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(9)相談と手紙と、誰も知らない父親としての想い
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柳生が作家としてデビューした後にできた友人の一人に、苅谷(かりや)というライターがいる。現在は、政治関係の記事を担当しているのだが、歳は柳生よりも十歳以上若かった。
刈谷はすらりとした長身の細身で、なおかつ若作りの容姿はもっぱら女性受けも良かった。活動範囲は幅広く、サーフィンやスノーボードといったあらゆるスポーツに長けているのも特徴だ。
ラーメン屋の帰りの急な連絡だったのだが、苅谷は翌日に会う約束をしてくれた。三日後には仕事の用でフランスへ行く予定があるのに、「その前にちゃちゃっと君の悩みに対するアドバイスをしてあげたいと思ってね」とのことだった。
「そもそも、君から相談事を持ち掛けられる日が来るなんて、想像していなかったから大変心配もしているんだよ。君の心を重くしているその気がかりとやらについては、早々になんとかしてやりたいものだね。なに、時間はたっぷり取ってあるから、すっかり僕に話してくれて構わないよ」
待ち合わせの当日、珈琲喫茶の奥の席で、苅谷は優雅に足を組んでそう切り出した。
栗色をしたやや長めの前髪の一部を、邪魔にならないよう後ろへと撫でつけ、上品なシャツとパンツ姿だ。切れ長の瞳は、知的な優しさをたたえて自信が溢れ、若作りの整った顔には、リラックスした表情を浮かべていた。
三十のテーブルがある広い店内には、昼食の時間が過ぎてしまっているにもかかわらず、多くの客が腰かけて談笑を楽しんでいた。仕事の話をしながら休憩を取るサラリーマンや、雑誌を読むビジネススーツの女性。数人の友人と腰掛ける客などの話し声が溢れ、柳生達の存在もそこに溶け込んでいしまっている。
苅谷は、男女関係なく好かれる男であり、世渡りも上手で付き合いも広い。仕事も出来る男だからスケジュールはいつも詰まっており、女性・同僚・上司あたりからは、プライベートな予定が取りにくい男としても知られていた。
一人きりであることの方が少ないような気もするのだが、本人曰く「友人は選んでいるから、他に対しては深い付き合いをしていないんだ」とのことだ。柳生はその件については深く尋ねなかったものの、「時間を空けてくれてありがとう」と礼を述べることは忘れなかった。
お互い腹は減っていなかったので、珈琲だけを注文した。柳生は持って来た手紙の一部の束をテーブルの上に置いた後、「実は……」と打ち明けた。
苅谷は耳を傾けながら相槌を打ち、話の合間に的確な質問をそれとなく入れて、口下手な柳生に助け舟を出しつつ話しを聞き進めた。
「ふうん。それは、なんとも奇妙な話だねぇ」
すべて聞き終えると、苅谷は自身の感想を口にして手紙の束に手を伸ばした。手紙に目を通しながら、店員を呼んで二杯目の珈琲を追加注文し、ついでにチョコレートスコーンとブルーベリースコーンの二つを頼んだ。
苅谷は、しばらく手紙を眺めていた。彼が納得して手紙を元の束状に戻した時、まるでタイミングを合わせたかのように、店員が珈琲とスコーンを持って現れた。苅谷にはチョコレートスコーンを、柳生にはブルーベリースコーンを置き、店員は空いた珈琲カップを持って立ち去っていった。
「どうすればいいのか、一体どうしてこんな手紙が届けられるのか、分からない」
謎だろう?
つい柳生が自嘲気味に笑うと、途端に苅谷が「こら、そんな顔をするものじゃないよ」と困ったように笑って優しく窘めた。
柳生は上下関係を重んじる男であるが、苅谷の自信に満ち溢れる立ち居振る舞いが、その男にそういった態度のすべてを許させているところもあった。出会った当時、「『柳生君』と呼んで構わないかな」ときらきらした目で尋ねられた時には面食らったが、今ではすっかり慣れたものである。
苅谷はスコーンを手前に引き寄せ、「そうだねぇ」と穏やかな思案の目をそこに落とした。細い指先がスコーンを割り、一口サイズになったそれが、彼の形のいい唇の向こうへ収まる様子を柳生は見守った。
丁寧にも思える長い咀嚼のあと、苅谷は珈琲を少し口にして、こう言った。
「二つのうち、記載のある方の住所へ返事を書いてみてはどうだろう?」
「番地の詳細はないのにか? それに、デタラメな住所だったらどうする」
「その時はその時で、宛先不明で返って来るんじゃない?」
苅谷は悠長に述べた。返事が向こうへ届くと、信じて疑っていないような口ぶりにも聞こえる。
布巾で指先を拭って別の手紙を手に取った苅谷は、顔を顰める柳生に向かって、「細かい番地なんて、特に問題はないと思うけどねぇ」と続けた。
