好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

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「あなたって、ひどく捻くれているわ」

 決まって午後の三時にやって来るようになった少女の名は、宇津見恵(うつみめぐみ)といった。自己紹介の際、彼方が「ウツミメグミなんて、どこかの冗談(ジョーク)みたいだ」と述べ、彼女は「あなたの喋り方なんて、まるでどこかの文学者みたいよ」と返していた。

 またしても作業を中断されて、彼方はうんざりした表情で目の前にいる彼女を見る。

「唐突になんだ、わざわざ指を突き付けて断言しないでくれるかな」
「いいえ、ハッキリ言わせてもらうわ江嶋彼方《えじまかなた》君。今こんなに捻くれていたら、後が大変よ。今のうちに真っ直ぐになった方がいいわ。思春期に入ったら、絶対困った事になるんだから」

 恵(めぐみ)は、とてもお喋りな女子生徒だった。挨拶に来た日から、午後三時にやって来ては一方的に話し、何枚か写真を撮って勝手に満足して出ていく。毎日のようにそれが続けば、道中の散歩コースにでもされているかのようだと彼方に感じさせた。

 出会って五日目の金曜日、まるで美術室が自分の部室のように居座り出した。向かい側に椅子を引っ張ってくると、何食わぬ顔でそこに腰を降ろしてカメラをいじりだす。

 何事も無視してきた彼方だったが、椅子を引き寄せる恵を思わず顰め面で見やった。

「君、さっきやって来た小野先生に、僕がなんと言われたか知っているかい」
「小野先生? ああ、確か五組の担任?」

 そう言いながら、思い出すような表情をする。

「私、二組だしよく分からないけど。笑顔が素敵な先生よね。目尻のしわの感じが、なんだか温かくて好きだわ」

 選択授業の教科担当だから、直接関わった事はないという。

 そんな個人的な感想を聞いた彼方は、疲れたように吐息を吐き出した。

「僕はさっき、『最近二組の宇津見さんと仲がいいみたいだね』、なんて言われたんだぞ」
「うん、私もそう思うよ? 話し掛けたら意外と面白いし、それにもう私達って友達でしょ?」

 にしししし、と恵が個性的な笑みを浮かべた。

 彼方は、そんなんじゃないだろうと思って、仏頂面で見つめ返していた。出会った当初からずっと思っているのだけれど、女の子の笑い方としては少々珍しい気がする。

「そもそも僕は、そんなものには興味がない。一人静かにさせてくれる場所を提供してくれると思って美術部にいるのに、君がいたら、ちっともそうじゃなくなる」
「あ、やっぱりそうなんだ? そんな気はしていたんだよねぇ。年に二回ある部活発表会にも毎回一つしか展示してないし、部員集めもしていないから、変だとは思っていたのよ」
「じゃあ君は、そうしていると言いたいのかい」

 思わず眉根を寄せた彼方に、恵が得意げに胸を張った。

「勿論よ。こうして積極的に活動しながら、部員を募っているもの。次の十一月にある部活発表会までには、写真集も作り上げたいし」

 彼女はまた、にしししし、と笑った。仲が良いと思われているのを嫌がっているという告白にも、何も感じていないようだった。

「私、それを数日前にも話してあげたわよ? 絶賛、部員募集中!」
「僕は掛け持ちなんて御免だ、勧誘するな。それに興味がない事は覚えない主義なんだ」

 面倒そうに片手を振って、再びスケッチブックに鉛筆を走らせる。

 恵が口を尖らせて「やっぱり捻くれてる」と言った。彼方は反応せず、ただただ自分が持つ鉛筆が流れていくのを眺めていた。

 彼女はその様子に肩をすくめただけで、言葉は続けずに、そこに居座ったままカメラを手に取って自分が撮った写真を確認し始めた。

 彼方は美術部になる前から、ずっとスケッチブックを持ち歩いていた。

 好きなのかと問われて「別に」と答えるのは、まったくのその通りだったからだ。勉強をする以外にやる事もなく、いつの間にか『読書に飽きたら絵を描いて過ごす』というのが彼の最適な時間潰しになっていた。

