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(5)青年が語った『港』と、小説家が振り返るその『港』
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柳生が、再び裏通りのラーメン屋へ足を運んだのは、しばらくの雨が続いて、夏らしいカラリとした爽やかな青空が広がった翌週のことだった。
その日の外出は、仕上げた二本の原稿を、とある出版社の担当者に渡すだけの予定だったのだが、小説雑誌に掲載される秋号の特集ページの執筆を持ちかけられた。小説家、評論家など、様々な物書き達が紡ぎ出す言葉のテーマは『幻想』だという。
参加している面々が知っている仲ということもあり、まずは話だけでもと、応接室のソファに腰かけて長い間担当者の話を聞いていた。既に他の作家達は、書く内容も決まって作品の大筋が伝えられている状況であるようだった。
身体の底から震える恐怖体験や、暖かく終わる幻想的な愛の話を体験談として書いた小説。江戸の末期にあった、女の影にとり憑かれた男の恐ろしい結末までを描いた演舞についての考察。
顔にピタリとついて離れなくなった面に、ゆっくりと顔を食われて死んでいく女の凄まじい最期を書いた怪異小説や、パワースポットのレポートなど……
ホラーは得意としていないが、そういった内容は確かに面白くもあり、柳生の頭にもいくつか題材が浮かんでいた。特にその分野の小説家とは長い付き合いもあるため、酒の席で聞かされた興味本位の話題の一部をピックアップし、調べれば随筆の一本くらいはすぐに書けそうな気もした。
執筆する場合の詳細についても話し合った結果、帰路についたのは午後の八時をだいぶ回った頃だった。蒸し暑さと熱気が残る夜道を、多くの通行人が行き来する中を黙々と歩いた。テイッシュを配る若い女性や、女性客を呼び込もうとする男性に呼びとめられる者を横目に、歩き慣れた通りを足早に進んだ。
はじめは気分でもなかったが、柳生の足は自然と例のラーメン屋に向かっていた。裏道は寂しいほど人気がなく、表通りの喧騒がぼんやりと響いてくるばかりで、彼が歩いている間に車は一台も通らなかった。電信柱の間に座っていた猫が、眠たげな鳴き声を一つ上げたのを耳にした。
確かめたいことがあるわけでもないのに、ふと、自分の作品について語っていた青年のことが思い出された。もう一度会えるだろうかと、なんだかそんなことを思った。
その青年が店にいる保証もなく、夕刻前に口にした珈琲と菓子のせいで、それほど空腹であるというわけでもなかったが、柳生は記憶に新しいその道のりを進んだ。店が見えてくる頃には、不思議と腹が減ってきた。
食欲をそそる匂いがして、俺は腹が減っていたから、たまたまラーメン屋に入ろうとしているのだ、と、そんな口実が頭に浮かんだ。なんだか子供の言い訳にも聞こえて、自分が馬鹿のようにも思えた彼は自己嫌悪に唇を引き結び、相変わらず開け放たれているラーメン屋の古びて擦り切れた暖簾をくぐった。
狭い店内には、水崎と呼ばれていた例の青年が、前回と同じカウンターの中央席に一人で腰を落ち着けていた。やはり他に客の姿はない。
水崎の前には、半分まで食べ進められたチャーハンと餃子の皿があった。彼はカウンターの天井角につけられているラジオのスピーカーを、ぼんやりと眺めながら、レンゲの先でチャーハンの山を意味もなくつついていた。
柳生が店内に顔を覗かせてすぐ、先日の店主が「いらっしゃい」と陽気に声を掛けてきた。彼は店主にチラリと目を合わせ、どうも、という会釈を返して、水崎の隣二つを空けたカウンター席に腰かけた。例のアルバイト君の姿はなかった。
「今日は何にします? オススメは、辛みそラーメンかな」
店主は口角を引き上げ、自信たっぷりに言った。
どうやら前回のやりとりを覚えているらしい。柳生は一瞬、頭の上がらない気まずさを覚えたが、ややあって苦笑を返した。
「じゃあ、それをいただこう」
「ビールは?」
「いや、結構だ」
「チャーハンのセットにも出来ますが――」
そう言って、店主が壁の方へ目をやった。柳生も、つられてそちらに顔を向けた。
達筆で書かれた『セットメニュー』という項目側に、いくつかの品名が並んでいた。その中に、子供が書いたような汚い走り書きで『トマトにトマトを重ねたトマトのスイーツサラダ』というメニューが目についた。