「僕からのアドバイスとしては、まずは『返事を書いて送ってみること』だよ」
「…………まぁ、他に打つ手もないしな」
柳生は渋々、その案を受け入れることにした。苅谷は決して安易な考えを口にしない男であると知っていたので、きっと彼なりに何か考えがあるのだろうと思った。
苅谷は二口目のスコーンを堪能しつつ、手紙の束へと目をやった。
「これは僕の個人的な意見――というよりは、率直な感想なんだけどね。悪い感情を持って書かれている手紙とは思えないんだよ」
「どういうことだ?」
尋ね返してみると、刈谷は確信めいた含んだ笑みを浮かべて「直感」とにべもなく言う。
「僕は探偵ではないのだから、読者が期待するような謎解きなんてものはしてやれないよ。率直な感想を述べたてみただけさ」
「素性も分からない相手に手紙を返すんだぞ、一体何を書けばいいのかも分からんというのに……」
「全く君は立派な作家だろうに、どうして手紙の演出くらいで悩むんだい? その手紙の送り主に、単刀直入に訊いたらいいじゃないか。『二人が死んでいることを俺は知っている。お前は誰だ』ってね」
「それこそ、傍迷惑な推理小説の探偵と語り部Aじゃないか?」
「むしろサスペンス小説の方かな、とも思うけれどね」
上手く言い返された柳生が、数秒の間を置いて遠慮がちに「他に書けそうな文章はないのか……?」と訊くと、苅谷はスコーンを手に取って「本職(ものかき)なんだから、あとは自分で考えなさい」とやんわり断った。
喫茶店で苅谷と別れた後、柳生は近くのコンビニで官製ハガキ一式を購入した。陽は依然高く、強い日差しが照りつけている。背中から聞こえる「ありがとうございましたー」に押されるように店から出たところで、思わず天を仰いだ。
「なんと書けばいいのかも分からんのになぁ……」
本格的な夏が来たら、もっと暑くなるのだろうなと思ったら、じっとり汗ばんでくるさまに憂鬱を覚えて、つい一人愚痴ってしまった。
喫茶店からずっと考え続けているのだが、手紙の書き出しについてはまだ悩んでいた。苅谷が、別れ際こう言っていた言葉を思い起こした。
――君は肩に力が入り過ぎる男だから、そういった全てをとっぱらって、まずは素直に書いてみなさい。それがちっともつまらない文章であっても、そっけない少しの言葉の羅列だったとしても、それは手紙になるのだから……
まるで何か知っているような口振りだったが、苅谷という男は直感でおおよそを掴んでしまうタイプの人間でもある。柳生が語った事実以外を彼が知らないことは確かであるし、それ以上の真実を知り得ないのも本当だろう。
柳生は家に向かう途中で、駅近くにあるいつもの漫画喫茶に立ち寄った。店内には、避暑で立ち寄っているらしい他の客もまばらに腰かけていて、それぞれが漫画を読んだり雑誌をめくったり、食事をとりながら、時折腕時計へ目を走らせていた。
柳生は窓際のオープン席に腰かけて、珈琲を注文した。官製ハガキとペンを手に取ったが、さてどうしようかと悩んだ。
友人からのアドバイスを頭の中で何度か繰り返しているうちに、アイス珈琲が届けられて、彼は店員である若い女性に礼を述べて、まずはそれに口をつけた。
身体の熱がおさまり始めると、幾分か肩から力が抜けて、冷静に考えることができた。苅谷から受けた『手紙の返事として書く文章のアドバイス』を今一度思い返して、気張らずに凝り固まらずに、とりあえずは返事を書いてみることにした。
――先日、私は妻と娘の死を知りました。あなたが誰なのか、私には見当もつきませんが、死者を騙る悪戯であれば、やめていただきたいのです……
書いているうちに、ふと、自分は犯人を突き止めたいわけではないとも思った。怒りや嫌悪感という激しい感情はどうも覚えていない。ただ、死んでいるはずの二人から、まるで生きていると期待てしまうような手紙が来ることが嫌なのだ。
生きていれば、いずれは言葉を交わせる時があったのかもしれないし、愚痴の一つや二つだって、平気で酒のつまみにできただろう。そしていつか何処かで、ばったり偶然に出会う未来だって、いくらでも思い付けた。
生きていれば、いつか彼がやっている仕事の文章を、どちらかが読んでくれていたのかもしれない。
生きていれば、同じ空を見ている時だってあっただろう。どんよりと曇った雨空も、胸を静寂の侘しさに打つ朝やけも、壮大で美しい虹も、鮮明な夏の青も、暮れゆく黄金の日差しも……
生きていれば、今頃二つの新しい家庭が、それぞれの人生を進んで時折、彼を思い出してくれることもあったかもしれない。
もし、生きていてくれていれば、自分が「お爺ちゃん」と呼ばれる日があったのかもしれない。
二人が生きてくれていれば、「ごめん」も「ありがとう」も、いつか伝えられるはずだったのに――
