天空橋が降りる夜

百門一新

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4話

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 不意に、ごーん、と頭を強く打たれるような轟音がした。

 ハッ、としてデイビーは飛び起きた。まるで「起きろ!」と一喝されたような目覚めに、彼は弾かれるように上体を起こして思わず「はい!」と答えた自分の声で、我に返った。

 そこには、秋の肌寒い風が吹いていた。

 そよそよと流れを作る草原の真ん中で、デイビーは辺りを見回した。

 辺りには民家の一つも見えず、立ち上がってぐるりと見回しても、草原が続いているばかりだった。見慣れた岩山もなければ、緩やかな草原の盛り上がりすら確認出来ない。

 そこは夜だった。頭上で輝く、これまでに見た事もない膨大な星の輝きに、デイビーはだいぶ夜空に近い場所に立っているのではないか、と錯覚しかけた。少し欠けた月の光りも眩しくて、草原が淡い緑の色を放って、ぼんやりと揺れているように感じた。

 ここは、どこだ? 僕は、さっきまで、ウチに帰ってきた父さんが、家に向かう後ろ姿を見ていたのでは――

「天空橋がやって来るよ」

 ふと、どこからともなく声が聞こえ、デイビーは振り返った。何故か彼の中に驚きはなく、振り返った先にいた青年を見ても「彼がいて当然だ」としか、もう感じなくなっていた。

 デイビーは、青年の深い青の髪が、風で揺れるのをぼんやりと眺めた。

 その白く整った顔が、にっこりと笑むのを見てデイビーはようやく頷いた。

「うん、そうだね。僕は天空橋を待っているのだ」
「そう。君と僕は、天空橋を待っているんだよ」

 青年が、草木の囁きのような美しい声でそう答えた。デイビーは、天空橋を登るためにここにきた事を、当然のように思って深く頷き、それから青年と一緒になって夜空を見上げた。

 どうやって、ここまで来たのだったか思い出せない。

 でもそんなのは関係なかった。先程まで雲一つなかった夜空には、小さな雲が流れ始めている。

「登り名人は、天空橋で試されるという。僕は今日、それに登ってみせる」

 自分に言い聞かせるように、デイビーはそう呟いた。不意にオーティスの事を思い出して、青年を振り返る。

「オーティスは、もう登ってしまったのかな」
「彼は、まだ登ってはいないよ」

 青年は笑顔で、ハッキリと答えて否定した。彼はオーティスを知っている人なのだろうかとか、そういった疑問もすぐに霞んでしまって、デイビーは胸を撫で下ろして夜空を見上げた。

 デイビーは、しばらく青年と一緒に、緑とも青ともつかない光を放つ雲を待っていた。しかし、不意に彼は小首を傾げると、両ズボンのポケットに触れた。

「どうしたの? ポケットに何か、用事でも?」
「水と青い実と星を入れるための袋を、持ってくるのを忘れてしまったようだ」

 オーティスが言っていたのを思い出したのだ。同じミスをしてしまったと気付いて、デイビーの気持ちは沈んだ。

「あれを持って帰らないと、僕が天空橋に登ったと信じてもらえないよ」
「君、何を言っているんだい? 来る前に僕に預かけた事を、もう忘れてしまったの?」

 そんな事を言われて、デイビーは青年を見上げた。

 にっこりと笑う青年の綺麗な白い手には、牛の皮で作られた、丈夫な水袋と大きめの袋があった。どちらも縫い目がしっかりとしていて、それぞれ頑丈な黒い革で袋の口が作られている。