恥ずかしくて言えそうにないそのメニューを注文する人は、はたしているのだろうかと考えながら、柳生は他の手書きメニューの案内紙に目をやった。
「…………『冷やし盛りのやっこ豆腐』をもらおう」
一番無難なつまみを頼んだつもりだったが、妙な気恥ずかしさが込み上げて声が小さくなった。店主は気にした様子もなく「あぃよ」と気さくなに応え、まずはお冷(ひや)を注いだコップを彼の前に置いて、早速作業に取り掛かった。
待ち時間を持て余した柳生は、水を口にしつつ改めて店内の様子を窺った。店内にはラジオが流れていて、それは懐かしい音楽を紹介する番組だった。リスナーからの便りが読み上げられた後、油で黄ばんだスピーカーから昭和の名曲がかかり始める。
あれは名曲であったと、ラジオを聞いている昭和の男達は思うことだろう。柳生もその一人として、歌に思いを馳せて当時を振り返った。
あれは最後に誰もが涙し、同じ想いを胸にテレビ画面を見入った素晴らしい時間だった。今の若い世代は知らないだろうが、あの頃は、すべての男達が同じ女性に恋い焦がれていたのだ。
そんな歌手であった彼女の人生に、たった一人の男が現れた時、彼女の多くのファンが涙を浮かべて「幸せになってほしい」と感じた気持ちを、顔も知らぬ多くの人間と共有したあの時間は、柳生にとって特別な経験だった。
俺に、大事だと思えるような兄弟や家族がいれば、そう感じることもあったのかもしれないが……とは思う。数々の名曲が生まれた時代、柳生は街角に溢れる音楽に耳を傾け、そう考えながら小説を書きあげていった人間だった。
他に客が来る気配もないまま、柳生の前に冷ややっこのつまみとラーメンが並んだ。香辛料のきいた味噌ラーメンは、出汁(だし)も濃厚で非常に美味だった。
とはいえ柳生は、隣に腰かけている水崎のことが気になっていた。水崎は先程からずっと、チャーハンをレンゲの先でつつく作業を続けていたのだ。残り少量を完全に平たくされたチャーハンは、お子様メニューの新たな商品か何かに見えた。
「……食べないのか?」
つい、声を掛けた。
すると水崎は、今気付いたと言わんばかりの顔を柳生に向けて、それから手元のチャーハンを確かめ、二、三度瞬きを繰り返した。
「あれ? 平たくなってる」
「お前が自分でやったんだよ」
店主が間髪入れず指摘した。しかし、水崎は聞こえていなかったのか、チャーハンを食べ始めた。
「すっかり冷めてしまったなあ」
しばらく振りに食事を再開した感想を、彼はしみじみと口にする。店主は諦めたように頭を振り、「聞いちゃいねえや」とぼやいて仕事に戻っていった。
なんとマイペースな青年であろうかと、柳生は感心しつつも掛ける言葉が見つからず、とりあえず、つまみに注文したやっこ豆腐を先に平らげた。
「先週、来てくれたお客さんですよね」
続いてラーメンをすすったところで、隣から不意に声を掛けられた。「よく覚えていたな」と柳生が答えると、水崎が優しげな顔に楽しそうな笑みを浮かべた。
「ここって、夜に来るお客さんなんて滅多にいないですから」
当人の前で失礼とも思われる台詞を、水崎が爽やかな笑顔と共にあっさり口にした。店主は、柳生の心配した目に気づいて「うちは昼間の常連が多いからさ」となんでもないように言って肩をすくめた。
「随分前から、そこいらに飲食店が増えちまって、夜のお客さんは今じゃあめっきり来なくなったんだよ。まあ、昼間には食べに来てくれるから有り難い。昔から、夜遅くにふらりとやって来てくれるお客さんもいるし、勉強の帰りに寄ってくれる学生さんもいるから、その人達のためにも、まだ開けてなきゃいけないからなぁ」
店主の話を聞きながら、柳生は若い時分を思い出した。
大学時代、借りていたアパートの近くに安い食事屋があり、そこには随分と助けられたものだった。大学の費用は思った以上にかかっていたから、少ない小銭でたくさん食べられるメシは、育ち盛りの男達には有り難かったことを覚えている。
「ファミリーレストランや、小奇麗な喫茶店も多いからな」
柳生がラーメンをすすりつつ相槌を打つと、店主は「そうだろう」と頷き返した。
「この辺に店を構えていた奴らは、みんな引退したか余所(よそ)に移っていったよ。寂しいねぇ」
