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五章 中年男と青年の海(2)~中年男と海~
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萬狩は子供達のいる防波堤に向かって、一目散に走り出した。老犬シェリーを連れた仲西が、まだ距離のある道の奥から何事か問い掛けてきた気がしたが、優先順位を考えてその声を無視した。
突然走り出してしまった萬狩を、古賀が慌てて追い駆けた。短い足で重い身体を前へと進めながら「待って下さいッ」と、既に息の上がった情けない声を上げる。
「ちょ、本当、あの、待って下さいッ、思うってなんですか……ひとまず落ち着きましょうよ。そうと決まった訳じゃないですし、ぼ、ぼくは、速くは走れないんです!」
「馬鹿か! そうと決まった訳じゃないから、急いで確認するんだよ!」
何を考えているんだお前は、と萬狩は若輩者を叱責した。子供の身に起こる危険性について、萬狩は、自分の息子達を通して学んでいた。ニュースで幼子の事故を見聞きするたび、予備の知識や危機感を改めて頭に入れ、彼は、そうやって自然と一人の父親となっていったのだ。
世代の違いだろう。すぐにピンと来なかったらしい古賀だったが、防波堤で騒いでいた少年達が、こちらに気付いた途端、今にも泣きそうな顔で助けを求める声を聞いて、ようやく事態を察したように顔から血の気を引かせた。
幼い少年達は、半ばパニック状態だった。まだ随分と距離に開きのある萬狩達に向かい、泣きながら声を張り上げて「友達が落ちた」「釣り竿を引っ張られた」「あいつ泳げないんだ」「流されたらどうしよう」「全然上がってこない」「死んじゃうの」と、混乱したように叫ぶ。
萬狩は、久しぶりの激しい運動に身体が辛かったが、歯を食いしばって防波堤の先を目指して走った。どうにか離れず後方をついてくる古賀を肩越しに見て、「おいッ」と質問を投げる。
「お前、泳げるか!?」
「へ!? むッ、むむむむ無理です泳げません! ぼ、ぼくはカナヅチなんですッ!」
「ちッ、だと思ったぜ」
全く泳げない素人が海に飛び込んでも意味がない。
予想はしていたが、ここは腹を括るしかないだろう。萬狩は自身が五十代を過ぎている年齢を思いながら、足を止めず腕時計を取り外しに掛かった。
シェリーをどこかに置いたらしい仲西が、見事な駆け足で猛然と萬狩達の後を追い始めた。萬狩と古賀が少年達のすぐ近くまで辿りついた時には、遅れて後を追ったはずの仲西青年の足は、早々に防波堤の入口に踏み込んでいた。
その距離になってようやく、萬狩は、後ろから問い掛けてくる仲西青年の台詞を聞きとる事が出来た。
「萬狩さんッ、もしかして子供が海に落ちたんですか!?」
「こっちと違って話が早いな、そう言う事だ!」
先に少年達の元へ到着した萬狩は、ぐずって何を言っているのか分からない野球帽子を被った男の子に、自分の腕時計と携帯電話、それから車の鍵と財布を手早く預けた。
靴と靴下も脱ぎ始めながら海面へと目を走らせたが、波の立つそこに子供の姿は見えなかった。少年達の中で、一番年長者らしい細身の大きな少年が「これもだ」と萬狩に言われ、慌てて靴下の入れられた靴を受け取る。
その様子を見た古賀が、驚いたような表情を浮かべて「まさか」と呟いた。萬狩達の元へ駆けて向かいつつ、その様子を後方から見ていた仲西が「ちょッ、萬狩さん!」とありったけの声で叫んだ。
「あなた、泳げるんですか!?」
「二十年振りだ!」
萬狩が振り返りもせず答えた途端、仲西と古賀が「えぇ!」と叫んだ。
彼らのそんな驚愕の叫びと共に、萬狩は海へ飛び込んだ。若い頃は水泳を嗜んでいたのだ。入る直前まで少々不安もあったものの、実際に飛び込んでみると身体は泳ぎ方を忘れていないようだったので「これならいけるだろう」と判断した。
とはいえ、さすがに久しぶりの海水は目が痛んだ。けれど海面から探すのは不効率だと考えて、萬狩は海に身を沈めて目を凝らし、誰かいないかと食い入るように辺りを素早く探した。
ぼやけた薄暗い視界の向こうで、何かが動いているのが見えた。
