにしている子供の額から、「そろそろいいか」と呟いて手を離す。
「だから、そら、もう泣くんじゃない」
言いながら、掌や指先で頬を伝う涙を拭った。ざっと衣装を見てみると破れはなく、半ズボンから覗く膝頭にも傷らしきものは見当たらない。
ただ、小さな掌は、咄嗟に身体を受け止めようとして赤くなってしまっていた。そこに少しついた汚れを払い落しにかかりながら、じんじんとしているであろうその痛みがなくなってくれるよう、揉み解しにかかる。
「うんうん、手も痛かったな。それで、他に痛いところはないな?」
尋ねてみると、子供がこっくりと頷いた。
よし、と口にしてメイベルは彼を立ち上がらせた。服に付いた汚れを手で払い落してから、崩れた髪型をざっと手櫛で整えてやる。それから、まだ少し溢れてこぼれ落ちている彼の涙を両手で拭った。
「もうどこも痛くないだろ? だから泣くな」
「……うん。ぼく、泣かない」
「偉いな。イイ子だ」
きゅっと唇をつぐんで涙を引っ込めたのを見て、メイベルは彼の両肩をぽんぽんと叩いた。
「お前、親はどうした? まさか迷子じゃないだろうな?」
「ううん。待っているように言われて、向こうの待合席にいたの。でも白くてふわふわしたのが転がっていったから、なんだろうと思って追い駆けて、気付いたら転んでいて」
それを聞いて、メイベルは察した様子で「ああ、なるほどな」と呟いた。少し腰を屈めると、男の子と視線の高さを合わせてからこう言った。
「いいか坊や、そういうモノを追い駆けてはいけない」
「どうして?」
「お前は少しだけ『目がいい』。でもそれがいいモノなのか悪いモノなのか、区別がつかないのなら少々危ないって話なのさ。そういう子供のキレイな魂が好きな連中だっている」
すると、子供が不思議そうに首を傾げた。
「たましいが好きなモノ、って?」
「要するに『よくないモノ』だ。ここに漂っているのは、ほとんどそうだよ。まぁ守護の力は強いし、恐らくは、もう数年したらお前はそんなモノも見えなくなるだろうがな」
「お兄さん、変なこと言うね」
「ふむ、お兄さん、ね。まぁそれがいつもの『普通の反応』か」
不意に、メイベルはふっと顔を上げた。聴覚をピンっと張って集中し、人混みの向こうを精霊の金色の目で真っ直ぐ見据える。
「――もしかしたら、お前の両親かもな。声がする」
「声? 周りががやがやとしていて聞こえないよ」
「私の耳は、人間より何倍も優れているからな。それじゃあ余計な『音』を、私がほんの少しだけ小さくしてやろうか。そうすればきっと、お前にも聞こえる」
メイベルは再び背を屈めると、子供の両耳に手をあてるようにして包みこんだ。
「どうだ? 聞こえるか?」
「あっ、お父さんとお母さんの声だ!」
「どうやらお前がいないのに気付いて、慌てて探しているみたいだな」
手を離してすぐ、男の子の輝く目がこちらを向いた。
「ねぇ今のどうやったのッ? すっごく不思議!」
「私の耳の感覚を、少し貸してやっただけだ」
さっきまでの涙はどこに行ったんだよ、とメイベルは小さく苦笑を浮かべた。目の前ではしゃぎ出した彼の身体の向きを変えて、その小さな背を軽く押した。
「ほら、おいき。もうはぐれてしまってはいけないよ」
男の子は躊躇いを見せたものの、聞かせてやった両親の心配の声もあって戻る事を決めたようだ。通行する人々の間をパタパタと走り出し、ふと、途中で一度足を止めてこちらを振り返っる。
向こうから、わざわざ大きく手を振ってきた。近くから見ていたから、こちらの目も髪の色も見えていたはずだ。でも彼は、精霊の中で唯一緑の髪を持つモノを知らないのだろう。
メイベルは、ふっと苦笑をこぼして「しようのないやつだ」と小さく手を振り返した。その子供の姿が人混みに見えなくなると、ぽっかりと胸に穴があいたみたいな表情を浮かべて、そっと手を下ろした。
「おいコラ」
その時、そんな声が聞こえて、ポコン、と頭に何かがあたった。
振り返ってみると、そこには顰め面を浮かべたスティーブンが立っていた。こちらを見下ろしている彼が、目が合うなり不機嫌そうに睨んでくる。
