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五章 中年男と青年の海(3)~老人獣医が語ったこと~
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海に落ちた子供達が、それぞれの保護者に保護され引き取られたのを確認した後、萬狩は、仲西に半ば強引に町の小さな病院に連れて行かれた。診察の結果は夏バテと軽い日射病で、軽度の胃炎も起こっているとの事で、複数の薬をもらって帰宅した。
それから数日間、萬狩はしっかり薬を飲み、食事と睡眠を取るようにも心掛けた。薬を飲みきる頃には彼の体調も回復していて、以前より夏バテの気があった老犬シェリーの食欲もすっかり戻った。
一週間かけて夏バテと疲労から脱却し、萬狩とシェリーは、普段の気楽な日々の生活を送りだした。暑さも比較的落ち着いてきたこともあり、シェリーの夜中の目覚めも随分減った。
体調が戻った事を報告しつつ、再度仲西に謝ろうと思っていた萬狩だったが、九月に入った翌週の月曜日、彼は姿を見せなかった。やって来たのは仲西とは違う青年で、申し訳なさそうな顔で、仲西は体調を崩して休んでいるのだと彼は告げた。
もしかしたら、海に飛び込んでしばらく濡れたままだったのが原因で、風邪でもこじらせたのかもしれない。とはいえ、萬狩は仲西青年を相当怒らせたらしいとも察していたから、その推測に自信はなかった。あの時の仲西の態度が、妙に気にかかってもいる。
仲西の代わりに配達にやってきた青年は、リストにあるペット用品を不慣れな様子で家に運び込んだ。ちょうどタイミング良く仲村渠(なかんだかり)獣医もやって来て、彼は、物珍しそうに「あの子、休みなの」と、萬狩と同じ事を青年に尋ねた。青年は、萬狩に答えたと同じような事を老人獣医にも告げた。
「ふうん、夏風邪でも引いたのかねぇ。あの子って健康だけが取り柄だけど、根は単細胞のバ――おっほん――まぁ道理で、バーベキューの話をしようと電話をしても出てくれなかった訳か」
単細胞のバカとは、なかなか手厳しい。しかし、的を射た評価でもあると萬狩は思った。
手早く運搬作業を行った青年が、犬用トイレを洗浄している間もシェリーは姿を見せなかった。萬狩は、何だか申し訳なく思ってチラリと謝ったが、青年は「問題ありません」と苦笑をこぼした。シェリーは仲西と内間、それから前担当者であった大城という女性以外、大人しく触らせてくれないのだという。
「本当は内間を連れて来たかったのですが、仲西が先週から休んでしまっていて、内間が仲西の担当業務を全般的に請け負っているもので、忙しくて都合がつかなかったのです……」
結局青年が帰るまで、シェリーは一度も姿を見せなかった。その間、診察の仕事が出来ない仲村渠(なかんだかり)老人は、一人で勝手に食卓で熱いお茶を楽しんでいた。
シェリーは青年が帰った後、何食わぬ顔で奥の部屋から出てきた。仲村渠(なかんだかり)は彼女に気付くなり、「おいで」「良い子だねぇ」と呼び寄せ、すぐに診察を行った。
「この子にもね、好き嫌いはあるんですよ。大抵の場合は、まぁ出て来てはくれるんだけど、遠巻きに見ている感じですかねぇ。あの彼の事は、大層気に入らないみたい」
診察後、シェリーはリビングの庭の見える位置でうたた寝を始めた。萬狩はテラス席で一服した後、当然の顔で食卓についている仲村渠(なかんだかり)の向かい側に腰かけた。
マイペースな老人獣医は、どこから取り出したのか、食卓の上にいくつか和菓子の袋を並べていた。そのうちの一つを手に取り、慣れたように袋を開け始める。
「仲西君と、喧嘩でもされましたか」
唐突に問われ、萬狩は一瞬、老人の言葉を理解するのに時間を要した。
問われた内容に思い至り、知らぬ素振りで茶を楽しむ仲村渠(なかんだかり)を居心地悪そうに睨みつけたが、萬狩は結局、諦めたように「喧嘩、みたいなものだろうか」と認めた。
