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(3)打ち合わせとケーキと、ラーメン屋

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 次回の雑誌に掲載する特集ページの打ち合わせは、例の漫画喫茶から徒歩二十分の距離にある、カフェの表側のテラス席で行われた。

 外席であるため、どうしても車道からの騒音は防ぎようがなかったものの、店内すべてが禁煙となっていたため、煙草を愛用している柳生にはその方が耐えられなかったのだ。
 柳生もその店の珈琲の味は気に入っていたし、対する岡村の目当ては、店内のショーケースに並ぶケーキや菓子を口にすることだった。両者の好みと都合が部分的に奇跡的な一致を見せた結果、そこが打ち合わせ場所となったのである。

 難しいことはもっぱら無理だと自分で宣言した編集者、岡村が抱えている特集ページの目玉は、その地域の暮らしや特産品をアピールし、ドライブがてら寄れる食事処を紹介することである。地域性があり、そして何より食欲をそそるテーマが読者にも好評だった。

 話し合いの間中、岡村は何度も席を離れては、ケーキを購入して戻って来た。途中、パーカーの肘袖あたりがベタベタとすることにようやく気づき、手拭きでごしごしと拭っていた。
 一杯目の珈琲を早々に飲み終わった柳生は、サンドイッチと珈琲を追加で注文した。中年男岡村の口に次々と甘ったるいケーキが消えていくのを眺めていると、抗いようもなく自分の食欲を見失った。そのたびにサンドイッチを皿に戻し、煙草と珈琲を口にしては、己の平常な気分を取り戻すことに苦戦を強いられた。

 陽がほとんど暮れかけた午後の七時頃、テーマと取材の日程がおおよそまとまって、ようやく話が一段落した。テーマと経費についての許可は降りていたものの、大雑把な岡村が全く考えていなかったせいで、こんなにも時間がかかったのだ。

 そろそろ切り上げようかと席を立った時、すかさず店内から可愛らしい女性店員がやってきて、「片付けは私がやりますので、大丈夫ですよ」とにこやかに告げた。どの席もすっかり客で埋まり、レジの前には人の列が出来ていた。

「じゃあ、僕は一度会社に戻りますね。先生、帰りは大丈夫ですか?」
「家が近いからな、問題ない。動きたくなければタクシーでも使うさ」
「タクシーでも千円もいかない距離でしたね。あ、タクシーを使う場合は、ちゃんと領収書をもらってくださいよ」

 岡村がそう言い残して、柳生は店の前で彼と別れた。


 まだ熱帯夜になる季節でもないせいか、生温い空気の中には、まだどこか涼しげな夜風も混じっていた。裏通りへ抜けると道沿いには小さな店が並んでいて、その灯りが暗くなった道を照らし出していた。

 
 レンタルビデオ店、煙草屋、アニメ専門店、雑貨屋、小さなアパレル店。それ以外には居酒屋やスナックが大半を占め、ひっそりと経営しているそれらの看板が通りに並び、暖かくも賑やかな光りが道の先まで続いている光景を目に留める。

 裏通りは細い車道しかなかったが、時折、通り抜けて行く車や原付自動車が見られた。単身や複数で歩く人の姿が、なんとなしに柳生の目を引きつけた。

 年相応の社会人カップル、いかにも会社の付き合いで飲み歩いているらしい三人のサラリーマン。近くのアパートから出て来て、表通りのコンビニにでも行こうとしているような軽装姿の娘。買い物袋を提げ、岐路を急ぐように歩く人影……

 昔よく馴染んでいた、下町の賑やかさが柳生の脳裏にチラリと蘇った。裏通りだけでなく、表通りのあちらこちらにある料理店の匂いが、鼻をくすぐり始めた。

 通行人が連れを伴っている様子も多い中で、自分が一人きりで歩いているという寂しさは感じなかった。見覚えのあるような暖簾や提灯、古いピンク色の看板灯が目に馴染んで懐かしさを覚える。
 柳生は、店並びの続く細い道をのんびりと歩き進んだ。看板の多い一帯を抜けたところで、何やら一際美味そうな匂いが彼の鼻をついて、そちらへと目を向けた。

