この世界に生きていた男の話

百門一新

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 酔いから醒めるような心地で、うつ伏せていた俺はゆっくりと目を開いた。

 腕を枕にして眠ってしまっていたらしいと気付いて、ゆっくりと頭を起こした。かなり飲んでいた自覚はあった。酔った勢いで、つい、女子が好みそうな大学生風の線の細い男に何事か話し続けていたような……けれど、どうも思考に霞みがかかったようにうまく思い出せない。

 とても、悲しい話をしていたように思う。

 けれど不思議と、なんだったのか直前の記憶が定かでない。

 酔った勢いで泣き上戸してしまうくらいの何かだったようだ、と俺は不思議に思いながら目尻に残った涙を拭った。酒には強いはずだが、今夜はらしくなく酔い潰れるまで飲んでしまったのだろうか?

 会社の飲み会に参加し、三次会で抜け出したのは覚えている。確か、明日が休みであったので、一人ぶらぶらと歩いていた帰り道に見掛けた看板に誘われ、二階にある小さなBARに立ち寄ったような――

 しかし、そこからの記憶が曖昧である。

 辺りを見回した俺は、自分が夜道にあるおでん屋台のカウンター席に腰掛けている事に気付いた。そうか、いつの間にか移動していたのかと俺は不思議にも思わなかった。店主は少し席を外しているのか、カウンター内には誰もいない。


「飲み過ぎたせいだろ」


 心の疑問に答えるように懐かしい声が聞こえて、俺は顔をそちらへと向けた。

 隣の席に、おでんをやりながらビールを飲んでいる親父がいた。この状況に一瞬だけ、妙だなという違和感が過ぎったものの、理由をはっきりと思い出せなかった。

 俺は「かもしれないな」と答えて、自分の手元にあるビールを口へと煽った。いつか親父と、こうして飲みたいと話していた事があったが、今がそうだったのかと、不思議とこの状況を受け入れている自分がいた。

 おでんが、ぐつぐつと煮える音がする。夜風が冷たくて、俺はコートの襟を立てた。コートなんて時期外れな物を着ていただろうか、と考えて、またしても小さな違和感を覚える。けれど、やはり頭が霞みかかったようにハッキリとしない。

 しばらく、ぼんやりと立ち昇る湯気を眺めていた。親父に、何か言わなければならない事があったような気がして、俺は酔い心地の頭でしばし考えた。

「――ああ、そうだ。『お疲れ様』」
「何がだ?」
「さぁ、なんだったかな」

 よく分からない、と俺が思案気に答えると、親父が喉の奥でくつくつと笑った。

 俺は霞みかかった思考のまま、もう一度首を捻った。親父に言いたかったのは、もっと別の言葉だったような気がした。ふっと一つの言葉が浮かんで、彼の方を見てそのままそれを口にしてみた。

「親父、『ごめん』」
「それ、飽きるぐらい何度も聞いたぜ」
「そうだったか?」
「勝手に終わらせたらお前が怒るかと思って、ちゃんと声を掛けにいっただろ。あの煙草、美味かったな。出る前に、最後の一服の匂いが嗅げて良かった。俺は満足さ」

 陽気な親父の横顔には、穏やかな満足そうな笑みが浮かんでいた。持ち上げたビールを楽しげに眺めているその横顔を見つめ、俺はこう尋ねた。

「親父は、寂しくなかったか」
「馬鹿いえ、じゅうぶん過ぎるほど楽しかったぞ。こうして、お前と飲むような何気ない『夢』を見るくらいに。――お前は楽しくなかったのか?」
「……楽しかったよ。楽しくて、毎日が、飽きないような苦労だった」

 俺は湯気の向こうへ再び目を向けて、伝えるべき言葉を探しながら口にした。

 横顔に、どこか楽しげな親父の視線を感じた。きっと酔っているせいだろう。俺は唐突に、普段なら恥ずかしくて言えなかった台詞を口にしていた。


「親父。俺は家族として、あんたを愛していたよ」


 愛してる。今でも、忘れられないほど――ずっと愛していた。

 そこで俺は不意に、現実を思い出した。親父は春を迎える前に亡くなったのだ。俺はたった一人、親父の仏壇の面倒を見ながら、秋先の季節をつまらなく過ごしていたのであって、つまりこの状況は現実には有り得ないものだった。