「――そういえば、あなたは彼と仲が良かったな。あいつから話を聞いたのか?」
「海に飛び込んだとだけは聞きましたけど、仲西君、それ以降は黙りこんじゃって」
まぁその後で噂はちらりと聞きましたが、と仲村渠(なかんだかり)は穏やかな口調で続けた。
「子供を助けるために海に飛び込んだらしいですね、萬狩さん。夫人方にはかなり好評でして、スーパーで立ち話をされている方を何組か見掛けましたよ」
「……まさか、俺の名前が勝手に知れ渡っていっているんじゃないだろうな?」
「いいえ、名前は明かされていないのでご安心を。私も含め、皆詳細までは知らないのですよ」
ですから、よろしければ教えてもらいたいものですねぇ、と仲村渠(なかんだかり)は楽しげに瞳を細めた。それは茶化す訳でも面白がっている訳でもなく、不思議と親愛さを感じさせた。
あの日の事を他に話せる相手もいない萬狩は、重い口を開いた。
萬狩が話している間、仲村渠(なかんだかり)老人は話を遮るような発言は一切せず、適度な相槌を打った。仲村渠(なかんだかり)は全て聞き終えた後でようやく「そんな事があったのですねぇ」と、水筒のコップに新しい茶を注ぎ足しながらそう言った。
「それは、まぁ、――怒るでしょうねぇ。私だったら、畏れ多くも自ら海に飛び込むなんて真似は出来なかったでしょう。いやはや、萬狩さんは体力によほど自信がおありで?」
「おいおい、勘弁してくれ。あいつにも開口一番に怒鳴られたばかりなんだぜ」
あんたも説教か、と萬狩は鼻白んだ。
俺はきちんと謝ったし、反省もしている事をらしくもなく本人にまで告げたのだ。これ以上どうしろっていうんだ?
仲村渠(なかんだかり)は一口茶を飲むと、そんな萬狩をちらりと見て「分かっていらっしゃらない?」と不思議そうに首を傾げた。萬狩が「何が」と怪訝に尋ね返すと、彼は「ふう」と息を吐いた。
「私はあなたの行動については怒っていませんし、褒めてもいますよ。ただ、仲西君は若いですし、彼の事だから私情が絡んで、上手く納得も出来ないのでしょう」
「個人的な都合という事か?」
「萬狩さんのお気持ちも分かりますが、汲んでやって下さい。彼は、まだ若いのです」
仲村渠(なかんだかり)老人は、まるで教師のように微笑んだ。
萬狩は、それが仲西青年のプライベートに深く関わる内容を指しているのだと気付いて、赤の他人である自分が、それを知ってはいけないような気がして口をつぐんだ。
すると、それを察した仲村渠(なかんだかり)が、迷いもせず穏やかな口調でこう言った。
「彼の父親は、釣り竿ごと海に引きこまれた男児を助けようとして、港で命を落としたのですよ」
まるで、なんでもない世間話をするように、仲村渠(なかんだかり)が落ち着いた微笑を浮かべて言葉を続けた。
「新聞では小さな記事にしかなりませんでしたが、地元では大変な騒ぎでした。沖縄の人は台風慣れしていますから、少し風が強くとも気にする人は少ない――港には、そんな近所の小学生が秋休みを満喫するように釣りに来ていて、ちょうど仲西親子も、日課である港の散歩をしていたのです」
互いのためにも、あなたも知っておいた方がいい。仲村渠(なかんだかり)からそんな配慮を覚え、萬狩は、ひとまずは内容を把握しようと聞き手を努めた。
「……つまり、散歩をしているタイミングで転落事故に遭遇したのか?」
「そう言う事です。仲西君の父親は、幼い我が子に、漁港の事務所から大人を呼んでくるように言いつけて、そのまま荒れている海に飛び込んだらしいのです。けれど運が悪い事に、漁港にはダツが迷い込んでいた」
「『ダツ』?」
聞き慣れない言葉にイメージがつかず、萬狩は尋ね返した。
仲村渠(なかんだかり)は、水筒のカップの縁についた水滴を、意味もなく指でつついて拭いながら「ダツは」と話を続けた。
