上 下
22 / 41

五章 中年男と青年の海(3)~老人獣医が語ったこと~

しおりを挟む
 海に落ちた子供達が、それぞれの保護者に保護され引き取られたのを確認した後、萬狩は、仲西に半ば強引に町の小さな病院に連れて行かれた。診察の結果は夏バテと軽い日射病で、軽度の胃炎も起こっているとの事で、複数の薬をもらって帰宅した。


 それから数日間、萬狩はしっかり薬を飲み、食事と睡眠を取るようにも心掛けた。薬を飲みきる頃には彼の体調も回復していて、以前より夏バテの気があった老犬シェリーの食欲もすっかり戻った。


 一週間かけて夏バテと疲労から脱却し、萬狩とシェリーは、普段の気楽な日々の生活を送りだした。暑さも比較的落ち着いてきたこともあり、シェリーの夜中の目覚めも随分減った。

 体調が戻った事を報告しつつ、再度仲西に謝ろうと思っていた萬狩だったが、九月に入った翌週の月曜日、彼は姿を見せなかった。やって来たのは仲西とは違う青年で、申し訳なさそうな顔で、仲西は体調を崩して休んでいるのだと彼は告げた。

 もしかしたら、海に飛び込んでしばらく濡れたままだったのが原因で、風邪でもこじらせたのかもしれない。とはいえ、萬狩は仲西青年を相当怒らせたらしいとも察していたから、その推測に自信はなかった。あの時の仲西の態度が、妙に気にかかってもいる。

 仲西の代わりに配達にやってきた青年は、リストにあるペット用品を不慣れな様子で家に運び込んだ。ちょうどタイミング良く仲村渠(なかんだかり)獣医もやって来て、彼は、物珍しそうに「あの子、休みなの」と、萬狩と同じ事を青年に尋ねた。青年は、萬狩に答えたと同じような事を老人獣医にも告げた。

「ふうん、夏風邪でも引いたのかねぇ。あの子って健康だけが取り柄だけど、根は単細胞のバ――おっほん――まぁ道理で、バーベキューの話をしようと電話をしても出てくれなかった訳か」

 単細胞のバカとは、なかなか手厳しい。しかし、的を射た評価でもあると萬狩は思った。

 手早く運搬作業を行った青年が、犬用トイレを洗浄している間もシェリーは姿を見せなかった。萬狩は、何だか申し訳なく思ってチラリと謝ったが、青年は「問題ありません」と苦笑をこぼした。シェリーは仲西と内間、それから前担当者であった大城という女性以外、大人しく触らせてくれないのだという。

「本当は内間を連れて来たかったのですが、仲西が先週から休んでしまっていて、内間が仲西の担当業務を全般的に請け負っているもので、忙しくて都合がつかなかったのです……」

 結局青年が帰るまで、シェリーは一度も姿を見せなかった。その間、診察の仕事が出来ない仲村渠(なかんだかり)老人は、一人で勝手に食卓で熱いお茶を楽しんでいた。

 シェリーは青年が帰った後、何食わぬ顔で奥の部屋から出てきた。仲村渠(なかんだかり)は彼女に気付くなり、「おいで」「良い子だねぇ」と呼び寄せ、すぐに診察を行った。

「この子にもね、好き嫌いはあるんですよ。大抵の場合は、まぁ出て来てはくれるんだけど、遠巻きに見ている感じですかねぇ。あの彼の事は、大層気に入らないみたい」

 診察後、シェリーはリビングの庭の見える位置でうたた寝を始めた。萬狩はテラス席で一服した後、当然の顔で食卓についている仲村渠(なかんだかり)の向かい側に腰かけた。

 マイペースな老人獣医は、どこから取り出したのか、食卓の上にいくつか和菓子の袋を並べていた。そのうちの一つを手に取り、慣れたように袋を開け始める。

「仲西君と、喧嘩でもされましたか」

 唐突に問われ、萬狩は一瞬、老人の言葉を理解するのに時間を要した。

 問われた内容に思い至り、知らぬ素振りで茶を楽しむ仲村渠(なかんだかり)を居心地悪そうに睨みつけたが、萬狩は結局、諦めたように「喧嘩、みたいなものだろうか」と認めた。

