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(8)彼は手紙について考える

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 元妻の母親が電話で語ってくれたのは、二人が事故で亡くなったというものだった。対向車線をはみ出したトラックが、家族三人が乗る普通乗用車と正面衝突し、通行中だった他の数台の車も巻き込んで大事故を引き起こした。

 助手席に乗っていた元妻は即死だったらしい。運転席に座っていた再婚相手の夫と、後部座席にいた娘は重症で病院に運ばれたが、娘は病院に搬送される途中に死亡が確認されたのだという。

 手紙のことについては切り出せないまま、柳生は彼女の母親との話を終えていた。岡村が帰った後も原稿は一向に進まず、テーブルの上に元妻と娘からの手紙の山と、飲みかけの珈琲を置いて、気付けば彼はリビングで一夜を明かしていた。
 
 二人が既に死んでいるというのなら、この手紙は一体なんなのだろう?

 本当に、二人は死んでしまっているのか?
 
 目的も分からぬ手紙について、昨日から引き続き同じ疑問を考えた。空が次第に明るくなり始め、柳生は洗面所での用を済ませると郵便受けから新聞を取り、新しい珈琲を淹れてから再びソファに腰を降ろした。

 手紙が送られてきたのは、二人が亡くなった年からである。一通目は二人が亡くなる前の日付なのだが、それ以降のものをよく見てみると、特徴を出しているとはいえ妻の字とは違っているような気もして、初めての物も本人ではない可能性が過ぎる。
 妻と娘は死んでいて、それでも手紙は送られてきていることを考えながら、柳生は元妻からの手紙の字を、昨日と同じように電話帳の字と見比べてみた。彼が記憶しているよりも全体的にやや丸みがあり、どうも違うようにも感じた。

 娘の字については、比べられるような見本はないので不明だが、両者の手紙の文面を眺めていると、どことなく二人の書体は全体的に似ているようにも思えた。
 
 とすると、彼女達ではない別の誰かが一人で、わざわざそれぞれの県から手紙を発送していることが推測される。しかし、一体なんのために……?

 不可解な手紙についてじっくり考えてみたが、疑問以上のことは何も思いつかなかった。考え続けたことで己の中で情報の整理が追いついたのか、不意に空腹を覚えた。
 そういえば昨日はケーキの後は、何も食べていなかったと思い出した。冷蔵庫にある卵とベーコンと賞味期限間近な食パンを焼いて、軽い朝食を作った柳生は、食べながら考え続けた。

 手紙の内容は、さりげない生活感を漂わせており、まるで送り主が生きているかのような文章だ。死者から届いているという雰囲気を作り出しているわけでもないし、誰がなんの目的で行っているのかについては、見当もつかないでいる。

 食器を洗っている間も、一服している間も、テレビ番組を流しつつ新聞を読み進めている間も考えたが、時間ばかり過ぎてしまい、何一手につかないまま正午の時間を迎えた。
 柳生は煙草を吸った後、まずはやらなければならない手近な仕事に取りかかることにした。先日にあった取材の件の原稿に向かうと、いつの間にか文章を書くことに没頭して時間を忘れた。


 書き起こした取材の原稿の最終チェックが終わり、身体がニコチンを強く欲していると自覚して集中力が切れたタイミングで、一本の電話が鳴った。

 
 時間を確認してみると、既に夕刻近くだった。電話の相手は岡村で、こちらが電話に出てすぐ「今年も選考会やるんですよね、お土産とか期待しちゃってもいいんでしょうか」と開口一番に訊いてきた。
 彼は毎回、柳生が選考会場で土産として持たされる菓子類を狙っているのである。柳生は小さく舌打ちして「馬鹿者」と窘めた。

「俺は仕事で行くのであって、観光ではないんだぞ」

 続けて軽く説教してやろうかと思ったが、岡村にはこれといった効果もないことを思い出して諦めた。短い溜息をこぼしてみたら、どっと疲労感を覚えた。もう電話を切るかと思った。

 すると、電話を切られることを察知したらしい岡村が、本題は取材の原稿のことであったのだと慌てて言ってきた。

「やだなぁ先生、僕が編集長から選考の話をチラリと聞かされて、思わず食べ物のことだけで思い余って電話しちゃったなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。僕は立派な大人ですからね。近所の小学生と駄菓子屋で、最後のチョコボーをかけて紙相撲で熱い勝負を繰り広げていたなんて、それはきっと僕の空似であって、決して会社を抜け出した僕が行っていたなんてことはなくてですね」

 話すたびに墓穴を掘っていると、本人が気付かないのか不思議である。持ち前のお喋りのせいで嘘が付けない男であるので、今回の勤務中の道草についても、編集長に叱られたに違いない。
 柳生はそう憶測しつつ、原稿は一通り仕上がっていることを伝えた。そうしたら岡村が、途端につまらなそうな口調で「なぁんだ、もう書いたんですか……はぁ」と言って勝手に電話を切ってしまった。

 柳生は苛立ちを覚え、「あいつは一体何なんだッ」と愚痴って受話器を叩きつけた。明るい夕刻の空に一番星か衛星か分からない輝きを眺めながら煙草を吸い、原稿の件で電話したという岡村への愚痴が口から出なくなるまで、夕涼みを続けた。

 空腹を覚えてキッチンへ向かった時、リビングのテーブルに広げられたままの手紙をようやく思い出した。

 人生をすっかりなめてかかり、ひょうひょうと生きているような岡村のことを思うと、手紙の件もそこまで深刻に悩む問題でもないような気がしてきた。確かに気分は悪かったが、実害はないのだからと自分を納得させることは可能だろう。

 誰がどういう目的で、ということについては無視すればいい。だって無関心を突き通せば、これらの手紙は、その辺の広告チラシと同じように捨てることだって出来るはずで――……
 しかし本当に、全くの赤の他人が寄越して来ているものなのだろうか。