 もしかしたら俺は、夢を見ているのだろう。

 だから、こんなにも冷静でいられるのだろうかと不思議に思った時には、俺は既に隣の彼を振り返っていて、落ち着いた口調でこう告げていた。

「親父、愛してる」
「知ってる。お前は俺が大好きなんだろ、そんなのとっくにお見通しだ。何年お前の親父をやってると思っているんだ?」

 そんなに露骨だったのだろうか。

 俺が視線で問うと、親父は茶化すように口角を引き上げて「バレバレなんだよ」と言った。そして、ビールを持っている手を俺に向けて、人差し指を立てた。

「俺だって、お前を愛してるぜ、クソガキ」
「そうか。俺も愛してる、クソ親父」

 数秒ほど見つめ合って、俺達は笑った。こんなに楽しいのは、久しぶりだった。

 すると、親父がふっと席を立った。

「そろそろ、行くかな。あのガキには礼を言っておいてくれ。お前に泣かれ続ける状況を、俺としても、どうしてくれようかと悩んでいたところだったんだ。感謝するって、そう伝えておけ」

 親父が俺に背を向けて、「あばよ」と後ろ手を振った。

 なんだか親父らしい別れだなと、俺は場違いな事を思った。

             ※※※

 長い話を聞き終わる頃には、時刻は明朝に差し掛かっていた。

 僕は可能性にかけてタイミングを見計らっていたのだが、男は相当酒に強いのか、眠りこけてくれる様子もなかった。それとなく行動に移す事は出来ないらしいと諦めて、僕は彼の話が一段落した折りに、提案して了承を得る方向に作戦を変えた。

「僕は【夢診療】という片書きで、カウンセリングをしています」
「夢診療……?」

 男が僅かに眉根を寄せた。それは本心から不思議がっているといったようにも見受けられて、僕がこれまで多く見掛けてきたような、不信感や疑わしいとする拒絶は感じなかった。

 見た目はクールで少々強面だが、珍しくも信心を持ったタイプの人間らしい。僕は、その新鮮な様子に安堵しつつ「はい」と頷いて話しを進めた。

「僕は、夢渡しの能力を持っています。普段は、兄の仕事の手伝いをしているのですけれど――ああ、兄も僕の能力を知っている一人なんです。僕は本業でやっているわけではなくボランティアでして、必要な依頼人があれば、知人友人の紹介で仕事を引き受ける、という感じです」
「ふうん、霊能力みたいなものか?」
「いえ、幽霊は見えないです」

 僕がぴしゃりと否定すると、男は「なんだ、幽霊は見えないのか」と嫌がる顔をする訳でもなく、グラスを口許で傾けた。

 いちいち絵になるような大人びた仕草だな、と思いながら、僕は説明を続けた。

「夢というのは色々とあって、記憶や理想、想いがぼんやりとした風船のように頭の中を漂っている感じなんです。風船は本人の心そのものですから、外に出されると、引力みたいに必要な誰かの夢を引き寄せる事があります。だから僕は、その風船を手繰り寄せて、少しの間、身体の外に出すお手伝いをしていると言いますか……うん、説明するのがすごく難しいんですけど、僕の能力だと『風船』と表現するほうがしっくりくるんですよね……」

 兄からも「よく分からん」とスッパリ切り捨てられる内容である。いつも説明が下手だ、口下手すぎると散々言われていた事を思い出して、僕が思わず言葉を濁すと、男の方が「おい」と声を掛けてきた。

「よく分からねぇが、お前の言う『夢渡しの能力』ってのは、誰かの夢と繋げるような力って解釈でいいのか?」
「えぇと、まぁ、ざっくり簡単に言えばそうなりますね」

 口で説明するのが難しい現象なのだが、男が勝手に納得してくれたので、僕は少しだけ拍子抜けしたような声を出してしまった。

「死んでしまった人間は、死の淵で最期の夢を見るといわれています。もし、お父様があなたの夢を見てくれていれば、そこに渡る事も可能なんです」

 僕は、緊張しながら慎重に言葉を選んだ。深い悲しみに捉われているこの男にとって、非常に繊細な問題である。怒りだすか、叱られるか、嫌悪感を剥きだしに席を立ってしまう行動を取られるのではないか、という覚悟はしていた。

 しかし、男はそういった大きな反応は見せなかった。クールにカウンターの方へ顔を向けたまま、頬杖をついたかと思うと、酔い心地の瞳を手元へと落とした。


「――つまり、絶対ではないってことだよな。親父が『夢』を残していなければ、なんの意味もない」


 こうも物分かりがいいのは、酒が入っているせいだろうか。全くもってその通りではあるのだが、依頼人ですらうろんげに睨みつけてくるというのに、妙な男だと僕は思った。

 純粋というか、真っ直ぐというか……この男が父親のために、二十代の約六年間を捧げた善良心の本質をそこに見たような気がした。多分、彼はとても信心深い一面が――

 その時、男が唐突に「やってみてくれ」と言った。

 この短いやりとりで了承をもらったことに驚いて、僕は思案も吹き飛んで「えっ」と声を上げてしまった。

「いいんですか? 本当に?」
「お前、ボランティアでやっていると言っていただろう。依頼人でもない俺にしようとしているって事は、お前は根っからのお節介野郎ってことだ。構わないさ。良い人間は、ここ六年でたくさん見てきた」

