潮風をまとう人

百門一新

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最終話

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 沖縄までは、飛行機で二時間もかからないフライトだ。けれどシートに腰かけると、アラタは慣れぬ旅への緊張からか、すぐに浅い眠りへと引き込まれていった。

 そこで見たのは、いつもの夢だった。

 吸い込まれそうなほど、澄んだ青空が夢の風景の中で膨らんでいる。

 右手に小島を置き、空と交わる彼方まで浅い海が続いていた。遠く向こうには青い地平線が広がっていて、彼は今、立派な水牛の背に乗ってゆったりと揺られている。

 水牛の固く柔らかい体毛は、明るい日差しに照らされて艶々と輝いていた。浅い水面はキラキラと輝いて、青やグリーン、エメラルドの鮮やかな色彩を幻想的に映えさせている。水牛が足を出すたび背中の筋肉が動いて、アラタの身体を一定のリズムで揺らす。

 前方には、もう一頭の別の水牛の姿があった。ゆったりと歩くその背には、アラタと同じように、けれどどこか慣れたように揺られている男が一人いる。

 男は、遠いどこかで見たことがあるような甚平の形に似た麻の着物を着ていた。真新しくはない。何度も洗い、強い日差しに乾かされたようにくたびれてもいるようだった。

 ひとたび息を吸いこめば、潮の匂いが鼻孔を通り抜けていく。

 足元からも、そして水牛も男も、たっぷりの海の匂いをまとっていた。

 今一度、男の方をよくよく見て、アラタは「あ」と気付いた。前の水牛で行くその男は、片方の手でアラタの乗る水牛に繋いだ縄を引いている。

 そうやって、観光させ楽しませるのも仕事の一つなのだろう。夢の中で、客としてゆったりとくつろいでいるのだったと思い出したアラタは、途端になんだか申し訳ない気持ちになる。

「あの、すみません……」

 思わず謝ると、男の整った横顔がチラリと覗いて、口許にふっと笑みを浮かべられた。
 よく見るとその男は、質素な色合いの麻で出来た甚平の上着のようなものを、白いシャツの上から着て、裾の一部分を布の紐で押さえていた。たくし上げられたズボンからは膝頭が覗き、そのサンダルの下で、水牛の足が海水をぱしゃりぱしゃりと鳴らしている。

「そんな厚地のズボンとスニーカーを履いていたら、すぐにズブ濡れになってしまうよ」

 なんだか不思議でじっと見てしまっていると、男がどこか面白そうに言った。
 そう指摘されたアラタは、彼の格好と見比べるように自分を見降ろした。この風景には不似合いな現代的ジーンズのズボンとスニーカーが、水牛の脇腹で揺れている。

「こうやって、牛を引くのが今の俺の役目だ」

 視線を前に戻した男が、先程の謝罪に対しての返答をした。その声はひどく聞き取りやすくて、どこか論じ、教え慣れているような気がした。

 この仕事にも誇りを持っているのだ。そんな思いが、彼の背中や落ち着いた声色から伝わってくるようだった。アラタは、なんだかそれが羨ましくて少し唇を尖らせる。

「結構大変でしょう。よく通る声だし、声のお仕事でもすればいいのに」

 そう言い返してやったら、男が「ははは」と背中を揺らして愉快そうに笑った。そうやって笑う姿を、想像出来ない人だった気がしてやっぱり不思議に思って見つめてしまう。

「声のお仕事、ねぇ。それは何かを朗読をしろということか?」
「いえ、たとえば観光案内とか……」

 水牛が、立派な巨体を揺らしながらゆっくりと歩み続けている。

 言いながら、アラタは自然と視線を落としていた。これは夢だ。現実の自分の意識が頭をもたげてきて、そのままポツリとこう呟いていた。

「俺、いい息子じゃなかったんです」

 アラタの唇が、夢の中で自然とそんな言葉を紡ぐ。
 男は何も言わず、ただ水牛の手綱を引いて自分の乗る水牛を進めていく。じょじょに現実が思い出されて、アラタは目の前の美しい光景へと目を向けた。

 これは幻か、それとも望郷なのか。

 見開いたその目は、しっとりと濡れて眩しいほどに美しい離島の景色を映し出した。昔、寡黙だった誰かが、繰り返しぽつりぽつりと口にしてくれた話があって、まさにこの光景がそうじゃないかと気付いたのだ。

「ずっと、――ずっと伝えられなくて」

 そう切り出した声が、震えそうになる。

「そうしたらもう手が届かなくなって」

 涙を堪えるアラタの瞳に映る青い空は、遠い昔に父が語ってくれた風景だった。物心付いたばかりだった頃、もうくすんで色褪せるくらい古い記憶の中にその思い出はあった。

「気付いた時には、もう何もかもが遅かったんだ」

 伝えたい想いが言葉となって、洪水のように胸の中に押し寄せた。巨大な感情のうねりがアラタのその多くの言葉を呑み込み、今にも涙となってこぼれ落ちてしまいそうだった。

「人は言葉を持っているが、そうした優れた『伝える手段』を持っていたとしても、擦れ違ってしまうことだってある」

 前を向いたままの男が、教師のような口調でそう言ってきた。
 他にもたくさん尋ねたいことはあった。それなのにうまく言葉がまとまらなくて、震える喉をどうにか動かせた夢の中のアラタの口から、ようやく出たのは別の言葉だった。