萬狩は息を止めているのが苦しくなり、一旦海から顔を出して素早く酸素を取り込んだ。恐らくあれが落ちた子供だろうと、そちらへ向かって猛然と泳ぎ始める。
クロール泳ぎをしたのは久々のせいか、手足が非常に重く感じた。まるで海ではなく、泥の中をかき分けているようだと思った。しかし、防波堤からほんの少し離れたところで、不思議とスムーズに前へ進むようになった。
違和感に気付かされた萬狩は、それが激しい潮の流れだと遅れて察した。自分の身体が、沖に向かって流されているのだ。恐らく、先に海に落ちた少年は自分よりも体重が軽いだろうから、あっという間に流されていってしまったのだろうと推測された。
沖縄は鮫が多いだとか、ウミヘビやクラゲもいるだとか、そういう事も忘れて、萬狩は少年の元へ必死に泳いだ。体力がなくなれば、最悪、海岸まで戻れなくなってしまう。
つまり長期戦は不利だ。休んでいる暇はない。
潮の流れはあるが、すぐそばにはビーチもあるので、帰還地点は必ず防波堤でなくても構わないだろう。潮の流れで戻れないのなら、大回りしてビーチ側から迂回するように岸に戻ってやればいい。
萬狩はそう考えて泳ぎ続けた。水面から顔を上げて空気を吸い込む拍子に、空気に触れた耳が後方の騒ぎを拾った。待ち切れなかったらしい誰かが、海へ飛び込む音が聞こえる。
それでも萬狩は、振り返らなかった。
必死に泳ぎ続けていると、海面の上で波に揉まれる小さな影に気が付いた。随分と幼いようにも見える少年が、泳ぎ方も分からず、パニック状態で手足をばたつかせている。
少年は萬狩に気がつくと、咳込みながら「助けてッ」と叫んだ。
泳げないではあるが、どうやら完全なカナヅチではないらしい。小さな彼が完全に沈んでいる状態ではなく、必要最低限の空気を確保している状況に、萬狩は少なからず安堵を覚えた。
少年のもとに辿り着くと、萬狩は彼の腕を掴んで引き寄せた。少年は泣きじゃくっており、このまま暴れられては大変だと考え、その子供が口を開くよりも先に「大丈夫だから」と息も切れ切れにそう声を掛けた。
触れてみて驚いたのは、少年の身体が、すっかり冷たくなっていた事だった。夏の日差しは暑いというのに、小さく細い身体は、秋の冷気に長時間晒されたように体温が低くなってしまっている。
一人の子供を抱えて泳ぐ事には、体力的な不安は覚えたものの、それでもやるしかないだろう。萬狩は己を奮い立たせて、子供に向かって気丈に笑って見せた。
もう一度「大丈夫だから」と声をかけると、少年が萬狩を見て、唇をぐっと噛みしめ「うん」と震える声で頷いた。しがみついてきたので、萬狩は、そのまま彼を抱えて――
何故か唐突に、初めて息子達を海に連れていった日の事が鮮明に蘇った。
長男はしっかりしていたが、初めて海に連れていった時、潮水の冷たさと波に怯えていた。自分ではどうにも出来ない場所なのだと、泣いて萬狩に縋った。
大丈夫、ちっとも怖くなんてないさ。プールよりも潮水の方が浮きやすいんだ。それに、泳げるようになったら川遊びだって、もっと楽しくなるぞ。お前は、お兄ちゃんだ。それを、弟に教えてやらなければならない……
あまり遊びを知らなかった萬狩だったが、昔暮らしていた場所には大きな川があって、同じ年頃の少年達と同じように泳いだ経験があった。経費の掛からない食事メニューの一つとして、川魚を手軽にゲットできるからだったが、今思い返してみれば、それは楽しい日々でもあったと思う。
萬狩はそんな事を思い出しながら、救出しなければならない少年を、しっかりと腕に抱え直し、岸に向かって泳ぎ始めた。
つまらない事を思い出したなと、場違いな回想を考えた。
泳ぐ事に集中しようと思考を切り替える努力をしたのだが、手の中にある少年の僅かな温もりに、またしても、まだたるんでもいなかった頃の自分の腹に抱きついてきた、一番目の息子の事を思い起こしてしまう。
俺も歳かな。そんな事があったなんて、今まですっかり忘れていた思い出を、こんな状況で悠長に考えているんだもんなぁ……
実際、萬狩の体力は早々に底を尽き始め、ぎりぎりの状態だった。
少年の呼吸を確保しながらの水泳は、かなり身体に負担をかけていた。苦しい、しんどい、予想以上にそれは過酷だった。必死に手足を動かせるが、まるで岸に近づけている気がしない。
俺は、前にちゃんと進めているか?