時代は刻一刻と変わり、あっという間に過ぎ去ってしまう。いつの間にか移ろっていく時の流れを、そう言う風に捉えることもあるのかと、柳生は店主の口にした『寂しい』について少し考えてしまった。
食べ終わると腹は重く膨らんだが、食べた後にいつもなるような不快さはなかった。食後の気だるい穏やかな満足さが、全身を暖かく包み込んでいるだけだ。
柳生は、食欲の満たされた充実感に浸りながら、しばらく店の出入り口をぼんやりと眺めた。客足がないことを思いつつ見ていたら、空の食器をカウンター越しに下げた店主が短く笑った。
「煙草、吸いなよ」
そう言った彼が灰皿を前に置いた。軽くて薄い、傷や汚れの目立つパイプ式の灰皿だった。
柳生は、困った息子を見るような顔をして笑っている店主を見つめ返し、自然とそれに応えて口角を僅かに引き上げ、「すまない」と答えて煙草を取り出した。
三口ほど煙草の煙を肺に取りこんだ時、隣にいる水崎がチャーハンを平らげて「ごちそうさま」と合掌した。喫煙によって気分が落ち着いた柳生は、そこでようやく彼に声を掛けた。
「今日は、この前のアルバイトの彼はいないんだな」
「平日真っただ中は、お客さんの出入りはほとんどないから、彼はお休みなんです」
そう答えた水崎は、どこか嬉しそうに笑った。
「趣味でバスケをやっていますから、彼は今頃、大学のバスケ部にいつものように飛び入り参戦でもして、楽しんでいる頃だと思いますよ」
「アグレッシブなんだな」
「あはは、ただの運動馬鹿なんですけどね。でも、超がつくほどいい奴なんです。純粋で真面目で、まっすぐで、彼は今時裏表もない凄い奴なんですよ。親や十歳違いの妹や、知らぬ老人にも優しくて、教師や友人を大切に思えるそんな素晴らしいところを、僕はとても尊敬しています。僕は彼の、そういったキラキラと輝く素直なところにも引かれているんです」
出来た話し相手を喜んでいるかのように、水崎はそう言葉を続けた。
柳生は、友人でもあり後輩でもある例のアルバイト君について、良い所をすらすらと口にした水崎には感心せずにいられなかった。人の好きそうなこの青年は、見た目だけでなく今時には珍しい、話していてなんとも気持ちの良い感じがする男だった。
身体を半ばこちらに向け、水崎は手を使いつつ表情豊かに話し続けながら、柳生のコップの水に気を遣うことも忘れなかった。勝手知っている店だからと言って、店主の代わりに新しい水をコップに注いだりした。
水崎はいくつか話題を移した後、自分の事を語り始めた。
彼は大学四年生で、将来は大学院へ進んで学者になるのが夢だという。専攻は細胞微生物学で、飯や時間も忘れるほどの読書家でもあった。
今時、古典や聖書、古い海外文学を読破する若者がよくいたものだ。話を聞いて思わずそう呟くと、水崎が「時間があるからこそ、若いうちにって言うでしょう」とにっこり笑んだ。
全くそうだ、と柳生は己の若き頃を思い返して苦笑した。進んだ大学の図書室の素晴らしさに感激して、今のうちだからこそと意気込んで時間も忘れて入り浸り、借りたり返したりと一日に数回繰り返すこともざらにあった。
どうやら水崎は、話す中でこちらを同じ読書好きとみたらしい。口にする本について語り合えることに新鮮な驚きを見せ、感激して話を続ける様子は、彼の周りに同じ読書経験を持つ者が非常に少ないことを、柳生に感じさせた。
「将来は、どんな学者になるつもりなのか聞いてもいいか?」
水崎の話がようやく落ち着いた頃、すっかりぬるくなった冷水を飲む彼を横目に、柳生は尋ねてみた。彼は満足した穏やかな顔でこう答えた。
「僕は幼い頃から、生物学の研究者になることを夢にみていました」
「小説家ではなく?」
「僕の一番の愛読ジャンルは、生物学の専門書なんですよ」
柳生は「なるほど」と頷いた。水崎は「立派でしょう」と肩で笑いながら言った。
キッチンの床をデッキブラシで磨いていた主人が、手を止めて呆れたような目を二人に向けたが、結局は頭を振るにとどめて作業に戻った。
カウンターの上ある、やや黄ばんだ白いプラスチチック製の小さな時御置き計は、すでに午後の十時を差していた。開け放たれたままの店の出入り口から、深い夜の気配が入り込み店内を満たし始めている。
話も途切れた二人は、宵心地にそれぞれ意識を預けて、黙って水を飲んだ。柳生はしばらく、ラジオから流れる昭和の曲に耳を傾けた。久しぶりに酒でも飲みたいな――そう思って苦笑がこぼれた。
