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(1)作家の「先生」と呼ばれている彼について
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自動扉から外へと足を踏み出した途端、軽い立ち眩みを覚えた。
初夏に入ったばかりだというのに、まるで真夏のような気だるい空気が一気に全身をとりまいた。耳鳴りと共に頭の中がぐらぐらと揺れて、気が抜けた一瞬ばかり時間の感覚が歪む。
建物内からこぼれ出た冷房機の涼しさと、外界の暑苦しい生温さの混じり合う空気を肺に取り込みながら、彼は立ち眩みがおさまるのをしばし佇んで待つしかなかった。
毎年この時期はそうであるのだが、外に出た瞬間に覚える鬱屈とした感覚がなんであるのかを考えて、彼は白髪の混じり始めた眉を顰めた。
五十歳という年齢のせいだろうか。しかし、同年代の誰もが自分と同じように悩まされているのかと想像すると、違っているようにも思えて、やはり毎度ながら納得できないでもいる。
幼い頃は、大人になれば輝かしく素晴らしい夢余るほどの、自由の日々が待っていると思っていた。
大人になった時は、急かされるような時間の流れに対する日々の憤りも、毒をまとって自分自身さえ傷つける愚痴の数々も、十年後にはきっと穏やかな心のままに、幸福を噛みしめる日が来るのだろうと思っていた。
大人になってから長い年月を過ごし、それが叶わぬと知った時、ならば働き盛りを辛抱強く耐え忍べば、平穏がこの胸を満たすだろうと推測して期待した。
しかし、残念ながらその的はすべて外れた。
年々刻まれ続けた眉間の深い皺は、もうどんな苦労を払っても拭い取ることはできない。人生に対する彼の性質を象徴するかのような、その堅苦しく険しい仏頂面に無理を強いてニッコリ微笑ませてしまうと、そこにはホラーという気迫が嫌でもついてくるだろう。
しばらく建物の正面玄関の影に佇んでいると、外からやってきた付き合いの長い女編集長が、気さくなに手を上げて歩み寄って来た。
どうやら、彼女は今が戻りだったらしい。四十も半ばを過ぎており、けれど昔と変わらず女だとか男だとかに拘(こだわ)らない中立的な性格をしていて、人付き合いの苦手な彼の緊張を和らげてくれる相手だった。
「先生、頑張ってます? ねぇ今度ウチで、作家としてデビューしてからの自伝でも出してみない?」
彼女はガラス扉の前で立ち止まり、そう言った。悪戯心が宿った、相変わらずぎらぎらとした若々しい眼をしている。
彼はわざとらしく残念がって、首を横に振って見せた。
「そういったものは得意分野外だな。そんなものは、今注目を集めている売れっ子の方が断然適任だし、ああ、そうだ、ナナキ君がいるじゃないか」
「ちぇッ、そう言うと思った」
まるで少年のように、彼女は指をパチンと鳴らして露骨に悔しがる。
「知ってるでしょ。ナナキ先生は、向こうの出版社がほぼ独占していて、こっちまで回ってくる原稿って滅多にないんだから」
「仕方ないだろう。向こうが彼の才能を一番に見つけたんだ。予備選考で落としてなきゃ、今頃『孤高と鼠と男』はこっちで出版できていたかもしれないな」
「ああもう! それを言わないでよねッ。だって難しい話だったし、ウチだといまいちインパクトに欠けると思ったのよ」
唇を尖らせて抗議した彼女は、けれど認めるようにこう続けた。
「ほんと、もったいないことしたわよねぇ……」
W出版社のとある文学雑誌を任されている女編集長、曽野部(そのべ)真理(まり)は、落胆混じりに浅い息を一つ吐いた。
「私も、まだまだ頑張らないとダメね。――ま、書きたくなったらいつでも言ってよ、先生」