「…………でも、叶わないんだ」
何故なら二人は、何年も前に死んだ。永遠に失ってしまって、もうどこを探しても見つからないのだろう。
長らく離れていたためか、死という事実がだいぶ時間を空けて彼のもとへやって来たせいか、実感は陽炎のように儚く漂いながら、けれど次第に温度を持って柳生の心に沈み始めていた。
改めて、己が字を綴った官製ハガキを見下ろした。空白ばかりが目立つ、そっけない文面のように思えた。
仕事の原稿ではないのだから当然なのだろう。柳生は苅谷のアドバイスを今一度思い返して、そのまま仕上げた。届くかも分からないのに、自分の住所と名前はしっかり記載した。
珈琲を一気に飲み干して、柳生は料金を支払って店を出た。人の流れに沿って歩きながら、駅前のポストに投函した。返事は期待しなかった。
そもそも、彼はそのハガキに「手紙はもう送らないで欲しい」とも記載していたので、それを受け取った相手が、返事を送って来ることが想像できないでもいた。
これで何もかも終わったのだと、柳生はそう思った。鞄に入れている手紙の束の後始末についても考えたが、結局捨てられず家まで持って帰っていた。
帰宅後は室内に冷房をかけて、すぐにシャワーを浴びた。冷蔵庫に入っているビールに目を留めた時、タイミングを計ったように付き合いが長いW出版の女編集長、曽野部から電話があった。
彼女は、岡村に原稿を取りに行かせたのだが来たか、と尋ねてきた。先程まで出掛けていたのだと柳生が答えると、溜息が返ってきた。どうやら、岡村は不在であることをいいことに、色々と理由をつけてどこかに寄り道でもしているらしい。
「全く、岡村君には困ったものだわ」
「あいつは、あまり仕事がないのか?」
「いいえ、一応きちんと仕事はしてもらっているのよ。……まあ確かに仕事の量は少ないし、うちの部署では一番、時間を自由に使っている社員ではあるけれど」
だって、そういう相手が必要でしょう。私では頭が固すぎて無理なことだもの……と独り言のように続けた曽野部は、ハッとした様子で咳払いを一つした。
「忙しくなったら、とことん使ってやるつもりだから、いいのよ」
それから、彼女はちょっとした世間話を始めた。以前担当したイベントが意外と好評で、どうやら今年から定期的に毎年、作品を公募することになるかもしれないらしい。ついでに今度の金曜日にある飲み会に参加しないかと、いう誘いを受けたが、柳生は考えておくと答えるにとどめた。
しばらく話が途切れ、彼女は遠慮がちにこう言った。
「本を書かない?」
そういう企画が上がっているのだと、穏やかな口調で語る。その声は諦めも混じっていて寂しげだった。柳生の歯切れの悪いあやふやな返事を受け取ると、彼女はわざとらしいくらい明るい調子で電話を切った。
一昔前、物語を書くことは柳生の生きがいだった。だから、突然何も書けなくなってしまった時、一番戸惑ったのは柳生自身なのだ。
プロットはいつまでたっても頭に浮かんでこず、書きたいという気持ちも気配を見せないままだ。毎日書き続けていた時に、身体を突き動かしていた熱は抜け落ちてしまっていて、彼は離婚した日を境に、伽藍の胸を抱えて日々を生きていた。
柳生はリビングに戻ると、ソファに腰かけた。見るわけでもなくテレビをつけて、チャンネルをいくつか切り替えた。
岡村が原稿を取りに訪ねて来る予定だとは知っていた。けれど、分かってはいても次第に瞼は重くなり、彼は浅い眠りに落ちていった。
※
瞼を閉じた視界の中で、遠くから海鳴りの旋律を耳にしたように気がした。海を眺めたまま微笑んだ妻の顔と、海辺の思い出を語る水崎の穏やかな顔が脳裏を過ぎった。
転んで泣きじゃくっていた幼い我が子が瞼の裏に蘇ったかと思うと、今度は体形や髪型に気を遣い始めた中学生の彼女が、化粧をしたいと言って、父親のつまらない説教を聞かされ唇を尖らせる顔が浮かんだ。眉も整えられてすっかり少女となった娘は、化粧くらいみんなするよと、そう反論するのだ。
彼はあの時、口下手な自分が本当に嫌になって、だから口をへの字に引き結んだのだったと思い出した。母親に似てお前も可愛いのだから、ゆっくり待てばいいと、どうしてあの時言ってやれなかったのだろう。
夢は、彼の思い出を辿りながら移ろっていった。次の場面に切り替わった時、高校生になったらお父さんがびっくりするような美人になっているんだからね、と勝気に宣言する中学生の娘がそこにいた。その瞳は、きらきらと輝いている。
確か、中学二年生の春の朝に、そんなやりとりをしたのだったと、柳生は今更になって思い出した。キッチンからは、朝食の用意をする物音が妻の気配を醸し出していて、夢は彼が忘れていた日常の一つを鮮明に再現していた。