最後に酒を飲んだのが随分昔であるという感覚は、ただの錯覚だ。自分はいつでも気ままに飲んでいる身じゃないかと、そう思い出しながら水で喉を潤した。
ラジオから流れる曲は、いつのまにか別のジャンル曲へと切り替わっていた。少し懐かしい曲ではあるものの、柳生があまり聞かなかったヒットソングだった。
確か、娘が中学に上がったばかりの頃に聞いた曲だったかな、と記憶をぼんやり手繰り寄せる。どこかの青年が港に思いを馳せて歌った、あの年頃にして妙にしんみりと、そして物寂しげに落ち着いた曲調は今でも印象的で覚えていた。
その時、コップの中で氷が転がる音がして、柳生は音の方へ目を向けた。テーブルに置いたグラス周りの水を、水崎が意味もなく指でつついている。
「僕が幼い頃、住んでいた家の近くには港があったんです」
ラジオから流れる歌を聞きながら、水崎が不意に話し始めた。
「港は少し寂れていて、砂利の駐車場には所々雑草が生えていました。船上げ場には、動かなくなってしまって随分と経つような小型船があって、港にはいつも四隻ほどの小さな漁船が浮いていました。大抵、父はそこにいる友人を訪ねながら、僕を連れてゆっくりと港の中を歩きました。時々立ち止まり、時には潮風に耳を澄ませながら、二人でよく海を眺めたりしました」
水崎は静かな感情に呑まれたかのように目を細め、それから、当時に想いを馳せる言葉を切った。コップを見下ろした瞳は、水に浮く角が解けて丸くなった氷に、その頃見つめ続けた海を探しているようでもあり、全く別の哀愁を深く鎮めようとしているかのようにも思えた。
柳生も、自分のコップを見下ろした。持ち上げてみると、ゆらりと動く水面の底が見えた。遠い過去にしまっていたはずの、あの懐かしい潮臭い香りが鼻腔に漂ったような気がして、知らず鼻先を指でこすった直後、元妻が「それって、あなたの癖よね」と無邪気に告げていた声が、なんとなく耳元に蘇った。
水崎が再び口を開いた。
「港は、いつも空が近く感じて、時折強い潮風が吹いていました。父と二人で、堤防の向こうからやってくる小型船や、これから出ていく漁船を見送りました。父は港から戻るたび、港の友人から聞いた話や、そこで見たことを母に話し聞かせていました。母の方は『また港?』と嫌そうな顔をしていたのですけれど、本当に嫌に思っていたことなんて一度もなかったんですよ。いつも心底愛している瞳で、僕の相手をしてくれている父を誇らしげに見つめていました」
柳生は話を聞きながら、遠い昔に、自分が元妻と過ごした穏やかな時間を思い出した。妻の祖父は一本釣りの漁師をやっていて、彼が戻ってくる時間に合わせて、お爺ちゃん子だった彼女と、よく港まで出掛けて散歩したものだった。
ドライブデートの折り、用事がなくとも、時間を見つけては港へと車を向けた。彼女は、港からの眺めを好いていた。海辺の町で暮らしたことは一度もなかったから、海沿いで生まれ、ずっと暮らしていた祖父達が羨ましいのだと彼女は口にしていた。
大学を卒業して三年後、彼女の祖父はあっけなくこの世を去った。彼女は一週間泣き続け、その後一週間ほど思い出に浸り、そうやって自分の中で、本当の意味で祖父と別れを告げて日常に戻った。
当時まだ恋人同士であった柳生と彼女は、それでも懐かしいその港を訪れるのをやめず、何を言うわけでもなく海を眺めたりした。その時に彼女が見せていた、静かな横顔に浮かぶ微笑が、今でも彼の瞼の裏に強く焼き付いて離れないでいる。
結婚しよう。――そう言ったのは柳生だった。祖父の一回忌が終わった後、立ち寄った港で、彼女にそう告白したのだ。
彼女が驚いた顔で振り返り、それから仏頂面の彼に微笑みかけた。
彼女は、嬉しい、といって泣きながら笑った。柳生は「そうか」と頷いて海を見た。黄昏に染まる港が物寂しげに静まり返っているように感じたのは、自分が一人の人間の喪失を、はっきりと実感してしまったからだろうと分かった。
彼にとっても彼女の祖父の死は、『彼女のおじいちゃん』として大事に思い始めていた矢先の死に別れだった。結婚したら、彼女を通して家族になれるのだろう、とずっと思っていた。
水崎は、ぽつりぽつりと話し続けていた。柳生は「うむ」と相槌を打ちながら、脳裏に思い起こす記憶に耽った。籍を入れて後しばらくは、お互い時間が作ることが出来ていたから、妻が希望すれば例の港へ車を回したものだと思い返した。
彼女はあの頃、いつもの場所から海の方を眺めていた。