「ああ、そうだった。来る前に君に預けていたんだった」

 どうして忘れてしまっていたんだろう、とデイビーは不思議に思いながら、それを青年から受け取った。

 だってデイビーは、彼の事をよく知っているのだ。彼もまた、デイビーの事をよく知っている。二人は笑い合うと、合図があったわけでもなく同時に夜空を見上げた。

 空一面が、すでに厚い雲で覆われていたがデイビーは驚かなかった。

「天空橋がようやく、やって来るね」

 彼は青年に向かってそう声を投げながら、頭上に広がっていく羊の毛のような雲が続く天を仰いだ。嫌な感じもしないその雲は、もこもこと厚みを増して集まって来る。

 とうとう、もこもことした真っ白い雲が空一面を厚く覆った。白くて明るいので、デイビーはまるで夜を感じなかった。そよぐ風がぴたりと止まったのを合図に、彼は一つ頷く。

「そろそろ来るね。両手を使うのだから、これはポケットにしまわなければ」

 そう呟いて、水袋の膨らんでいる底部分からポケットに押し込んだ。大きめの袋は、ズボンの後ろポケットに、落ちてしまわないようにしっかりと両手で詰め込む。前にも一度、こうして入れたので、デイビーの手付きは随分と慣れたものだった。

「僕が言わなくとも、ちゃちゃっとやっちゃうんだね」

 青年が可笑しそうに笑った。デイビーは「当然だよ。すっかり身に染みてしまったんだから」と答えながら白い空を見上げ、ふと「そうだっただろうか」と、自分でもよく分からない事が脳裏を過ぎって小首を傾げた。

「どうしたの、変な顔をして?」
「さぁ。どうしてそんな顔をしてしまったのか、と、僕自身も思ったところだよ」

 その時、不意に青年が「あっ」と声を上げた。

 二人の頭上部分の雲の中から、淡い光がこぼれ始めていた。それは緑とも青ともとれない輝きを放ちながら、雲の中で様々と色を変えるようにして動いている。

「そろそろやって来るよ、――君は登れるかい? それとも『カゴ』は必要かな?」
「登れるよ。ああ、もうそろそろだね」

 デイビーは、頷きしっかり答え返した。淡い光の渦が雲の中で起こり、短い直線を描くように漏れた眩しい光から、白銀に輝くモノが音もなく降りて来る。

 その眩しさと共に「さぁ、登っておいで」と優しい声をかけられたような錯覚を覚えた。デイビーは不思議な気持ちで「今から行くよ」と静かに答えていた。

 雲の中から降りて来たのは、星を砕いて混ぜたように光り輝く白銀の梯子だった。それは音もなく草原に降り立つと、しっかりと土台を固定するように土へと打ちこまれた。

 普通ならばひどい衝撃音が上がるはずなのに、二人の耳に聞こえてきたのは、シャン、という音楽のような美しい響きだけだった。

「さぁ、行こう」

 デイビーが言うと、青年が先に梯子に手を掛けて「よし行こう」と返した。

「ついてこられるかな?」

 そう茶化すように振り返った青年に、デイビーは「今度こそ大丈夫さ」と強気で答えた。

 青年は肩をすくめるようにして笑い、するすると梯子を登り始めた。靴が触れる音もなく登っていった彼に続いて、デイビーも白銀の梯子に手を掛けた。

 まるで、夜風に触れているようだ、とデイビーは思った。

 心地よい冷たさがあって、白銀の梯子は手足に吸いつくような安定感がある。

 きらきらと光を放つその梯子をじっと見つめていると、それが本当に星の欠片で出来ている事が思い出された。何故かデイビーはそうだと知っていて、彼は希望を胸に梯子へと第一歩目を踏み出した。

 一段、二段、デイビーは順調に梯子を登っていった。すっかり遠くなっていた青年が、笑いながら「大丈夫かい」とちっとも心配していない声を下に落としてくる。デイビーは「平気さ」と答えて、落ちないようにしっかりと梯子に手足を置きながら登り続けた。

 だいぶ登ったところで、少し疲れたデイビーは、足を止めて下へと目を落とした。緑の淡い光りを灯した草原が、地上で光る波を静かに作り上げているのが見えた。

 彼は額に汗が浮かぶのを感じたが、拭う事なく目を上へと戻した。随分先で立ち止まっている青年を見やって、また一段一段登り始める。大分手が疲れてきたので「これはまずい」と思ってデイビーは登る速度を上げた。