新しい父親となった男は、娘が高校生として成長した姿を知っているのだろう。きっとそこに、俺が知らない妻の高校生時代を重ねることが出来たに違いない。
夢の中の娘に、思わずそんな本音をもらした。彼女は、「そうね」と後ろで手を組み、こういうところで羨ましがるなんて、なんかお父さんのイメージじゃないな、と笑う。
娘と二人きりでいたリビングは、いつの間にか真っ白で何もない空間になっていた。柳生は、記憶の中の中学生の制服を着た娘と向きあいながら、あの頃は口に出来なかったことを正直に答えた。
そうだよ、俺はいつも偉そうにしていたが、実のところは誰よりも臆病で寂しがり屋なんだ。お前は一番に手がかかる大変な子供だったが、結局のところ、俺は誰よりもお前の成長が楽しみでもあったんだ。
あの頃の夢を、お前がそのままに持っていて、農家の男と結婚して、孫まで生まれたと知った時、俺は、俺はどんなに……
夢は時代と風景を変え、更に先へと続いた。ページを次々にめくっていくように、場面は断片的に曖昧な風景を作り上げて、彼を夢の世界で遊ばせた。時はいつしか現在の時間軸まで進み、彼は顔も見えない娘と向かい合っていた。
手紙をありがとう、と、彼は顔の見えない大人になった娘に告げた。
お前からもらった手紙は、ずっと取って置いてあるんだ。母さんは、大きな白い犬を飼ったんだってな。今よりずっと幸せそうで、俺は心から安心したんだよ。あいつは大きな家で、白い犬を飼うのが夢だって言っていたもんな。
二人とも元気そうで、本当によかった。俺は相変わらず元気でやっているよ。そっちの親父さん達には、孫の顔は見せたのか? そうだなあ、俺の顔を見たら泣いちまうんじゃないのかなあ……
※
柳生は、泣きながら目覚めた。夢を見たという鮮明さは途端に現実へと引き戻されて、どうにか腕を動かして涙を拭った。
テレビでは、料理番組が始まっており、司会者の女性が年配のコックにインタビューをしているところだった。窓からは、まだ夕暮れよりも明るい日差しがあり、その光りに寝起きの目が慣れるまで少し時間が掛かった。
ソファから上体を起こして、「夢か」と呟いた。自分の心にも鈍い己の弱さと、塗り固められた重いプライドに胸が詰まり、現実的な何かを呟かずにはいられなかった。
そうすることで、今の自分が呼吸をし、声帯を震わせ、老いた身体を軋ませて体勢を整えていることを五感で深く意識する。日常の前では、自分は強い父親でいられることを知っていたからだ。
柳生は、時間をかけて呼吸を整えた。額に浮かんだ脂汗を拭い、渇いた唇と喉を唾で湿らせる。薄れゆく夢の内容を思い起こして、思わず自分を嘲笑した。怨まれはしたが、想われることはなかっただろう、と。
何せ眠りの中で見る夢なんてものは、いつでも都合よくできているものだ。別れることが決まる少し前から、家族の心は彼から離れてしまっていたのだから。
父親として、娘と交流を持ったこともあまりなかった。別れの日、彼女は車へ乗り込む前に一度だけこちらを振り返ったが、大人びた静かな眼差しに心を読みとることはできなかった。妻とは離婚の数年も前から、まともに言葉を交わしていない。
「あいつは、とうとう夢にさえ出て来なかったな」
苦笑して立ち上がった。喉がカラカラだった。ついでに言うと、小腹も空いていた。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。続けて岡村の声が聞こえてきて、手土産を買ってきましたよ、と玄関越しに主張してきた。
もしまたケーキを買って来たというのなら、原稿だけ渡して追い返してやろうと思いながら、柳生は重い足取りで玄関に向かった。いつもの気丈っぷりで、彼の前に居続ける自信はなかった。
玄関へと向かう間も、呼び鈴は鳴り続けていた。先程まで浸っていた気分が苛立ちで半分吹き飛び、柳生は鍵を開ける前に内側から玄関を二度叩いた。
「おいコラ、岡村。今開けるから、それ以上は鳴らさんでよろしい。いや、むしろ鳴らすんじゃない、やかましい」
そう窘めると、全く反省のない声が「は~い」と返ってきた。
玄関を開けると、半袖パーカーを着込んだ岡村が、歳に似合わぬ満面の笑みを浮かべて立っていた。叱りつけようとした柳生は、目の前に突き出された全く季節感の読めない土産を見て「は?」と呆気に取られ、声を掛けるタイミングを逃した。
「焼き鳥買ってきましたよ!」
ほかほかの焼き鳥と、汗を拭う岡村という組み合わせを目に留めて、柳生はなんだか馬鹿らしくなると同時に可笑しさも込み上げ、思わず苦笑をこぼした。
すると、岡村がますます自信たっぷりに胸を張って、贅肉の多い胸元をぽんと叩いてこう言った。
「僕がすべての味付けを試食して、一番美味いやつだけを厳選して購入したので、自信があります!」