萬狩は一旦泳ぎを中断し、呼吸を整えるため少し手足を休めた。
ふと、日差しに照らし出された美しい海底へと目が向いた。水深は、数十メートルといったところだろうか。見降ろす先の海底を、名前も知らない小さな魚と、人に害はないであろう小振りの鮫がゆっくりと泳いでいく。
そう言えば沖縄は、海底にあるサンゴや砂地まで見える美しい海だったなと、萬狩は遅れて気付かされた。
ああ、きれいだなと思った。こんなに透き通った海が、外から見たら濃くはっきりとした青にしか見えないなんて、不思議でしかない。まるで落ちていくような怖さも覚えるほど、沖縄の海の透度の高さには、驚かされるばかりだ。
海の底に落ちそうだという恐怖に似た感覚は、ただの錯覚に過ぎない。
きっと、久しぶりに海に入ったせいだろうと、萬狩は思った。
人の体は、海の中では浮くものだ。落ちるなんてありはしないし、あの時の長男のように、それを恐れるほど、萬狩は物を知らない歳でもない。
どうにか水面に浮いてはいるものの、萬狩は乱れた呼吸を繰り返していた。疲労で震える萬狩の腕に抱えられていた少年が、「おじちゃん」と遠慮がちに心配した声を掛けた。けれど、その呼び声も耳に入らないほど、萬狩は憔悴しきっていた。
ああ、大きな鮫がいなくて良かったな。
もしそうだったら、あっという間に食われちまっていただろう。
少年がもう一度「おじちゃん」と泣きそうな声を上げるのを聞いて、萬狩は、ようやく自分が、予定以上に身体を休めている事に気付いた。その子供にどうにか笑い掛けて、「さ、行くぞ」と再び泳ぎ始めた。
ここ数日は食が細かった事が影響しているのか、手足にうまく力が入ってくれないでいた。ずっと波に揺られているせいか、夏バテによる強い吐き気も戻り始めている。身体はこんなにも冷たい水の中にあるというのに、なんだか無性に喉も乾いて、ひどく暑い。
俺がやらねば、誰がこの子を岸にまで連れ戻すというのだ。
情けないぞ。昔は食事を抜いたぐらいでヘバるような俺じゃなかった。
さぁ、頑張るんだ、俺。岸までそんなに距離もないし、潮の流れだってそこまで激しい訳じゃない。とにかく、泳ぐんだ。
しかし、疲労で集中力が切れたタイミングで、萬狩は息継ぎを誤ってしまい、口から入り込んだ海水に激しく咽た。海水を飲んでしまうなんて、十代の頃以来の失態だった。
若い頃にはなかったのに、少しの間の水泳で肺が痛み、呼吸もひどく苦しかった。まるで、全身が鈍りのように重く感じる。どうにか岸の方へ目を向けるが、蜃気楼が上るように視界がぼやけ始めて、よく見えなかった。
甲高い子供の悲鳴と、青年の叫ぶ声が聞こえたような気がした。そこで萬狩の体力は底を尽きて、聴力がプツリと切れて視界が暗転した。
数十秒ほど、萬狩は海の上で意識を失っていた。彼の身体は一度海の中へと沈み、力強い腕に引き上げられるまで浮上しなかった。
ぐっと引っ張られて、海面から顔が出た瞬間、自分の身体が酸素を求めて激しく咳込む声に、萬狩は重い瞼を開いた。
そこには、珍しく心底怒り狂った顔でこちらを叱りつける仲西青年がいた。萬狩はしばらく、彼が何を言っているのか理解出来なかった。ただ、随分怒らせてしまったらしい事だけは、朦朧とした頭でも分かった。
「あなたは、馬鹿だ。……大馬鹿者です」
子供を抱え、萬狩の襟首も掴んだ仲西が、目を怒らせてそう告げた。
何をそんなに怒っているのだろう。
そう思ったのを最後に、萬狩の視界は再び暗転した。
※※※
意識を失っていたのは、どれぐらいだったろうか。萬狩は眩しい日差しの熱と、背中に感じる細かい砂の優しくない眠り心地の中、自分の激しい咳で目を覚ました。
萬狩は呼吸を落ち着けた後、浜辺に打ち上げられた魚のように横たわっている事を把握した。
