俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

百門一新

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(4)大学時代と、大切にしていた『人間を書く小説』と、そして現在について

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 柳生が『砂漠の花』を書き上げたのは、大学四年生の冬だった。

 入学当初から小説を書き始めて色々な賞に応募したが、どれも選考を通ることはなかった。初めて書きあげた長編作品は、苦労して時間をかけてようやく執筆出来たものだったから、一次選考も通らなかった時のショックが一番大きかった。

 本格的に物書きになりたいと思ったのは、大学の二年生が終わる頃あたりだったろうか。そう思い始めてからの葛藤は凄まじかった。
 どうして俺は予選すら通らないのだ? 俺には、やはり才能がないのか――そう悩みながらも書き続けた。彼には、それだけしかなかったからだ。

 昔から人間関係に興味がなく、どちらかといえば嫌っていた節もある柳生は、幼少時代から本ばかりを読んで過ごしていた。威圧感がある無愛想な顔立ちと、喜怒哀楽の表現が乏しいこともあり、誤解されることも多かった。

 彼の時代には番長や不良や抗争といったことが日常的にあって、よくいちゃもんをつけられた。返り討ちにしているうちに自然と喧嘩も強くなったけれど、殴れば拳は痛いし服も汚れる。彼はそういったすべての煩わしさを嫌っていた。

 柳生には、兄が二人いた。どちらも常に人の輪の中にいて社交的だった。長男はそのまま父の事業を引き継ぎ、次男は新たな事業を立ち上げた。二人の経営者を育てた父と母は確かに立派で、たくさんの人間が支持し尊敬もしていたが、二人の間に愛はなかった。
 父よりも立派な人になりなさい、――それが母の口癖だった。二人の兄は、あの冷たい唇でそっけないお褒めの言葉を受けるだけで、頑張ればもっと愛されるものだと信じ、それは刷り込みのように二人の心に競争心を育てた。

 柳生はそんな母と兄達を見て、馬鹿馬鹿しいと吐き捨て、十七になる前に形と見栄ばかりの家から出た。必要な金は自分で工面し、一人で大学も卒業した。二人の兄達は「どうしちまったんだよ」と弟を心配したが、彼を止めることはできなかった。あれから、彼らと連絡を取り合ったことは一度もない。

 実家暮らしも上手くいかず、結局のところ自ら捨てたようなものだ。だから、俺がきちんとした家庭を築けるなんて思わない方がいい。

 身体は大人、心は成長期の真っただ中の大学生達にとって、当然のように『恋』という青春が彼らを夢中にさせたが、柳生はまるで違っていた。彼は年を重ねるたびに険しくなっていく自分の顔に、父の姿を重ねた。幸福な家庭を持つ自分を、想像することなんて出来なかった。

 学生運動、賃金体制の問題、貧困の差と権力による様々な圧力と上下関係。彼は、当時の自分を呑み込むすべてを嫌った。本を読んでいる時だけが、彼に時間を忘れさせた。

 文学という世界観が好きだったのかもしれない。大学入学早々から、そういったこともあって勉学の他は嫌気がさしていた柳生は、ふと、自分でも小説を書いてみようと思った。
 様々な人間を傍観していたから、人間を書くのはそんなに難しくはなかった。人の愚かさ、汚さを生々しく表現し、言葉として紡ぐことは容易かった。そこに、読むことで得たドラマチックな思想を持った主人公やヒロインを、苦労を重ねながら作り上げた。

 柳生は、社会や人間に対して嫌な感情を覚えている。しかし、小説として人間を書いているうちに、やはり完全には嫌いになれないものなのだなとも気付かされた。
 物語を書き続けていると、嫌悪や煩わしさといったことを一切忘れて、どこか知らない遠い海原を眺めているような、そんな不思議な感覚が余韻として彼の後ろ髪を引いた。この時にはもう、書くことをやめられなくなっていた。

 あの不思議な感覚が一体どこから来るのか、いつかその答えに辿り着きたいと思っていたのかもしれない。

 小説家になりたいと心に決めてから、何十、何百という物語を書いたのか分からない。ただ、毎日ひたすら書いた。書けば、自分の知らない何かが少しでもこの手に掴めるのではないだろうか、と期待してそれを予感した。