彼女は歩き出しながら、肩越しに彼を見やって寂しそうに笑った。
「できれば、どこよりも一番に声をかけてくれると嬉しいな」
申し訳なさそうに口にして、彼女は困ったようにはにかんだ。彼の方も、どうしていいのか分からず、不器用で感情豊かには動いてはくれない己の表情を気にして、なんだか不味いものをつまんでしまったような顔をした。
彼女が建物の中に入っていったのを見届け、彼は少し歩いた場所で立ち止まって、出版社のオフィスビルを見上げた。
昔から長い付き合いがあり、初めて賞の選考委員をやった頃から現在に至るまで、もうすっかり身に馴染んだ場所でもあった。彼にとって様々な思考を必要としない、肌に合った古い友人のような暖かさに満ち溢れた出版社だ。
最後にきちんとした小説を書いたのは、どのくらい前のことだったろうか。
各文学雑誌も、連載物が完結を迎えてからは、一つも手をつけていなかった。書きませんか、と誘われることの大切さはよく知っていたが、選考時期に多忙を極める彼が申し訳なさと疲労を苦笑に滲ませると、大抵の出版社は事情を勝手に想像して「すみません」と謝った。
彼はしばらく、傾いた午後の陽を遮る出版社の建物を眺めた。背景を塗り潰す青は、溶かした水性の塗料を吹き掛けられたように広がっている。黄昏へと近づく日差しは侘しく、建物の風化した色合いが、やけに印象的に浮かび上がって見えた。
彼にとってこの出版社は、他にも付き合いがある余所(よそ)の出版社と違い、現在もその社にいるメンバーのほぼ全員と一緒になって、一昔前がむしゃらに夢を追い、共に走り続けた人間だということだろうか。まるで学友か冒険仲間のように、馬鹿みたいに笑い合った時代を共有していた。
あの頃の熱い感情のすべてが、幻のように脳裏を通り過ぎていって、彼は途端に自分の想像力に嫌気がさした。
過去なんてものは、ひどく現実味がない。無意識のうちに曖昧な過去の記録が、鮮明で都合のいいフィクションで彩られる前に、彼はいつも自分を現在に呼び戻さなければならなかった。
初夏に入ったばかりだというのに、まるで真夏のような気だるい空気が一気に全身をとりまいた。耳鳴りと共に頭の中がぐらぐらと揺れて、気が抜けた一瞬ばかり時間の感覚が歪む。
建物内からこぼれ出た冷房機の涼しさと、外界の暑苦しい生温さの混じり合う空気を肺に取り込みながら、彼は立ち眩みがおさまるのをしばし佇んで待つしかなかった。
毎年この時期はそうであるのだが、外に出た瞬間に覚える鬱屈とした感覚がなんであるのかを考えて、彼は白髪の混じり始めた眉を顰めた。
五十歳という年齢のせいだろうか。しかし、同年代の誰もが自分と同じように悩まされているのかと想像すると、違っているようにも思えて、やはり毎度ながら納得できないでもいる。
幼い頃は、大人になれば輝かしく素晴らしい夢余るほどの、自由の日々が待っていると思っていた。
大人になった時は、急かされるような時間の流れに対する日々の憤りも、毒をまとって自分自身さえ傷つける愚痴の数々も、十年後にはきっと穏やかな心のままに、幸福を噛みしめる日が来るのだろうと思っていた。
大人になってから長い年月を過ごし、それが叶わぬと知った時、ならば働き盛りを辛抱強く耐え忍べば、平穏がこの胸を満たすだろうと推測して期待した。
しかし、残念ながらその的はすべて外れた。
年々刻まれ続けた眉間の深い皺は、もうどんな苦労を払っても拭い取ることはできない。人生に対する彼の性質を象徴するかのような、その堅苦しく険しい仏頂面に無理を強いてニッコリ微笑ませてしまうと、そこにはホラーという気迫が嫌でもついてくるだろう。
しばらく建物の正面玄関の影に佇んでいると、外からやってきた付き合いの長い女編集長が、気さくなに手を上げて歩み寄って来た。
