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3話
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成人の儀を翌日に控えると、小さな村は活気に満ちた。
この時ばかりと着飾り、家を出て少女達が華やかな声で会話をするのを、年頃の少年達が熱い視線で見つめている。成人の儀を終えると結婚も出来るので、そわそわし出す少年達もいるのだ。
逆に、少年達を見て話をする少女達もいた。特に、今年の成人の儀で一番男前のオーティスには、ずっと少女達の熱い視線が向けられ続けていた。彼の場合、少年達からは憧れるような眼差し、大人達からは期待の目も多く向けられていた。
今年はそこに、デイビーも入っていた。内気だが勇気がある彼と結婚すると、彼の両親のような穏やかな幸せを掴む事が出来る、と少女達は期待していたのだ。
「おいおい、聞いたかよデイビー。お前さん、すっかり人気者だな?」
成人の儀の服を母に作ってもらっていたデイビーは、足りない材料を受け取りに行った時、オーティスの隣にいた少年にそう声を掛けられた。
実のところ、まだそういう事に興味がなく鈍いデイビーは、顔を顰めて彼の方を振り返っただけであった。母にお使いを頼まれていた事もあり、少し急いでいたせいで勘繰りもなかった。
だが、その少年が、自分の家族を侮辱した彼だという事には気付いた。
だからデイビーの眉間には、更に強く皺が寄った。
少年は人気者だと口にしたが、デイビーはその声の響きに嫌味が含まれているのを感じ取っていた。先程、昼食を食べて気分が良くなっていたのに、すっかり気分を害されたようにしてその少年を睨んだ。
「僕を言い負かして馬鹿にしたいのなら、君も岩山に登ればいい」
数日前の怒りが沸々とこみ上げ、デイビーはその少年に思わずそう言い返した。
すると、その少年は口をへの字にして押し黙った。そうやってしばらくデイビーを見つめた彼は、肩をすくめると「これだから教養が少ない奴は」と言ってわざとらしく息をついた。
嫌悪感を覚えたデイビーは、「君と同じように村長の教えを受けたよ」と唇を尖らせた。しかし彼は「ちっちっち」と、飛び出た歯の隙間から空気を漏らして、にやりと笑った。
「岩山も、確かにすごいかもしれないが、君は【天空橋(てんくうばし)】を知らないのかい。岩山なんて、本物の登り名人からしたら、段差を飛び越えるようなものさ」
その少年の意見を肯定するように、他の少年達もさも当然と笑って同意してきた。オーティスは黙ったままデイビーを見つめていたが、デイビーは続いて、次に口を開いた少年へと目を向けていた。
「なんだいそれ?」
「天空橋は有名だぞ」
「有名? それは本当なのかい?」
「はぁ、やれやれ。それを知らないなんて、なぁ?」
思わず顔を顰めたデイビーに対して、少年達は一度顔を見合わせると、ニヤリとして口々にこう得意げに話し出した。
「先々代の村長は、一番の登り名人だったと有名だが、その頃は沢山の登り名人がいてな。だから天空橋で競ったというのは、有名な話だ。お前さんは知らないのかい?」
「天からの橋を登っていくのだよ」
「雲を突き抜けた先には、どんな疲労をも吹き飛ばす美しい水があると聞く」
「それだけじゃない。更に登ると、身の丈ほどしかない木がどこまでも広がっていて、宝石のように美しい青い実が成っていると聞く」
「一番上まで行くと、輝く美しい星を手に取る事が出来るらしい」
デイビーは驚いて、もう少しで持っていた袋を落としてしまうところだった。
「そんなところがあるとは、知らなかった」
思わずそう呟いたデイビーに、ひょろっとした長身の少年が得意げに言う。
「そりゃあ、本物の登り名人を決める事が少なくなってきたからさ。大昔は、村全体で天空橋の競技を見守ったと聞くぞ」
彼はそう言うと、村一番の知識を持つと言われている自分の父を自慢し始めた。天空橋に挑戦した様子が描かれた古い原画も、彼の家にはあるという。
「じゃあ、そこへ僕が登れたら、君達は今度こそ僕を認めてくれるのかい?」
「ああ、そうだとも」