出ていく船と、帰ってくる船を目で追いながら、まるで帰って来ることもない祖父の漁船を待つかのように、ずっと佇んでいたのだった。
その日の外出は、仕上げた二本の原稿を、とある出版社の担当者に渡すだけの予定だったのだが、小説雑誌に掲載される秋号の特集ページの執筆を持ちかけられた。小説家、評論家など、様々な物書き達が紡ぎ出す言葉のテーマは『幻想』だという。
参加している面々が知っている仲ということもあり、まずは話だけでもと、応接室のソファに腰かけて長い間担当者の話を聞いていた。既に他の作家達は、書く内容も決まって作品の大筋が伝えられている状況であるようだった。
身体の底から震える恐怖体験や、暖かく終わる幻想的な愛の話を体験談として書いた小説。江戸の末期にあった、女の影にとり憑かれた男の恐ろしい結末までを描いた演舞についての考察。
顔にピタリとついて離れなくなった面に、ゆっくりと顔を食われて死んでいく女の凄まじい最期を書いた怪異小説や、パワースポットのレポートなど……
ホラーは得意としていないが、そういった内容は確かに面白くもあり、柳生の頭にもいくつか題材が浮かんでいた。特にその分野の小説家とは長い付き合いもあるため、酒の席で聞かされた興味本位の話題の一部をピックアップし、調べれば随筆の一本くらいはすぐに書けそうな気もした。
執筆する場合の詳細についても話し合った結果、帰路についたのは午後の八時をだいぶ回った頃だった。蒸し暑さと熱気が残る夜道を、多くの通行人が行き来する中を黙々と歩いた。テイッシュを配る若い女性や、女性客を呼び込もうとする男性に呼びとめられる者を横目に、歩き慣れた通りを足早に進んだ。
はじめは気分でもなかったが、柳生の足は自然と例のラーメン屋に向かっていた。裏道は寂しいほど人気がなく、表通りの喧騒がぼんやりと響いてくるばかりで、彼が歩いている間に車は一台も通らなかった。電信柱の間に座っていた猫が、眠たげな鳴き声を一つ上げたのを耳にした。
確かめたいことがあるわけでもないのに、ふと、自分の作品について語っていた青年のことが思い出された。もう一度会えるだろうかと、なんだかそんなことを思った。
その青年が店にいる保証もなく、夕刻前に口にした珈琲と菓子のせいで、それほど空腹であるというわけでもなかったが、柳生は記憶に新しいその道のりを進んだ。店が見えてくる頃には、不思議と腹が減ってきた。
食欲をそそる匂いがして、俺は腹が減っていたから、たまたまラーメン屋に入ろうとしているのだ、と、そんな口実が頭に浮かんだ。なんだか子供の言い訳にも聞こえて、自分が馬鹿のようにも思えた彼は自己嫌悪に唇を引き結び、相変わらず開け放たれているラーメン屋の古びて擦り切れた暖簾をくぐった。
狭い店内には、水崎と呼ばれていた例の青年が、前回と同じカウンターの中央席に一人で腰を落ち着けていた。やはり他に客の姿はない。
水崎の前には、半分まで食べ進められたチャーハンと餃子の皿があった。彼はカウンターの天井角につけられているラジオのスピーカーを、ぼんやりと眺めながら、レンゲの先でチャーハンの山を意味もなくつついていた。
柳生が店内に顔を覗かせてすぐ、先日の店主が「いらっしゃい」と陽気に声を掛けてきた。彼は店主にチラリと目を合わせ、どうも、という会釈を返して、水崎の隣二つを空けたカウンター席に腰かけた。例のアルバイト君の姿はなかった。
「今日は何にします? オススメは、辛みそラーメンかな」
店主は口角を引き上げ、自信たっぷりに言った。
どうやら前回のやりとりを覚えているらしい。柳生は一瞬、頭の上がらない気まずさを覚えたが、ややあって苦笑を返した。
「じゃあ、それをいただこう」
「ビールは?」
「いや、結構だ」
「チャーハンのセットにも出来ますが――」
そう言って、店主が壁の方へ目をやった。柳生も、つられてそちらに顔を向けた。
達筆で書かれた『セットメニュー』という項目側に、いくつかの品名が並んでいた。その中に、子供が書いたような汚い走り書きで『トマトにトマトを重ねたトマトのスイーツサラダ』というメニューが目についた。
恥ずかしくて言えそうにないそのメニューを注文する人は、はたしているのだろうかと考えながら、柳生は他の手書きメニューの案内紙に目をやった。
「…………『冷やし盛りのやっこ豆腐』をもらおう」
