好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

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 それから数日間、少し雲の多い晴れ間が続いた。

 ピタリと恵が登校してこなくなり、彼方は職員室にいた教師から鍵を受け取り、久し振りに自分で美術室を開ける日々が続いた。

 窓も空いていない湿った室内は、伽藍として閑散している印象があった。そこに広がる静寂が好きだったはずなのに、冷房機のスイッチを入れるとそのまま窓も開けていた。ちょっとした換気のためだと自分に言い聞かせていたものの、一日を通して完全に閉め切る事はなかった。

 いつものように絵を描いていても、不意に手が止まったりした。そのたび六個の机が長方形に並んだそこをチラリと見て、写真が一枚もない様子をしばらく眺めた。

 そこにあるのは、彼女が最後に来た数日前の月曜日、写真集へ載せる候補案からようやく外した写真達を詰めた箱だった。いつも腰かけていた椅子には、雨が降った時に備えてトレパンの上下が置いてある。

 写真集の件で、出版社にでも行っているのだろうか。それとも、普段顔を出す教師達もいないから、とうとう仮の部室でも見つかってそこに入り浸っているのか……?

 でも興味もない事だと、彼方は一日目も二日目も、それを頭から追い出したはずだった。

 だが一人の日々が続いて三日目、突然集中力が切れたように立ち上がった。

 そのまま美術室を出て、気付いたら職員室へと向かっていた。遠慮もせず戸を開けたら、強い冷房の空気が顔に当たって、そこにいた数人の教師達がこちらを見て目を丸くした。

「え? 宇津見(うつみ)さん?」

 すっかり顔を覚えていた秋山が出てきて、質問を受けるなりきょとんとした。彼方の顧問で、担任でもある小野がいない事を確認すると、少し困ったように頬をかいて見下ろす。

「宇津見恵さんは、数日間はお休みだよ。候補はあるんだけど、仮の部室の件はまだだね」

 何か用でもあったのかい、と問われて今度は彼方が困ってしまった。

 話を聞きに行くなんてらしくもない。そう思いながら職員室を後にして、美術室に戻った。でもその日も、ふとした拍子に、彼女がいたはずの場所に目を向けたりした。
 
             ※※※
 
 その翌日の午前中、彼方は開けた窓に寄りかかって運動場の方を眺めていた。集中力も気力もなくて、描き途中のスケッチブックを立て掛けたままぼんやりとしていた。

 二人の顧問教師が訪ねてきて、恵がいないというのに少し椅子に座ってゆっくりしていった。振られる話に適当に相槌を打っていたものの、いつになく自分から話しているような気がして口を閉じた。心配そうにしていた彼らが、少しだけ嬉しそうな顔をしたのがムッとした。

 恵はお喋りだ。彼女があんなに話すから、こちらも少なからず話し癖がついてしまったのだろう。これから絵を描くんで帰ってください、と教師達に出ていくよう促した。

 一人になったところで、スケッチブックを手に取って窓の手前に椅子を置いた。時々強い日差しが隠れる空をしばらく眺めた後、何も考えないままそこから見える風景を描いた。

 外からは、生徒達の声や物音が聞こえてきていた。

 ふと、向こうに見える運動場で、例の野球部員の『哲朗』の姿が目に留まった。

 頑張っているんだな、と中学生にしては小さな彼を見てそう思った。ふと、それを自覚してスケッチブックを落としそうになった。誰を気に掛けるような性分ではないし、もしこんなところを見られたら恵に「にしししし」と笑われるに決まって――。

 そう思った彼方は、そうやって誰かの目を気にしている自分に唖然とした。彼女が雨対策でトレパンを置いていったのも意味がなかったなとも思って、ますます自分が分からなくなる。

