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「ナンバー4」の里帰り(3)兄の執事

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 兄の専属執事である宵月は、白髪が目立った剛髪をピシリと後ろへ撫でつけ、執事服に蝶ネクタイまで決まっていた。覚えが確かであれば、六十代ではあるはずなのだが、やはり背筋はピンと伸びて若々しい。

 鋭い眼差しに感情は浮かんでおらず、相変わらず愛想のない無表情だった。高い背丈は日本人の平均を超えており、今もなお衰えない様子で胸板も厚く、執事らしく丁寧に揃えられた手の指もしっかりしている。

「本日はお休みなのでは?」

 畑作業に入った男に別れを告げた雪弥を、黒塗りのベンツへと案内しながら、宵月が自身よりも背丈の低い彼をチラリと見やって言う。

「まぁ、休みではありますけど、癖みたいなものですかね。これといって私服を着る機会も、あまりないですから」
「そういえば、昔から制服かスーツ姿でしたね」

 宵月が、思い出すようにして視線を正面に戻す。スーツ姿がしっくりくる事について考えていた雪弥は、説得力のあるたとえに思い至って「宵月さん」と呼んだ。

「アレですよ。兄さんが曜日も関係なしに、スーツとかで仕事しているのと同じです」
「きちんと休日はございます。あれは社交です」

 裏表もない呑気な口調から、週末の様子について言っているのだろうと察して、宵月が横顔を向けたままぴしゃりと言った。ベンツの前に立つと、彼を振り返り言葉を続ける。

「蒼慶様専用のお車ですので、傷つけないようお願い致します」
「…………なんでわざわざ、兄さんしか使っていない専用車を寄越すんですか」

 他に何台も車があっただろう、と言いたくなった。何故なら蒼慶は、基本的に他者にプライベート空間を入られる事や、自分の物をどうこうされるのを嫌っているからだ。客人を乗せる車など、用向き別に揃えていた。

 先にそんな言葉を言われてしまったら、更なる逃走を謀るわけにもいかず、雪弥は素直にベンツへと乗り込んだ。滑るように走り出した車内で、半ば諦め笑みを浮かべ、車窓からゆっくりと流れて行く風景を眺める。

「……宵月さん、乗せる前に言った台詞って、簡単に言っちゃえば脅しみたいなもんですよね」
「効果は十分でございましたでしょう、雪弥様」
「やっぱり脅しかよ。つか、なんで僕が兄さんの車に乗らなくちゃいけないんですか? そもそも、迎えに宵月さんを寄越すとも聞いていないんですけど」
「全ては蒼慶様のご命令です。今朝、迎えに行くようにとの指示を頂きましたので、こうして主人のおそばを離れ、わたくしがお迎えに上がりました」

 主人という言葉を聞いて、雪弥は運転する宵月をバックミラー越しに見やった。その辺はちっとも変わっていないなと思ったら、元々蒼緋蔵家の他の使用人達には、愛人の子として良く思われていないせいもあって、滅多に彼以外の迎えがなかった事も思い出した。

 そのせいかもしれない。そう解釈して、納得する事にした。

「宵月さんって、相変わらずですね」
「貴方様も、二年前とお変わりありませんね。わたくし達が、こうしてお会いするのも、緋菜様の成人式以来であるという事は、お分かりですか?」

 チラリと、バックミラー越しに宵月が視線を返してくる。雪弥は、はじめに挨拶するべきだった言葉があったと遅れて気付き、小さな苦笑を浮かべた。

「うん、言い忘れていてごめん。二年ぶりですね、お元気そうで何よりです」
「相変わらずな棒読み、お見事でございますね。二年という歳月の長さが、どれほどのものであるのか、どうやら貴方様には、よく分かっていないようですね」

 どうしてか、呆れられたような短い溜息を吐かれてしまった。雪弥は質問を投げかけようとしたのだが、突然車が加速したせいで「うわっ」と、声を上げてシートに背中を当てていた。運転席から、「失礼致しました」と上辺だけ丁寧な言葉が上がった。