歯が飛び出た少年が、得意げに胸を張ってそう答えた。そもそも仕事熱心でもあるデイビーは、是非登ってみたいという願望が芽生え「それはどこにあるの」と続けて尋ねた。
少年達は、教えるのを渋るように「どうしようかなぁ」と言ってにやにやとデイビーを眺めた。それから、自分達が慕っているオーティスをちらりと見やった。彼が笑っていないのを見ると、馬鹿笑いをやめて、顔が丸い少年がデイビーの前に進み出てこう言った。
「橋を隠した雲は、夜が深い頃になると、緑とも青ともつかないなんとも美しい光を帯びると聞く」
「そうなのか。とても不思議なものなのだな」
「しかし、いいか、デイビー。君には見付けられない」
どうしてか、彼は笑いもせず真面目な顔で言う。
デイビーは、自分の実力を否定されたと受け取って顰め面をした。
「どうして僕に見付けられない、なんて言うんだい?」
「俺は君を馬鹿にするわけじゃないが、それは特別な【橋】なんだ。その橋を隠した雲は、勇気と、登り切れるだけの実力を持っている人間がいない限りは――やってこないのだ」
やっぱり僕には無理だと決めつけているじゃないか。デイビーは、カッとなってそんな疑問の声を上げようとした。しかし、そう口を開きかけた時、
「お前には無理だ」
今まで押し黙っていたオーティスが、不意にそう口挟んできた。あまりにも強い口調だったので、デイビーはビクリとしつつも苛々して彼を見やった。
「じゃあ、君にはその資格があって、君のもとへはその雲がやってくるというのか」
僕には来なくて、君には来るというのか。
デイビーは、自分の守るべき自信を取られまいとするかのように、威圧感のあるオーティスの鋭い瞳を睨み返した。すると、オーティスは眉一つ動かさないまま「ああ」と言った。
「俺のもとへは来るが、お前はその雲を探す事さえ出来ないだろう」
ゆっくりと言葉を紡ぎ、はっきりとした強い口調でオーティスはそう述べた。
彼はしばらく、真っ直ぐにデイビーを見つめていた。不意に、いつもの強気と自慢に満ちた笑顔を浮かべる。
デイビーはふと、その顔が自分に向けられたのが随分久しぶりである事に感じた。広場の木に登った時以来だな、とぼんやりと思っていると、向かい合う彼が見下ろすようにして口を開いてきた。
「お前は知らぬのか。俺がこの前、その雲を見つけ、光り輝く白い梯子が降りて来たという事を」
「えっ、そうなのかい!?」
「ああ。俺は力試しに登ろうとしたのだが、水と青い実と、天上に輝く星を入れるための袋を持っていなかったので、登らなかったのだ。次はそれを用意して、俺は登るつもりだ」
デイビーは、ひどく驚いてオーティスを見つめ返した。すると周りの少年達が、口々に茶化してはやしたてた。
「亡き登り名人のラッセルおじさんも、天空橋を登った、と言う話だぞ」
「皆その風習がなくなったので言わないだけで、名人だったオーティスの曾爺さんも、きっと登った事があるに違いない」
でも『木登り名人』と言われているデイビーの前に、そんな橋は降りてきた事がない。
デイビーが「そんな」と見つめ返していると、オーティスが少し顎を上げて見下ろしてきた。
「なんだ。登り名人のお前のもとへは、まだ現れていないのか。俺のもとへ天空橋が現れたのは、お前と勝負をした日なのだが」
てっきりお前のところへも現れていると思ったよ、というオーティスの言葉を聞いて間もなく、デイビーは駆け出していた。
「嘘だ、そんなはずはない。僕には登りだけしかないのに、天は僕よりも、オーティスを認めているだなんて!」
足がもつれそうになりながらも、デイビーは駆け続けながら空を見上げた。どこまでも澄んだ青い空には、時々太陽を遮るような薄い雲があった。
きっと、オーティスは、すぐにでも天空橋に登っていってしまうだろう。
素直なデイビーは、それを思って悲しくなった。不思議な水と見た事もない青い実、そして、夜空で輝き続ける美しい星を持って帰ってきたオーティスは、きっと村人の称賛と喝采の中迎えられるだろう。村一番の牛飼いの一人息子で、少年達のすべての憧れや魅力を持った彼こそが、やはり一番の名人であると祝福されるに違いない。
それに対して、デイビーには何もない。彼はたくましくもなく、登りは得意なのに力仕事は全く出来なかった。牛の世話ではよく引っくり返ってしまうし、ここぞという時に突き進む勇気もない。