「…………先週は雨が多かったから、風邪でも引きかけているのかもしれないな」

 彼方は、適当にそんな事を呟いて自分を落ちつけた。
 独り言を口にしたのは、これが初めてだった。

             ※※※

 夏休みの終わりまであと三日。

 恵は、昼過ぎに美術室へやって来た。戸を開く音がして振り返った彼方は、数日前にも会っていたはずなのに、ひどく長い間彼女を見ていなかったような印象を受けた。

「おっはよう! 掲載する写真が決まって、話し合ってきたの! 来月くらいには出来上がるんだって!」

 彼女は手に大きな袋を持っていて、いつものように陽気な声を上げて歩み寄ってきた。

「出版社まで足を運んだんだけど、これがなかなかの長旅だったのよ。まぁ両親と色々と観光も出来たし、プチ旅行って感じで楽しかったけどね!」

 一方的に楽しそうに話した彼女が、「はいお土産」と言って、袋を差し出してきた。

「食べ物だけど、味のチョイスは悪くないと思うの!」
「ふうん。数日間の旅行なんかして、宿題のほうは大丈夫なのかい」

 どうしてかその笑顔から目がそらせないまま、思わず馴染んだ癖のように嫌味を交えた。けれど彼女は、にししししっ、と相変わらず満面の笑みだった。

「私はもう終わっているから大丈夫! あなたの方こそ、どうなの? お土産を食べる暇はあるの、ないの?」
「十分にある」

 甘い物は嫌いじゃない。彼方は真面目な顔で答えると、その土産袋を受け取った。
 それは想像していたよりもずっしりと重かった。つい、顔を顰めてしまう。

「一体何を買って来たんだ? 軽々と片手に持っていた君が信じられない」
「色々と買ったの。あ、私が食べる分も入れていたんだった」

 今になって思い出した様子で、彼女がパッと表情を明るくした。まるでここに来るまでは別の事をずっと考えていて、気が回らなかったみたいな様子だった。

「あなた、お昼ごはんはまだでしょう? なら、一旦お菓子タイムにしようよ!」
「別に構わないけれど、食べる時に写真を撮るのはやめてくれ」
「それは聞けないお願いですなぁ」

 彼女は妙な口調でそう言って、悪戯をする前の子供のように歯を見せて笑った。

 常にカメラを持ち歩いている恵は、初めの頃は絵を描く姿と、窓の外の生徒達を撮っていた。しかし、最近は彼方が何気なく振り返った時や、休憩中も唐突にシャッターを切る事があった。

 そのたび彼方は「僕を撮っても得はないぞ」と言ったが、恵は「自然体が一番なの」と答えて、自慢するようにカメラの中に収められている写真を見せてきた。そこには廊下ですれ違った生徒の驚いた顔や、休憩中じゃれあう生徒達の写真もあった。
 その際、彼方は三枚中一枚に自分が写っている事実を知った。思わず眉を顰めて「おいコラ」と睨みつけてやったら、彼女はすかさずこう言っていた。

『だって、データがいっぱいになったら、古い方からパソコンに入れて保存していくのよ? 最近毎日のように撮っているあなたの写真が多くあるのは、当たり前じゃない』

 いやだから、毎日のように僕を沢山取るなと言っているんだが。

 すっかり効果のない台詞だと分かってから、彼方は言い返すだけ無駄だとも諦めていた。手渡されたはずの袋が再び彼女の手に渡り、彼女専用作業台の上いっぱいに土産の菓子が置かれる様子を眺める。

 彼方は椅子を引っ張り寄せ、どこかの土産品店で見るような菓子を恵と一緒に食べた。黙々と菓子を噛み続ける向かいで、彼女がここ数日間分の話を続けながら、どんどん口に菓子を放り込んでいく。

「それで、ページ数を増やしてもらえる事になったのよ! 近くに泊まって翌日も会って、本の中身を細かく話して決めていって。あ、その人、お父さんの友達なのよ」
「ふうん。というか、上にあった四箱がおやつ分とか多すぎやしないか?」
「打合せしながら、写真のデータを見て一緒に決めていったから、もう追加する写真は決まっているの。――おやつにする分ならコレくらい普通よ。ああ、それでね! 店頭販売するわけじゃないから早く出来るんだって。とりあえず五十冊だよ。あなたにも一冊あげるね」

 とにかく喋り続けた恵が、ようやく水筒に入っていた水で喉を潤した。一息吐くと、小さな饅頭土産を頬張って、指先をペロリと舐める。

「そういえば、向こうはビル熱とかですごく暑かったよ。おかげで私の肌、また一段と黒くなった気がする」
「それは紫外線の熱じゃなくて、空気の熱だろ。特に変わってないよ」

 君はもともと健康肌じゃないか。
 言いながら、彼方は彼女の素肌を見て、自分の白い腕をチラリと見下ろした。恵も同じように視線を動かして、見比べて「そうかな?」と言う。