小さな足音に気付いて目を向けると、首輪からリードを垂れさせ、こちらに向かって引きずり歩く老犬の姿があった。その奥には三人の少年達がいて、一人の少年を囲って再会を喜んでいるのが見える。
「あれぐらい、僕がやれましたよ」
萬狩の隣で、疲れ切ったように片膝を立てて座っていた仲西が、憮然とそう言った。彼もまた、萬狩と同じように頭から靴の先までずぶ濡れだった。
頭上から降り注ぐ太陽が眩しかったのだが、萬狩は、全身が鉛のように重くてすぐに動けず、日差しを遮りたいのに右手も持ち上げられなかった。
萬狩は、隣の仲西の様子を窺った。こちらを見ていない彼の横顔には、静かな怒気が漂っていた。普段は愛想のいい顔も若干険しさを増して、どこか不貞腐れたように海の方へ向けられたままでいる。
「すまなかったな。手間を掛けさせて」
太陽の日差しを、ようやく持ち上げる事が出来た右手で遮りながら、萬狩はそう答えた。結局、俺は無駄な事をして手間を増やさせてしまっただけらしい、と神妙な気持ちで反省する。
仲西青年は、何も答えてくれなかった。彼が怒っている事は、普段は見られないその険悪な雰囲気から見て取れたので、萬狩は視線を戻しながら、どうしたものかなと静かに考えた。
ニコリともしない仲西を見たのは、これが初めてだ。本格的に怒っているようなので、萬狩はもう一度謝ってみた。
「迷惑をかけて、悪かった」
「許しません」
「怒っているのか」
「怒っていますよ。ものすごく腹立たしいです」
仲西が、吐き捨てるように言った。
萬狩は、長閑な青い空を見つめながら「悪かったな」と、再度謝罪の言葉を口にした。
「けど、駄目なんだ。冷静に考えられなかった。あの場には若い人間もいたのに、どうしようもなく身体が動いちまったんだ。俺も子供を持った父親で、だから、自分が飛び込まないという選択肢は思い浮かばなかった」
穏やかな天気のせいなのか、大事に至らなかったという安堵感があるためか、素直な言葉が萬狩の口をついて出た。
仲西が僅かに身じろぎし、「ほら、あなたはお人好しだ」と面白くもなさそうに言った。萬狩が不思議になって視線を向けると、そこには、今にも泣きそうな顔で怒る仲西青年がいた。
「頼みますから、僕の見ている目と鼻の先で、あんな危険な事は二度としないで下さい」
死ぬほど怖かった。驚いて、後悔して、もう取り返しがつかなくなるんじゃないかと思った……そう仲西は、珍しく沖縄弁の鈍りを滲ませて言い、消え入る声と共に抱えた膝に顔を伏せた。
そばまで来た老犬シェリーが、萬狩の頬を鼻先でつついた。彼は、濡れたその感触に「止めろ」と小さく抗議し、それから、シェリーの首の辺りをぎこちなく撫でた。
大丈夫だ。俺は、こんなところで死んだりしない。
今の萬狩には、やらなければならない事があるのだ。それを遂行しようと決めていた。最後まで見届ける使命を自覚し、覚悟もしていたから、海に飛び込んだ時も死の恐怖は微塵も覚えていなかった。
数人の大人を引き連れた古賀が「お~い」と、くぐもるような声を上げながら、こちらへとやって来るのが見えた。その手には、萬狩が防波堤に置いて行った荷物があった。
こっちに来てから、老体に鞭を打ってばかりだな。
萬狩はそんな事を考えながら、少しだけ目を閉じた。
突然走り出してしまった萬狩を、古賀が慌てて追い駆けた。短い足で重い身体を前へと進めながら「待って下さいッ」と、既に息の上がった情けない声を上げる。
「ちょ、本当、あの、待って下さいッ、思うってなんですか……ひとまず落ち着きましょうよ。そうと決まった訳じゃないですし、ぼ、ぼくは、速くは走れないんです!」
「馬鹿か! そうと決まった訳じゃないから、急いで確認するんだよ!」