口下手で小さなデイビーは、唯一の誇りを奪われたようにして心の中で泣き叫んだ。
「ああ、神様。あなたまでも、僕を見てはくれないのですか! 僕はここにいます! 僕はここにいるのですよ!」
家が見える場所でようやく足を止めると、デイビーは肩で荒い呼吸をしながら我が家を見つめた。身体中のどこよりも目が熱くなり、思わず鼻をすすった彼の前で、草原が穏やかに揺れる。
こんなにも悩んだ日はなかった。忙しそうに服を縫う合間、パッと袋を渡したデイビーに母は少し驚いたように尋ねた。
「走って来たの?」
「えっ。あ、その……明日が楽しみで、興奮を鎮めようとしただけだよ」
デイビーはそう誤魔化すと、何をするわけでもないのに外へと出た。
そのまま家の後ろに腰かけて、数頭の牛が美味しそうに草を食べているのを眺めた。胸が苦しくなる事ばかり考えてしまい、しばらくすると牛を見る事も止めてしまっていた。
「他に、僕が持っているものは何かあるだろうか」
デイビーは呟き、項垂れそうになる頭をどうにか持ち上げた。頭が重く、泣いてもいないのに瞼が腫れているように感じた。
その時、彼の耳に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「いやぁ、助かりましたよ。うちの山羊は凶暴なので、あのまま逃げていたら大変でした」
「全速力で走ったんだから、今日の飯は美味いだろう。君のおかげで、私は妻の食事を一段と美味しく食べられる。ありがとう心の友よ」
近所に住まう男と、父の声がデイビーの耳に入ってきた。デイビーが立ち上がって様子を見に行くと、男と別れた父が家へとやって来るのが見えた。
「おかえりなさい」
どうにか笑みを浮かべて言葉をかけたデイビーに、父は威圧感の欠片さえも感じない顔で笑って「ただいま、私の可愛いデイビー」と言葉を返した。
父はとてもお喋りなので、相槌を打つデイビーに一方的にこう喋り始めた。
「ラディスの山羊の逃走劇、お前にも見せたかったなぁ。利口すぎて困っているという話を聞かされている時、突然ばーんっと小屋の扉が飛んで、そこから例のでかい山羊が出てきたんだ。知っているだろう? あの黒交じりの毛並みした、まるで戦士のような面構えをした、いかにも『俺は負けるものか』って表情をするあの山羊だよ。――父さんとラディスは、そりゃあもう必死に追いかけてね。びっくりした人が避けていく真ん中を、山羊を追いかけて全速力で走ったんだ! 山羊が方向を変える瞬間、床屋のゼンさんがシートを投げて――」
話しながら、父はデイビーに投げる仕草までしてみせた。
「父さん達は、山羊が速度を落とした一瞬を見逃さなかった。まずはラディスが飛び出した。ばーんッという感じですごかったよ。でも距離が及ばず、そのまま地面に倒れ込んでしまってね。彼の横から私がジャンプして、山羊に覆いかぶさったわけだよ。――え? よく届いたねって? そりゃあ歳はとったが、身体の方はまだまだ現役だからね。ただ、終わったあとはお互い息が切れて、最後は大笑いさ」
話を聞いて、デイビーは思わず口元に笑みを浮かべた。彼の父は外にいようが家にいようが、人と関わり合っていて土産話も多い。デイビーは、いつだって父からそんな話を聞くのが好きだった。
「ねぇ、父さんは、休みだろうが関係なく誰かに頼まれたらすぐに飛んで行くし、時には外を散策して困っている人がいないかって探すけれど、それはどうして?」
ふと、デイビーは思った事を尋ねた。
すると、父は満面の笑みを浮かべてこう答えた。
「誰かの助けになる事が、私は好きなんだ。そう思える自分もまた、誇らしい。何も出来なかった牛飼いが、人助けをしていくうちに色々な知識や技術を持つようになった、なんて、まぁ自分で言うのもなんだが、とても素敵な事だと思わないか?」
得てやろう、と構えるのではなく、誰かにそれを分け与えなさい、と父はデイビーに続けた。デイビーは何故かほんのりと胸が温かくなり、そうして、とても泣きたくなった。
嗚呼(ああ)。そうやって笑っている父さんが、僕はとても誇らしくて、羨ましい。