「魚なんですがね、こいつが恐ろしいやつなんです。海を知っている人間には有名な魚で、ダーツ状に尖った鋭い口を持っていて、光る物に反応して突進してくる性質を持っています。時速は約六十キロ、……それが人間の身体に簡単に刺さってしまうので、ダイバーには鮫よりも恐れられている魚なのです」
「この海に、そんな恐ろしい魚がいるのか?」
「ええ。突き刺さるだけならまだしも、その後に容赦なく回転してしまって、結果的に抉る形となるので傷口が一気に開きます。だから、刺さる場所によっては致命傷にもなりうるのです。眼球から脳までなら、いとも簡単に貫通してしまう威力ですよ」
それが運悪く港にいて、仲西の父が持つ光る何かに反応したとされている。そのせいで泳ぎが得意なその男は死んでしまったのだと、新聞記事にはそう書かれていたと仲村渠(なかんだかり)は語った。
「恐らく、思い出したのだと思いますよ、仲西君は。落ちた子供と一緒に父も戻ってくると思っていた、と、一度私に語った事がありました。彼の父親は、子供をどうにか港の人間に任せた後に沈んでいき、とうとう自分では上がってこなかったらしいのです」
それがトラウマになっているのだろう。
萬狩は少し考え、何食わぬ顔で茶を飲む老人獣医を窺った。
「俺は、どうすればいい」
「貴方は大人です。相手は仲西君ですから、簡単な事ですよ。子供と仲直りする時と同じようにしてやれば良いのです」
仲直り、か。
その言葉を聞いて、萬狩は思わず自身を嘲笑した。
「……貴方は、俺の事を買い被り過ぎているんだ。俺は、何もしてやれない父親だった」
記憶を振り返ってみても、自分の息子達と喧嘩や仲直りもした覚えがない。だから、これが喧嘩だとすると萬狩には初めての事で、その仲直りの方法すら分からないでいるのだ。
仲村渠(なかんだかり)が、黙りこむ萬狩を見て優しく微笑みかけた。
「子供というのは、素直になれないものなのですよ、萬狩さん。仲西君が先に言えないでいる事を、あなたが手本のようにやってあげればいいだけの話なのです」
「俺が、手本を見せる……?」
萬狩がちらりと視線を持ち上げると、仲村渠(なかんだかり)が「ふふ」と微笑ましげに目を細め、それから「そうですよ」と肯いた。
「まずは、大人である貴方の方から先に『ごめん、仲直りしよう』と言っておあげなさい。話を聞いて欲しければ、子供はおのずと口を開きますから、その時には聞いてあげればいい。彼は素直で単純な子ですから、今頃、どう顔を会わせていいのかと悩んでいるだけなのですよ。あの子も喧嘩なんて滅多にしない子だったもの」
私の孫もね、ちょうど幼少期の反抗期の真っただ中なのです、と仲村渠(なかんだかり)は励ますように笑った。そして、茶目っ気のある眼差しで「バーベキュー楽しみにしていますから」と、先日彼らの中で勝手に話が盛り上がって例の予定について、余計な一言も添えた。
萬狩は思わず苦笑したが、「ああ」と答え、しっかり肯いた。
それから数日間、萬狩はしっかり薬を飲み、食事と睡眠を取るようにも心掛けた。薬を飲みきる頃には彼の体調も回復していて、以前より夏バテの気があった老犬シェリーの食欲もすっかり戻った。
一週間かけて夏バテと疲労から脱却し、萬狩とシェリーは、普段の気楽な日々の生活を送りだした。暑さも比較的落ち着いてきたこともあり、シェリーの夜中の目覚めも随分減った。
体調が戻った事を報告しつつ、再度仲西に謝ろうと思っていた萬狩だったが、九月に入った翌週の月曜日、彼は姿を見せなかった。やって来たのは仲西とは違う青年で、申し訳なさそうな顔で、仲西は体調を崩して休んでいるのだと彼は告げた。
もしかしたら、海に飛び込んでしばらく濡れたままだったのが原因で、風邪でもこじらせたのかもしれない。とはいえ、萬狩は仲西青年を相当怒らせたらしいとも察していたから、その推測に自信はなかった。あの時の仲西の態度が、妙に気にかかってもいる。