 どのぐらい登ったのだろうか。雲が大分近くなっているところまで来た時、デイビーの身体はとても疲労していた。身体中の筋肉が軋み、気を抜くと「下まで落ちていくのでは」という危機感も覚えた。喉もひどく渇き、全身の血が沸騰しているように熱く感じ、時々額から流れてくる汗が目に入って痛い思をした。

 それでも、デイビーは登る事をやめなかった。彼は、ずっとこれに登りたかったのだ。諦めるものかとデイビーは唇を噛みしめ、雲に頭をくっつけている青年に目を向けたまま、ただ必死に進み続けた。

 疲労のせいか、下へと引っ張られる感覚が進むごとに強くなった。まるで数十人に身体を掴まれているような苦しさを感じて、次の一段を登ったところで、デイビーは思わず奥歯を噛みしめた。

「大丈夫かい? 手を貸そうか?」

 頭上から、青年が陽気な声を掛けてくる。

 デイビーは首を横に振ると、「自分で登る」と息も切れ切れにそう答えた。青年のところまであと少しの距離に来ているのに、手足を伸ばすごとに耐えきれない重みがデイビーを襲う。

 まるで、行くな、行くなと、地上から引っ張られているみたいだった。そんな馬鹿の事あるもんかと、見えない何かを振りほどくように身体をよじらせながら、デイビーはとうとう青年の足元まで辿り着いた。

「うん、頑張ったね。とりあえず、登ったところで一休みしよう」

 青年は「もう少しだよ」とデイビーに告げ、先に雲の中へと見えなくなった。一人取り残されたデイビーは、すっかり重くなった身体を引き上げるように腕を伸ばし、するするっと上がっていった青年のあとを必死になって追った。

 頭が雲に差しかかった時、触れた頭から、すうっと重みが抜けたのをデイビーは感じた。真っ白な雲はひんやりと冷たくて、体が入っていくごとに汗が消えていくのが分かった。

 視界は真っ白だった。手元の梯子以外は何も見えなくなってしまったが、デイビーは軽くなった身体を最後の力で上へ上へと持ち上げていった。

 すると、前触れもなく青年の手が上から現れた。「お疲れ様」と声がしたと思うと、その手はデイビーの小さく細い手を掴み、軽々と上へ引っぱり上げてくれる。

 突然、雲の層が開けて、デイビーは白と青の眩しさを感じて一度目を細めた。彼を片手で引き上げた青年は、疲れ一つ見えない顔でにっこりとデイビーに微笑みかける。

「さぁ、水分補給と行こうか」
「うん、是非そうしたいね」

 デイビーは雲の層に降ろされたが、あまりにも弾力のあるもこもことした地面に、思わずバランスを崩してしまった。疲れ切った身体はうまくバランスを保てず、彼は「ぎゃ」と短い声を上げて尻餅をついてしまう。

 それを見た青年が、途端に腹を抱えて笑い出した。

「毎回、君はそれをやるよね。好きなの?」

 そうからかわれたデイビーは、「放っておいてくれ」と唇を尖らせて言い返したところで、ふと、何度か揺れた雲の地面を見下ろした。

「雲というより、分厚い綿のベッドみたいだ」

 感想を述べて、デイビーはまた小首を傾げた。よく知っているはずなのに、まるで自分が初めて来たような感想を述べた事に疑問を覚えた。

「ずいぶん登って、くたくたになっているからなぁ」

 疲れていた事を思い出して、きっとそうなのかもしれないと思う。

 続いて深呼吸してみると、極上とも呼べる美味しい空気が肺に入って来て、途端にデイビーの疑問はすべて吹き飛んだ。彼はほうっと息をつくと、「心地いいなぁ」と呟いて雲の上に横になった。ふわふわと弾力のある雲の地面は、疲れた身体をそっと包み込むようにして優しかった。