目を細めるデイビーの向こう側で、父を呼ぶ母の声が聞こえた。僕にも出来るかな、という言葉を飲みこんだデイビーを残して、父は陽気に家の中へと入って行った。
この時ばかりと着飾り、家を出て少女達が華やかな声で会話をするのを、年頃の少年達が熱い視線で見つめている。成人の儀を終えると結婚も出来るので、そわそわし出す少年達もいるのだ。
逆に、少年達を見て話をする少女達もいた。特に、今年の成人の儀で一番男前のオーティスには、ずっと少女達の熱い視線が向けられ続けていた。彼の場合、少年達からは憧れるような眼差し、大人達からは期待の目も多く向けられていた。
今年はそこに、デイビーも入っていた。内気だが勇気がある彼と結婚すると、彼の両親のような穏やかな幸せを掴む事が出来る、と少女達は期待していたのだ。
「おいおい、聞いたかよデイビー。お前さん、すっかり人気者だな?」
成人の儀の服を母に作ってもらっていたデイビーは、足りない材料を受け取りに行った時、オーティスの隣にいた少年にそう声を掛けられた。
実のところ、まだそういう事に興味がなく鈍いデイビーは、顔を顰めて彼の方を振り返っただけであった。母にお使いを頼まれていた事もあり、少し急いでいたせいで勘繰りもなかった。
だが、その少年が、自分の家族を侮辱した彼だという事には気付いた。
だからデイビーの眉間には、更に強く皺が寄った。
少年は人気者だと口にしたが、デイビーはその声の響きに嫌味が含まれているのを感じ取っていた。先程、昼食を食べて気分が良くなっていたのに、すっかり気分を害されたようにしてその少年を睨んだ。
「僕を言い負かして馬鹿にしたいのなら、君も岩山に登ればいい」
数日前の怒りが沸々とこみ上げ、デイビーはその少年に思わずそう言い返した。
すると、その少年は口をへの字にして押し黙った。そうやってしばらくデイビーを見つめた彼は、肩をすくめると「これだから教養が少ない奴は」と言ってわざとらしく息をついた。
嫌悪感を覚えたデイビーは、「君と同じように村長の教えを受けたよ」と唇を尖らせた。しかし彼は「ちっちっち」と、飛び出た歯の隙間から空気を漏らして、にやりと笑った。
「岩山も、確かにすごいかもしれないが、君は【天空橋(てんくうばし)】を知らないのかい。岩山なんて、本物の登り名人からしたら、段差を飛び越えるようなものさ」
その少年の意見を肯定するように、他の少年達もさも当然と笑って同意してきた。オーティスは黙ったままデイビーを見つめていたが、デイビーは続いて、次に口を開いた少年へと目を向けていた。
「なんだいそれ?」
「天空橋は有名だぞ」
「有名? それは本当なのかい?」
「はぁ、やれやれ。それを知らないなんて、なぁ?」
思わず顔を顰めたデイビーに対して、少年達は一度顔を見合わせると、ニヤリとして口々にこう得意げに話し出した。
「先々代の村長は、一番の登り名人だったと有名だが、その頃は沢山の登り名人がいてな。だから天空橋で競ったというのは、有名な話だ。お前さんは知らないのかい?」
「天からの橋を登っていくのだよ」
「雲を突き抜けた先には、どんな疲労をも吹き飛ばす美しい水があると聞く」
「それだけじゃない。更に登ると、身の丈ほどしかない木がどこまでも広がっていて、宝石のように美しい青い実が成っていると聞く」
「一番上まで行くと、輝く美しい星を手に取る事が出来るらしい」
デイビーは驚いて、もう少しで持っていた袋を落としてしまうところだった。
「そんなところがあるとは、知らなかった」
思わずそう呟いたデイビーに、ひょろっとした長身の少年が得意げに言う。
「そりゃあ、本物の登り名人を決める事が少なくなってきたからさ。大昔は、村全体で天空橋の競技を見守ったと聞くぞ」
彼はそう言うと、村一番の知識を持つと言われている自分の父を自慢し始めた。天空橋に挑戦した様子が描かれた古い原画も、彼の家にはあるという。
「じゃあ、そこへ僕が登れたら、君達は今度こそ僕を認めてくれるのかい?」
「ああ、そうだとも」
歯が飛び出た少年が、得意げに胸を張ってそう答えた。そもそも仕事熱心でもあるデイビーは、是非登ってみたいという願望が芽生え「それはどこにあるの」と続けて尋ねた。