 緑の自然ばかりが続く道を、速度を上げた高級車がひたすら進み続ける。

 長い沈黙の中、雪弥は流れて行く景色をしばらく眺めていた。再び、バックミラー越しに宵月がこちらを見つめてくる視線に気付いて、目を向けて問うた。

「宵月さん、なんですか?」
「髪、染められましたか」

 宵月が視線を正面に戻しながら、そう言う。

 抑揚のない質問の言葉を聞いて、雪弥はきょとんとした表情を浮かべた。しばらくして、ようやくその質問の意味が理解出来て、視線をゆっくりと自分の前髪へと向ける。

「とくに染めてはいないですよ。昔から、こんな色じゃなかったですかね」

 色素の薄い自分の前髪を指先でいじる。そんな雪弥を、宵月はバックミラーでチラリと見やると「そうですか」淡々として言い、再び視線を前に戻して別の質問を投げかけた。

「十数年ぶりの蒼緋蔵家の土地は、いかがですか?」
「特に変わってないなぁというか、こんなに田舎だったんだなぁ、とか?」
「約二十年、離れていた土地ですからね」

 わたくしが貴方様と、初めてこちらでお会いした時は、今より約二十歳も若かった――

 宵月が、思い出すように口の中で小さく言った。雪弥は「そうだったかなぁ」と言って首を傾げたところで、今回の帰省についての家族の反応を思い出し、つい苦笑を浮かべてしまった。

「電話でも、父さんや亜希子さんが、ようやく来てくれるって言って喜んでくれたけど、正直、僕にはそんな実感はなくて。二年前の緋菜の成人式の会場でも、少し顔を見せる事は出来たし」

 思ったままそう口にしながら、雪弥は窓の外へ目を向けた。

「それに僕は、父さん達みたいに喜べないんですよ。正直、ここへ来る事も出来る限り避けていたのに。こうやってて屋敷に足を運ぶ事で、父さん達の立場がぎくしゃくするんじゃないかって思うと……なんだか嫌だなぁ」

 ぽつりと、本音が口からこぼれ落ちた。言いながら脳裏に思い起こされたのは、蒼緋蔵家に頻繁に訪れている分家の大人達の事だった。

 高級スーツに身を包んだ男達が、幼い自分と母の紗奈恵を見ると、まるで汚物を見るかのように顔を顰める。そのたびに張り詰めたような心地悪い空気が流れて、繋いでくれていた母の手が少し強張ったのを、雪弥は覚えていた。


 紗奈恵はいつも「大丈夫よ、雪弥。大丈夫だから」と、自分に言い聞かせるような口調で言って、よく幼い雪弥を抱き締めた。

 けれど、姉と慕っていた亜希子にだけは、自身の悩みを打ち明けてもいた。屋敷に訪問した際、二人きりの時間を作って「やっぱり私達、一緒に暮らすことなんて無理なのね」と泣いていたのを、雪弥は何度か見てもいた。


 蒼緋蔵邸での思い出は、あまりにも遠くて、短い。

 もう二十年が経ったのだという実感が、不意に胸の奥に込み上げた。母が生きて幼い自分を抱きしめていた温もりも、本当にあった事なのかと疑ってしまうくらい、自分の中にある思い出が年月と共に薄れていると気付いたせいだった。

「それでも、あそこが貴方様の家であり、ご実家なのです」

 唐突にそんな声が聞こえて、雪弥は顔を上げた。
 バックミラーへと目を向けると、鋭い目を細めるようにして、こちらを見つめている宵月の視線とぶつかった。

 蒼緋蔵邸が『自分の家』だなんて、そんなのは考えた事がなかった。実家であるとは分かっているし、自分の家族が暮らしている大切であるとは知っている。けれど、――


 家族はいる。でも、僕が帰る家は。

 だって、母さんがいつも僕を迎えてくれた、あの小さなアパートの家は、もう随分前に無くなってしまったんだ……


 雪弥は知らず下ろしてしまっていた視線を、ゆっくりと外へと向けて「僕には、よく分からないけれど」と、静かに言った。

「僕は、蒼緋蔵邸に戻ってはいけない、という気がしているんです。僕だけは、あそこにいてはいけない。父さんや亜希子さん、兄さんや緋菜がいて、宵月さんがいて……でも、僕は駄目なんだ。きっと、他の人達が黙っていない」

 大切な家族だ。いつだって穏やかな幸せを祈って、遠くからでもそれを守り続けたいと思っている。だから、そばにはいられなかった。自分が正妻の子じゃないからという理由だけで、拒絶している親族達がいるからだ。