何を考えているんだお前は、と萬狩は若輩者を叱責した。子供の身に起こる危険性について、萬狩は、自分の息子達を通して学んでいた。ニュースで幼子の事故を見聞きするたび、予備の知識や危機感を改めて頭に入れ、彼は、そうやって自然と一人の父親となっていったのだ。
世代の違いだろう。すぐにピンと来なかったらしい古賀だったが、防波堤で騒いでいた少年達が、こちらに気付いた途端、今にも泣きそうな顔で助けを求める声を聞いて、ようやく事態を察したように顔から血の気を引かせた。
幼い少年達は、半ばパニック状態だった。まだ随分と距離に開きのある萬狩達に向かい、泣きながら声を張り上げて「友達が落ちた」「釣り竿を引っ張られた」「あいつ泳げないんだ」「流されたらどうしよう」「全然上がってこない」「死んじゃうの」と、混乱したように叫ぶ。
萬狩は、久しぶりの激しい運動に身体が辛かったが、歯を食いしばって防波堤の先を目指して走った。どうにか離れず後方をついてくる古賀を肩越しに見て、「おいッ」と質問を投げる。
「お前、泳げるか!?」
「へ!? むッ、むむむむ無理です泳げません! ぼ、ぼくはカナヅチなんですッ!」
「ちッ、だと思ったぜ」
全く泳げない素人が海に飛び込んでも意味がない。
予想はしていたが、ここは腹を括るしかないだろう。萬狩は自身が五十代を過ぎている年齢を思いながら、足を止めず腕時計を取り外しに掛かった。
シェリーをどこかに置いたらしい仲西が、見事な駆け足で猛然と萬狩達の後を追い始めた。萬狩と古賀が少年達のすぐ近くまで辿りついた時には、遅れて後を追ったはずの仲西青年の足は、早々に防波堤の入口に踏み込んでいた。
その距離になってようやく、萬狩は、後ろから問い掛けてくる仲西青年の台詞を聞きとる事が出来た。
「萬狩さんッ、もしかして子供が海に落ちたんですか!?」
「こっちと違って話が早いな、そう言う事だ!」
先に少年達の元へ到着した萬狩は、ぐずって何を言っているのか分からない野球帽子を被った男の子に、自分の腕時計と携帯電話、それから車の鍵と財布を手早く預けた。
靴と靴下も脱ぎ始めながら海面へと目を走らせたが、波の立つそこに子供の姿は見えなかった。少年達の中で、一番年長者らしい細身の大きな少年が「これもだ」と萬狩に言われ、慌てて靴下の入れられた靴を受け取る。
その様子を見た古賀が、驚いたような表情を浮かべて「まさか」と呟いた。萬狩達の元へ駆けて向かいつつ、その様子を後方から見ていた仲西が「ちょッ、萬狩さん!」とありったけの声で叫んだ。
「あなた、泳げるんですか!?」
「二十年振りだ!」
萬狩が振り返りもせず答えた途端、仲西と古賀が「えぇ!」と叫んだ。
彼らのそんな驚愕の叫びと共に、萬狩は海へ飛び込んだ。若い頃は水泳を嗜んでいたのだ。入る直前まで少々不安もあったものの、実際に飛び込んでみると身体は泳ぎ方を忘れていないようだったので「これならいけるだろう」と判断した。
とはいえ、さすがに久しぶりの海水は目が痛んだ。けれど海面から探すのは不効率だと考えて、萬狩は海に身を沈めて目を凝らし、誰かいないかと食い入るように辺りを素早く探した。
ぼやけた薄暗い視界の向こうで、何かが動いているのが見えた。
萬狩は息を止めているのが苦しくなり、一旦海から顔を出して素早く酸素を取り込んだ。恐らくあれが落ちた子供だろうと、そちらへ向かって猛然と泳ぎ始める。
クロール泳ぎをしたのは久々のせいか、手足が非常に重く感じた。まるで海ではなく、泥の中をかき分けているようだと思った。しかし、防波堤からほんの少し離れたところで、不思議とスムーズに前へ進むようになった。
違和感に気付かされた萬狩は、それが激しい潮の流れだと遅れて察した。自分の身体が、沖に向かって流されているのだ。恐らく、先に海に落ちた少年は自分よりも体重が軽いだろうから、あっという間に流されていってしまったのだろうと推測された。