岡村はそう言って、何故か照れ臭そうにして笑った。柳生は、汗だくの彼にシャワーをすすめたが、岡村は「腹がいっぱいなので」と珍しく断ると、原稿だけを受け取って帰っていった。
刈谷はすらりとした長身の細身で、なおかつ若作りの容姿はもっぱら女性受けも良かった。活動範囲は幅広く、サーフィンやスノーボードといったあらゆるスポーツに長けているのも特徴だ。
ラーメン屋の帰りの急な連絡だったのだが、苅谷は翌日に会う約束をしてくれた。三日後には仕事の用でフランスへ行く予定があるのに、「その前にちゃちゃっと君の悩みに対するアドバイスをしてあげたいと思ってね」とのことだった。
「そもそも、君から相談事を持ち掛けられる日が来るなんて、想像していなかったから大変心配もしているんだよ。君の心を重くしているその気がかりとやらについては、早々になんとかしてやりたいものだね。なに、時間はたっぷり取ってあるから、すっかり僕に話してくれて構わないよ」
待ち合わせの当日、珈琲喫茶の奥の席で、苅谷は優雅に足を組んでそう切り出した。
栗色をしたやや長めの前髪の一部を、邪魔にならないよう後ろへと撫でつけ、上品なシャツとパンツ姿だ。切れ長の瞳は、知的な優しさをたたえて自信が溢れ、若作りの整った顔には、リラックスした表情を浮かべていた。
三十のテーブルがある広い店内には、昼食の時間が過ぎてしまっているにもかかわらず、多くの客が腰かけて談笑を楽しんでいた。仕事の話をしながら休憩を取るサラリーマンや、雑誌を読むビジネススーツの女性。数人の友人と腰掛ける客などの話し声が溢れ、柳生達の存在もそこに溶け込んでいしまっている。
苅谷は、男女関係なく好かれる男であり、世渡りも上手で付き合いも広い。仕事も出来る男だからスケジュールはいつも詰まっており、女性・同僚・上司あたりからは、プライベートな予定が取りにくい男としても知られていた。
一人きりであることの方が少ないような気もするのだが、本人曰く「友人は選んでいるから、他に対しては深い付き合いをしていないんだ」とのことだ。柳生はその件については深く尋ねなかったものの、「時間を空けてくれてありがとう」と礼を述べることは忘れなかった。
お互い腹は減っていなかったので、珈琲だけを注文した。柳生は持って来た手紙の一部の束をテーブルの上に置いた後、「実は……」と打ち明けた。
苅谷は耳を傾けながら相槌を打ち、話の合間に的確な質問をそれとなく入れて、口下手な柳生に助け舟を出しつつ話しを聞き進めた。
「ふうん。それは、なんとも奇妙な話だねぇ」
すべて聞き終えると、苅谷は自身の感想を口にして手紙の束に手を伸ばした。手紙に目を通しながら、店員を呼んで二杯目の珈琲を追加注文し、ついでにチョコレートスコーンとブルーベリースコーンの二つを頼んだ。
苅谷は、しばらく手紙を眺めていた。彼が納得して手紙を元の束状に戻した時、まるでタイミングを合わせたかのように、店員が珈琲とスコーンを持って現れた。苅谷にはチョコレートスコーンを、柳生にはブルーベリースコーンを置き、店員は空いた珈琲カップを持って立ち去っていった。
「どうすればいいのか、一体どうしてこんな手紙が届けられるのか、分からない」
謎だろう?
つい柳生が自嘲気味に笑うと、途端に苅谷が「こら、そんな顔をするものじゃないよ」と困ったように笑って優しく窘めた。
柳生は上下関係を重んじる男であるが、苅谷の自信に満ち溢れる立ち居振る舞いが、その男にそういった態度のすべてを許させているところもあった。出会った当時、「『柳生君』と呼んで構わないかな」ときらきらした目で尋ねられた時には面食らったが、今ではすっかり慣れたものである。
苅谷はスコーンを手前に引き寄せ、「そうだねぇ」と穏やかな思案の目をそこに落とした。細い指先がスコーンを割り、一口サイズになったそれが、彼の形のいい唇の向こうへ収まる様子を柳生は見守った。
丁寧にも思える長い咀嚼のあと、苅谷は珈琲を少し口にして、こう言った。
「二つのうち、記載のある方の住所へ返事を書いてみてはどうだろう?」
「番地の詳細はないのにか? それに、デタラメな住所だったらどうする」
「その時はその時で、宛先不明で返って来るんじゃない?」
苅谷は悠長に述べた。返事が向こうへ届くと、信じて疑っていないような口ぶりにも聞こえる。
布巾で指先を拭って別の手紙を手に取った苅谷は、顔を顰める柳生に向かって、「細かい番地なんて、特に問題はないと思うけどねぇ」と続けた。
「僕からのアドバイスとしては、まずは『返事を書いて送ってみること』だよ」
「…………まぁ、他に打つ手もないしな」
柳生は渋々、その案を受け入れることにした。苅谷は決して安易な考えを口にしない男であると知っていたので、きっと彼なりに何か考えがあるのだろうと思った。