少年達は、教えるのを渋るように「どうしようかなぁ」と言ってにやにやとデイビーを眺めた。それから、自分達が慕っているオーティスをちらりと見やった。彼が笑っていないのを見ると、馬鹿笑いをやめて、顔が丸い少年がデイビーの前に進み出てこう言った。
「橋を隠した雲は、夜が深い頃になると、緑とも青ともつかないなんとも美しい光を帯びると聞く」
「そうなのか。とても不思議なものなのだな」
「しかし、いいか、デイビー。君には見付けられない」
どうしてか、彼は笑いもせず真面目な顔で言う。
デイビーは、自分の実力を否定されたと受け取って顰め面をした。
「どうして僕に見付けられない、なんて言うんだい?」
「俺は君を馬鹿にするわけじゃないが、それは特別な【橋】なんだ。その橋を隠した雲は、勇気と、登り切れるだけの実力を持っている人間がいない限りは――やってこないのだ」
やっぱり僕には無理だと決めつけているじゃないか。デイビーは、カッとなってそんな疑問の声を上げようとした。しかし、そう口を開きかけた時、
「お前には無理だ」
今まで押し黙っていたオーティスが、不意にそう口挟んできた。あまりにも強い口調だったので、デイビーはビクリとしつつも苛々して彼を見やった。
「じゃあ、君にはその資格があって、君のもとへはその雲がやってくるというのか」
僕には来なくて、君には来るというのか。
デイビーは、自分の守るべき自信を取られまいとするかのように、威圧感のあるオーティスの鋭い瞳を睨み返した。すると、オーティスは眉一つ動かさないまま「ああ」と言った。
「俺のもとへは来るが、お前はその雲を探す事さえ出来ないだろう」
ゆっくりと言葉を紡ぎ、はっきりとした強い口調でオーティスはそう述べた。
彼はしばらく、真っ直ぐにデイビーを見つめていた。不意に、いつもの強気と自慢に満ちた笑顔を浮かべる。
デイビーはふと、その顔が自分に向けられたのが随分久しぶりである事に感じた。広場の木に登った時以来だな、とぼんやりと思っていると、向かい合う彼が見下ろすようにして口を開いてきた。
「お前は知らぬのか。俺がこの前、その雲を見つけ、光り輝く白い梯子が降りて来たという事を」
「えっ、そうなのかい!?」
「ああ。俺は力試しに登ろうとしたのだが、水と青い実と、天上に輝く星を入れるための袋を持っていなかったので、登らなかったのだ。次はそれを用意して、俺は登るつもりだ」
デイビーは、ひどく驚いてオーティスを見つめ返した。すると周りの少年達が、口々に茶化してはやしたてた。
「亡き登り名人のラッセルおじさんも、天空橋を登った、と言う話だぞ」
「皆その風習がなくなったので言わないだけで、名人だったオーティスの曾爺さんも、きっと登った事があるに違いない」
でも『木登り名人』と言われているデイビーの前に、そんな橋は降りてきた事がない。
デイビーが「そんな」と見つめ返していると、オーティスが少し顎を上げて見下ろしてきた。
「なんだ。登り名人のお前のもとへは、まだ現れていないのか。俺のもとへ天空橋が現れたのは、お前と勝負をした日なのだが」
てっきりお前のところへも現れていると思ったよ、というオーティスの言葉を聞いて間もなく、デイビーは駆け出していた。
「嘘だ、そんなはずはない。僕には登りだけしかないのに、天は僕よりも、オーティスを認めているだなんて!」
足がもつれそうになりながらも、デイビーは駆け続けながら空を見上げた。どこまでも澄んだ青い空には、時々太陽を遮るような薄い雲があった。
きっと、オーティスは、すぐにでも天空橋に登っていってしまうだろう。
素直なデイビーは、それを思って悲しくなった。不思議な水と見た事もない青い実、そして、夜空で輝き続ける美しい星を持って帰ってきたオーティスは、きっと村人の称賛と喝采の中迎えられるだろう。村一番の牛飼いの一人息子で、少年達のすべての憧れや魅力を持った彼こそが、やはり一番の名人であると祝福されるに違いない。
それに対して、デイビーには何もない。彼はたくましくもなく、登りは得意なのに力仕事は全く出来なかった。牛の世話ではよく引っくり返ってしまうし、ここぞという時に突き進む勇気もない。
口下手で小さなデイビーは、唯一の誇りを奪われたようにして心の中で泣き叫んだ。
「ああ、神様。あなたまでも、僕を見てはくれないのですか! 僕はここにいます! 僕はここにいるのですよ!」