「まぁあなたが言うくらいだから、余計に焼けていないのは確かなんでしょうね。実は最近ちょっと美を意識しているのよ」

 そこでニヤリと笑って彼方を見た。相変わらず少年みたいな笑い方だ。そんな事を思いながら「興味ないよ」と答えて、新しく口に運んだ菓子をしばらく味わった。

「これ、結構美味い」
「あら、珍しく捻くれていない感想を聞いたわ。というより私の話よりも、お菓子に興味があるみたい」

 茶化すように声を掛けた恵が、わざと呆れた表情を浮かべてみせた。しかし、特に反論も相槌もないまま黙々と同じ甘い菓子を食べ進める様子彼方に、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「……意外だったわ、これは新しい情報ね。彼方君は食べ物にも興味を持っている、と」
「食べる事は大切だと思う」
「え。まぁ、その、確かにもっともらしい言い分だけどさ…………」

 それから恵は、しばらく菓子を食べる事に専念して静かになった。互いの胃が満たされた頃にまた一方的に話し出されて、彼方は「そう」「ふうん」と答えながら、持ってきたペットボトルのお茶を時々口にした。

 その途中で、二人の顧問が顔を覗かせた。彼女が先に職員室に持っていったらしい土産の礼を述べると、職員会議があるとの事ですぐに出ていってしまう。

 それを恵が、かなり残念そうに見送った。

「あああああもうッ、これから色々と土産話をしようと思っていたのに!」
「君、喋るよりも、数日ぶりに写真部の活動でもしてきたらどうだろうか」

 彼方はそう提案した。でも何故だか、もう少しここにいてくれればいいのにと矛盾した事を思ってしまってもいた。

 すると、恵が「そういえば」と言ってこちらに顔を向けてきた。

「私の絵、出来た?」
「ああ、そういえば君は、あの日は早く帰っていたな」

 彼方は、矛盾した気持ちを忘れるように口にすると、視線をそらしてぼんやりと思い返した。先日は用事があると言って、その少し後に彼女は美術室を出ていったのである。

 そう思い出して立ち上がったら、恵が目を輝かせて後をついてきた。

「可憐な花のような可愛さで、ちゃんと描いてくれた?」
「残念ながら、ちゃんとありのまま描いたよ。僕は、絵の中でも嘘はつかない性格なんだ」

 後ろから尋ねてくる彼女に、彼方は抑揚なく答えてスケッチブックを手に取った。
 実を言うと、どうしてあの時、恵を描こうと思ったのか今でも分からないでいる。ただ、自分が知っている彼女を描きたくなったから描いたのだと、スケッチブックをめくりながら数日前を思い返していた。

 多分、気まぐれだったのだろう。そこに深い意味はなくて、可愛く描いてと告げた彼女に、君はそのままで可愛らしいなんて思ったのも、きっと気のせいなんだ。

 彼方は、その個所のページを開いて、スケッチブックを恵に渡した。絵を見た瞬間、彼女の活気に満ちた大きな目が見開いて――一瞬、どこか泣き出しそうに歪んだ。
 そのままじわりと潤んだ瞳が、嬉しそうに細められたのが見えた。

「…………嬉しい。今の私だわ」

 震えそうになった声で、彼女がそう囁いた。

 一瞬だけ強い違和感を覚えた後、彼方は泣きそうになっているのかと感じて戸惑った。咄嗟に「きちんと描けていなかったかな」と少し慌て声を掛けたら、恵が驚いたように振り返った。

「ううん、よく描けてるわよ!」

 そう口にした恵の表情は、彼が知っているいつもの彼女のものだった。

「でも、花のように可愛らしくって言ったのに、これはないんじゃない?」

 言いながら唇を尖らせて、強がるみたいにチラリと可愛らしく睨みつけてくる。彼方は、喉元に小さな刺が刺さったような違和感に包まれたまま、どうにか普段の調子で彼女にこう言い返した。

「そのままの君を描くと言ったじゃないか」
「確かにいつもの私だけど、少年っぽくて大人しくなさそうな女の子に見えるのよ」
「君は大人しくなんてないだろう。人の部室を、勝手に休憩所みたいにする子は他にいない」
「うっ、それを言われたら返す言葉がないわね……」

 絵の中には、二つ結びの髪をした一人の女子生徒が描かれている。今にも「にしししし」と声を上げそうな無邪気な笑みを浮かべた少女が、水彩画に彩られて浮かび上がっていた。

 恵が手に持ったそれを、じっくりと眺めた。まるで目に焼き付けるみたいだった。

「うん、すごく良い絵ね」

 しばらく絵を眺めていた彼女が、ぽつりとそう呟いた。窺うようにチラリと上目に見つめ返してくる。

「ねぇ、この絵、もらってもいい?」
「簡単にしか描いていない絵なのに、わさわざ記念品にでもするつもりかい?」
「気に入ったからもらうの。だってあなたが初めて、わざわざ私を描いてくれた絵だもの」