「ベンチで座ってじっとしているんじゃなかったのか、あ?」
「じっとしているとは伝えていないぞ――孫」
「だーかーらーッ、俺の名前は『スティーブン』だっつってんだろうが!」
もうなんなのお前ッ、と彼が騒がしい態度で言う。
探し回ったとは言われていないし、ベンチからそんなに離れているわけではない。どうやら今来たところみたいだな、とメイベルは推測して事情は説明しなかった。
「まぁいい。確認に手間取っているみたいで、少し待つらしいからサンドイッチでも食ってろ」
言いながら、スティーブンがまだ温かいそれを押し付けてきた。両手にずっしりと重量感がきて、メイベルは「おや」と紙袋に簡単に包まれた分厚いサンドイッチを見下ろす。
「特大サイズとは気が利くな。ずっと黙々とここへ来たから、そろそろ何かつまみ食いでもしようかと思っていたところだ」
「爺さんから渡された金を使ったら容赦しねぇぞ」
負担をかけさせるわけにはいかねぇ、と彼は使命感を漂わせてギリィっと奥歯を噛む。それから改めて出発時の決意を思い返すように、カッと目を見開いてメイベルに指を突きつけた。
「いいかッ。俺は大食らいだろうが、テメェ一人くらい向こう数十年食わせ続けられるくらいの金はある! 絶対食には困らせねぇし、勝手にそばを離れてどこにも行くなしっかりついて来い!」
後半、覚悟の思いがこもり過ぎて一呼吸で言いきっていた。
それを聞いた周りの人々が、「え、突然のプロポーズ……?」と目を向けた。その視線に気付いたメイベルは、迷惑な煩い孫だな、と思いつつも教えるのも面倒でスティーブンを見つめていた。
「それで、ここでは駅弁くらいは買ってもいいのか」
「あ? まぁいちおう車内販売は充実しているが、それ食っても時間があれば買えばいいだろ」
珍しく文句らしい事も続けず、スティーブンがベンチへと引き返すように足を向けた。メイベルは、その丈の長いコートの裾が揺れるのを見ながら後に続いた。
知らせを職員が持ってきたのは、それから数十分も待った頃だった。列車の発車時刻まで十分前を切っており、ホーム担当のその男は恐縮しきった様子だった。
「スティーブン教授様、お時間を取らせてしまい大変申し訳ございませんでした」
「いや、別に俺は怒っていないし、無事に出発出来ればそれで問題ない」
答えるスティーブンは、口許が若干引き攣っていた。後ろで別の駅員が運び入れる荷物をまとめている中、メイベルの大量の駅弁が彼から見えないように立っている。
「確認が取れましたので、どうぞご乗車くださいませ。良い旅を!」
彼は制服帽を最後に少し上げて、にっこりと営業スマイルでそう言った。
時間結構あったなと上機嫌なメイベルに対して、スティーブンは「……買い物だけでめっちゃ目立ったな」と既に心労がたたっていた。
※※※
十七番ホームが見える駅の受け付け室にて、若い職員が「おかしいなぁ」と首を捻った。別件で少し席を外していた先輩職員が戻ってきたのに気付いて、声を掛ける。
「やっぱり、どこをどう探しても見当たらないです」
「教授様の身分証明の確認は取れたんだろう?」
「はい。ですが彼が説明していた『メイベル』ですが、住民票や戸籍一覧を見る限りそんな名はみあたらなくて」
先輩職員は、「ふうん?」と言いながら隣の椅子に腰を下ろした。
「記録の更新が遅れているんじゃないか? サーシスにあるルファって、俺もこっちで仕事するようになってようやく知ったくらいのド田舎だしな。相手は精霊だし、向こうのお役所も、初めての事で書類の確定に苦戦しているのかもな」
「たびたびあるやつですよね。全く、困ったもんです」
まぁ相手は精霊だし仕方がない、彼もそう気にしない事にして『確認済み』の印鑑を押した。
辿り着いた十七番ホームにあったのは、通常よりも一回りも大きく、ガッチリとした黒々しい装甲が目を引く列車だった。昔の軍事列車みたいだと、メイベルはそんな事を思った。
「立派な列車だな。かなり馬力がありそうだ」
「国境を超える事になるからな。数日間も走り続けるとなると、それくらいの大きさは必要になる」