 それはどこか正論で、そして『取っ払ってしまえば』なくなる『邪魔者』でもあった。

 風景を眺める雪弥のコンタクトで黒くされた冷たい瞳が、その色素の下で淡く光って、瞳孔の周りを蒼(あお)が揺らいだ。風もないのに、思考に耽る彼の柔らかな髪がざわりと波打って、車内に異様な緊張が張り詰めた。

「僕は出来れば、蒼緋蔵家とは関わりたくない。妬み、嫉妬、強欲、非難する多くの目を、母さんはとても怖がっていた。『お姉さん』と大切な家族が増えて嬉しいと言っていたのに、分家の人達に拒絶されるのが、とても辛そうで」

 だから、もうあそこへは行けないわ、と泣きそうな顔で告げられた時は反対しなかった。家族なのに一緒にいられないんだね、という率直に感じた疑問の言葉は返さなかった。こちらを抱き締めた母が、小さく震えていたからかもしれない。

 車窓から外を眺めたまま、ぼんやりとした表情で当時を思い返しながら、雪弥は「僕も嫌いだったな」と口にした。刺すような殺気が溢れ始める中、彼の開いた瞳孔がハッキリと深い蒼の光を灯す。

 嫌でも覚えている。そして、嫌でも思い出す。

 頭の中は、まるで自分ではないように、勝手にくるくると回想を続けて『敵』の顔を脳裏に浮かべさせた。

「…………ああ、そうか、あいつがいたな。玄関先で、母さんの髪留めを叩き落とした議員の男。あれが、初めて見た分家の人間だった。僕はあの時、本当はあの汚らしい指を全て切り落として、あの腕ごと引きちぎれたら、どんなにいいかと考え――」
「雪弥様」

 強く制止する声が上がり、低い声色で続けられていた言葉が途切れた。

 ふっと我に返って、雪弥は瞬きをした。五歳だった頃の事を思い返していた気がしたものの、自分が何を言ったのか記憶は曖昧だった。気のせいかと思い直して、バックミラー越しにこちらを切なげに睨みつけている宵月へと視線を返す。

「なんですか? 宵月さん」

 幼い表情で、雪弥はそう問い掛けた。

 掛ける言葉を用意していなかったのか、宵月が一度視線を正面へ戻した。しばらくしてから、バックミラー越しに再び雪弥と目を合わせる。

「カラーコンタクトなんて、いつからなさっているのですか?」
「ああ、これ? 随分と前からやっているけれど、見た事なかったっけ? あ、そういえば成人式の時は、ちょうど『仕事』途中でやっていなかったから……うん、黒にした方がいいかなぁと思って、つけているんですよ」

 なんだか目立つみたいで、と雪弥は首を捻って答える。そう実感した事は、今までは一度だってなかった。周りの人の瞳の色が、ほとんど茶色や黒だからといって、そこに碧眼の自分がいても普通だと思っていた。

 黒のコンタクトの経緯については、特殊機関について口にするわけにもいかない。なのでいつも通り、詳細を濁しつつ説明した。

「なんか『会社の上司』が、ちょっと目立つんじゃないかと言いまして」
「そうでしたか。そういえば雪弥様は、アメリカの大学を飛び級で卒業されて、今はもう立派な社会人でございましたね」
「えっと、まぁ、そんな感じです。アメリカでは普通だったんですけど、戻ってきたら『会社』のみんなは目が黒いし……?」

 雪弥は後が続かなくなり、内心どうしようかと悩んだ。すると宵月が「お仕事は?」と、静かに言葉を投げかけてきた。

 バックミラー越しに雪弥を見つめる彼の瞳は、冷静ながらどこか探るようでもあった。けれど雪弥はそれに気付かず、話題が移った事に安心して、笑顔でハッキリとこう言い切っていた。

「普通のサラリーマンをしています」
「ほぉ、普通の……それにしては、随分と誇らしげな顔をなさいますね」

 雪弥はシートに背中を預けると、長い足を組んで「そりゃあ当然ですよ」と続けた。

「何よりも、平凡で普通なのが一番ですから」

 そう言って呑気に瞳を閉じた雪弥を、宵月はちらりと見やっただけで、運転に専念するように視線を前へと戻した。広々とした後部座席と、運転席側を遮るための仕切りを下ろす事なく、アクセルを更に踏み込む。


 そして、午前十時五十分。

 二人を乗せた高級車は、蒼緋蔵邸へと続く第一の門扉をくぐり抜け、その広大な敷地に入った。
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