 わざわざ、という言葉を言い返されてしまった。

 彼方は、いつものように眉を顰めてみせた。それでも拒否はないと見て取り、恵が調子を戻したみたいに「ふふんっ」とどこか偉そうに仁王立ちした。

「それにね、記念品にするのなら、もっと可愛い私がいいじゃない?」
「それは、もう一枚描けという事かい」
「うわー嫌々そうな表情! ふふっ、だってあなた暇でしょ?」

 話していると、彼女がいなかった数日間の違和感の方がかき消えて、不思議と胸に覚えていたもやもやしたものも薄れてしまっていた。

 ちっともダメージになっていない様子で恵が笑うのを見て、声を掛けられた彼方は肩を竦めて「分かったよ」と言った。

「それなら、お互いの部活動の成果を交換する、というのはどうだろう?」
「私は写真集でいいでしょう?」
「それが出来るまで、君が暇を持て余すつもりなら、それでも構わないよ」

 時間があって間に合うのなら、写真集とは別に写真部としての活動成果を何かしら作ればいい。大きな紙に写真を貼り付けていくのでも全然構わない、そう彼方が提案すると、恵はしばらく考えるような表情を浮かべた。

「……それもそうね」

 そのまま大人びた感じで独り言を口にし、彼女が目を上げた。

「分かったわ、写真部としての私の腕の見せどころね。じゃあ期限を決めましょう。来月の中間テストの最後の日までに、お互いの作品を仕上げるっていうのは、どう?」
「まぁそうだね。ただやるというのも面白くない、期限を設ける件は賛成だ」
「私も、その方がやり甲斐があって面白いのよね」

 恵が、見知らぬ女子生徒のような可愛らしい笑みを浮かべた。勝負というよりただの作品交換というだけだ。それなのに、まるで約束があるのが嬉しいみたいだった。
 その光景を見つめていた彼方は、思わずそっと目を細めた。ああ、彼女を描きたいなと、そんな事を考えて――時間を告げる校内放送を聞いてハッとした。

「あ、もうこんな時間なんだ」

 彼女が、ふっと時計の方を見上げてそう言った。

 同じように時計を見上げる素振りをした彼方は、ろくに時刻も見ないまま恵が持っていたスケッチブックを静かに取り上げた。丁寧にそこから一枚だけを切り取って、振り返った彼女に『宇津見恵』が描かれた絵を差し出した。

 何も言わないまま差し出された恵が、そこに目を落とした。そっと手を伸ばして受け取ると、やっぱり噛み締めるみたいに絵を見つめた。それから、空気を変えるようにこう言ってきた。

「そういえば、部室の件はごめんね。まだ放送部の人達が使っていて、夏休みいっぱいまではこっちを使わせてもらう事になるかも。あの、その、九月にはどうにかなりそうなんだけど――」
「ここにいればいい」

 彼女の話の途中で、彼方はそう切り出していた。

 恵の反応を見ていられなくて、彼女から目をそらしてスケッチブックを立て掛けた。それから、すぐに着席もしなまま意味もなく窓の向こうを見やった。

「僕一人には広すぎるし、机六個分だって全然気にならないし…………」

 窓の向こうで、わぁっと声援が上がって一度言葉が途切れた。その声援に耳を傾けるように、恵が窓の向こうに視線を向ける。

 しばらくして外の声が小さくなった頃、彼は短く息を吸い込んだ。

 
「――つまり君は、そこにいればいいんだと思う」


 挨拶初日から入り浸っていたんだ。好きに使えばいい、そう口にしながら青い夏の空を眺めた。開いた窓から、夏の熱気を乗せた風が舞い込んできて、二人の髪と制服をはためかせていった。

 長い沈黙の後、恵が少しだけ身じろぎする音がした。


「…………ありがとう」


 そのまま、ぽつりと囁くように述べられた。いつもの陽気な調子で言葉が返って来ると思っていた彼方は、何故か無性に胸のあたりがきゅうっと締め付けられて――でも、どこかでそんな言葉が返って来るのを知っていたような、どこまでも静かで切ない違和感に襲われた。

 彼方はそっと目を閉じて、彼女の声を思い返した。そして、誰に言うわけでもなく「うん」と答えて、しばらく二人で窓の外から聞こえてくる生徒達の声に耳を澄ませていた。
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