沖縄は鮫が多いだとか、ウミヘビやクラゲもいるだとか、そういう事も忘れて、萬狩は少年の元へ必死に泳いだ。体力がなくなれば、最悪、海岸まで戻れなくなってしまう。
つまり長期戦は不利だ。休んでいる暇はない。
潮の流れはあるが、すぐそばにはビーチもあるので、帰還地点は必ず防波堤でなくても構わないだろう。潮の流れで戻れないのなら、大回りしてビーチ側から迂回するように岸に戻ってやればいい。
萬狩はそう考えて泳ぎ続けた。水面から顔を上げて空気を吸い込む拍子に、空気に触れた耳が後方の騒ぎを拾った。待ち切れなかったらしい誰かが、海へ飛び込む音が聞こえる。
それでも萬狩は、振り返らなかった。
必死に泳ぎ続けていると、海面の上で波に揉まれる小さな影に気が付いた。随分と幼いようにも見える少年が、泳ぎ方も分からず、パニック状態で手足をばたつかせている。
少年は萬狩に気がつくと、咳込みながら「助けてッ」と叫んだ。
泳げないではあるが、どうやら完全なカナヅチではないらしい。小さな彼が完全に沈んでいる状態ではなく、必要最低限の空気を確保している状況に、萬狩は少なからず安堵を覚えた。
少年のもとに辿り着くと、萬狩は彼の腕を掴んで引き寄せた。少年は泣きじゃくっており、このまま暴れられては大変だと考え、その子供が口を開くよりも先に「大丈夫だから」と息も切れ切れにそう声を掛けた。
触れてみて驚いたのは、少年の身体が、すっかり冷たくなっていた事だった。夏の日差しは暑いというのに、小さく細い身体は、秋の冷気に長時間晒されたように体温が低くなってしまっている。
一人の子供を抱えて泳ぐ事には、体力的な不安は覚えたものの、それでもやるしかないだろう。萬狩は己を奮い立たせて、子供に向かって気丈に笑って見せた。
もう一度「大丈夫だから」と声をかけると、少年が萬狩を見て、唇をぐっと噛みしめ「うん」と震える声で頷いた。しがみついてきたので、萬狩は、そのまま彼を抱えて――
何故か唐突に、初めて息子達を海に連れていった日の事が鮮明に蘇った。
長男はしっかりしていたが、初めて海に連れていった時、潮水の冷たさと波に怯えていた。自分ではどうにも出来ない場所なのだと、泣いて萬狩に縋った。
大丈夫、ちっとも怖くなんてないさ。プールよりも潮水の方が浮きやすいんだ。それに、泳げるようになったら川遊びだって、もっと楽しくなるぞ。お前は、お兄ちゃんだ。それを、弟に教えてやらなければならない……
あまり遊びを知らなかった萬狩だったが、昔暮らしていた場所には大きな川があって、同じ年頃の少年達と同じように泳いだ経験があった。経費の掛からない食事メニューの一つとして、川魚を手軽にゲットできるからだったが、今思い返してみれば、それは楽しい日々でもあったと思う。
萬狩はそんな事を思い出しながら、救出しなければならない少年を、しっかりと腕に抱え直し、岸に向かって泳ぎ始めた。
つまらない事を思い出したなと、場違いな回想を考えた。
泳ぐ事に集中しようと思考を切り替える努力をしたのだが、手の中にある少年の僅かな温もりに、またしても、まだたるんでもいなかった頃の自分の腹に抱きついてきた、一番目の息子の事を思い起こしてしまう。
俺も歳かな。そんな事があったなんて、今まですっかり忘れていた思い出を、こんな状況で悠長に考えているんだもんなぁ……
実際、萬狩の体力は早々に底を尽き始め、ぎりぎりの状態だった。
少年の呼吸を確保しながらの水泳は、かなり身体に負担をかけていた。苦しい、しんどい、予想以上にそれは過酷だった。必死に手足を動かせるが、まるで岸に近づけている気がしない。
俺は、前にちゃんと進めているか?