 彼がしがない大学生だった当時は、飲み歩く人間がどれだけいただろうか。都会には夜すら霞むほどの怪しげな電光飾が灯り、様々な銘柄や国の酒が出回っていた。
 現実はとても冷たく、十代、二十代、三十代と節目の青春は彼らに痛みも与える。酒を飲み、煙草を吸い、恋の火遊びをする。そうしなければ、押し潰されそうになる心をどうにも出来ないという、そんな時代でもあった。

 毎晩、虚しい形ばかりの理想や恋が溢れていた。たくさんの恋の話が、あちらこちらで色をつけて、彼らの一時の現実を逃避させていた。恋のもつれあいは人間の最も典型的な感情を激しく揺さぶって、そのおかげで騒動も事件も絶えなかった。

 たくさんの男女が恋仲となり、たくさんの別れが続いた。柳生も決して例外ではなく、飲み歩いた店に名ばかりの恋人を二、三人は作ったことがあった。色恋といった感情は一切持っていなかった。
 夜の相手として、都合がいいだけの男女仲も当時は珍しくなかった。中にはタフな女性もいて、割り切った関係として「あんたが好きよ」と声を掛けて誘い、「まあ、今だけはね」とそっけなく告げたりした。


 元妻であるアキコと出会ったのは、夜の生活にも飽いて飲み歩きさえやめてしまった、大学三年生の頃だった。

 どの男女も、仕草や行動を気にして自分の良さを異性にアピールしていたものだが、柳生はにこだわらず、授業の他は中庭の木陰で横になって本を読んでいることが多かった。そんな彼に声をかけてきた変わり者が、彼女だったのだ。


「いつも本ばかり読んでいるのね」

 聞こえたのは、こちらに対して興味を持っていないような女の声だった。色気もない淡々とした口調で、とても落ち着きがあった。

 本の続きも気になるというのに、その日の彼は寝不足ということもあって、喋ることに無駄に体力を使うのは嫌だと思っていたから、声を掛けられたのは不満だった。ページの文章を読むのに忙しいまま、はじめは彼女に目さえ向けなかった。

「俺が本を読んでいて、何か都合の悪いことでもあるのか」
「ないでしょうね」
「なら聞くな」
「邪魔をしたかしら。あなたのその格好、到底本を読んでいるようには見えなかったものだから」

 彼女はスカートを撫でるように押さえて、そばに腰を下ろしてきた。柳生が本を読み進めながら、その気配を察して「品がない」と言うと、「これくらい普通じゃない」と答えた。その際に、白いワンピースの裾が視界の隅で揺れて、姿勢を正すような音が耳についた。

 柳生は読書に没頭していたし、今、自分の横に座った女にも興味がなかった。一ページ、二ページ……けれど、女はどこにも行く様子がなく、段々と苛立ちが込み上げた。集中力が一つ二つと、彼の意思にそむいて剥がれ落ちていくのだ。

「――おい、他に座れる場所があると思うが」

 彼は目も向けないまま、つい愚痴るようにそう言った。印字されている文章を目で追う速度が落ち、読むことでその本の世界を体験できるような想像力が、徐々に鮮明さを欠いていくのが自分でも分かった。

「そうね」

 女は、心もない声色で答えた。

「座りたい場所に、私が勝手に座っているだけよ」
「勘違いされたら困る」
「あなたが?」
「面倒なことに巻き込まれるのは、ごめんだ」

 すぐに色恋や遊びの内容であると察した彼女が、「ふうん?」と言った。

「別に、そういったことではないから安心して。私がここに座りたいなと思ったから、座っているだけよ。あなたを困らせるつもりはないわ」

 彼は「そうか」と答えた。
 女は「そうよ」と言った。

 しばらく、お互い黙って過ごした。柳生は横になったまま、日差しを遮るように本を開いて読んでいたのだが、彼女に背を向けるように身体の姿勢だけは変えていた。片腕に頭を置き、もう一方の手で器用に本を持ってページをめくる。

「あなたって、いつも必ずどこかで読書をしているの?」
「気分にもよるな。本を借りた時は面倒だから図書室。普段は持ち歩いているから、休憩がてら横になって読むこともある」
「今がそうなのね」

 ようやく少し謎が解けたというように、女が相槌を打った。

「今がそうなんだ」

 解かったならとっとと何処かへ行けという思いを込めて、彼は語尾をやや強くしてそう答えた。春先の柔らかい風が吹いて、二人の頭上にある桜の青葉が葉音を立てる。
 鳥の囀りと、構内のどこかでまた凝りもせず男子学生が大笑いする声が聞こえてきていた。講堂に向かう教授の革靴の、あのやけに耳につくカツカツとした音まで遠くから響いてくる。