「ふうん、なるほどな」
そういえばそうだったなと思い出して、なんでもないように相槌を返した。魔法を一切使わないとなると、それはそれで少し不便な移動手段だと感じつつも口にはしなかった。
国境を超えるためには、先に必要な手続きがあるらしい。
慣れたようにプラットホームを進むスティーブンの後を追った。まず彼が向かったのは受け付けで、そこには二人の職員がいた。
「ようこそ、ルーベリア最大の駅へ」
スティーブンが「すまないが」と窓口に立つなり、彼らが制服帽をちょいと上げて礼儀にのっとった挨拶をしてきた。にこっと愛想を浮かべる三十代の男性職員の隣で、任期数年といった若い方が「それで」と言葉を続ける。
「ご用はなんでしょう?」
「先日、急ぎチケットを取った者だが――」
言いかけた彼が、気付いたようにチラリとこちらに目配せしてきた。フードを深く被っていたメイベルは、分かったよと応えるように肩を竦めて向こうのベンチへ向かった。
広い構内には何本も番号の書かれた柱があり、同じベンチが並んでいた。都市の中心とあって人がごちゃごちゃと行き交い、列車の発車と到着を告げる構内放送もあって耳がじんじんするほど騒がしい。
ここには、長距離の移動をする者がほとんどらしい。みなスティーデンのように少々厚いコートで、男性も女性もしっかりとした靴を履いている。馴染みのない土地にいくと言わんばかりの帽子姿も目立ち、誰もが大きな旅行鞄を持っていた。
メイベルは、ベンチに楽に腰かけてその様子をぼんやりと眺めた。フードから緑の短い髪が見えてしまわないよう、少し俯き加減にして両手をローブのポケットに突っ込む。その品のない姿勢は、立派な構内では浮いていて、チラチラと通りすがり人から目を向けられていた。
人、ひと、見渡すまでもなく溢れている人間が、右へ左へと行き交う。
何者も怨めるはずがない。
何が悪くて、何がダメだったのか、そんな運命を精霊達がいうように、ただただ単純に楽しんだり怨めた方が楽だったのだろうか、と、そんなことを考える。
「――一番目の【精霊に呪われしモノ】は、怨んで怨んで、そうやって呪って、血溜まりの中で『悪精霊ども』を召喚して大量殺害したんだっけか」
ただ存在した。それだけだったのにな、と精霊から聞いた話を思い出してそう呟いた。精霊はそれを心から楽しそうに笑って話すのだ、まるで人間の女の子みたいな精霊だったよ、と。
ひどいのは一体どちらだったろうか。
わざと忠告もせず、希望通り人間界へと案内した精霊達か。それとも、ただ優しいだけの女の子の姿をした無垢で無知な精霊を、殺すべく刃物を向けて襲いかかった人間達か。
無知だった。幼かった。だから、よく分からないまま必死に逃げたのだろう。魔法だって使えなかったその精霊の彼女は、人間に傷つけられて、精霊によって殺された人間たちの『残骸』の中で、最後は傷だらけでこの世と全てを呪い、魔力を出し尽くして死んだのだ。
そう聞いた話を思い返していた時、人混みを抜けてきた男の子が目の前で派手に転倒した。
年頃は五歳ほどだろうか。ビタンっと痛い音がして、メイベルは思わず思考を止める。男の子は、うつ伏せになったままぶるぶると震えて、どうにか一人で頑張って堪えているみたいだった。
行き交う人々は、大丈夫かと見て取ったように誰も助け起こす気配がない。
メイベルは、「やれやれ」と吐息混じりに言いながら立ち上がった。深くかぶったフードとローブの裾を揺らしながら、人の波をぬってそちらへと向かう。
「坊や、大丈夫かい」
片膝をついてしゃがみ込み、そう声を掛けながら手を貸した。
ひとまず座らせてみたその男の子は、くすんだ金色の髪をしていた。大きなブラウンの目はすっかり涙に濡れていて、ボロボロ泣きながらも、どうにか声だけは抑えているといった様子だった。くしゃっとなった前髪から覗いた額は、少し赤くなってしまっている。
「これは痛いよなぁ。きっと大の大人でも痛いやつだ、大声で泣かなかったのは偉いぞ」
赤くなっている額に掌を押し当てて、腫れが引いてくれるよう撫でさすった。