一番無難なつまみを頼んだつもりだったが、妙な気恥ずかしさが込み上げて声が小さくなった。店主は気にした様子もなく「あぃよ」と気さくなに応え、まずはお冷(ひや)を注いだコップを彼の前に置いて、早速作業に取り掛かった。
待ち時間を持て余した柳生は、水を口にしつつ改めて店内の様子を窺った。店内にはラジオが流れていて、それは懐かしい音楽を紹介する番組だった。リスナーからの便りが読み上げられた後、油で黄ばんだスピーカーから昭和の名曲がかかり始める。
あれは名曲であったと、ラジオを聞いている昭和の男達は思うことだろう。柳生もその一人として、歌に思いを馳せて当時を振り返った。
あれは最後に誰もが涙し、同じ想いを胸にテレビ画面を見入った素晴らしい時間だった。今の若い世代は知らないだろうが、あの頃は、すべての男達が同じ女性に恋い焦がれていたのだ。
そんな歌手であった彼女の人生に、たった一人の男が現れた時、彼女の多くのファンが涙を浮かべて「幸せになってほしい」と感じた気持ちを、顔も知らぬ多くの人間と共有したあの時間は、柳生にとって特別な経験だった。
俺に、大事だと思えるような兄弟や家族がいれば、そう感じることもあったのかもしれないが……とは思う。数々の名曲が生まれた時代、柳生は街角に溢れる音楽に耳を傾け、そう考えながら小説を書きあげていった人間だった。
他に客が来る気配もないまま、柳生の前に冷ややっこのつまみとラーメンが並んだ。香辛料のきいた味噌ラーメンは、出汁(だし)も濃厚で非常に美味だった。
とはいえ柳生は、隣に腰かけている水崎のことが気になっていた。水崎は先程からずっと、チャーハンをレンゲの先でつつく作業を続けていたのだ。残り少量を完全に平たくされたチャーハンは、お子様メニューの新たな商品か何かに見えた。
「……食べないのか?」
つい、声を掛けた。
すると水崎は、今気付いたと言わんばかりの顔を柳生に向けて、それから手元のチャーハンを確かめ、二、三度瞬きを繰り返した。
「あれ? 平たくなってる」
「お前が自分でやったんだよ」
店主が間髪入れず指摘した。しかし、水崎は聞こえていなかったのか、チャーハンを食べ始めた。
「すっかり冷めてしまったなあ」
しばらく振りに食事を再開した感想を、彼はしみじみと口にする。店主は諦めたように頭を振り、「聞いちゃいねえや」とぼやいて仕事に戻っていった。
なんとマイペースな青年であろうかと、柳生は感心しつつも掛ける言葉が見つからず、とりあえず、つまみに注文したやっこ豆腐を先に平らげた。
「先週、来てくれたお客さんですよね」
続いてラーメンをすすったところで、隣から不意に声を掛けられた。「よく覚えていたな」と柳生が答えると、水崎が優しげな顔に楽しそうな笑みを浮かべた。
「ここって、夜に来るお客さんなんて滅多にいないですから」
当人の前で失礼とも思われる台詞を、水崎が爽やかな笑顔と共にあっさり口にした。店主は、柳生の心配した目に気づいて「うちは昼間の常連が多いからさ」となんでもないように言って肩をすくめた。
「随分前から、そこいらに飲食店が増えちまって、夜のお客さんは今じゃあめっきり来なくなったんだよ。まあ、昼間には食べに来てくれるから有り難い。昔から、夜遅くにふらりとやって来てくれるお客さんもいるし、勉強の帰りに寄ってくれる学生さんもいるから、その人達のためにも、まだ開けてなきゃいけないからなぁ」
店主の話を聞きながら、柳生は若い時分を思い出した。
大学時代、借りていたアパートの近くに安い食事屋があり、そこには随分と助けられたものだった。大学の費用は思った以上にかかっていたから、少ない小銭でたくさん食べられるメシは、育ち盛りの男達には有り難かったことを覚えている。
「ファミリーレストランや、小奇麗な喫茶店も多いからな」
柳生がラーメンをすすりつつ相槌を打つと、店主は「そうだろう」と頷き返した。
「この辺に店を構えていた奴らは、みんな引退したか余所(よそ)に移っていったよ。寂しいねぇ」
時代は刻一刻と変わり、あっという間に過ぎ去ってしまう。いつの間にか移ろっていく時の流れを、そう言う風に捉えることもあるのかと、柳生は店主の口にした『寂しい』について少し考えてしまった。
食べ終わると腹は重く膨らんだが、食べた後にいつもなるような不快さはなかった。食後の気だるい穏やかな満足さが、全身を暖かく包み込んでいるだけだ。