「――そういえば、あなたは彼と仲が良かったな。あいつから話を聞いたのか?」
「海に飛び込んだとだけは聞きましたけど、仲西君、それ以降は黙りこんじゃって」

 まぁその後で噂はちらりと聞きましたが、と仲村渠(なかんだかり)は穏やかな口調で続けた。

「子供を助けるために海に飛び込んだらしいですね、萬狩さん。夫人方にはかなり好評でして、スーパーで立ち話をされている方を何組か見掛けましたよ」
「……まさか、俺の名前が勝手に知れ渡っていっているんじゃないだろうな?」
「いいえ、名前は明かされていないのでご安心を。私も含め、皆詳細までは知らないのですよ」

 ですから、よろしければ教えてもらいたいものですねぇ、と仲村渠(なかんだかり)は楽しげに瞳を細めた。それは茶化す訳でも面白がっている訳でもなく、不思議と親愛さを感じさせた。

 あの日の事を他に話せる相手もいない萬狩は、重い口を開いた。

 萬狩が話している間、仲村渠(なかんだかり)老人は話を遮るような発言は一切せず、適度な相槌を打った。仲村渠(なかんだかり)は全て聞き終えた後でようやく「そんな事があったのですねぇ」と、水筒のコップに新しい茶を注ぎ足しながらそう言った。

「それは、まぁ、――怒るでしょうねぇ。私だったら、畏れ多くも自ら海に飛び込むなんて真似は出来なかったでしょう。いやはや、萬狩さんは体力によほど自信がおありで?」
「おいおい、勘弁してくれ。あいつにも開口一番に怒鳴られたばかりなんだぜ」

 あんたも説教か、と萬狩は鼻白んだ。

 俺はきちんと謝ったし、反省もしている事をらしくもなく本人にまで告げたのだ。これ以上どうしろっていうんだ?

 仲村渠(なかんだかり)は一口茶を飲むと、そんな萬狩をちらりと見て「分かっていらっしゃらない?」と不思議そうに首を傾げた。萬狩が「何が」と怪訝に尋ね返すと、彼は「ふう」と息を吐いた。

「私はあなたの行動については怒っていませんし、褒めてもいますよ。ただ、仲西君は若いですし、彼の事だから私情が絡んで、上手く納得も出来ないのでしょう」
「個人的な都合という事か?」
「萬狩さんのお気持ちも分かりますが、汲んでやって下さい。彼は、まだ若いのです」

 仲村渠(なかんだかり)老人は、まるで教師のように微笑んだ。

 萬狩は、それが仲西青年のプライベートに深く関わる内容を指しているのだと気付いて、赤の他人である自分が、それを知ってはいけないような気がして口をつぐんだ。

 すると、それを察した仲村渠(なかんだかり)が、迷いもせず穏やかな口調でこう言った。

「彼の父親は、釣り竿ごと海に引きこまれた男児を助けようとして、港で命を落としたのですよ」

 まるで、なんでもない世間話をするように、仲村渠(なかんだかり)が落ち着いた微笑を浮かべて言葉を続けた。

「新聞では小さな記事にしかなりませんでしたが、地元では大変な騒ぎでした。沖縄の人は台風慣れしていますから、少し風が強くとも気にする人は少ない――港には、そんな近所の小学生が秋休みを満喫するように釣りに来ていて、ちょうど仲西親子も、日課である港の散歩をしていたのです」

 互いのためにも、あなたも知っておいた方がいい。仲村渠(なかんだかり)からそんな配慮を覚え、萬狩は、ひとまずは内容を把握しようと聞き手を努めた。

「……つまり、散歩をしているタイミングで転落事故に遭遇したのか?」
「そう言う事です。仲西君の父親は、幼い我が子に、漁港の事務所から大人を呼んでくるように言いつけて、そのまま荒れている海に飛び込んだらしいのです。けれど運が悪い事に、漁港にはダツが迷い込んでいた」
「『ダツ』?」