家が見える場所でようやく足を止めると、デイビーは肩で荒い呼吸をしながら我が家を見つめた。身体中のどこよりも目が熱くなり、思わず鼻をすすった彼の前で、草原が穏やかに揺れる。
こんなにも悩んだ日はなかった。忙しそうに服を縫う合間、パッと袋を渡したデイビーに母は少し驚いたように尋ねた。
「走って来たの?」
「えっ。あ、その……明日が楽しみで、興奮を鎮めようとしただけだよ」
デイビーはそう誤魔化すと、何をするわけでもないのに外へと出た。
そのまま家の後ろに腰かけて、数頭の牛が美味しそうに草を食べているのを眺めた。胸が苦しくなる事ばかり考えてしまい、しばらくすると牛を見る事も止めてしまっていた。
「他に、僕が持っているものは何かあるだろうか」
デイビーは呟き、項垂れそうになる頭をどうにか持ち上げた。頭が重く、泣いてもいないのに瞼が腫れているように感じた。
その時、彼の耳に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「いやぁ、助かりましたよ。うちの山羊は凶暴なので、あのまま逃げていたら大変でした」
「全速力で走ったんだから、今日の飯は美味いだろう。君のおかげで、私は妻の食事を一段と美味しく食べられる。ありがとう心の友よ」
近所に住まう男と、父の声がデイビーの耳に入ってきた。デイビーが立ち上がって様子を見に行くと、男と別れた父が家へとやって来るのが見えた。
「おかえりなさい」
どうにか笑みを浮かべて言葉をかけたデイビーに、父は威圧感の欠片さえも感じない顔で笑って「ただいま、私の可愛いデイビー」と言葉を返した。
父はとてもお喋りなので、相槌を打つデイビーに一方的にこう喋り始めた。
「ラディスの山羊の逃走劇、お前にも見せたかったなぁ。利口すぎて困っているという話を聞かされている時、突然ばーんっと小屋の扉が飛んで、そこから例のでかい山羊が出てきたんだ。知っているだろう? あの黒交じりの毛並みした、まるで戦士のような面構えをした、いかにも『俺は負けるものか』って表情をするあの山羊だよ。――父さんとラディスは、そりゃあもう必死に追いかけてね。びっくりした人が避けていく真ん中を、山羊を追いかけて全速力で走ったんだ! 山羊が方向を変える瞬間、床屋のゼンさんがシートを投げて――」
話しながら、父はデイビーに投げる仕草までしてみせた。
「父さん達は、山羊が速度を落とした一瞬を見逃さなかった。まずはラディスが飛び出した。ばーんッという感じですごかったよ。でも距離が及ばず、そのまま地面に倒れ込んでしまってね。彼の横から私がジャンプして、山羊に覆いかぶさったわけだよ。――え? よく届いたねって? そりゃあ歳はとったが、身体の方はまだまだ現役だからね。ただ、終わったあとはお互い息が切れて、最後は大笑いさ」
話を聞いて、デイビーは思わず口元に笑みを浮かべた。彼の父は外にいようが家にいようが、人と関わり合っていて土産話も多い。デイビーは、いつだって父からそんな話を聞くのが好きだった。
「ねぇ、父さんは、休みだろうが関係なく誰かに頼まれたらすぐに飛んで行くし、時には外を散策して困っている人がいないかって探すけれど、それはどうして?」
ふと、デイビーは思った事を尋ねた。
すると、父は満面の笑みを浮かべてこう答えた。
「誰かの助けになる事が、私は好きなんだ。そう思える自分もまた、誇らしい。何も出来なかった牛飼いが、人助けをしていくうちに色々な知識や技術を持つようになった、なんて、まぁ自分で言うのもなんだが、とても素敵な事だと思わないか?」
得てやろう、と構えるのではなく、誰かにそれを分け与えなさい、と父はデイビーに続けた。デイビーは何故かほんのりと胸が温かくなり、そうして、とても泣きたくなった。
嗚呼(ああ)。そうやって笑っている父さんが、僕はとても誇らしくて、羨ましい。
目を細めるデイビーの向こう側で、父を呼ぶ母の声が聞こえた。僕にも出来るかな、という言葉を飲みこんだデイビーを残して、父は陽気に家の中へと入って行った。
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