「うっ、でも、ぼくが走っていたのが悪いから……。あの、その、ご、ごごごめんなさい」
「謝る必要はないさ。子供ってのは、好奇心旺盛で走り回るもんだろうよ。だからみんな、怒ってお前に手を貸さなかったんじゃなくて、男の子だし平気だと思って放っておいたんだ」
多分、怒っていたら今頃誰かに怒られながら介抱されているぞ、とメイベルは淡々と言った。どこか不思議そうにしている子供の額から、「そろそろいいか」と呟いて手を離す。
「だから、そら、もう泣くんじゃない」
言いながら、掌や指先で頬を伝う涙を拭った。ざっと衣装を見てみると破れはなく、半ズボンから覗く膝頭にも傷らしきものは見当たらない。
ただ、小さな掌は、咄嗟に身体を受け止めようとして赤くなってしまっていた。そこに少しついた汚れを払い落しにかかりながら、じんじんとしているであろうその痛みがなくなってくれるよう、揉み解しにかかる。
「うんうん、手も痛かったな。それで、他に痛いところはないな?」
尋ねてみると、子供がこっくりと頷いた。
よし、と口にしてメイベルは彼を立ち上がらせた。服に付いた汚れを手で払い落してから、崩れた髪型をざっと手櫛で整えてやる。それから、まだ少し溢れてこぼれ落ちている彼の涙を両手で拭った。
「もうどこも痛くないだろ? だから泣くな」
「……うん。ぼく、泣かない」
「偉いな。イイ子だ」
きゅっと唇をつぐんで涙を引っ込めたのを見て、メイベルは彼の両肩をぽんぽんと叩いた。
「お前、親はどうした? まさか迷子じゃないだろうな?」
「ううん。待っているように言われて、向こうの待合席にいたの。でも白くてふわふわしたのが転がっていったから、なんだろうと思って追い駆けて、気付いたら転んでいて」
それを聞いて、メイベルは察した様子で「ああ、なるほどな」と呟いた。少し腰を屈めると、男の子と視線の高さを合わせてからこう言った。
「いいか坊や、そういうモノを追い駆けてはいけない」
「どうして?」
「お前は少しだけ『目がいい』。でもそれがいいモノなのか悪いモノなのか、区別がつかないのなら少々危ないって話なのさ。そういう子供のキレイな魂が好きな連中だっている」
すると、子供が不思議そうに首を傾げた。
「たましいが好きなモノ、って?」
「要するに『よくないモノ』だ。ここに漂っているのは、ほとんどそうだよ。まぁ守護の力は強いし、恐らくは、もう数年したらお前はそんなモノも見えなくなるだろうがな」
「お兄さん、変なこと言うね」
「ふむ、お兄さん、ね。まぁそれがいつもの『普通の反応』か」
不意に、メイベルはふっと顔を上げた。聴覚をピンっと張って集中し、人混みの向こうを精霊の金色の目で真っ直ぐ見据える。
「――もしかしたら、お前の両親かもな。声がする」
「声? 周りががやがやとしていて聞こえないよ」
「私の耳は、人間より何倍も優れているからな。それじゃあ余計な『音』を、私がほんの少しだけ小さくしてやろうか。そうすればきっと、お前にも聞こえる」
メイベルは再び背を屈めると、子供の両耳に手をあてるようにして包みこんだ。
「どうだ? 聞こえるか?」
「あっ、お父さんとお母さんの声だ!」
「どうやらお前がいないのに気付いて、慌てて探しているみたいだな」
手を離してすぐ、男の子の輝く目がこちらを向いた。
「ねぇ今のどうやったのッ? すっごく不思議!」
「私の耳の感覚を、少し貸してやっただけだ」
さっきまでの涙はどこに行ったんだよ、とメイベルは小さく苦笑を浮かべた。目の前ではしゃぎ出した彼の身体の向きを変えて、その小さな背を軽く押した。
「ほら、おいき。もうはぐれてしまってはいけないよ」
男の子は躊躇いを見せたものの、聞かせてやった両親の心配の声もあって戻る事を決めたようだ。通行する人々の間をパタパタと走り出し、ふと、途中で一度足を止めてこちらを振り返っる。
向こうから、わざわざ大きく手を振ってきた。近くから見ていたから、こちらの目も髪の色も見えていたはずだ。でも彼は、精霊の中で唯一緑の髪を持つモノを知らないのだろう。