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ふと、日差しに照らし出された美しい海底へと目が向いた。水深は、数十メートルといったところだろうか。見降ろす先の海底を、名前も知らない小さな魚と、人に害はないであろう小振りの鮫がゆっくりと泳いでいく。
そう言えば沖縄は、海底にあるサンゴや砂地まで見える美しい海だったなと、萬狩は遅れて気付かされた。
ああ、きれいだなと思った。こんなに透き通った海が、外から見たら濃くはっきりとした青にしか見えないなんて、不思議でしかない。まるで落ちていくような怖さも覚えるほど、沖縄の海の透度の高さには、驚かされるばかりだ。
海の底に落ちそうだという恐怖に似た感覚は、ただの錯覚に過ぎない。
きっと、久しぶりに海に入ったせいだろうと、萬狩は思った。
人の体は、海の中では浮くものだ。落ちるなんてありはしないし、あの時の長男のように、それを恐れるほど、萬狩は物を知らない歳でもない。
どうにか水面に浮いてはいるものの、萬狩は乱れた呼吸を繰り返していた。疲労で震える萬狩の腕に抱えられていた少年が、「おじちゃん」と遠慮がちに心配した声を掛けた。けれど、その呼び声も耳に入らないほど、萬狩は憔悴しきっていた。
ああ、大きな鮫がいなくて良かったな。
もしそうだったら、あっという間に食われちまっていただろう。
少年がもう一度「おじちゃん」と泣きそうな声を上げるのを聞いて、萬狩は、ようやく自分が、予定以上に身体を休めている事に気付いた。その子供にどうにか笑い掛けて、「さ、行くぞ」と再び泳ぎ始めた。
ここ数日は食が細かった事が影響しているのか、手足にうまく力が入ってくれないでいた。ずっと波に揺られているせいか、夏バテによる強い吐き気も戻り始めている。身体はこんなにも冷たい水の中にあるというのに、なんだか無性に喉も乾いて、ひどく暑い。
俺がやらねば、誰がこの子を岸にまで連れ戻すというのだ。
情けないぞ。昔は食事を抜いたぐらいでヘバるような俺じゃなかった。
さぁ、頑張るんだ、俺。岸までそんなに距離もないし、潮の流れだってそこまで激しい訳じゃない。とにかく、泳ぐんだ。
しかし、疲労で集中力が切れたタイミングで、萬狩は息継ぎを誤ってしまい、口から入り込んだ海水に激しく咽た。海水を飲んでしまうなんて、十代の頃以来の失態だった。
若い頃にはなかったのに、少しの間の水泳で肺が痛み、呼吸もひどく苦しかった。まるで、全身が鈍りのように重く感じる。どうにか岸の方へ目を向けるが、蜃気楼が上るように視界がぼやけ始めて、よく見えなかった。
甲高い子供の悲鳴と、青年の叫ぶ声が聞こえたような気がした。そこで萬狩の体力は底を尽きて、聴力がプツリと切れて視界が暗転した。
数十秒ほど、萬狩は海の上で意識を失っていた。彼の身体は一度海の中へと沈み、力強い腕に引き上げられるまで浮上しなかった。
ぐっと引っ張られて、海面から顔が出た瞬間、自分の身体が酸素を求めて激しく咳込む声に、萬狩は重い瞼を開いた。
そこには、珍しく心底怒り狂った顔でこちらを叱りつける仲西青年がいた。萬狩はしばらく、彼が何を言っているのか理解出来なかった。ただ、随分怒らせてしまったらしい事だけは、朦朧とした頭でも分かった。
「あなたは、馬鹿だ。……大馬鹿者です」
子供を抱え、萬狩の襟首も掴んだ仲西が、目を怒らせてそう告げた。
何をそんなに怒っているのだろう。
そう思ったのを最後に、萬狩の視界は再び暗転した。
※※※