 捨てることを考えてすぐ、柳生の中に迷いが生まれた。テーブルに置かれた手紙達を遠くから眺めてみると、記憶の中の元妻や娘の、笑顔や匂いや雰囲気といった懐かしさが宿っているような気もした。

 考え過ぎだ。柳生は、自分を叱るように言い聞かせて頭を振った。まるで、この手紙が二人以外の誰かが書いたということを、俺自身が信じたくないみたいじゃないか。
 キッチンへ向かう気力がなくなってしまい、柳生はソファに深く腰かけた。一つの仕事を終えたせいか、はたまた昨日から頭を悩ませている手紙の件が原因か、全身が気だるい疲労感に絡め取られているかのように重く感じた。

 腹は減っているが、出前のピザか寿司でも取って、自宅でだらだらと過ごして早めに就寝したいような気もして、柳生は重い腰を上げると、半ば足を引きずるように固定電話機のもとへと向かった。

 メニュー表の載った出前のチラシはすぐに見つかったが、いつもの習慣で、まずはと思って玄関に向かった。朝と夜、郵便受けをチェックするのが、ここ十年すっかり彼の日課になっていたからだ。

 スリッパを履いて外に出た。しっとりと絡みつく日中の残り熱のような風が、柔らかく身体にまとわりついて、蒸し暑さを覚えた。

 玄関から少し離れた郵便受けを開けてみると、一枚のハガキが入っていた。

 ハガキというのは、日頃から色々な仕事先やサービス業者から届いていたが、柳生はなんだか嫌な予感がした。そろりと手に取って確認してみると、そこには元妻の名前が記載されていた。


 送り主の住所記載はない。手紙の内容は相変わらず短く、「お元気ですか」から始まり、初夏の季節とあって朝の犬の散歩の静かな時間が心地良いこと、自分は元気で過ごしていること、最後は「お元気でお過ごしください」で終わっていた。


 内容は簡素でどこか素っ気ない。彼女らしい文章と言えば、彼女らしいともいえるが、柳生は途端に家を飛び出したい衝動にかられ、財布と携帯電話をポケットに詰めて家を出た。
 周りに目を向けることもなく足早に通りを抜けて、ひたすら歩いた。次第に身体が火照り、衣服との間にかいた汗がシャツや下着に染み始めた。額に張り付く白髪交じりの髪を、半ば乱暴に後ろへ撫でつける。

 身体で風を切って歩き続けた。急きょ目的地としたラーメン屋の前に立った時、腹や背中に浮いた玉の汗が、つうっと流れ落ちるのを感じた。

 店の灯りはついていたが、この日は戸がしっかりと閉められていた。柳生が早歩きの勢いのまま戸を開いてしまうと、キッチンに入っていた店主とアルバイト君、カウンター席に腰かけていた青年の水崎が、驚いたようにこちらを振り返った。

 室内は冷房が効いており、客は水崎青年の他は見当たらなかった。

「こんばんは。なんだか、お久しぶりですね」

 目が合うと、水崎が微笑んでそう言った。店主が強張った肩を解いて「いらっしゃい」と、気さくなに声をかけてくる。

「何事かと思いましたよ。お客さん、今日はどうします? 冷たいものもあるよ」
「冷やし中華なんですけどね。あ、僕は先に醤油ラーメンを頂きました」
「お前は『醤油ラーメン』の前に、『冷やし中華』も食っていたじゃねぇか」

 間髪入れず店主が指摘すると、アルバイト君も身を乗り出してこう言った。

「先輩、いちおう訊いておきますけど、学食でメガ定食をペロリと食べた後、購買で売られていた巨大プリンも平らげていましたよね?」
「店長、僕は最後に餃子で締める予定だから、よろしくお願いします」
「あ、やっぱり俺の話ってスルーされてる……」

 アルバイト君が、そう言って静かに泣いた。店主が「全く、調子がいい奴め……」と、水崎に半眼を向ける。

「辛みそラーメンを頂こう」

 柳生は、壁にかかっている手書きメニューの一つを見てそう言った。店主が「あいよ」と気前のいい声で応えて、アルバイト君の尻を叩いてさっそく調理を始めた。
 柳生は、水崎から隣一個分を開けたカウンター席に腰かけると、アルバイト君が持って来てくれた冷水を一気に喉に流し込んだ。手拭いで火照った顔と首の後ろを冷ますように拭っていたら、それを楽しそうに眺めていた水崎が「お疲れ様です」と言って、コップに冷水を継ぎ足した。

「お仕事ですか?」
「まぁな」

 柳生は短く答えた。店内に流れているラジオは、本日と明日の天気予報を伝えていた。しばらくは、安定した晴れの日が続くのだそうだ。

 店主とアルバイト君、そして水崎のいる店の雰囲気が、柳生の心をじょじょに落ち着かせてくれた。悩みを相談するには、あまりにも知らない仲であるので口には出来そうにはないが、返ってその距離感がいいのかもしれない。

 言葉にするよりも、暖かな雰囲気に身体を預ける方がいい時もある。歩いて汗をかいた効果もあってか、現在抱えている悩みについて客観的に考えられそうだった。
 結論としては、やはり一人で考え続けるのは限界があると思った。凝り固まった考えをしてしまう自分とは、全く別の考え方をする誰かのアドバイスを求めてみてもいいのではなかろうかと、その方法を思案してみた。

 辛みそラーメンが前に置かれて、サービスでゆで卵をつけておいたよ、と店主が笑顔で言った。柳生は店主と、ラーメンを運んで来たアルバイト君に礼を告げ、ある一人の友人を思い浮かべながら箸を手に取った。
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