仲西の代わりに配達にやってきた青年は、リストにあるペット用品を不慣れな様子で家に運び込んだ。ちょうどタイミング良く仲村渠(なかんだかり)獣医もやって来て、彼は、物珍しそうに「あの子、休みなの」と、萬狩と同じ事を青年に尋ねた。青年は、萬狩に答えたと同じような事を老人獣医にも告げた。
「ふうん、夏風邪でも引いたのかねぇ。あの子って健康だけが取り柄だけど、根は単細胞のバ――おっほん――まぁ道理で、バーベキューの話をしようと電話をしても出てくれなかった訳か」
単細胞のバカとは、なかなか手厳しい。しかし、的を射た評価でもあると萬狩は思った。
手早く運搬作業を行った青年が、犬用トイレを洗浄している間もシェリーは姿を見せなかった。萬狩は、何だか申し訳なく思ってチラリと謝ったが、青年は「問題ありません」と苦笑をこぼした。シェリーは仲西と内間、それから前担当者であった大城という女性以外、大人しく触らせてくれないのだという。
「本当は内間を連れて来たかったのですが、仲西が先週から休んでしまっていて、内間が仲西の担当業務を全般的に請け負っているもので、忙しくて都合がつかなかったのです……」
結局青年が帰るまで、シェリーは一度も姿を見せなかった。その間、診察の仕事が出来ない仲村渠(なかんだかり)老人は、一人で勝手に食卓で熱いお茶を楽しんでいた。
シェリーは青年が帰った後、何食わぬ顔で奥の部屋から出てきた。仲村渠(なかんだかり)は彼女に気付くなり、「おいで」「良い子だねぇ」と呼び寄せ、すぐに診察を行った。
「この子にもね、好き嫌いはあるんですよ。大抵の場合は、まぁ出て来てはくれるんだけど、遠巻きに見ている感じですかねぇ。あの彼の事は、大層気に入らないみたい」
診察後、シェリーはリビングの庭の見える位置でうたた寝を始めた。萬狩はテラス席で一服した後、当然の顔で食卓についている仲村渠(なかんだかり)の向かい側に腰かけた。
マイペースな老人獣医は、どこから取り出したのか、食卓の上にいくつか和菓子の袋を並べていた。そのうちの一つを手に取り、慣れたように袋を開け始める。
「仲西君と、喧嘩でもされましたか」
唐突に問われ、萬狩は一瞬、老人の言葉を理解するのに時間を要した。
問われた内容に思い至り、知らぬ素振りで茶を楽しむ仲村渠(なかんだかり)を居心地悪そうに睨みつけたが、萬狩は結局、諦めたように「喧嘩、みたいなものだろうか」と認めた。
「――そういえば、あなたは彼と仲が良かったな。あいつから話を聞いたのか?」
「海に飛び込んだとだけは聞きましたけど、仲西君、それ以降は黙りこんじゃって」
まぁその後で噂はちらりと聞きましたが、と仲村渠(なかんだかり)は穏やかな口調で続けた。
「子供を助けるために海に飛び込んだらしいですね、萬狩さん。夫人方にはかなり好評でして、スーパーで立ち話をされている方を何組か見掛けましたよ」
「……まさか、俺の名前が勝手に知れ渡っていっているんじゃないだろうな?」
「いいえ、名前は明かされていないのでご安心を。私も含め、皆詳細までは知らないのですよ」
ですから、よろしければ教えてもらいたいものですねぇ、と仲村渠(なかんだかり)は楽しげに瞳を細めた。それは茶化す訳でも面白がっている訳でもなく、不思議と親愛さを感じさせた。
あの日の事を他に話せる相手もいない萬狩は、重い口を開いた。
萬狩が話している間、仲村渠(なかんだかり)老人は話を遮るような発言は一切せず、適度な相槌を打った。仲村渠(なかんだかり)は全て聞き終えた後でようやく「そんな事があったのですねぇ」と、水筒のコップに新しい茶を注ぎ足しながらそう言った。
「それは、まぁ、――怒るでしょうねぇ。私だったら、畏れ多くも自ら海に飛び込むなんて真似は出来なかったでしょう。いやはや、萬狩さんは体力によほど自信がおありで?」
「おいおい、勘弁してくれ。あいつにも開口一番に怒鳴られたばかりなんだぜ」
あんたも説教か、と萬狩は鼻白んだ。
俺はきちんと謝ったし、反省もしている事をらしくもなく本人にまで告げたのだ。これ以上どうしろっていうんだ?