 聞き慣れない言葉にイメージがつかず、萬狩は尋ね返した。

 仲村渠(なかんだかり)は、水筒のカップの縁についた水滴を、意味もなく指でつついて拭いながら「ダツは」と話を続けた。

「魚なんですがね、こいつが恐ろしいやつなんです。海を知っている人間には有名な魚で、ダーツ状に尖った鋭い口を持っていて、光る物に反応して突進してくる性質を持っています。時速は約六十キロ、……それが人間の身体に簡単に刺さってしまうので、ダイバーには鮫よりも恐れられている魚なのです」
「この海に、そんな恐ろしい魚がいるのか?」
「ええ。突き刺さるだけならまだしも、その後に容赦なく回転してしまって、結果的に抉る形となるので傷口が一気に開きます。だから、刺さる場所によっては致命傷にもなりうるのです。眼球から脳までなら、いとも簡単に貫通してしまう威力ですよ」

 それが運悪く港にいて、仲西の父が持つ光る何かに反応したとされている。そのせいで泳ぎが得意なその男は死んでしまったのだと、新聞記事にはそう書かれていたと仲村渠(なかんだかり)は語った。

「恐らく、思い出したのだと思いますよ、仲西君は。落ちた子供と一緒に父も戻ってくると思っていた、と、一度私に語った事がありました。彼の父親は、子供をどうにか港の人間に任せた後に沈んでいき、とうとう自分では上がってこなかったらしいのです」

 それがトラウマになっているのだろう。
 萬狩は少し考え、何食わぬ顔で茶を飲む老人獣医を窺った。

「俺は、どうすればいい」
「貴方は大人です。相手は仲西君ですから、簡単な事ですよ。子供と仲直りする時と同じようにしてやれば良いのです」

 仲直り、か。

 その言葉を聞いて、萬狩は思わず自身を嘲笑した。

「……貴方は、俺の事を買い被り過ぎているんだ。俺は、何もしてやれない父親だった」

 記憶を振り返ってみても、自分の息子達と喧嘩や仲直りもした覚えがない。だから、これが喧嘩だとすると萬狩には初めての事で、その仲直りの方法すら分からないでいるのだ。

 仲村渠(なかんだかり)が、黙りこむ萬狩を見て優しく微笑みかけた。

「子供というのは、素直になれないものなのですよ、萬狩さん。仲西君が先に言えないでいる事を、あなたが手本のようにやってあげればいいだけの話なのです」
「俺が、手本を見せる……?」

 萬狩がちらりと視線を持ち上げると、仲村渠(なかんだかり)が「ふふ」と微笑ましげに目を細め、それから「そうですよ」と肯いた。

「まずは、大人である貴方の方から先に『ごめん、仲直りしよう』と言っておあげなさい。話を聞いて欲しければ、子供はおのずと口を開きますから、その時には聞いてあげればいい。彼は素直で単純な子ですから、今頃、どう顔を会わせていいのかと悩んでいるだけなのですよ。あの子も喧嘩なんて滅多にしない子だったもの」

 私の孫もね、ちょうど幼少期の反抗期の真っただ中なのです、と仲村渠(なかんだかり)は励ますように笑った。そして、茶目っ気のある眼差しで「バーベキュー楽しみにしていますから」と、先日彼らの中で勝手に話が盛り上がって例の予定について、余計な一言も添えた。

 萬狩は思わず苦笑したが、「ああ」と答え、しっかり肯いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈 
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

ドライブ

ともえどん
現代文学
掌編小説。 車でドライブですが、やっぱり少し官能的です。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

同期の御曹司様は浮気がお嫌い

秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!? 不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。 「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」 強引に同居が始まって甘やかされています。 人生ボロボロOL × 財閥御曹司 甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。 「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」 表紙イラスト ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl

睦月の桜が咲き誇る頃

白糸雪音
現代文学
 幼い頃から病気に悩まされる少女に、少年はどうしようもなく恋焦がれていた。そして、それは互いにひかれていくものになり、愛し合う。しかし、それは短い時間が決められた、非情なもの。  愛し合うからこそ、手放し離れる。愛し合っているのに、手放し離れる。その後悔を胸に二人は離れ離れに生きていく。  月日は流れ、少女を忘れられない少年は、様々な人の想いを受け、背中を押され、少女とともに人生を歩むことを決める。あの時交わした、桜をもう一度見るという約束をかなえるために。  少年が少女に示す、睦月に咲かせるあの日見た桜。その桜散る中で、少女に想いを伝えるために。

処理中です...