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 年が明けても、俺と親父の暮らしは闘病を基盤として変わらず続いた。

 親父は減塩とカリウムと脂質の制限、出来れば炭水化物も減らすようにといわれた食事を自分から行った。

 俺は朝に親父の家に顔を出して会社に行き、定時には上がって、夕飯のメニューを考えながらスーパーに立ち寄り、親父のところまで行く。週に三度は、夕食後に彼の買い物に付き合って車を出すのが習慣になった。

 親父の家には入り用な物が多く、古い家電製品も一つずつ買い替えていった。火花が散るドライヤーや、半壊したタコ足配線電源には呆れさせられた。うまく米が炊けなくなった炊飯器や動かなくなったビデオデッキの他にも、入手経路が非常に気になるタイヤがパンクした自転車も処分した。

 不平不満があれば、軽い口喧嘩が起こるのは日常茶飯事だった。闘病生活前までは自由気ままな生活を送っていた事もあって、親父もストレスがあったのだろう。一日に飲む薬の種類も粉、固形、ゼリータイプと十二種類以上あり、飲むタイミングをきっちり確認しなければならなかった。

 病気は、金もかかれば時間にも縛られる。だから俺達は、互いの鬱憤を晴らすように言葉で喧嘩した。俺は病人相手に本気で怒鳴る事はしなかったが、苛々が積もると無言で過ごす事もあった。


 けれど親父の闘病が始まって二年が経った頃、彼が勝手に車を運転して接触事故を起こす事があり、俺達は再会後はじめて、本気で大喧嘩をした。


 思わず俺は、「お前のせいで人生が台無しだ」と怒鳴り散らし、これ以上迷惑をかけるくらいなら縁を切る、とまで啖呵を切って親父の家を後にした。

 闘病生活が始まって二年が経過していたから、互いに考える時間が必要だったのかもしれない。一日会わない時間を置いた後、俺達の間に微妙な変化がうまれた。

 俺は怒鳴り過ぎたことを少し後悔していて、親父も自分の身体について甘い考えを少なからず持っていた事を反省しているようだった。互いに困惑混じりの仏頂面のまま、小さな声で謝罪しあった。

「ごめん、親父。なんていうか、会社でちょっとあって苛々していたんだ……」
「…………運転の事は、確かに軽率だった。買い物があれば、いつでもお前が車を出してくれるというのに、俺は自分の腕を過信していたんだ」

 もう、この話しはよそう。

 そう、どちらともなく結論が出た。親父は縁を切られたくないのだと感じて、俺は小さく胸が痛んだ。俺だって、途中で親父を放棄するなんてもう考えられなかったから、二度とそんな台詞は口にしないと心に誓った。

 親父の闘病生活に付き合うのは、とっくに俺自身の日常となっていた。二人で過ごす時間は、幼少の頃とは違い、大人同士の対等な関係のように気楽だった。

 コメディ番組を見て互いに腹を抱えて笑い、興味のある映画を真剣に見た後に批評をぶつけあう。闘病生活の改善案や状況を報告し合う時間を、親父も気に入っているようでひどく饒舌になった。


 親父は、若い頃は料理人として食っていた経験があり、俺よりも料理が出来たから、その頃になると夕食当番はほとんど親父が進んでやっていた。

 寒い時期には鍋料理が続いて、玄関を入ってすぐに匂う鍋の気配に俺が「またかよ」と顔を引き攣らせると、親父は小馬鹿にするような笑みを見せた。彼は、好きな時に食しやすいという理由もあって、鍋料理を大層好いていた。


 金はだいぶかかったが、俺はそれを認めたうえで、闘病に関する金は惜しまなかった。親父は気にしたように忠告してきたが、俺も頑固者だ。やりたいから勝手にさせろといってからは、親父も買い物を頼むのに遠慮をしなくなった。

 煙草はいつも一カートン、野菜ジュースは飲みきりタイプを各種――ただし、副作用を起こすフルーツや成分の入っていない物に限る――飽きないようにヨーグルトも賞味期限を計算しながら、安い物から高い物まで各種取り揃えて、食材に関しては俺が無農薬や有機栽培に凝った。

 アルコールの入っていない親父と接してからというもの、俺はこれまで知らなかった親父の一面を多く知ることになった。

 例えば彼が、若い頃から少しだけミルクを入れただけの珈琲が好きだったこと。再利用のしやすい鍋料理を気に入っていて、煙草は一日一箱を軽く吸い、友人からもらったジッポライターを今でも愛用していること。

 コメディ番組が好きで、応援している漫才師も何組かいて、音楽は昔から好きで最近の若手の曲も耳にしていて、昔から文章を書くことがとても得意だった事……

「金がなくて卒業は出来なかったが、大学時代は、代理で論文を書いて稼いだもんだ」
「それ、駄目だろ。罰則ものじゃないか」
「抜かりはないさ、相手の文章の癖や字も真似ていたから発覚した事もない。当時は学生の数も多かったからなぁ」

 過去の行いについて、親父はニヤリと述べた。

 親父は、変なところでも頭のよく回る男だったようだ。俺が高校時代から煙草をやっていた事も知っているらしく、そこは自分と同じだから「煙草は美味いから仕方がない」と怒りもしなかったと告げられた。だからこそ再会した折り、俺に煙草を辞めろと言われたのが、ひどく気に食わなかったらしい。

