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九章 最期を見届けるという事 下

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 動物病院が開店した時間に連絡すると、仲村渠(なかんだかり)は、受話器越しに『お疲れ様でした』と深い悲しみと気遣いのないまざった声でそう言った。萬狩は冷静だったが、自分の声の方がひどい自覚はあり、それを老人獣医が指摘してこない事には救われた。

 仲村渠(なかんだかり)の方から酒井弁護士へと連絡がされ、朝の九時にやってきた業者によって、萬狩宅にあったペット用品は全て持ち出された。

 午前十時前には、ペット葬儀屋がシェリーを迎えにやってきた。動物用の木箱を抱えた中年の男が、温度が亡くなっても眠るような穏やかな顔をしたシェリーに一度合掌し、白い布の詰められた木箱へと丁寧に収めた。亡くなった場所には、線香が一本上げられた。

 業者の男は「それでは」と立ち去ろうとしたが、萬狩の神妙な視線に気付くと、玄関先で足を止めて「あの」と控えめに一つの事を提案した。

「お顔を見るのは、これが最後となります。もう一度、お顔を拝見されますか?」

 そんな事を言われてしまっては、別れの悲しみが濃厚に蘇るばかりだ。萬狩は慌てて涙腺を引き締め、大きく息を吸い込んでから、首を左右に振って見せた。

 大切な家族だった老犬の顔を見たなら、きっと、みっともなく泣いてしまうだろう。もう十分、彼女との別れの時間を過ごしたのだ。萬狩は震える呼気を押し殺し、その男に「大丈夫だ」と答えて、玄関先で見送った。


 仲村渠(なかんだかり)には、電話で「しばらく一人になりたい」と話していたから、彼から連絡がいっているだろう仲西や古賀からの連絡や、訪問はなかった。


 シェリーの遺体が運び出された後、正午前にやって来たのは、ブラックスーツを身に付けた高齢の男で、それは入居の手続きの際に会った弁護士の酒井(さかい)だった。

 萬狩が玄関先で出迎えると、酒井は、僅かに顔を顰めるような表情を浮かべたものの「このたびは――」と、ありきたりな台詞を口にした。彼は、萬狩の目の腫れをチラリと見やったが、すぐに事務的な説明を始めた。

 契約完了の書類は、後日に弁護士事務所の方から届けられるらしい。そんな内容であったが、萬狩は、ほとんど耳に入って来なかった。早く一人にしてくれないかという眼差しで見つめていると、不意に酒井が、庭先の花壇へと目を留めて口をつぐんだ。

「……一つだけ」
「はい?」

 萬狩が聞こえなかった事を伝えると、酒井弁護士が、改めて彼の方へと視線を戻してぽつりと言った。

「一つだけであれば、遺品として受け取れます。あの首輪は彼女のものではありませんし、今なら火葬に間に合います」
「……いいえ、必要ありません。一緒に燃やしてやって下さい」

 萬狩は、本心からそう答えた。いつの間にか、自分の買ってきた首輪をつけている事が当たり前になっていたシェリーの、元気だった頃の姿が脳裏に浮かんで、きゅっと拳を作って悲しみを呑み込んだ。

 その時、萬狩は唐突に、自分のポケットに入れたままだったクッキーを思い出した。まだ、キッチンの棚の中にも残っている。

「もし、一つだけお願いが出来るというのなら、このクッキーを一緒に燃やしてもらえませんか。とても気に入って、食べてくれていたものです」

 萬狩がそう言って手渡すと、酒井は自身の掌に置かれた、犬用クッキーの小袋を見下ろして眉を顰めた。

 あまりにも長い間じっと見つめているものだから、もしや嫌がっているのだろうかと不安を覚えた。しかし萬狩は、次の酒井の言葉を聞いて「え、なんだって」と聞き返していた。

 そっと眉を寄せた酒井が、もう一度、独り言のような声量で呟いた。

「サチエさんが生きていた時、私があげていたメーカーのクッキーです。――うちの犬も、よく気に入って食べていました」

 酒井は、思い出すようにそう言った。

 その独白は、きっと無意識なのだろう。前家主の名をこぼした弁護士に、萬狩は、どう答えていいのか分からないでいた。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。冷たい冬風が数回ほど吹き抜けて、枯れ葉が風に待っていく様子を萬狩が目で追い掛け始めた頃、酒井がようやく顔を上げた。

「残りのものも、一緒に火葬してやりましょう」

 酒井は、静かな口調でそう断言した。

 どうやら、この弁護士は常に不機嫌なのではなく、もとより感情表現が顔に出ないタイプらしい。呆けつつそう推測していた萬狩は、彼がクッキーを持っていない方の手を出すのを見て、慌てて残りのクッキーを取りにキッチンへと走った。

 少し待たせてしまったものの、気難しい弁護士は、考え込むように眉間の皺を深くしてじっと待っていた。愛想はまるでないが、萬狩から犬用クッキーの在庫を受け取ると、慣れたように会釈を一つして、黒塗りの車に乗り込み去っていった。


 予定のあった最後の訪問者を見送った萬狩は、老犬と過ごした痕跡のなくなった家の中を改めて見て回った。こんなにも広い家だっただろうかと思うほど、室内はどこか伽藍としている印象を受けた。


 しばし、思い出を語る最後の住人を失くしたグランドピアノが、物寂しげに居座っている空間で、何をする訳でもなくぼんやりと座って過ごした。家の中を改造するのも、家具を入れ替えるのも自由になったとはいえ、これらどうしようか、まるで思い浮かばなかった。

 リビングに戻ると、隅に置かれたままのビーチボールに気が付いた。仲西に返すのも気が引けて、空気を抜いてから棚にでも仕舞ってしまおうかと考えるが、自分にはもう使い道がないとも知って、結局は行動に移せなかった。

 気兼ねなく一匹で留守番させる事は出来ない高齢犬だったが、思い返せば、シェリーは家具を壊したり傷つけたりする事もない、きちんと躾られた利口な犬だった。

 彼女のトイレ用品やベッド代わりの籠、ご飯の場所をどかすだけで、共に過ごした日常は、こんなにも遠のいてしまう。それでも、どこに足を運んでも、彼女との思い出が染みついているままだった。


 再び込み上げた胸の痛みを紛らわそうと、リビングから庭先へと出た。

 花壇を眺められるいつもの場所で煙草を取り出し、どうにか震える手で火をつければ、寝不足の目に煙草の煙がしみた。足元に老犬の姿がない事が、寂しくて仕方がなかった。


「……あ~、くそ。煙が目にしみるなぁ」

 萬狩は顔を顰めながら、煙草を吹かし、流れてくる涙を袖口で拭った。
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