メイベルは、ふっと苦笑をこぼして「しようのないやつだ」と小さく手を振り返した。その子供の姿が人混みに見えなくなると、ぽっかりと胸に穴があいたみたいな表情を浮かべて、そっと手を下ろした。
「おいコラ」
その時、そんな声が聞こえて、ポコン、と頭に何かがあたった。
振り返ってみると、そこには顰め面を浮かべたスティーブンが立っていた。こちらを見下ろしている彼が、目が合うなり不機嫌そうに睨んでくる。
「ベンチで座ってじっとしているんじゃなかったのか、あ?」
「じっとしているとは伝えていないぞ――孫」
「だーかーらーッ、俺の名前は『スティーブン』だっつってんだろうが!」
もうなんなのお前ッ、と彼が騒がしい態度で言う。
探し回ったとは言われていないし、ベンチからそんなに離れているわけではない。どうやら今来たところみたいだな、とメイベルは推測して事情は説明しなかった。
「まぁいい。確認に手間取っているみたいで、少し待つらしいからサンドイッチでも食ってろ」
言いながら、スティーブンがまだ温かいそれを押し付けてきた。両手にずっしりと重量感がきて、メイベルは「おや」と紙袋に簡単に包まれた分厚いサンドイッチを見下ろす。
「特大サイズとは気が利くな。ずっと黙々とここへ来たから、そろそろ何かつまみ食いでもしようかと思っていたところだ」
「爺さんから渡された金を使ったら容赦しねぇぞ」
負担をかけさせるわけにはいかねぇ、と彼は使命感を漂わせてギリィっと奥歯を噛む。それから改めて出発時の決意を思い返すように、カッと目を見開いてメイベルに指を突きつけた。
「いいかッ。俺は大食らいだろうが、テメェ一人くらい向こう数十年食わせ続けられるくらいの金はある! 絶対食には困らせねぇし、勝手にそばを離れてどこにも行くなしっかりついて来い!」
後半、覚悟の思いがこもり過ぎて一呼吸で言いきっていた。
それを聞いた周りの人々が、「え、突然のプロポーズ……?」と目を向けた。その視線に気付いたメイベルは、迷惑な煩い孫だな、と思いつつも教えるのも面倒でスティーブンを見つめていた。
「それで、ここでは駅弁くらいは買ってもいいのか」
「あ? まぁいちおう車内販売は充実しているが、それ食っても時間があれば買えばいいだろ」
珍しく文句らしい事も続けず、スティーブンがベンチへと引き返すように足を向けた。メイベルは、その丈の長いコートの裾が揺れるのを見ながら後に続いた。
知らせを職員が持ってきたのは、それから数十分も待った頃だった。列車の発車時刻まで十分前を切っており、ホーム担当のその男は恐縮しきった様子だった。
「スティーブン教授様、お時間を取らせてしまい大変申し訳ございませんでした」
「いや、別に俺は怒っていないし、無事に出発出来ればそれで問題ない」
答えるスティーブンは、口許が若干引き攣っていた。後ろで別の駅員が運び入れる荷物をまとめている中、メイベルの大量の駅弁が彼から見えないように立っている。
「確認が取れましたので、どうぞご乗車くださいませ。良い旅を!」
彼は制服帽を最後に少し上げて、にっこりと営業スマイルでそう言った。
時間結構あったなと上機嫌なメイベルに対して、スティーブンは「……買い物だけでめっちゃ目立ったな」と既に心労がたたっていた。
※※※
十七番ホームが見える駅の受け付け室にて、若い職員が「おかしいなぁ」と首を捻った。別件で少し席を外していた先輩職員が戻ってきたのに気付いて、声を掛ける。
「やっぱり、どこをどう探しても見当たらないです」
「教授様の身分証明の確認は取れたんだろう?」
「はい。ですが彼が説明していた『メイベル』ですが、住民票や戸籍一覧を見る限りそんな名はみあたらなくて」
先輩職員は、「ふうん?」と言いながら隣の椅子に腰を下ろした。
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「たびたびあるやつですよね。全く、困ったもんです」
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