 同じ二十八歳とは思えないほど、達観した考え方を持った男だ。僕は、彼の悲しみが少しでも軽くなってくれればいいのにと思いながら、リラックスして目を閉じてください、と指示した。

 男は素直に従うかのように、頬杖をついたまま目を閉じた。

 僕が頭に触れてしばらくすると、意識を失ったように腕から力が抜けた。そして、支えを失った男の頭が、ガクンと崩れた勢いのままカウンターへ落ちた。

「うわッ、やばい!」

 僕が手を伸ばすのも間に合わず、がつん、と嫌な衝撃音が店内に響き渡った。

 先程奥の部屋に引っ込んでいた省吾さんが、その音を聞きつけて「何事だ」と顔を覗かせた。そして、カウンターに突っ伏している男と、つい言葉もなくおろおろとしている僕を見て、状況を察したように「なるほど」と呆けた声で言った。

「こりゃあ、また派手にいきましたなぁ」
「ま、ままままさか崩れ落ちるなんて思わなかったんですッ」

 どうしよう。喧嘩が強そうな人だし、起きたら殴られるかも。

 いや、その前に怪我をさせてしまっていたら……と僕が思っている間にも、省吾さんがすぐカウンターから回ってきて、男の顔を上げて額の様子を確認した。

「少し赤くなっている程度ですから、問題ないでしょう。かなり大きな音があがりましたが、彼は結構な石頭のようです。――それで、彼は今『夢』を?」

 僕が頷いて見せると、省吾さんが「相変わらずのお節介ですね」と苦笑を浮かべた。叱りを受ける覚悟で男の目覚めを待つ僕に「ひとまず、落ち着いてください」と言って、冷水入りのグラスを置いた。


 男が目を覚ましたのは、それから十五分ほど経った頃だった。

 彼はカウンターの上に伏せた状態で、少し身じろぎして顔を顰めたかと思うと、ゆっくりと頭を持ち上げて額に手を置いた。


「なんか、やけに頭が痛いな……」
「ロックで飲まれておりましたからねぇ。どうぞ、レモン水です」
「ん? ああ、ありがとう」

 僕が謝罪するよりも早く、省吾さんがカウンターから氷水の入ったグラスを男に差し出した。どうやら省吾さんは、カウンターに額を打ちつけた事実を、このままなかった事にするつもりらしい。

 男は疑う様子もなくグラスを受け取ると、それをぐいっと半分ほど飲んでから、思い出したように僕へ視線を向けてきた。

「ありがとう」

 前触れもなく、真っ直ぐ言われた言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。僕は目を丸くして、彼をまじまじと見つめ返す。

「お父様に会えたんですか?」
「ああ。おかげでスッキリしたよ。親父からも、あんたに礼を言って欲しいと伝言をもらった」

 少し泣きそうな顔に、男が口を引き上げるようなぎこちない笑みを浮かべた。

 死者の夢はとても脆く儚いから、彼の夢を伝って、彼の父の『最期の夢』が残っているのか確認する事が出来ないでいた。これは一つの賭けだったので、僕は「無事に望む夢へ渡れたようで良かった……」と思わず本音を吐露して、胸を撫で下ろした。

 お節介だと言われようが、少しでも役に立てるのであれば本望だ。すると、男の方が何かを察したかのように苦笑した。

「あんた、随分お人好しみたいだな」
「うっ、すみません……」
「んで、全部顔に出るところを見るとまだまだ若いな」
「僕は二十八歳ですよ」

 つまりあなたとは同級生になります、と思わず言い返すと、今度は男の方が目を丸くした。

「……………………マジか」
「ちょっと間を溜めすぎじゃないですか?」
「いや、本気でビックリしたわ」

 そうかタメか、と男が呟いたかと思うと、おもむろにスーツの内側のポケットから一枚の名刺を取り出して、こちらに差し出してきた。

「俺はイツキ。何かあれば、いつでも連絡くれ。あんたの力になるよ」

 僕が続いて名前を名乗ると、彼は「そうか」とニッと笑って立ち上がり、省吾さんに礼を言って料金を払った。

 近くなら同じタクシーに乗るか、と彼が尋ねてきたので、僕は有り難い提案だと思いながら席を立った。
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