「どこへ向かっているの」

 そう問い掛けたら、男が小さな動作で水牛の歩みを止め、肩越しにアラタを振り返ってきた。
 その瞬間、向かう先が黄金色の光りに包まれた。強く輝き出した眩しさで、逆光を受けた男の顔がよく見えない。腕で光を遮ってどうにか目を凝らしたものの、男が口元にわずかな微笑を浮かべていることしか見えなかった。

 不意に、現実世界に意識が引っ張られるのを感じた。夢からの目覚めが迫るのを感じたアラタは、堪え切れず目尻に涙を浮かべて「父さん!」と光の中で叫んだ。

「俺は無事ッ、大学三年生になりました! 友達のおかげで元気にやってるし、俺、おれ……っ、父さんに『ごめんなさい』って言いたかったんだ」

 ごめん、と口にした途端に涙が溢れた。悔いと罪悪感に胸が貫かれて、痛くて辛くて悲しくて、みっともなくボロボロと涙をこぼしながら言う。

「真面目に頑張れって言われてたけど、一人で寮暮らしが始まった高校からは特にクソガキで、意地張って連絡もしなかったのを後悔して、それに俺、あんたには『ごめん』だけじゃなくて『ありがとう』も伝えてない…………」

 自分が何を言っているのか分からなくなった。様々な想いが嵐のように胸の中で巻き起こり、アラタは泣き顔をくしゃりと歪めた。

 しかし不意に、彼はその中で、際立って強い想いと願いがあったのを思い出した。

「――俺、父さんに『卒業おめでとう』って、言われたかったよ」

 手紙を書いていたあの時、アラタは卒業する日のことを想像していた。

 卒業したら親孝行でもしてみようか。いや、来年になったら本格的に就職活動に入るし、その時には入社準備やらででバタバタしているだろうから、すぐには出来ないかもしれない。それなら、卒業するまでに少しずつやっていこうかな……――そう、暖かい未来が当たり前のように迎えられると、あの時の自分は信じて疑わなかったのだ。

 その時、フッと光の強さが和らいだのを感じた。ハッと目を見張ったアラタは、逆行の中で牛の背にまたがってこちらを見ている、三十歳ほどの若い男の顔を見た。

「馬鹿だなぁ」

 光の中にいる男が、柔らかな苦笑を浮かべて、穏やかな訛り口調でそう言った。困ったように眉を寄せ、不器用に唇を引き上げて歯を見せつつも弱々しく笑っている。
 それは遠い昔に忘れてしまっていた父の笑顔だった。幼い日、そうやって自分に海の話を聞かせてくれていたことがあったのだと、アラタは今になってハッキリと思い出した。

 やや若い姿の父は、心からの言葉を送るように少しずつ言葉を紡いでいった。

「お前は不器用で、俺に似て少しじゃじゃ馬な所もある可愛い一人息子で……、俺は、そんなお前もひっくるめて、母さんと同じくらいにお前のことを愛しているんだよ」

 そう口にした彼が、少しやんちゃさの覗く苦笑を浮かべた。

「俺だって、叶うならお前の大学卒業を祝いたかったさ」

 直後、強い風が光をまとって巻き起こった。それは白く光り輝いて夢の景色を覆い始め、次第に五感は夢から離れて現実世界へと引き戻されていく。

 美しい島で、水牛に乗り、手綱を引く一人の男。

 アラタは、遠い昔に父が語った、故郷の風景を夢見ている――。

             ※※※

 ふっと目が覚めた。到着を告げる機内アナウンスが聞こえて、寝起き直後の鈍い思考を動かしながら窓を覗き込んでみると、出発前とは随分印象の違う空港に着陸していた。

 空の色は、驚くほど青くてつい見入ってしまった。他の乗客達がぞろぞろと降り初めているのに気付いて、慌てて鞄を取って同じ方向へ歩き出した。

『沖縄へようこそ』

 足を踏みこんだ空港で、そう大きく書かれた歓迎の文字が目にとまった。構内の大きな窓ガラス越しにも、外気の熱が伝わってくるようだった。

「大浜さん、船で石垣まで連れて行ってくれるらしいけど、大丈夫なのかな……」

 今になって思い返してみれば、長い船旅は経験にない。思わずエスカレーターに乗ったところでポツリと呟いたら、下の方から「おーい!」とまさにその人の声が聞こえてき。

 目を向けてみると、半袖半ズボンという格好をした大浜が、『めんそーれ』と書かれた真新しいプリントTシャツ姿で、こちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。
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