柳生は、食欲の満たされた充実感に浸りながら、しばらく店の出入り口をぼんやりと眺めた。客足がないことを思いつつ見ていたら、空の食器をカウンター越しに下げた店主が短く笑った。
「煙草、吸いなよ」
そう言った彼が灰皿を前に置いた。軽くて薄い、傷や汚れの目立つパイプ式の灰皿だった。
柳生は、困った息子を見るような顔をして笑っている店主を見つめ返し、自然とそれに応えて口角を僅かに引き上げ、「すまない」と答えて煙草を取り出した。
三口ほど煙草の煙を肺に取りこんだ時、隣にいる水崎がチャーハンを平らげて「ごちそうさま」と合掌した。喫煙によって気分が落ち着いた柳生は、そこでようやく彼に声を掛けた。
「今日は、この前のアルバイトの彼はいないんだな」
「平日真っただ中は、お客さんの出入りはほとんどないから、彼はお休みなんです」
そう答えた水崎は、どこか嬉しそうに笑った。
「趣味でバスケをやっていますから、彼は今頃、大学のバスケ部にいつものように飛び入り参戦でもして、楽しんでいる頃だと思いますよ」
「アグレッシブなんだな」
「あはは、ただの運動馬鹿なんですけどね。でも、超がつくほどいい奴なんです。純粋で真面目で、まっすぐで、彼は今時裏表もない凄い奴なんですよ。親や十歳違いの妹や、知らぬ老人にも優しくて、教師や友人を大切に思えるそんな素晴らしいところを、僕はとても尊敬しています。僕は彼の、そういったキラキラと輝く素直なところにも引かれているんです」
出来た話し相手を喜んでいるかのように、水崎はそう言葉を続けた。
柳生は、友人でもあり後輩でもある例のアルバイト君について、良い所をすらすらと口にした水崎には感心せずにいられなかった。人の好きそうなこの青年は、見た目だけでなく今時には珍しい、話していてなんとも気持ちの良い感じがする男だった。
身体を半ばこちらに向け、水崎は手を使いつつ表情豊かに話し続けながら、柳生のコップの水に気を遣うことも忘れなかった。勝手知っている店だからと言って、店主の代わりに新しい水をコップに注いだりした。
水崎はいくつか話題を移した後、自分の事を語り始めた。
彼は大学四年生で、将来は大学院へ進んで学者になるのが夢だという。専攻は細胞微生物学で、飯や時間も忘れるほどの読書家でもあった。
今時、古典や聖書、古い海外文学を読破する若者がよくいたものだ。話を聞いて思わずそう呟くと、水崎が「時間があるからこそ、若いうちにって言うでしょう」とにっこり笑んだ。
全くそうだ、と柳生は己の若き頃を思い返して苦笑した。進んだ大学の図書室の素晴らしさに感激して、今のうちだからこそと意気込んで時間も忘れて入り浸り、借りたり返したりと一日に数回繰り返すこともざらにあった。
どうやら水崎は、話す中でこちらを同じ読書好きとみたらしい。口にする本について語り合えることに新鮮な驚きを見せ、感激して話を続ける様子は、彼の周りに同じ読書経験を持つ者が非常に少ないことを、柳生に感じさせた。
「将来は、どんな学者になるつもりなのか聞いてもいいか?」
水崎の話がようやく落ち着いた頃、すっかりぬるくなった冷水を飲む彼を横目に、柳生は尋ねてみた。彼は満足した穏やかな顔でこう答えた。
「僕は幼い頃から、生物学の研究者になることを夢にみていました」
「小説家ではなく?」
「僕の一番の愛読ジャンルは、生物学の専門書なんですよ」
柳生は「なるほど」と頷いた。水崎は「立派でしょう」と肩で笑いながら言った。
キッチンの床をデッキブラシで磨いていた主人が、手を止めて呆れたような目を二人に向けたが、結局は頭を振るにとどめて作業に戻った。
カウンターの上ある、やや黄ばんだ白いプラスチチック製の小さな時御置き計は、すでに午後の十時を差していた。開け放たれたままの店の出入り口から、深い夜の気配が入り込み店内を満たし始めている。
話も途切れた二人は、宵心地にそれぞれ意識を預けて、黙って水を飲んだ。柳生はしばらく、ラジオから流れる昭和の曲に耳を傾けた。久しぶりに酒でも飲みたいな――そう思って苦笑がこぼれた。
最後に酒を飲んだのが随分昔であるという感覚は、ただの錯覚だ。自分はいつでも気ままに飲んでいる身じゃないかと、そう思い出しながら水で喉を潤した。
ラジオから流れる曲は、いつのまにか別のジャンル曲へと切り替わっていた。少し懐かしい曲ではあるものの、柳生があまり聞かなかったヒットソングだった。