苅谷は二口目のスコーンを堪能しつつ、手紙の束へと目をやった。
「これは僕の個人的な意見――というよりは、率直な感想なんだけどね。悪い感情を持って書かれている手紙とは思えないんだよ」
「どういうことだ?」
尋ね返してみると、刈谷は確信めいた含んだ笑みを浮かべて「直感」とにべもなく言う。
「僕は探偵ではないのだから、読者が期待するような謎解きなんてものはしてやれないよ。率直な感想を述べたてみただけさ」
「素性も分からない相手に手紙を返すんだぞ、一体何を書けばいいのかも分からんというのに……」
「全く君は立派な作家だろうに、どうして手紙の演出くらいで悩むんだい? その手紙の送り主に、単刀直入に訊いたらいいじゃないか。『二人が死んでいることを俺は知っている。お前は誰だ』ってね」
「それこそ、傍迷惑な推理小説の探偵と語り部Aじゃないか?」
「むしろサスペンス小説の方かな、とも思うけれどね」
上手く言い返された柳生が、数秒の間を置いて遠慮がちに「他に書けそうな文章はないのか……?」と訊くと、苅谷はスコーンを手に取って「本職(ものかき)なんだから、あとは自分で考えなさい」とやんわり断った。
喫茶店で苅谷と別れた後、柳生は近くのコンビニで官製ハガキ一式を購入した。陽は依然高く、強い日差しが照りつけている。背中から聞こえる「ありがとうございましたー」に押されるように店から出たところで、思わず天を仰いだ。
「なんと書けばいいのかも分からんのになぁ……」
本格的な夏が来たら、もっと暑くなるのだろうなと思ったら、じっとり汗ばんでくるさまに憂鬱を覚えて、つい一人愚痴ってしまった。
喫茶店からずっと考え続けているのだが、手紙の書き出しについてはまだ悩んでいた。苅谷が、別れ際こう言っていた言葉を思い起こした。
――君は肩に力が入り過ぎる男だから、そういった全てをとっぱらって、まずは素直に書いてみなさい。それがちっともつまらない文章であっても、そっけない少しの言葉の羅列だったとしても、それは手紙になるのだから……
まるで何か知っているような口振りだったが、苅谷という男は直感でおおよそを掴んでしまうタイプの人間でもある。柳生が語った事実以外を彼が知らないことは確かであるし、それ以上の真実を知り得ないのも本当だろう。
柳生は家に向かう途中で、駅近くにあるいつもの漫画喫茶に立ち寄った。店内には、避暑で立ち寄っているらしい他の客もまばらに腰かけていて、それぞれが漫画を読んだり雑誌をめくったり、食事をとりながら、時折腕時計へ目を走らせていた。
柳生は窓際のオープン席に腰かけて、珈琲を注文した。官製ハガキとペンを手に取ったが、さてどうしようかと悩んだ。
友人からのアドバイスを頭の中で何度か繰り返しているうちに、アイス珈琲が届けられて、彼は店員である若い女性に礼を述べて、まずはそれに口をつけた。
身体の熱がおさまり始めると、幾分か肩から力が抜けて、冷静に考えることができた。苅谷から受けた『手紙の返事として書く文章のアドバイス』を今一度思い返して、気張らずに凝り固まらずに、とりあえずは返事を書いてみることにした。
――先日、私は妻と娘の死を知りました。あなたが誰なのか、私には見当もつきませんが、死者を騙る悪戯であれば、やめていただきたいのです……
書いているうちに、ふと、自分は犯人を突き止めたいわけではないとも思った。怒りや嫌悪感という激しい感情はどうも覚えていない。ただ、死んでいるはずの二人から、まるで生きていると期待てしまうような手紙が来ることが嫌なのだ。
生きていれば、いずれは言葉を交わせる時があったのかもしれないし、愚痴の一つや二つだって、平気で酒のつまみにできただろう。そしていつか何処かで、ばったり偶然に出会う未来だって、いくらでも思い付けた。
生きていれば、いつか彼がやっている仕事の文章を、どちらかが読んでくれていたのかもしれない。
生きていれば、同じ空を見ている時だってあっただろう。どんよりと曇った雨空も、胸を静寂の侘しさに打つ朝やけも、壮大で美しい虹も、鮮明な夏の青も、暮れゆく黄金の日差しも……
生きていれば、今頃二つの新しい家庭が、それぞれの人生を進んで時折、彼を思い出してくれることもあったかもしれない。
もし、生きていてくれていれば、自分が「お爺ちゃん」と呼ばれる日があったのかもしれない。
二人が生きてくれていれば、「ごめん」も「ありがとう」も、いつか伝えられるはずだったのに――
「…………でも、叶わないんだ」
何故なら二人は、何年も前に死んだ。永遠に失ってしまって、もうどこを探しても見つからないのだろう。
長らく離れていたためか、死という事実がだいぶ時間を空けて彼のもとへやって来たせいか、実感は陽炎のように儚く漂いながら、けれど次第に温度を持って柳生の心に沈み始めていた。