どうやら、彼女は今が戻りだったらしい。四十も半ばを過ぎており、けれど昔と変わらず女だとか男だとかに拘(こだわ)らない中立的な性格をしていて、人付き合いの苦手な彼の緊張を和らげてくれる相手だった。
「先生、頑張ってます? ねぇ今度ウチで、作家としてデビューしてからの自伝でも出してみない?」
彼女はガラス扉の前で立ち止まり、そう言った。悪戯心が宿った、相変わらずぎらぎらとした若々しい眼をしている。
彼はわざとらしく残念がって、首を横に振って見せた。
「そういったものは得意分野外だな。そんなものは、今注目を集めている売れっ子の方が断然適任だし、ああ、そうだ、ナナキ君がいるじゃないか」
「ちぇッ、そう言うと思った」
まるで少年のように、彼女は指をパチンと鳴らして露骨に悔しがる。
「知ってるでしょ。ナナキ先生は、向こうの出版社がほぼ独占していて、こっちまで回ってくる原稿って滅多にないんだから」
「仕方ないだろう。向こうが彼の才能を一番に見つけたんだ。予備選考で落としてなきゃ、今頃『孤高と鼠と男』はこっちで出版できていたかもしれないな」
「ああもう! それを言わないでよねッ。だって難しい話だったし、ウチだといまいちインパクトに欠けると思ったのよ」
唇を尖らせて抗議した彼女は、けれど認めるようにこう続けた。
「ほんと、もったいないことしたわよねぇ……」
W出版社のとある文学雑誌を任されている女編集長、曽野部(そのべ)真理(まり)は、落胆混じりに浅い息を一つ吐いた。
「私も、まだまだ頑張らないとダメね。――ま、書きたくなったらいつでも言ってよ、先生」
彼女は歩き出しながら、肩越しに彼を見やって寂しそうに笑った。
「できれば、どこよりも一番に声をかけてくれると嬉しいな」
申し訳なさそうに口にして、彼女は困ったようにはにかんだ。彼の方も、どうしていいのか分からず、不器用で感情豊かには動いてはくれない己の表情を気にして、なんだか不味いものをつまんでしまったような顔をした。
彼女が建物の中に入っていったのを見届け、彼は少し歩いた場所で立ち止まって、出版社のオフィスビルを見上げた。
昔から長い付き合いがあり、初めて賞の選考委員をやった頃から現在に至るまで、もうすっかり身に馴染んだ場所でもあった。彼にとって様々な思考を必要としない、肌に合った古い友人のような暖かさに満ち溢れた出版社だ。
最後にきちんとした小説を書いたのは、どのくらい前のことだったろうか。
各文学雑誌も、連載物が完結を迎えてからは、一つも手をつけていなかった。書きませんか、と誘われることの大切さはよく知っていたが、選考時期に多忙を極める彼が申し訳なさと疲労を苦笑に滲ませると、大抵の出版社は事情を勝手に想像して「すみません」と謝った。
彼はしばらく、傾いた午後の陽を遮る出版社の建物を眺めた。背景を塗り潰す青は、溶かした水性の塗料を吹き掛けられたように広がっている。黄昏へと近づく日差しは侘しく、建物の風化した色合いが、やけに印象的に浮かび上がって見えた。
彼にとってこの出版社は、他にも付き合いがある余所(よそ)の出版社と違い、現在もその社にいるメンバーのほぼ全員と一緒になって、一昔前がむしゃらに夢を追い、共に走り続けた人間だということだろうか。まるで学友か冒険仲間のように、馬鹿みたいに笑い合った時代を共有していた。
あの頃の熱い感情のすべてが、幻のように脳裏を通り過ぎていって、彼は途端に自分の想像力に嫌気がさした。
過去なんてものは、ひどく現実味がない。無意識のうちに曖昧な過去の記録が、鮮明で都合のいいフィクションで彩られる前に、彼はいつも自分を現在に呼び戻さなければならなかった。
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