 趣味というわけではないと思う。

 ただ、描いている間、なぜか奇妙な違和感にとらわれた。

 一本の鉛筆が、白い画用紙の上を滑って一つの黒い線となり、それが何重にも重なり合って絵が浮かび上がる。彼方はそれを、いつも不思議に思って眺めていた。何度も、何度も、その動作を繰り返しているのに、飽きる事も『つまらない』という感情に流される事もない。

 それは一体なんなのだろうと思っている間に絵は仕上がってしまう。だから、また新しく描き始めながらその正体を掴もうとする。けれど、また分からないままで終わるのだ。

 ただただ、そうやって人の顔や仕草を描き続けていた。風景画を描いている時には感じないから、どうやら人でなければ意味がないらしい。高級住宅街にある彼の家の部屋には、今や本棚を圧す勢いで沢山の絵やスケッチブックに溢れている。

 描きたいから描くだけ。でも、湧き上がるソレの正体は分からないままだった。

「あ、この写真ぶれてるッ」

 その時、カメラの画面を眺めていた恵が残念そうな声を上げた。
 彼方は、自分が思い耽っていた事に気付いて一瞬手を止めかけた。しかし、すぐに再び鉛筆を動かし、浮かび上がってきた絵の輪郭を強めるために作業を続ける。

 そのキャンバスの白には、髪を耳に掛けるような仕草をした女性の絵があった。優しげに瞳を細めた絵の中の女性は、笑んだ唇を開き、今にも何か語り出そうとしている。

 この人は、何を語るのだろう。

 描きながら、ぼんやりとそんな事を考える。少しだけ下を向いた絵の中の彼女の視線の先には、一体何があるのか。

 彼方が描く人物画は、全てどこかで見た光景だった。でも描いている彼方自身、それが誰なのか、どこで見掛けたものなのかまでは把握していない。

「風景とか入れた方がいいんじゃない?」

 ふと、静まり返っていた室内に、またしてもそんな声が上がった。

 この数日で聞き慣れてしまった恵の声を聞いて、彼方は手を止めた。ゆっくりと視線を向けると、いつの間にかこちらに来ていた彼女が、二つ結びの髪先をひょこんっと揺らして指を指す。

「描かれた人はどこにいて、何をしているのか。それが分かったら、見ている人もますます楽しめると思うんだけどなぁ」

 写真も被写体と風景のバランスが大事なの、と彼女が得意げに言う。

 いつも楽しそうにしている彼女から目をそらし、彼方は再びキャンバスに向かうと、鉛筆を動かし始めながら「別に」と答えた。

「見る人が求める絵とやらを、どうして僕が描かなくちゃいけない? 僕は描きたいと思ったから描いているだけだ――君の方こそどうなのさ? 君の撮る写真とやらは、君の言うところのものなのかい」

 彼方がジロリと横目で見やると、恵があからさまに困った顔をして「どうかなぁ」と、男子生徒のような仕草で頭をかいた。

「私、難しい事はよく分からないんだけれど。そうね、やっぱり撮りたいと思うから、撮るのだと思うわ」

 言いながら、彼方にカメラを向けて前触れもなくシャッターを切った。

 フラッシュ設定がされていないカメラの、小さなシャッター音に彼が顔を顰める。彼女はそっとカメラを降ろして見下ろすと、自分で確認するようにこう続けた。

「やっぱり、こうして撮りたいと思った瞬間(とき)を、私は撮り続けると思うのよ」
「ふうん。そうかい」

 彼方は興味なく相槌を打ち、絵へと視線を戻した。擦れ違いざま視線を上げた恵は、そんな彼の横顔を見つめる。

「あなたも、きっと描きたいと思った時を、こうして描き続けるのね」
「さぁね。僕は、そんな難しい事はよく分からない」

 すると、恵はどこか可笑しそうに笑った。

「あなたって、やっぱり捻くれてる」
「負けず嫌いではあるらしい」

 今日で下描きは終わるだろう。彼方はそう思いながら、他人事のような口調で、一部認めるようにそう答えた。
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