改めて、己が字を綴った官製ハガキを見下ろした。空白ばかりが目立つ、そっけない文面のように思えた。
仕事の原稿ではないのだから当然なのだろう。柳生は苅谷のアドバイスを今一度思い返して、そのまま仕上げた。届くかも分からないのに、自分の住所と名前はしっかり記載した。
珈琲を一気に飲み干して、柳生は料金を支払って店を出た。人の流れに沿って歩きながら、駅前のポストに投函した。返事は期待しなかった。
そもそも、彼はそのハガキに「手紙はもう送らないで欲しい」とも記載していたので、それを受け取った相手が、返事を送って来ることが想像できないでもいた。
これで何もかも終わったのだと、柳生はそう思った。鞄に入れている手紙の束の後始末についても考えたが、結局捨てられず家まで持って帰っていた。
帰宅後は室内に冷房をかけて、すぐにシャワーを浴びた。冷蔵庫に入っているビールに目を留めた時、タイミングを計ったように付き合いが長いW出版の女編集長、曽野部から電話があった。
彼女は、岡村に原稿を取りに行かせたのだが来たか、と尋ねてきた。先程まで出掛けていたのだと柳生が答えると、溜息が返ってきた。どうやら、岡村は不在であることをいいことに、色々と理由をつけてどこかに寄り道でもしているらしい。
「全く、岡村君には困ったものだわ」
「あいつは、あまり仕事がないのか?」
「いいえ、一応きちんと仕事はしてもらっているのよ。……まあ確かに仕事の量は少ないし、うちの部署では一番、時間を自由に使っている社員ではあるけれど」
だって、そういう相手が必要でしょう。私では頭が固すぎて無理なことだもの……と独り言のように続けた曽野部は、ハッとした様子で咳払いを一つした。
「忙しくなったら、とことん使ってやるつもりだから、いいのよ」
それから、彼女はちょっとした世間話を始めた。以前担当したイベントが意外と好評で、どうやら今年から定期的に毎年、作品を公募することになるかもしれないらしい。ついでに今度の金曜日にある飲み会に参加しないかと、いう誘いを受けたが、柳生は考えておくと答えるにとどめた。
しばらく話が途切れ、彼女は遠慮がちにこう言った。
「本を書かない?」
そういう企画が上がっているのだと、穏やかな口調で語る。その声は諦めも混じっていて寂しげだった。柳生の歯切れの悪いあやふやな返事を受け取ると、彼女はわざとらしいくらい明るい調子で電話を切った。
一昔前、物語を書くことは柳生の生きがいだった。だから、突然何も書けなくなってしまった時、一番戸惑ったのは柳生自身なのだ。
プロットはいつまでたっても頭に浮かんでこず、書きたいという気持ちも気配を見せないままだ。毎日書き続けていた時に、身体を突き動かしていた熱は抜け落ちてしまっていて、彼は離婚した日を境に、伽藍の胸を抱えて日々を生きていた。
柳生はリビングに戻ると、ソファに腰かけた。見るわけでもなくテレビをつけて、チャンネルをいくつか切り替えた。
岡村が原稿を取りに訪ねて来る予定だとは知っていた。けれど、分かってはいても次第に瞼は重くなり、彼は浅い眠りに落ちていった。
※
瞼を閉じた視界の中で、遠くから海鳴りの旋律を耳にしたように気がした。海を眺めたまま微笑んだ妻の顔と、海辺の思い出を語る水崎の穏やかな顔が脳裏を過ぎった。
転んで泣きじゃくっていた幼い我が子が瞼の裏に蘇ったかと思うと、今度は体形や髪型に気を遣い始めた中学生の彼女が、化粧をしたいと言って、父親のつまらない説教を聞かされ唇を尖らせる顔が浮かんだ。眉も整えられてすっかり少女となった娘は、化粧くらいみんなするよと、そう反論するのだ。
彼はあの時、口下手な自分が本当に嫌になって、だから口をへの字に引き結んだのだったと思い出した。母親に似てお前も可愛いのだから、ゆっくり待てばいいと、どうしてあの時言ってやれなかったのだろう。
夢は、彼の思い出を辿りながら移ろっていった。次の場面に切り替わった時、高校生になったらお父さんがびっくりするような美人になっているんだからね、と勝気に宣言する中学生の娘がそこにいた。その瞳は、きらきらと輝いている。
確か、中学二年生の春の朝に、そんなやりとりをしたのだったと、柳生は今更になって思い出した。キッチンからは、朝食の用意をする物音が妻の気配を醸し出していて、夢は彼が忘れていた日常の一つを鮮明に再現していた。
新しい父親となった男は、娘が高校生として成長した姿を知っているのだろう。きっとそこに、俺が知らない妻の高校生時代を重ねることが出来たに違いない。
夢の中の娘に、思わずそんな本音をもらした。彼女は、「そうね」と後ろで手を組み、こういうところで羨ましがるなんて、なんかお父さんのイメージじゃないな、と笑う。