仲村渠(なかんだかり)は一口茶を飲むと、そんな萬狩をちらりと見て「分かっていらっしゃらない?」と不思議そうに首を傾げた。萬狩が「何が」と怪訝に尋ね返すと、彼は「ふう」と息を吐いた。
「私はあなたの行動については怒っていませんし、褒めてもいますよ。ただ、仲西君は若いですし、彼の事だから私情が絡んで、上手く納得も出来ないのでしょう」
「個人的な都合という事か?」
「萬狩さんのお気持ちも分かりますが、汲んでやって下さい。彼は、まだ若いのです」
仲村渠(なかんだかり)老人は、まるで教師のように微笑んだ。
萬狩は、それが仲西青年のプライベートに深く関わる内容を指しているのだと気付いて、赤の他人である自分が、それを知ってはいけないような気がして口をつぐんだ。
すると、それを察した仲村渠(なかんだかり)が、迷いもせず穏やかな口調でこう言った。
「彼の父親は、釣り竿ごと海に引きこまれた男児を助けようとして、港で命を落としたのですよ」
まるで、なんでもない世間話をするように、仲村渠(なかんだかり)が落ち着いた微笑を浮かべて言葉を続けた。
「新聞では小さな記事にしかなりませんでしたが、地元では大変な騒ぎでした。沖縄の人は台風慣れしていますから、少し風が強くとも気にする人は少ない――港には、そんな近所の小学生が秋休みを満喫するように釣りに来ていて、ちょうど仲西親子も、日課である港の散歩をしていたのです」
互いのためにも、あなたも知っておいた方がいい。仲村渠(なかんだかり)からそんな配慮を覚え、萬狩は、ひとまずは内容を把握しようと聞き手を努めた。
「……つまり、散歩をしているタイミングで転落事故に遭遇したのか?」
「そう言う事です。仲西君の父親は、幼い我が子に、漁港の事務所から大人を呼んでくるように言いつけて、そのまま荒れている海に飛び込んだらしいのです。けれど運が悪い事に、漁港にはダツが迷い込んでいた」
「『ダツ』?」
聞き慣れない言葉にイメージがつかず、萬狩は尋ね返した。
仲村渠(なかんだかり)は、水筒のカップの縁についた水滴を、意味もなく指でつついて拭いながら「ダツは」と話を続けた。
「魚なんですがね、こいつが恐ろしいやつなんです。海を知っている人間には有名な魚で、ダーツ状に尖った鋭い口を持っていて、光る物に反応して突進してくる性質を持っています。時速は約六十キロ、……それが人間の身体に簡単に刺さってしまうので、ダイバーには鮫よりも恐れられている魚なのです」
「この海に、そんな恐ろしい魚がいるのか?」
「ええ。突き刺さるだけならまだしも、その後に容赦なく回転してしまって、結果的に抉る形となるので傷口が一気に開きます。だから、刺さる場所によっては致命傷にもなりうるのです。眼球から脳までなら、いとも簡単に貫通してしまう威力ですよ」
それが運悪く港にいて、仲西の父が持つ光る何かに反応したとされている。そのせいで泳ぎが得意なその男は死んでしまったのだと、新聞記事にはそう書かれていたと仲村渠(なかんだかり)は語った。
「恐らく、思い出したのだと思いますよ、仲西君は。落ちた子供と一緒に父も戻ってくると思っていた、と、一度私に語った事がありました。彼の父親は、子供をどうにか港の人間に任せた後に沈んでいき、とうとう自分では上がってこなかったらしいのです」
それがトラウマになっているのだろう。
萬狩は少し考え、何食わぬ顔で茶を飲む老人獣医を窺った。
「俺は、どうすればいい」
「貴方は大人です。相手は仲西君ですから、簡単な事ですよ。子供と仲直りする時と同じようにしてやれば良いのです」
仲直り、か。
その言葉を聞いて、萬狩は思わず自身を嘲笑した。
「……貴方は、俺の事を買い被り過ぎているんだ。俺は、何もしてやれない父親だった」
記憶を振り返ってみても、自分の息子達と喧嘩や仲直りもした覚えがない。だから、これが喧嘩だとすると萬狩には初めての事で、その仲直りの方法すら分からないでいるのだ。
仲村渠(なかんだかり)が、黙りこむ萬狩を見て優しく微笑みかけた。
「子供というのは、素直になれないものなのですよ、萬狩さん。仲西君が先に言えないでいる事を、あなたが手本のようにやってあげればいいだけの話なのです」
「俺が、手本を見せる……?」
萬狩がちらりと視線を持ち上げると、仲村渠(なかんだかり)が「ふふ」と微笑ましげに目を細め、それから「そうですよ」と肯いた。
「まずは、大人である貴方の方から先に『ごめん、仲直りしよう』と言っておあげなさい。話を聞いて欲しければ、子供はおのずと口を開きますから、その時には聞いてあげればいい。彼は素直で単純な子ですから、今頃、どう顔を会わせていいのかと悩んでいるだけなのですよ。あの子も喧嘩なんて滅多にしない子だったもの」
私の孫もね、ちょうど幼少期の反抗期の真っただ中なのです、と仲村渠(なかんだかり)は励ますように笑った。そして、茶目っ気のある眼差しで「バーベキュー楽しみにしていますから」と、先日彼らの中で勝手に話が盛り上がって例の予定について、余計な一言も添えた。
萬狩は思わず苦笑したが、「ああ」と答え、しっかり肯いた。
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