確か、娘が中学に上がったばかりの頃に聞いた曲だったかな、と記憶をぼんやり手繰り寄せる。どこかの青年が港に思いを馳せて歌った、あの年頃にして妙にしんみりと、そして物寂しげに落ち着いた曲調は今でも印象的で覚えていた。
その時、コップの中で氷が転がる音がして、柳生は音の方へ目を向けた。テーブルに置いたグラス周りの水を、水崎が意味もなく指でつついている。
「僕が幼い頃、住んでいた家の近くには港があったんです」
ラジオから流れる歌を聞きながら、水崎が不意に話し始めた。
「港は少し寂れていて、砂利の駐車場には所々雑草が生えていました。船上げ場には、動かなくなってしまって随分と経つような小型船があって、港にはいつも四隻ほどの小さな漁船が浮いていました。大抵、父はそこにいる友人を訪ねながら、僕を連れてゆっくりと港の中を歩きました。時々立ち止まり、時には潮風に耳を澄ませながら、二人でよく海を眺めたりしました」
水崎は静かな感情に呑まれたかのように目を細め、それから、当時に想いを馳せる言葉を切った。コップを見下ろした瞳は、水に浮く角が解けて丸くなった氷に、その頃見つめ続けた海を探しているようでもあり、全く別の哀愁を深く鎮めようとしているかのようにも思えた。
柳生も、自分のコップを見下ろした。持ち上げてみると、ゆらりと動く水面の底が見えた。遠い過去にしまっていたはずの、あの懐かしい潮臭い香りが鼻腔に漂ったような気がして、知らず鼻先を指でこすった直後、元妻が「それって、あなたの癖よね」と無邪気に告げていた声が、なんとなく耳元に蘇った。
水崎が再び口を開いた。
「港は、いつも空が近く感じて、時折強い潮風が吹いていました。父と二人で、堤防の向こうからやってくる小型船や、これから出ていく漁船を見送りました。父は港から戻るたび、港の友人から聞いた話や、そこで見たことを母に話し聞かせていました。母の方は『また港?』と嫌そうな顔をしていたのですけれど、本当に嫌に思っていたことなんて一度もなかったんですよ。いつも心底愛している瞳で、僕の相手をしてくれている父を誇らしげに見つめていました」
柳生は話を聞きながら、遠い昔に、自分が元妻と過ごした穏やかな時間を思い出した。妻の祖父は一本釣りの漁師をやっていて、彼が戻ってくる時間に合わせて、お爺ちゃん子だった彼女と、よく港まで出掛けて散歩したものだった。
ドライブデートの折り、用事がなくとも、時間を見つけては港へと車を向けた。彼女は、港からの眺めを好いていた。海辺の町で暮らしたことは一度もなかったから、海沿いで生まれ、ずっと暮らしていた祖父達が羨ましいのだと彼女は口にしていた。
大学を卒業して三年後、彼女の祖父はあっけなくこの世を去った。彼女は一週間泣き続け、その後一週間ほど思い出に浸り、そうやって自分の中で、本当の意味で祖父と別れを告げて日常に戻った。
当時まだ恋人同士であった柳生と彼女は、それでも懐かしいその港を訪れるのをやめず、何を言うわけでもなく海を眺めたりした。その時に彼女が見せていた、静かな横顔に浮かぶ微笑が、今でも彼の瞼の裏に強く焼き付いて離れないでいる。
結婚しよう。――そう言ったのは柳生だった。祖父の一回忌が終わった後、立ち寄った港で、彼女にそう告白したのだ。
彼女が驚いた顔で振り返り、それから仏頂面の彼に微笑みかけた。
彼女は、嬉しい、といって泣きながら笑った。柳生は「そうか」と頷いて海を見た。黄昏に染まる港が物寂しげに静まり返っているように感じたのは、自分が一人の人間の喪失を、はっきりと実感してしまったからだろうと分かった。
彼にとっても彼女の祖父の死は、『彼女のおじいちゃん』として大事に思い始めていた矢先の死に別れだった。結婚したら、彼女を通して家族になれるのだろう、とずっと思っていた。
水崎は、ぽつりぽつりと話し続けていた。柳生は「うむ」と相槌を打ちながら、脳裏に思い起こす記憶に耽った。籍を入れて後しばらくは、お互い時間が作ることが出来ていたから、妻が希望すれば例の港へ車を回したものだと思い返した。
彼女はあの頃、いつもの場所から海の方を眺めていた。
出ていく船と、帰ってくる船を目で追いながら、まるで帰って来ることもない祖父の漁船を待つかのように、ずっと佇んでいたのだった。
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