 酒で人生を駄目にすることもあるんだなと、俺は親父を見てそう思わされた。親父は大学時代に酒に溺れ始め、金回りが難しくなって退学し店を立ち上げた。頭はあるのに、酒の席で安易に保証人になった借金が回って来て苦労したらしい。

 ある日、テレビを見ていた時に、親父がふとこう言った。

 落ち着いたら、工科系の大学に行こうと思っていたのだと、そう呟いたのだ。

「イツキ、このCMの大学を知っているか? 宇宙工学なんて面白そうだろう。いつか、お前が行ってくれよ」
「俺には無理だって。病気を治して、あんたが自分で行ってこい」
「行けるかなぁ」
「行けるだろ。何歳からだって勉強は出来るんだから」

 どこか弱々しく笑った親父に、俺は何気ない風を装いながらそう言った。

 多分、それは願望に似た想像だったけれど、俺は一瞬、親父が元気になって喜々として大学に通う未来を見たような気がして、涙腺が緩んでしまった。だから、それ以上その話題を続ける事は出来なかった。

 俺が学生の頃、真面目に勉強しない事を、親父が何度も厳しく叱りつけていた事を思い出した。もしかしたら、親父は勉強が好きだったのかもしれない。俺は、自分がひどい事をしていたのだと後悔を覚えた。

 親父は、病気や健康に関するテレビ番組もよく見ていた。自分自身が闘病中ということもあり、実際にその料理や飲料で自分が元気になっているという実感もあったから、余計に興味があったんだろう。

 そのおかげで、自然と俺の知識も深くなっていった。精神安定剤と睡眠薬を一緒に摂ると、特に大変なことになる。親父は酔っぱらったみたいになるし、思考能力も記憶も曖昧になって、体調も体重も一気に落ちる。

 薬とは相性が悪いグレープフルーツも、今の親父には大敵だった。ジュースの中に少しでも混じっていると、吐き気と気だるさに悩まされるのだ。

 うっかり確認せずに買った野菜ジュースで当たった時なんかは、恨めしげな目を寄越された。親父はグレープフルーツに敏感になっていたから、すぐに気付いて微量摂取で済んで大事に至る事はなくて、俺はいつも笑って「ごめん」と誤魔化したりした。

 親父の闘病は、大変気を遣うものばかりだ。グレープフルーツの件の他にも、朝と晩に飲む薬に乳製品は相性が悪かった。ヨーグルトも日中にしか摂取出来ないのが、親父には不満なようだった。どうやらヨーグルトの味が気に入ってしまったらしく、闘病三年目には、全くゼリーに見向きもしなくなっていた。

 そんな中、親父は相変わらず仕事も続けていた。

 仕事を終えた俺がやってくるまで、店に看板の灯かりがついている時もあった。営業終了時間は過ぎているだろうと指摘してやると、怪訝な顔で「ちッ」と舌打ちしたりする。そのたびに俺は「小煩い息子で悪かったな」と愚痴るのだ。

 怖いばかりの嫌な男だと思っていたが、親父は子供のような一面を持っているらしいとも気付かされた。付き合いの長い友人同士のように、俺達は闘病を通して、多分、誰よりも打ち解けあっていたのだと思う。

 闘病生活が三年も過ぎると、親父は薬の管理もお手のものになっていた。病院帰りに、ドライブがてら遠くまで車を走らせることも珍しくなかった。

「お前、釣りはするか?」
「俺はやった事がないな。興味もないし、やるのはゴルフぐらいだ」
「なんだ、つまらん奴め。釣りはいいぞ、釣りは。俺が若い頃は、よく釣りに行ったもんだ」

 海が見える県に住んでいたが、生憎、俺は釣りという趣味は持っていなかった。

 話を聞くと、親父は若い頃は友人の漁船で、時折釣りを楽しませてもらっていたらしい。だから、海を眺められるドライブも気に入っていた。

「あいつの持ってる船は、小さな漁船だった。近くの沖まで船を走らせて、エンジンを切って釣り糸を垂らした。あいつが生きていたら、お前も連れて行けたのになぁ」

 俺と再会してからというもの、親父は思い出したように過去を語る事が増えた。それは過ごす時間を増すごとに多くなって、俺は脳裏に過ぎったいつかの未来の別れを振り払うように、次の話題へと誘うのだ。


 親父が吐血で倒れたのは、闘病開始から四年目になる夏の暮れだった。日中の職場に病院先から電話が掛かってきて、俺は急ぎ上司に断りを入れて、病院まで車を飛ばした。


 朝見た親父の顔は元気だった。それなのに、電話で聞いた話によると酷い吐血で意識もないらしい。もしかしたら、もう目覚めないんじゃ……そんな嫌な事ばかりが脳裏を駆け巡って、心臓が嫌な音を立てて痛かった。

 確かに最近、親父は少しだけ気持ちが悪いと言う事があり、食欲も落ちて食べる量も減っていた。俺は、そんな些細な変化に気付けなかった自分に、怒りと後悔を覚えた。

 ああ、神様。

 俺はこの時初めて、その名を心の中で呼んだ。

 きっと、神に祈る気持ちとはこれだろうと、俺は唐突に場違いなほど、見えないものの存在を想った。
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