 しばらくして、不意に水音が聞こえて彼は飛び起きた。雲の地面を振り返ってみると、途中でその白がぷっつりと途切れている事に気付いた。

 そこからは巨大な湖が広がっていて、白い地平線の手前まで水の青が続いていた。近づいて、しゃがみ込むようにして覗き込んでみると、どこまでも青く光る美しい湖の底には、凹んだ雲のもこもこ加減まで全部透き通って見えた。

「ああ、そうかココは、星を清める場所だったね」

 見つめていたデイビーは、不思議がる事もなくそう呟いていた。すると、すぐそばで屈んできた青年が、コップを持ったままにっこりと笑って頷いた。

「そう、空の欠片が付いたままの星を、天上の乙女がここで洗う。だから、湖も青く清められるんだよ」
「星の滴が溶け出しているのだから、青く光るのも当然だよね。星は透明な銀色で、そこに空の青が溶けて広がっているのだから」

 当然のようにデイビーは言って、青年から透き通る青い水が入ったコップを受け取った。ゆっくりとコップを口元で傾け、ずいぶん飲んでいなかったその味を確かめる。それは、どこまでも冷たく美味しい水だった。

 デイビーは懐かしさに浸ったが、不意にひどく喉が渇いていたのを思い出した。それを一気に喉に流し込んでみれば、喉元から水の冷たさが一気に全身へと広まっていって、先程の疲労さえも忘れてしまいそうなほど身体が軽くなった。

 空のコップを手に持って立ち上がったデイビーは、このまま身体が飛んでいくのではないかと思って、自分の身体を見下ろした。青年が彼からコップを受け取りながら、声を掛ける。

「水袋に入れようか?」

 足先を見つめながらデイビーは頷いた。顔を上げて見つめ返した時、コップがあったはずの青年の手には、いつの間にかデイビーのポケットにあったはずの水袋が握られていた。

「そぉっと、そぉっとね」
「うん。そぉっと、そぉっとだ」

 デイビーの掛け声に、青年が同じように楽しげに答えながら、水袋の口をそっと水面に沈めた。二人の無邪気な笑顔が、揺れた水面に反射して映っている。デイビーはまだ子供で、青年はもうすっかり大人なのだが、それでも二人の浮かべる表情はどこかよく似ていた。

 必要な量だけを水袋に詰めると、デイビーは青年に礼を告げて、それをズボンのベルトに固定した。金の刺繍がされたベルトは、この時のために腰に巻いていたものだ。右側に水袋の口がすっぽりはまり、左側には入れたあとの荷袋が、固定できるような金具がついている。

 水袋を専用のベルトで固定した後、デイビーはそれらを今一度見やって小首を傾げた。

「おや。僕は、いつからこのベルトをしていたんだろう」

 知っているはずのベルトを見て、そう少しだけ不思議に感じていると、青年が背伸びをして「よし!」と楽しげに叫んだ。そこで、デイビーの疑問はふっと消えてしまっていた。

 青年が、デイビーを振り返る。デイビーも青年を見上げ、合図があったわけでもなく、お互い悪戯っ子のような笑みを浮かべて似たような八重歯を覗かせた。

「さてと、次の場所へ行こうか。そこで少し腹ごしらえしよう」
「うん、次の場所へ行こう。僕はそれを食べるのに、ずいぶん待たされたのだから」

 この場所を知っていた青年とデイビーは、一緒に同じ場所へと顔を向けた。

 雲の下から伸び上がった白銀の梯子が、まだ上にある雲の層へと続いている。

 距離は、草原から雲の位置ほどぐらいの高さだったが、デイビーはもう気にはならなかった。「ついてこれられるかな」と茶化した青年に、「次こそは君に遅れないよ」と言葉を返す。

 二人は弾けんばかりの笑顔を浮かべると、同時に走り出していた。
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