 静まり返った薄暗い建物の間に、こじんまりとした一軒のラーメン店があった。古びた両隣りの店はシャッターが降りてしまっている中、その店はひっそりと光りを灯していた。

 ふと、自分が夕刻前にサンドイッチを食べたきり、『誰かさん』のおかげですっかり食欲を失ってしまっていたことを思い出した。目立たないラーメン屋の看板と、そこからもれる豆電球のような懐かしい色合いの光りに誘われて、つい足を向けていた。
 近づいてみると、古い二階立ての鉄筋コンクリートは、思った以上にこじんまりとしていて、開きっぱなしの扉上部にある暖簾も、すっかり色褪せて擦り切れていた。そこにある店の名前も、うまく読み取れないほどだった。

 開かれた入口から店内に足を踏み入れてみると、餃子が焼けた匂いと、ラーメン屋独特のスープの湯気の香りが食欲をそそった。とはいえ、初めての店ではあるので、見知らぬ家にお邪魔する心地ではあったが。

 店内は、外観の予想を裏切らず狭かった。小さなカウンター席には丸い固定椅子が並んでおり、他は狭い廊下を挟んで四つのテーブルが置かれたの畳み間の席があるばかりだ。畳みはやけに色が濃く、テーブルは浅黒く焦げた大きめのちゃぶ台を思わせた。

 カウンターの内側には、浅黒い肌をした六十代手前ほどの店主らしき男が一人いた。その隣には、狭いキッチン内で玉の汗を時折拭いながら、大鍋を洗う若い男の姿がある。
 そんなカウンターの客側の席には、柄もない質素なシャツに、これまた特徴のないズボン姿の青年が一人いた。店内にいる客は彼一人だけで、彼の前には空になったラーメンの器と食べかけの餃子の皿、氷水の入ったコップが置かれていた。

 店内の様子をざっと見たところで、頭に白いタオルを巻いた店主らしき六十代ほどの男が、「いらっしゃい」と愛想良く声をかけてきた。

 柳生は、勝手知ったる場所ではないこともあって、つい眉を寄せて「おすすめのメニューはなんだろうか」と愛想のない声で尋ねてしまった。昔から不機嫌な男だと誤解されてしまうので、改善すべきだとは分かっていたが、こればかりは癖みたいなものなのでどうしようもなかった。

 キッチン側で大鍋を洗っていた若い男が、手をとめてチラリと柳生を見た。カウンター席についていた青年も、餃子を一つ口に頬張りつつきょとんとした顔を向ける。
 店主が、数秒ほど考えてこう答えた。

「う~ん、そうだねぇ。ネギ塩ラーメンか、餃子セットで600円のしょうゆラーメンがウチでは人気かな」
「ならば、セットの方を頂こう」

 店主は皺の目立つ細い顔をほころばせると、細い目にもいっぱいの笑みを浮かべて「まいど」と言った。柳生が畳み席の奥に腰かけてすぐ、大鍋を洗っていたアルバイトらしき青年が、水の入ったコップをテーブルへと持って来た。彼の頭に巻かれた黒いタオルは、汗ですっかり濡れていた。 

 店内にはラジオが流れており、投稿者からの便りを読みながら番組が進行していた。低い天井に備え付けられたスピーカーから、男の割れた笑い声が楽しげに響いている。それに答える女の声も、音質が悪いラジオ独特のいい味を出していて、店内の雰囲気をよりいっそう古風に仕上げている気がした。

 上等ではない畳み、使い古された店内。黄ばんだ壁板と天井、傷が多くついた低いテーブル。店内に流れているそういった空気は、現代の忙しさを柳生の中から拭い取ってくれて、おかげで楽な姿勢でゆったりと食事を待つことが出来た。

 店主とアルバイト、そして、カウンター席に座る客の青年は、どうやらお互いに知っている仲のようだ。狭いキッチンで手を動かしながら、まずは店主が親しげにカウンター席へ「水崎(みずざき)、頑張ってるか?」と声を掛けた。

「まぁどうにか卒業は出来そうだけど、大学院の枠は狭いから、どうなるかは分からないなぁ」
「でも良かったじゃないすか、水崎先輩。俺なんて進学も危ういから、ヘタしたらほんとに、このままラーメン屋に就職しなくちゃならないかもしれないんですよ」
「それは確かに、笑えない話だなぁ」

