1 / 9
(1)
しおりを挟む
この世界に生きていた男の話をしよう。
何故なら、俺ばかりが知っているというだけで、誰も彼を知らないからだ。彼は多くの人に悲しまれる事もなく、ひっそりとこの世を去った。
ああ、違うな。きっと、俺が語りたいだけなのだ。
この胸にぽっかりと穴が空いたような悲しみが、四ヶ月経った今も消えてくれないでいる。あの日々ばかりが鮮明に蘇っては、そのたびに俺の心は、耐えがたい痛みを覚えるのだ。
どうしてだろう。決して楽しいばかりの思い出ではなかったはずなのに、暖かい時間ばかりが五感を伝って俺の中に込み上げるのだ。
忘れられそうにもない。どこへ行くにも思い出が溢れているようで、懐かしくて恋しくて、寂しくて堪らない。
どうして君に打ち明けるのかって?
彼を知る友人や知人を前にすると、彼等が、彼と過ごした日々が思い起こされて俺は言葉が詰まってしまう。柄にもなく涙が溢れてきそうで、だから俺は慌てて言葉を胸のうちにしまい込むのだ。だから酒を飲んだついでに、見知らぬ君に話してみようと思ったんだよ。
ああ、実を言うと、この店に来たのは久しぶりなんだ。
オーナーが変わっていたなんて事も今日知った。そうか、営業時間が変わったから、もう他の客もいないんだな……
※※※
そのBARの新しいオーナーは、僕の友人の従兄弟で、紹介されたのは昨年の事だった。僕は酒があまり飲める性質ではなかったから、普段は一人では来ないのだが、オーナーである彰吾(しょうご)さんに仕事を頼まれて今日は一人でやって来た。
その仕事はボランティアみたいなものだったから、金を取るような事はしていない。けれど仕事が終わった後、省吾さんに「腹ぐらい満たしていって下さい」と気を遣われ、少しのつまみとアルコール数の低いカクテルを一つもらい、ちびりちびりと飲んでいたところで一人の男の存在に気付いた。
少ない客達は閉店間際になって、ほとんどが席を立っていった。そんな中、その男は他の人間とは違う空気を漂わせて、カウンターの隅でぼんやりと酒をやっていた。
スーツ越しにも分かる引き締まった身体は長く、年頃は三十前くらいだろうか。普段は活気溢れていると思わせるような、はっきりとした切れ長の瞳が印象的だった。
男の顔立ちは精悍の一言に尽き、楽にした姿勢で酒を呑む姿も、どこか品が漂って様になっていた。姪っ子や甥っ子にも下に見られる僕からすると、兄貴風のその貫禄がすごく羨ましい。
思わず見つめていると、ふっと目が合った。
省吾さんからラストオーダーの旨を告げられたその男が、頼んだロックの酒のグラスを受け取った後、ついでとばかりに僕のいる方まで移動してきた。そして彼は、一口酒を呑んだかと思うと、前触れもなくぽつりぽつりと思案するように言葉をこぼし始めたのだ。
切り出した言葉は、実にあっさりとしたものだった。
彼は、「この世界にいた男の話をしよう」、とそう言った。
話を聞く中で僕がいくつか控えめに質問すると、男はこちらに顔を向けて、目尻に小さな皺を刻むような苦笑を浮かべた。後悔に揺れ、膨れる悲しみに困り果て、それでも自分でどうにか消化しなければと強がるような表情のように思えた。
副業で続けていた仕事柄、僕は彼の事が放っておけなくなってしまった。
「構いませんよ。続きを話してください。閉店まで、まだ時間がありますから」
省吾さんに目配せすると、彼は理解したと言わんばかりに傍観者を決め込んでグラスを磨き始めた。きっと彼は、営業終了時刻には外看板の電気を消灯するだろうが、閉店時間を少しくらい過ぎてしまっても、多めに見てくれるだろう。
僕が話の先を促すと、男は少し思案するようにグラスを持ち上げ、それから、思い出すように語り始めた。
何故なら、俺ばかりが知っているというだけで、誰も彼を知らないからだ。彼は多くの人に悲しまれる事もなく、ひっそりとこの世を去った。
ああ、違うな。きっと、俺が語りたいだけなのだ。
この胸にぽっかりと穴が空いたような悲しみが、四ヶ月経った今も消えてくれないでいる。あの日々ばかりが鮮明に蘇っては、そのたびに俺の心は、耐えがたい痛みを覚えるのだ。
どうしてだろう。決して楽しいばかりの思い出ではなかったはずなのに、暖かい時間ばかりが五感を伝って俺の中に込み上げるのだ。
忘れられそうにもない。どこへ行くにも思い出が溢れているようで、懐かしくて恋しくて、寂しくて堪らない。
どうして君に打ち明けるのかって?