意識を失っていたのは、どれぐらいだったろうか。萬狩は眩しい日差しの熱と、背中に感じる細かい砂の優しくない眠り心地の中、自分の激しい咳で目を覚ました。
萬狩は呼吸を落ち着けた後、浜辺に打ち上げられた魚のように横たわっている事を把握した。
小さな足音に気付いて目を向けると、首輪からリードを垂れさせ、こちらに向かって引きずり歩く老犬の姿があった。その奥には三人の少年達がいて、一人の少年を囲って再会を喜んでいるのが見える。
「あれぐらい、僕がやれましたよ」
萬狩の隣で、疲れ切ったように片膝を立てて座っていた仲西が、憮然とそう言った。彼もまた、萬狩と同じように頭から靴の先までずぶ濡れだった。
頭上から降り注ぐ太陽が眩しかったのだが、萬狩は、全身が鉛のように重くてすぐに動けず、日差しを遮りたいのに右手も持ち上げられなかった。
萬狩は、隣の仲西の様子を窺った。こちらを見ていない彼の横顔には、静かな怒気が漂っていた。普段は愛想のいい顔も若干険しさを増して、どこか不貞腐れたように海の方へ向けられたままでいる。
「すまなかったな。手間を掛けさせて」
太陽の日差しを、ようやく持ち上げる事が出来た右手で遮りながら、萬狩はそう答えた。結局、俺は無駄な事をして手間を増やさせてしまっただけらしい、と神妙な気持ちで反省する。
仲西青年は、何も答えてくれなかった。彼が怒っている事は、普段は見られないその険悪な雰囲気から見て取れたので、萬狩は視線を戻しながら、どうしたものかなと静かに考えた。
ニコリともしない仲西を見たのは、これが初めてだ。本格的に怒っているようなので、萬狩はもう一度謝ってみた。
「迷惑をかけて、悪かった」
「許しません」
「怒っているのか」
「怒っていますよ。ものすごく腹立たしいです」
仲西が、吐き捨てるように言った。
萬狩は、長閑な青い空を見つめながら「悪かったな」と、再度謝罪の言葉を口にした。
「けど、駄目なんだ。冷静に考えられなかった。あの場には若い人間もいたのに、どうしようもなく身体が動いちまったんだ。俺も子供を持った父親で、だから、自分が飛び込まないという選択肢は思い浮かばなかった」
穏やかな天気のせいなのか、大事に至らなかったという安堵感があるためか、素直な言葉が萬狩の口をついて出た。
仲西が僅かに身じろぎし、「ほら、あなたはお人好しだ」と面白くもなさそうに言った。萬狩が不思議になって視線を向けると、そこには、今にも泣きそうな顔で怒る仲西青年がいた。
「頼みますから、僕の見ている目と鼻の先で、あんな危険な事は二度としないで下さい」
死ぬほど怖かった。驚いて、後悔して、もう取り返しがつかなくなるんじゃないかと思った……そう仲西は、珍しく沖縄弁の鈍りを滲ませて言い、消え入る声と共に抱えた膝に顔を伏せた。
そばまで来た老犬シェリーが、萬狩の頬を鼻先でつついた。彼は、濡れたその感触に「止めろ」と小さく抗議し、それから、シェリーの首の辺りをぎこちなく撫でた。
大丈夫だ。俺は、こんなところで死んだりしない。
今の萬狩には、やらなければならない事があるのだ。それを遂行しようと決めていた。最後まで見届ける使命を自覚し、覚悟もしていたから、海に飛び込んだ時も死の恐怖は微塵も覚えていなかった。
数人の大人を引き連れた古賀が「お~い」と、くぐもるような声を上げながら、こちらへとやって来るのが見えた。その手には、萬狩が防波堤に置いて行った荷物があった。
こっちに来てから、老体に鞭を打ってばかりだな。
萬狩はそんな事を考えながら、少しだけ目を閉じた。
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