 水崎と呼ばれた青年がそう相槌を打って、明後日の方向へと目を向けつつ餃子を口に押し込んだ。

 店主が喉の奥で笑って、ニヤリとした。

「そうなったとしたら、かなり笑える話だが、まあ俺には助かる話でもあるわな」
「え~ッ、時給は安いし、お客さんで可愛い子とか滅多に来ないし、退屈過ぎて掃除の達人になっちゃいそうだし、昼と夜でアルバイトは一人ずつしかいないし、大変だから嫌っすよ」

 キッチンの中にいる若い男――アルバイト君が、大鍋を移動しながら唇を尖らせた。すると、ずっと手元を見ていた店主が、顔を上げて反論する。

「あのな、日中入っている幸太郎(こうたろう)は、アルバイトじゃなくて俺の孫だっての。実質、アルバイトはお前一人だぞ」
「しっかりタイムカードまで押して、残業代まで請求するのに?」

 あいつ結構ちゃっかりしてるよ高校生の癖に、と、アルバイト君は悩ましげに言った。
 どうやら二人で切り盛り出来るくらいは、だいたいの時間が落ち着いているらしい。柳生は彼らの話に耳を傾け、そんな想像を巡らせて時間を過ごした。

 しばらくもしないうちに、アルバイト君が食事のセットを運んで来て「お待たせしました」と爽やかな笑顔で言い、柳生の前に料理を並べた。

「白米はサービスでつけられますけど、どうしますか?」
「いや大丈夫だ、ありがとう」
「追加注文も出来るので、何かあればすぐに呼んでくださいね」

 そう告げてニッと笑った顔は、身体は立派な青年であるのに対して、どこか幼さを感じさせた。まだまだあどけないスポーツ少年を彷彿とさせる。

 柳生はラーメンの器を引き寄せ、壁に多く無造作に張られているメニュー名をチラリと見やった。手書きのそれは写真もイラストもないが、値段はかなり安いとは分かった。
 テーブルに出されたラーメンは、昔から使用されているような、ありきたりな器に盛り付けられていた。しかし、一口食べてみてその美味さには驚かされた。

 麺に絡むスープはまろやかで、醤油の香りが一気に口から鼻まで抜けるのだ。舌に溶けてゆくような出汁(だし)も格別だった。まだ湯気の絶えない餃子は、外がカリカリに仕上がっており、口に入れると肉汁が唇を濡らすほどジューシーでもある。

 柳生が食事を進めている間も、店主とアルバイト君は、簡単な仕込みと片付けを行いながら水崎という青年と親しげに話していた。聞こえてくる話の内容から、水崎とアルバイト君が同じ大学の先輩後輩であるらしいと分かった。二人の青年は、数か月前まではこのラーメン屋で一緒に働いていたようだ。

 それにしても、と柳生はカウンターに腰かける水崎という青年を盗み見た。

 楽しげに語る横顔は穏やかで、困ったように笑う仕草も柔らかくて、まるで家族や友人から愛されて育った青年のようにも感じて、どうしてか気になった。

「ふむふむ、それで?」

 食材の仕込みに一区切りついたらしい店主が、手を止めて水崎を見やった。

「大学の方は順調そうか?」
「店長、話聞いてました? それ、さっきも尋ねてたじゃないっすか」

 横から口を挟んだアルバイト君の指摘は正しかったが、残念なことに二人の間ではなかったことにされていた。店主と水崎は、何事もなかったかのように続ける。

「なんとかギリギリ単位は取得出来ているし、問題はないと思う」
「ほとほと呆れた奴だなあ。お前の問題は学位じゃなくて、出席日数だろうに」
「なんで出席日数が足りなくなったのか、僕にも本当に不思議でたまらないんですよね」
「先輩、それってきっと、時間の経過をすっかり忘れるところと、のんびりすぎる大きな器のせいですって」