 耳元で、カサリ、と芝生が踏まれる音がした。勝手に腰を降ろしていた女が、こちらに身体を向けたようだと、その長い髪が視界の端に映り込んで分かった。

「あなた、難しい本を読むのね」
「だったらなんだというんだ」
「素晴らしい本は他にもたくさんあるのではないかしらと、そう思っただけよ」
「そんなことは知っている」

 柳生は嫌悪感を滲ませて答えたのだが、彼女は気にする様子もなく、いくつかの古い海外文学の名作を上げた。彼はどれも読んだことがあったので、「それくらいは知っている」と答えた。

 恋と嫉妬と、憎しみと戦争のリアルな時代背景が濃厚なその名作文学達は、全巻を読むまでに相当の時間を要するものもあった。学生でも読破している人間は珍しい。
 だから、ふと、その膨大な時間を読書に費やした女が気になった。柳生は、視界の端に映る髪にチラリと目を向けた。

「本が好きなのか」

 尋ねると、女がコクリと頷き返したのか、視界の端に映る髪先が揺れた。

「しかし俺が紹介出来るのは、難しいやつばかりだから他をあたれ。――生憎、俺は面白い話が出来る男ではないし、する気もない」
「そうなんじゃないかとは思っていたわ」

 彼女の、諦め笑顔のような声が耳に降り注いだ。けれど彼女は立ち上がる素振りを見せず、「でもね、そうじゃないのよ」とこう続けた。

「紹介したい本があるの。だから少し、私の話を聞いてくれる?」

 いつも女達は、どんな本がおすすめなの、と適当に問いかけてくるだけだったから、それは彼にとっては珍しいパターンでもあり――柳生は、そこでようやく本から顔を上げた。

 目を向けてみると、美しいとも可愛いとも褒められない、ややそばかすの浮いた女学生の顔がそこにはあった。
 質素な顔は、けれどどこか目を引く整った目鼻立ちをしてもいて、やや癖の入った髪は、木漏れ日を浴びて上質な栗色に輝いているようにも見えた。

 視線がぶつかると、女が猫のような大きな目を困ったように細めて「ようやくこっちを見てくれたわね」と言って笑った。清楚な白いワンピースが何故だか眩しく感じられて、柳生は知らず目を細めた。きっと、怪訝な顔をしたように見えたに違いない。
 女は、他の女学生のようにピアスもイヤリングもせず、珍しく化粧っけもなかった。胸も貧相で身体も細く、まるで色香というものは感じられなかったが、厚みのない唇と小さな鼻には、不思議と背伸びを始めた少女のような甘い気配もあった。


 それが、柳生と妻――アキコとの出会いだった。一年後に二人は本格的に交際を始め、彼女が里帰りする他は、大抵彼のアパートでの二人暮らしが続いた。

 彼女と出会った翌年に、柳生は三百枚を超える長編作品『砂漠の花』を書き上げた。それは大学四年生の冬で、泊まりに来ていた彼女の視線を時折背中に感じながら、深夜に黙々と原稿用紙に向かって最後の章を書いたのだ。


 これまでの長い人生の間、彼はどうにか人間を知ろうと努めたが、あまり上手くはいかなかった。穏やかな時間を持てたのは、本当に数えられるほどの月日ばかりで、日に日に遠くなる穏やかな時間は遥か過去においやられて、自分が手の先に掴みかけた大切な何かも、いつの間にか見失ってしまったような気がした。

 愛とはなんだっただろう。
 痛みばかりの青春時代に、自分も熱く込み上げる何かを持っていたのか、分からなくなった。 

 気づけば柳生は歳を取り、人生も折り返し地点を超えていた。離婚した方がやっぱり幸せになれたわと言わんばかりに、時折届く妻や娘からの手紙には顔を顰めたが、一字一句きちんと目を通した。今はほとんど用のなくなった書斎の、二番目の引き出しが専用の置き場所になっていた。

 痛々しいほどの青春と恋をテーマに、人生を深く切り取った物語を書いて欲しい、と今でも頼まれることがある。けれど一体、その熱意はどこへ消えってしまったのだろう。書こうという気は、まるで起きないでいる。

 きっと俺には、もとより才能も、そういう運命でもなかったのではないだろうか。彼は決して優しくないストレートな評論や随筆を書く方に、もとより才があったのではないか、とじっと心の底で考え悩み続けていた。
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