娘と二人きりでいたリビングは、いつの間にか真っ白で何もない空間になっていた。柳生は、記憶の中の中学生の制服を着た娘と向きあいながら、あの頃は口に出来なかったことを正直に答えた。
そうだよ、俺はいつも偉そうにしていたが、実のところは誰よりも臆病で寂しがり屋なんだ。お前は一番に手がかかる大変な子供だったが、結局のところ、俺は誰よりもお前の成長が楽しみでもあったんだ。
あの頃の夢を、お前がそのままに持っていて、農家の男と結婚して、孫まで生まれたと知った時、俺は、俺はどんなに……
夢は時代と風景を変え、更に先へと続いた。ページを次々にめくっていくように、場面は断片的に曖昧な風景を作り上げて、彼を夢の世界で遊ばせた。時はいつしか現在の時間軸まで進み、彼は顔も見えない娘と向かい合っていた。
手紙をありがとう、と、彼は顔の見えない大人になった娘に告げた。
お前からもらった手紙は、ずっと取って置いてあるんだ。母さんは、大きな白い犬を飼ったんだってな。今よりずっと幸せそうで、俺は心から安心したんだよ。あいつは大きな家で、白い犬を飼うのが夢だって言っていたもんな。
二人とも元気そうで、本当によかった。俺は相変わらず元気でやっているよ。そっちの親父さん達には、孫の顔は見せたのか? そうだなあ、俺の顔を見たら泣いちまうんじゃないのかなあ……
※
柳生は、泣きながら目覚めた。夢を見たという鮮明さは途端に現実へと引き戻されて、どうにか腕を動かして涙を拭った。
テレビでは、料理番組が始まっており、司会者の女性が年配のコックにインタビューをしているところだった。窓からは、まだ夕暮れよりも明るい日差しがあり、その光りに寝起きの目が慣れるまで少し時間が掛かった。
ソファから上体を起こして、「夢か」と呟いた。自分の心にも鈍い己の弱さと、塗り固められた重いプライドに胸が詰まり、現実的な何かを呟かずにはいられなかった。
そうすることで、今の自分が呼吸をし、声帯を震わせ、老いた身体を軋ませて体勢を整えていることを五感で深く意識する。日常の前では、自分は強い父親でいられることを知っていたからだ。
柳生は、時間をかけて呼吸を整えた。額に浮かんだ脂汗を拭い、渇いた唇と喉を唾で湿らせる。薄れゆく夢の内容を思い起こして、思わず自分を嘲笑した。怨まれはしたが、想われることはなかっただろう、と。
何せ眠りの中で見る夢なんてものは、いつでも都合よくできているものだ。別れることが決まる少し前から、家族の心は彼から離れてしまっていたのだから。
父親として、娘と交流を持ったこともあまりなかった。別れの日、彼女は車へ乗り込む前に一度だけこちらを振り返ったが、大人びた静かな眼差しに心を読みとることはできなかった。妻とは離婚の数年も前から、まともに言葉を交わしていない。
「あいつは、とうとう夢にさえ出て来なかったな」
苦笑して立ち上がった。喉がカラカラだった。ついでに言うと、小腹も空いていた。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。続けて岡村の声が聞こえてきて、手土産を買ってきましたよ、と玄関越しに主張してきた。
もしまたケーキを買って来たというのなら、原稿だけ渡して追い返してやろうと思いながら、柳生は重い足取りで玄関に向かった。いつもの気丈っぷりで、彼の前に居続ける自信はなかった。
玄関へと向かう間も、呼び鈴は鳴り続けていた。先程まで浸っていた気分が苛立ちで半分吹き飛び、柳生は鍵を開ける前に内側から玄関を二度叩いた。
「おいコラ、岡村。今開けるから、それ以上は鳴らさんでよろしい。いや、むしろ鳴らすんじゃない、やかましい」
そう窘めると、全く反省のない声が「は~い」と返ってきた。
玄関を開けると、半袖パーカーを着込んだ岡村が、歳に似合わぬ満面の笑みを浮かべて立っていた。叱りつけようとした柳生は、目の前に突き出された全く季節感の読めない土産を見て「は?」と呆気に取られ、声を掛けるタイミングを逃した。
「焼き鳥買ってきましたよ!」
ほかほかの焼き鳥と、汗を拭う岡村という組み合わせを目に留めて、柳生はなんだか馬鹿らしくなると同時に可笑しさも込み上げ、思わず苦笑をこぼした。
すると、岡村がますます自信たっぷりに胸を張って、贅肉の多い胸元をぽんと叩いてこう言った。
「僕がすべての味付けを試食して、一番美味いやつだけを厳選して購入したので、自信があります!」
岡村はそう言って、何故か照れ臭そうにして笑った。柳生は、汗だくの彼にシャワーをすすめたが、岡村は「腹がいっぱいなので」と珍しく断ると、原稿だけを受け取って帰っていった。
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