 先輩は偉大だよなあ、とアルバイト君は心配事を思い出すような顔で言った。店主が深々と息をついて、ゆっくりと頭を横に振る。

「俺たちの時代は、そうじゃなかったんだがなぁ。趣味や遊びは勉強の二の次だったってのに、今の若いもんときたら――」

 店主は、勉強よりも趣味に時間を割く若者が多いことを口にした。柳生の若い頃もそうであったので、時代が変わったことを改めて思い、ラーメンをすすりながら「確かになぁ」と心の中で呟いてしまった。

 柳生の娘も、勉強に関しては軒並みで、校則も注意されない程度で守っていた。心は勉学から遠いところに置いてあり、たくさんの友人達や頼れる先生と会うために通っていたようなものだ。

 物想いに耽りながらも箸は進み、スープまで美味しく頂けた。ラーメンと餃子に大満足して腹もすっかり満ちたところで、すぐには動けない満腹感に浸りながら、柳生はなんとなく水崎という若者の方を盗み見た。

 水崎は、先程まで大学に通う現代の若者達について語っていた店主に向かって、好きな本を紹介し合う大学主催のイベントについて、活き活きと話し始めていた。今回は大学の内外部の両方から、かなりの人数が参加を決めているのだと、身振り手振り喜ばしそうに教える。

「……熱く語るのはいいが、お前、勉強は本当に大丈夫なのか?」

 店主が心配そうに言い、「本を読む時間の少しくらい、勉強に使った方がいいんじゃないか?」と言葉を続けた。

 すると水崎青年は、またしても目元を和らげてにっこりと笑った。心から幸福そうに笑う男だと、柳生は不思議に思った。幼くも見える彼の瞳は、微笑むと更に柔らかさを帯びて、歳を追うごとに男達が抱える独特の剣を微塵たりとも感じさせないでいた。
 それを見たアルバイト君が、顔を引き攣らせて水崎に声を掛けた。

「…………先輩、店長の話、ちゃんと聞いてました?」
「うん。今回の企画には、塙(はなわ)古書店と地元の作家さんの協力もあるから、とても充実した濃いイベントになると思うんだ。僕は、当日が待ち遠しくて仕方がないよ」

 水崎は、優しい深みのある声を響かせて、実に楽しげに語った。彼の瞳はきらきらと輝き、どこまでも純粋な子供心を思わせた。つまり、彼が噛み合わない会話に一つの疑問も覚えていないということも、誰の目にも明らかだった。

 店主が黙ったまま作業に戻り、手元を動かし始めた。どうやら喋るのは自分の役目のようだと、上司と先輩に挟まれた中でそう感じ取ったらしいアルバイト君が、「えっと」と少し目を泳がせつつ話を繋ぐ。

「そういえば先輩って、そのイベントを毎年楽しみにしていましたもんね。本を選ぶのに、いつも苦労してましたっけ。今回は、もう推薦する本は決まったんですか?」
「すっかり決まっているよ」

 水崎が古風な感じで答えた。隣の椅子の上に置いていたリュックサックを引き寄せると、中に手を入れて一冊の本を取り出した。彼はそれを、大事そうにカウンターの上に置きながらこう言った。

「君には以前にも紹介したとは思うけど、僕にとっては、やっぱり『砂漠の花』が一番なんだ」

 是非聞いてくれと言わんばかりに水崎が身を乗り出したタイミングで、柳生は話を聞くのをやめて席を立った。先輩につき合わせされることになったアルバイト君をそのままに、店主がレジへと移動する。

「美味しかったかい、お客さん?」

 煩くしてすまなかったね、と言って店主は申し訳なさそうに笑った。柳生は、自分が怒っていないと伝えるために、首を横に振って見せた。

「賑やかでいいと思う」
「それは有難いね。うちは元々そんなに客足がある場所でもないから、あまりアットホームな感じの空気を作っちまうと、ふらりと立ち寄った新規のお客さんが、いい顔をしないんだよ」

 味も良かった、また来るよと柳生が言うと、店主はまいどありがとうと答えて、気さくな笑顔と共にやや頭を下げた。
 水崎は後輩のアルバイト君に夢中になって話していて、柳生はカウンターに置かれた本や、青年達の間を行き来する作品名を耳にしないよう店を出た。

 何故ならあの青年が好きだと断言し、語り続けている『砂漠の花』は、受賞した柳生の作家としてのデビュー作だったからだった。
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