彼を知る友人や知人を前にすると、彼等が、彼と過ごした日々が思い起こされて俺は言葉が詰まってしまう。柄にもなく涙が溢れてきそうで、だから俺は慌てて言葉を胸のうちにしまい込むのだ。だから酒を飲んだついでに、見知らぬ君に話してみようと思ったんだよ。
ああ、実を言うと、この店に来たのは久しぶりなんだ。
オーナーが変わっていたなんて事も今日知った。そうか、営業時間が変わったから、もう他の客もいないんだな……
※※※
そのBARの新しいオーナーは、僕の友人の従兄弟で、紹介されたのは昨年の事だった。僕は酒があまり飲める性質ではなかったから、普段は一人では来ないのだが、オーナーである彰吾(しょうご)さんに仕事を頼まれて今日は一人でやって来た。
その仕事はボランティアみたいなものだったから、金を取るような事はしていない。けれど仕事が終わった後、省吾さんに「腹ぐらい満たしていって下さい」と気を遣われ、少しのつまみとアルコール数の低いカクテルを一つもらい、ちびりちびりと飲んでいたところで一人の男の存在に気付いた。
少ない客達は閉店間際になって、ほとんどが席を立っていった。そんな中、その男は他の人間とは違う空気を漂わせて、カウンターの隅でぼんやりと酒をやっていた。
スーツ越しにも分かる引き締まった身体は長く、年頃は三十前くらいだろうか。普段は活気溢れていると思わせるような、はっきりとした切れ長の瞳が印象的だった。
男の顔立ちは精悍の一言に尽き、楽にした姿勢で酒を呑む姿も、どこか品が漂って様になっていた。姪っ子や甥っ子にも下に見られる僕からすると、兄貴風のその貫禄がすごく羨ましい。
思わず見つめていると、ふっと目が合った。
省吾さんからラストオーダーの旨を告げられたその男が、頼んだロックの酒のグラスを受け取った後、ついでとばかりに僕のいる方まで移動してきた。そして彼は、一口酒を呑んだかと思うと、前触れもなくぽつりぽつりと思案するように言葉をこぼし始めたのだ。
切り出した言葉は、実にあっさりとしたものだった。
彼は、「この世界にいた男の話をしよう」、とそう言った。
話を聞く中で僕がいくつか控えめに質問すると、男はこちらに顔を向けて、目尻に小さな皺を刻むような苦笑を浮かべた。後悔に揺れ、膨れる悲しみに困り果て、それでも自分でどうにか消化しなければと強がるような表情のように思えた。
副業で続けていた仕事柄、僕は彼の事が放っておけなくなってしまった。
「構いませんよ。続きを話してください。閉店まで、まだ時間がありますから」
省吾さんに目配せすると、彼は理解したと言わんばかりに傍観者を決め込んでグラスを磨き始めた。きっと彼は、営業終了時刻には外看板の電気を消灯するだろうが、閉店時間を少しくらい過ぎてしまっても、多めに見てくれるだろう。
僕が話の先を促すと、男は少し思案するようにグラスを持ち上げ、それから、思い出すように語り始めた。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
【完結】俺のセフレが幼なじみなんですが?
おもち
恋愛
アプリで知り合った女の子。初対面の彼女は予想より断然可愛かった。事前に取り決めていたとおり、2人は恋愛NGの都合の良い関係(セフレ)になる。何回か関係を続け、ある日、彼女の家まで送ると……、その家は、見覚えのある家だった。
『え、ここ、幼馴染の家なんだけど……?』
※他サイトでも投稿しています。2サイト計60万PV作品です。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
共同性活〜義父と夫に壊された妻〜
こまるねこまる
現代文学
小曲絵美は、夫·隆と相談し、息子·雅弘の幼稚園入園の為に住んでいたマンションを引き払い、義父と同居することとなった。
これまで年に数回しか来なかった義実家ではあるが、空いている部屋を自由に使ってもいいと銀二が言い、絵美はその内の一部屋を趣味の部屋に貰い受けた。
元々仕事人間だった隆は、同居をしてからというもの更に帰宅が遅くなったが、休日は家族と過ごす事が多くなった。そんなある日、隆は仕事で北海道へと出張に行った夜···。絵美は、酒に酔った銀二に襲われた。隣には、雅弘が眠っていたのに···。
ショックが抜けない絵美。でも、夫には言えず悩んでいた。
「お願い···。やめて···お義父さん···」
隆が、出張で居ない何度目かの夜、絵美は雅弘の前で···。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる